「天正西遊記」ー千々石ミゲルの生涯ー 第一巻 第三章 ヴァリニャーノ巡察師来日
2018年6月30日、イコモスは「長崎、天草の潜伏キリシタン関連遺産」を世界遺産として正式に登録しました。当初、日本側から「キリスト教の教会群とその関連遺産」として、内実に深い意味を持たせることなしに申請したが、根本的に視点を換えるよう見直しを求められた。それは「島原・天草の乱」の舞台となった原城跡を中心とする民衆の反乱と、密かに二百数十年の間信仰を守り抜いた精神を貴び、かつ浮かび上がらせることを促すものだった。関係各藩領主の生殺与奪を伴う教徒弾圧と江戸幕府による武力介入と幾多の悲劇を重視するものだった。単なるキリスト教の布教と浸透としてだけでなく、支配者の過酷な抑圧と殉教を伴う信者の不屈な抵抗を見逃さなかったのである。どちらかと言えば『負の文化遺産』の方にシフトしたのである。
2017年8月から長崎県諫早市多良見町伊木力の『千々石ミゲルの墓』の発掘が、末裔や墓守りの子孫の見守る中で執り行われた。ロザリオの数珠玉や西欧から持ち帰ったマリアのメダイが副葬品の中に燦然と輝いていた。発掘直後の科学的考察で大きな石墓の下の遺骨は妻のものと思われ、ミゲル本人のものは隣の未掘箇所にあるらしい。
以前からミゲルの最期に関わる推理で、私に限らず誰もが不思議に感じている墓石に銘記された日付の近寄りが不自然に思われた。妻の死没が寛永9年12月12日(1633年1月21日)で、ミゲル本人と思われる戒名の下には2日後の12月14日(同年1月23日)と刻まれ、1日を挟んで逝去したと記されている。ここに何らかの事情と切羽詰まった背景があるのではと推察されることだ。その上、西暦での同年11月22日に渡欧仲間の中浦ジュリアン神父が穴釣りの拷問の上で殉教している。長い潜伏布教の果てに捕えられ、獄門に繋がれたのがその10か月前(同年1月22日頃)ととある書物に記されている。まさしく千々石夫妻の命日の中日にピッタリ合致していて、全く関係が無いとは言えないことである。(大石一久著『千々石ミゲルの墓石発見』を参照)
イエズス会の側では、脱会者である千々石ミゲルを〝棄教者〟とレッテルを貼って疎んじるあまり、最後まで教えを守り殉教した中浦ジュリアンとの関係を切り離したかったのだろう。ジュリアンの動向や殉死の経緯は詳細に残されているがミゲルは無視された。日本の為政者の側からすると、表向きでは棄教して堂々と『日蓮宗信者』と称してはばからない、千々石清左衛門を邪宗門信者の咎で処罰することはできない。あくまでも政治的失策として死を押し付け、闇からやみへと葬り去ろうとした。双方が千々石ミゲルの死を無視する姿勢を貫いた。それ故に記録が一切残されなかったのであろうと推し量られる。一方、生活苦の中にあった民衆、百姓、憤懣遣るかたない下級武士の心中はどうだったろうか。ミゲル夫妻とジュリアン神父の死から4年後の1637年12月11日、広範囲に及ぶ爆発的な日本史上最大の民衆反乱、「島原・天草の乱」が起きた。不服従を貫いたジュリアンと棄教を装ったと思われるミゲルの死後に、クルスを首から下げた天草四郎と名乗る若者を首謀者に人々が蜂起したのは歴史的な恩讐だろう。事実と見紛うかのようにその乱後、西欧では『天草四郎は千々石ミゲルの息子である』との噂が広まった。
歴史とは営々とつながる人々の生きざまの織物である。
日本の歴史の中でも、古代、近世、現代の各々の歴史的転換点には、革命的な反乱がおきている。その背景として政治的な側面が色濃いが、内実では経済、宗教、芸術など社会文化的にも広範囲に影響を及ぼしそれぞれが複合的に絡んでいる。そうでなければ名も無き下層大衆の決起を促す状況に至らないからである。物部や蘇我、藤原の各氏族の貴族成り上がり、信長の天下布武、坂本龍馬の薩長連合など、総じて年表には表舞台に立った、政治的人格ばかりが自己主張している。その背後には民衆のうねりのような沸き立つような鬱屈した労苦や息遣いがあり、命を虫けらのごとくに捨てられていく虚しさがある。
歴史の上で勝敗は不定にして盛者必衰は必定である。ただ弱者、敗者を虐げ、強者、盛者におもねる輩は何時の世にもいるし、彼らの私利私欲のために庶民の犠牲は多大なものとなる。この不条理なる人間社会の仕組みに翻弄されないためには、一握りの心ない人たちの手から抜け出て大衆の側にアプローチし、汎人類的立場から本質に迫り喝破する眼を構築することでしか出口が見えない。自ずと反乱の系譜から歴史を見直すことが必要となり、それでこそ本質的な意義を見出すことができる。
それ故に私の視点もその考え方に基づくことが必要だと思った。洋の東西を超えて往時の日本と世界の置かれた、グローバルに進む地殻変動のごとき歴史のうねりの中で捉えねばと考えた。科学技術の進歩や文芸復興、大航海機運が人々に大きな影響を与えた。四大発明(火薬、羅針盤、紙、印刷技術)をバックに急速に生活環境の改善が進み圧倒的な変化をもたらした。特に千々石ミゲルの生涯を語るに十字軍の大敗北とルネッサンス、エンリケ航海王子とバスコ・ダ・ガマの喜望峰をかすめる東インド航路発見は見逃せない。
加えてグーテンベルグが発明した印刷機の日本への持ち込みは、天正遣欧少年使節団の12名の大きな使命の一つだった。西欧では物珍しさと同じ宗門という身近さで大歓迎され、西欧各地に書物として出版され絵画にも描かれ、日本人初の洋行が今も歴史的快挙として遺されていることである。魏志倭人伝に卑弥呼の名が書かれてその実在感があるように、彼らの様子がシスティーナ礼拝堂に描かれていたり、各地の図書博物館に所蔵されているから、その成果が現代の我々の心に届くのである。それら数百冊にも及ぶ資料に比べて、日本に戻ってからのミゲルらの行状の記録が余りにも少ない。憶測にフィクションまで加わり、近年でも数十冊の小説や紀行記として発刊されている。これらとの格闘が私の筆を遅らせ、取っかかりの勇気をしばしば萎えさせた。
2022年3月6日 保 利 進
1 ヴァリニャーノ巡察師来日
動力を一切持たない帆船の宿命で、嵐のような風よりも無風あるいは荒れる逆風こそ大敵である。舳先に三角帆を備えた3本マストの当時最新の南蛮船では、向かい風でも少しは前進できるようになったが、船体の揺れの軽減と積載する荷物の運搬効率を考えるとナウ船などの巨大帆船が通常の商船であり、大概真夏に南シナ海を北上し、立春の後に南下するのが効率が良いとされた。と言うよりも、そうでないと思うように航行出来ない。長崎から陸路茂木港へ、日本船で海を渡り口之津から有明海を渡り、肥後の阿蘇さらに豊後府内へ、そして瀬戸内海を航行して商人の街、堺で上陸する。その後京に至るルートが、伴天連やポルトガル商人の安全が確保できる「宗教と貿易の道」である。
その重要な中継点、或いは直接ナウ船が入港できてしかも京へ至る最短が口之津港である。最良の港である長崎はその頃、在地領主の深堀純賢と大村純忠との領地を巡るトラブルがあり一触即発状態で険悪だった。マカオから北上を続けていた大型帆船が、島原半島南端の口之津港に錨を下ろすのは致し方ないことだった。だが貿易で財政を立て直したいと考える純忠にとっては口惜しいことだった。かくして日本のキリスト教普及にザビエルに比肩する程に多大な貢献をするアレシャンドロ・ヴァリニャーノ巡察師が口之津に入港し、日本視察に腕を振るうことになるのは有馬晴信にとって千載一遇の絶好のチャンスとなった。
イエズス会総長名代で東方全地域を担当して東インド管区を巡察する大役に抜擢されたヴァリニャーノ師は、1539年にイタリアのローマの東に位置するキエティの名門貴族の家に生まれた。名門パドヴァ大学で法学を学んだ後司祭になり、イエズス会の重鎮となり巡察師としてゴアに派遣された。ザビエルが目的達成できずに26年もの間放置されていた中国布教を再開するためにマテオ・リッチとルッジェーリの2人を派遣した後、勇躍、真夏の南風に帆を張った南蛮船で北上し日本上陸を果たしたのである。
左手の丘の上に「岬の教会」を臨みながら、黒い僧衣に包まれた巡察師父は、いかにもイタリアの名門貴族の出らしく、品と教養のある風体で降り立った。1573年8月に巡察師に大抜擢されてから丁度6年後、リスボンからゴア、マラッカ、マカオを経て日本にやって来た。それに先立ってヴァリニャーノは、イエズス会創立メンバーのザビエル神父報告書を念入りに読み込んでインカルチュレーション(現地文化受容即ち現地適応主義)に基づく布教を提案し、イエズス会会員の宣教のガイドラインを綿密に作成していた。イエズス会宣教師に対して『郷に入っては郷に従え』(ローマにいる時はローマ人のようにせよ)の姿勢をとるように決めたのである。
連れ立っていたのは、3人の宣教師とモザンビークの教会で下働きをしていた1人の黒人である。下働きの彼は屈強の身体をしていた。奴隷を買うのはイエズス会では厳禁だったので、拘束を解いた上で年奉制での雇用契約をした。王侯貴族の寄進で賄う布教の予算は限られていて、カピタンモールの権限で融通してもらう銀貨も一部の足しにはなったが、イエズス会の財政はそれ程潤沢なものではなかった。日本人は清潔好きで謙虚で面目を大切にするから、幾ら貧しい宣教師でも身ぎれいにして、着物も清楚を旨として綻びのない整ったものにしなければならないと考えた。それはザビエル巡察師の日本布教初期の課題でもあった。上京した折に天皇や将軍に謁見が叶わなかったのは、見すぼらしい身なりと献上品がなかったからと知らされていた。だからヴァリニャーノ師は宣教師の他に身の回りを清潔にし整頓するのに黒人1人を雇ったのである。身分の高い南蛮の僧であることを示すのに、日本の高僧の真似をせざるを得ない。さもないと日本の首都に赴いても将軍や帝に逢うことは叶わない。ザビエル師の失敗の轍を踏みたくなかった。
それにしてもマカオを出港する時に、ジャンク船の中国人船長に、この男に日本で違和感のない名前を付けてくれと頼んだら、
「明白了。他的名字会ヤースケ很好。它的意思『幫助老師很好地』。亜速给」(分かりました。彼の名前はヤースケがいいでしょう。「先生をよく助ける」という意味です。できるだけ早く与えてください)
と、日本風の上に良い意味もあるとその中国人は自慢気に言ったが、弥助という名は、宣教師たちには発音が不如意で、ついつい以前のようにアミゴスと呼び慣らしていたが、後に信長に謁見した時に「名は何という」と聞かれて、咄嗟に彼がかの中国人の言った言葉をそのまま繰り返した。弥助は覚えていた中国語通りに発音したが、信長は途中のヤースケに気づかず、最後の亜速给を名前と勘違いした。が、結局弥助が当てられて全く同じ意味を表す名前となった。その由来も話すと何故かすぐに日本人らから気に入られ信長の家来になった。ヴァリニャーノ師は頭の良い弥助と知っていたから実に惜しいことをしたと少し悔やんだ。弥助は荷車を牽いたり、日傘をかかげたり、荷の揚げおろしをしたり、次々に出てくる引っ切り無しの仕事に忙しく働いた。
巡察師ヴァリニャーノ神父は、インド、東アジア全体の現体制の修復と再構築の任務と監察など審査、点検の全権を与えられていた。カトリック総本山はその頃、欧州でのプロテスタント勢力の攻勢に晒されていて劣勢にあり、イエズス会のアジアでの新たなる布教領域の開拓に殊更の関心を抱いていた。分けても先達のザビエルが、書面の数々で日本での布教の将来性を指摘し、日本人は賢くて利発で道理を知り理性的に行動するなどと、キリスト教布教には最適、最良な民族であると誇張を含めて喧伝していた。だからザビエルの同志フェルナンデスとトーレスだけだった在日宣教師が、見る見る間に増えていった。重立った者だけでも、ヴァリニャーノと同じイタリア人のグネッキ・ソルディ・オルガンティーノやポルトガル人のルイス・デ・アルメイダ、ルイス・フロイス、フランシスコ・カブラル、ガスパル ・コエリョ、ジョアン・ロドリゲスなどがいずれ日本に骨を埋めることになる。
コスメ・デ・トーレス、フアン・フェルナンデスなどザビエルの仲間がヤジローとともに薩摩に上陸し、そこで1年間みっちり学習した異文化受容の態度と異国言葉の習得が、丁度30年経って漸くに芽吹いて日本に浸透しつつあった。ここで本腰を入れて、教会や学校、病院などの建設と、宣教師たちの再配置はもちろん、将軍や帝に代表される日本の統治者や下層庶民への布教を再吟味する必要に迫られていた。
ヴァリニャーノが巡察のために日本へ訪れた1579年の時点で、改宗者や幼児入信者も含め全国のキリシタンは、凡そ12,3万人に達していた。その時の日本の人口がほぼ1千万人であるから、現代に換算するとほぼ150万人に相当し、ピーク時の1600年前後には400万人に匹敵したと考えられる。仏教諸宗派と比べても圧倒的に最大の宗派である。その内訳は、大村城下の6,7万人で、有馬晴信はまだ未改宗だったが父の義貞の代に2,3万人が改宗し、豊後府内には1万人近くいたとされる。五畿内にはヴィレラとフロイスの神父2人とロレンソ修道士が中心となって高山ジュスト右近、内藤ジョアン忠俊、蒲生レオン氏郷、結城エンリケ忠正、小西アゴスチノ行長などの大名や武士に授洗し、数千人の信者がいたという。
神父1人が1500人近くの信者を相手にしている現状では日常の祈りの一助にもならない。新たな改宗者を得るには1週間以上の聖書の学習をした後に洗礼を受けさせねばならないし、キリシタンとして生きるには教会で毎週1度以上の祈りを捧げ、時折には告解を聞いてもらう必要がある。葬送のためだけにあるような現代の仏教のような対処は出来ないから、20人ほどの司祭と50人以上の修道士の合計80人弱の宣教師という現在の数では全く足りない。ヴァリニャーノが在日している間に、奉教者の人数に見合うような数を揃えねばならなかった。手に負えない数の信者を獲得すると、やがては減少につながり元も子もなくなる可能性もある。教会を増やす課題として戦争の混乱で生じた廃寺やキリスト教信者が多数になった村内の寺を代替すれば済むし、奉教者の寄進でも幾らか間に合わせることは出来ると考えられはした。
それでも残る問題は、神父や修道士などの宣教師の数である。数百人の増員のためにヨーロッパから宣教師を派遣させるにはかなり無理があった。今のイエズス会の状況では年毎に十数人を呼び寄せるのが精一杯で、今かいまかと介入する機会を手薬煉引いて待っている他会派の乱入を招き兼ねない。イエズス会はあくまで支配する王侯や領主の布教許可を得ることを先にし、その允許状を示して(悪く勘ぐればそれを振り翳して)、上層民から下達の形で布教しようとする。それに対して清貧と謙遜を旨とする他宗派は、同じ手法をとる宗派もあるが、総じて庶民から上方へ布教する方法をとっている会派が2、3あり、スペインからのルートでフィリピンに拠点を置き、虎視眈々と日本への進出を狙っている。仏教諸派が大勢力を保ち、圧倒的な抵抗を示している状況下に、いささかの混乱でも持ち込まれたら、行く行くはキリスト教布教に内輪揉めを起こし兼ねない。それだけは避けたい。ローマの北に位置するアッシジのフランチェスコが結成したのがフランシスコ会で、未所有財産の不保持と質素を本分とし、僧衣の染色なども施さない。ドミニコ会は裸足だったり、粗末な僧衣で生計も喜捨に頼っていて、『神学大全』のトマス・アクィナスも所属していた。他にアウグスティノ会などの諸派がある。13世紀初めに結成された諸派も、清貧と辻伝道に注力するのはほぼ一致していて、「托鉢修道会」とも称されている。十字軍の敗北後に対抗宗教改革の中で、半世紀前に生まれたばかりのイエズス会からすると更なる老舗の類である。
そこでヴァリニャーノは数日間悩んだ上で、深謀遠慮を巡らし最善策を考え出した。真っ当な方法の極みではあるが、日本人宣教師を多数育成するという中、長期計画である。少なくとも十数年はかかるであろう。今までヤジロー、ベルナルド、ロレンソ了斎などの英才を修道士として迎え入れてはいたが、祭事を司る日本人司祭は育成されていない。日本人司祭の養成を急務として、各地にセミナリオ(初等神学校)とノビシャド(修道者修練院)、コレジオ(神学大学校)などを設置し、学術用語であるラテン語、哲学・神学、自然科学、音楽、美術、演劇、体育を教えたいと考えた。加えて日本語および日本の古典を必修科目とすることも「異文化受容」を重視したイエズス会の教育方針に基づくものにしたいと考えた。ラテン語は日本人修道士には特に必要であり、日本語と日本古典は弱年日本人子弟のみの対象でなく、欧州人修道士や来朝し立ての神父も習得すべき授業だった。
「どんなに優秀な司祭でも、日本語で告白を聴けるようになるには6年はかかり、説教できるようになるのに15年は掛かる」
とカブラルが言った。
いざ開校して1年ほど経ってみると、ある程度の才能ある者だったら説教さえ出来るようになっていた。豊後臼杵に設置したノビシャド(修練修道院)は全寮制の司祭養成即ちキリスト教師範学校であり、府内に置いたコレジオ(神学大学)は全寮併設の大学である。豊後に置いたのは肥前と京の中間にあるからで、宣教師が往来し易い所だからである。布教の拠点が肥前と豊後と京の3か所にあり、その他の諸都市は仏僧の犇めく場所か貿易に頼らずとも支配盤石な領地だった。どうしても宣教師による一本釣りかキリスト教の宗旨を理解して自ら改宗に踏み切った者たちの住む街では、教会が面ではなくバラバラに点在する地区である。ヴァリニャーノの感触では、堺か高槻にもあった方が好都合に思われた。日本人修道士は選ばれし者たちだからか、鋭い感覚を持っており教義の学力には欧州人よりも優れている。ノビシャドやコレジオを共にすることで、お互いの長所や欠点を見極め、生活や学業を通じて適応主義や異文化受容の豊かな資質が育って、日本人司祭誕生につながると考えた。初等神学校の計画も進められ、ヴァリニャーノ神父の考えでは、信徒の多い肥前有馬に一つ、都かそれに近い堺に二つ目、三つめは府内に建設を予定していた。早速に準備が進んだのが日野江城下のセミナリヨだった。
しかしザビエル伝統の「適応主義」に対して異を唱える者が日本布教区責任者の地位にあり、ヴァリニャーノの方針の障碍となっていた。その時点でインド管区長代理だったフランシスコ・カブラル(スペインの貴族出身)である。彼は元来インドに赴任した軍人であり、欧州人優越主義を捨て切れていなかった。頑固で短気な性格でもあり、学究熱心だが欧州やイエズス会内部でも真にエリート気取りだった。彼は日本人を含めたアジア人全てが黒い肌の人種に入り、西洋の文化を叩き込むしかないと考えた。「私は日本人ほど傲慢で貪欲、不安定で偽装的な国民は見たことがない。日本人は悪徳に耽っており、かつまた、そのように育てられている」の文書は今も残っている。
一見、順調に進んでいるかのようだったイエズス会の布教活動だったが、カブラルの方針によって日本人信徒と宣教師たちの間に溝ができつつあった。さらに日本語を不可解な言語として宣教師たちに習得させようとせず、日本人に対してもラテン語もポルトガル語も習得させようとはしなかった。日本人がそれらの言語を理解し、宣教師たちが話している内容がわかるようになると宣教師を尊敬しなくなる、という理由からだった。盗み聞きされると猜疑心が沸き、不安になるからと考え日本人が司祭になる道を閉ざしていた。
日本教区長であるカブラルの日本人蔑視は、ザビエルが唱えた「適応主義」にそぐわないばかりか、欧州人司祭と日本人信者の間に修復不可能な亀裂を作り、得も言われぬ嫌悪感を抱かせている。日本人は頭脳明晰で論理的思考が好きで、平生の生活は質素ではあるが清潔で、日々の行動も厳格で慎み深い。だから西欧からやって来た我々が不遜で蔑むような態度で接すれば、説教を受け容れないばかりか幾年も経たないで反乱を起こすに違いない。赴任して最初に取り組んだ問題が日本教区の体制の立て直しと人員配置の適正化だった。それには先ず頑として日本文化受容と現地適応に反対して譲らないカブラルとの論戦だった。結局は彼を罷免してガスパール・コエリョを日本管区長に据えるしかなかった。その下に肥前、豊後、都の3分会を置き、毎月の分会会議と、年に1回の日本全体会議を持つことを決定して再構築を無事終えた。
次に取り掛かった問題は、長崎港の波止場と荷揚げ場と南蛮街地の譲渡の件で、大村純忠からの数年来の要望だった。龍造寺隆信の攻勢の中で劣勢に陥り、窮地の状況が発生して麾下に治まるしかなかったが、見す見す長崎の権益を渡す事は出来なかった。直接介入していると解れば龍造寺も黙って見逃すはずがない。究極の奥の手として、西欧人が直接に統治していると知れば、おいそれとは権益に口を挟まないと踏んで南蛮街地の譲渡を申し入れたのだ。それには植民統治権者が占領するのではなく、イエズス会宣教師の宗教施設用の土地であると限定してもらう必要もあった。
殆どの場合自力で権勢を保ち強大な権力を有する者は、他者に頼ることはしない。虎の威を借りてのさばる仏僧らほど始末に負えない輩はいない。領主に取り入ってキリスト教や新興宗教を排撃する態度は、臆面もなく手加減のない非情なものだった。領主は統治に不安な時は仏僧の讒言ざんげんを受け入れ、領国支配が安定すれば取り巻きの追従によって抑圧に走るのは目に見えている。よって龍造寺氏の領地拡大は、大村、有馬、大友のキリスト教容認勢力の窮地に発展する。だから迫害を受ける奉教者の逃げ場となっていた長崎の街は、宣教師たちの布教活動の安全保障のためには無くてはならなかった。貿易の利益をイエズス会が管理すれば、碇泊税の名目で得られる利益も布教活動の資金や港の補修管理などの多方面に利用できる。
キリスト教界が政治に関わるのは、日本人の侵略懸念に油を注ぐことになるし、ヨーロッパ諸国の植民地争奪戦の火に油を注ぐ危険もあった。軍事を持ち込んだり懲罰を伴う裁判権など治外法権などは持たず、土地の所有だけにして疑念だけは持たれないようにした。かくして長崎の教会や異人街はイエズス会の管理下に置くことが出来た。
ヴァリニャーノ神父の日本巡察は、1580年に入ると九州即ち下地区の人員配置と教区体制を確立させ、全ての布教方策が定まったことで、今度は御屋形である有馬晴信の改宗へとヴァリニャーノ師の狙いが定められた。
2 有馬晴信改宗の経緯
大村純忠が日本最初のキリシタン大名になったのは、龍造寺との戦いに次々と敗北して領国支配に危機的状況が訪れ、南蛮交易に活路を見出したことに加え、平戸の「宮の前事件」で十数名が殺されたポルトガル人たちの港の新天地探しに協力したことが彼をキリスト教に庇護を求めたのが発端である。さらに教会と港町が反キリスト教勢力による焼き討ちに遭い、殺戮が繰り返される中で横瀬浦、福田浦へと転遷した後、長崎に落ち着いたことで終にポルトガルとの運命共同体的な関係にまで発展してしまった。
その頃の仏教界では一休和尚らを象徴とするとんち問答やなぞなぞを手始めに「宗論」を各々の宗派を代表して闘うのが恒例になっていた。どうしてもギリシャ哲学や科学的視点を取り入れて説教する神父たちの方に歩があることは致し方ない。これに根を持ち悪口雑言に始まり乱暴狼藉に走る僧まで出てしまう。何せ宣教師たちは母国にあれば、大学で教鞭を執るぐらいに高度の知識に裏打ちされている。仏教の既成宗派は固定観念に囚われている、と言うよりも自ら積み上げた集大成から逸脱することが出来ない。だから仏教の根本理念を信ずる者、それを正義、公正と自尊する者は立ちどころに論破されても他宗に意地でも屈する筈がなく、戦国の時世では罵詈、暴力、殺戮にまでに至るのは必定である。それを民主、平等、博愛に反すると浅はかに現代人が言うことは出来ない。仏教の基本である生類憐みの情や殺生厳禁などは、己が生きるための現実的世渡りには戯言として打ち消されてしまう。
晴信の父、義貞は詩歌に造詣が深く、書道に巧みで、為政者としては老練慎重かつ賢明な人で、1568年に岬の教会の「償いの行列」を見てキリスト教に興味を抱いていたが、政治的立場の深慮や仏僧の難癖で命の危険を感じて逡巡し、純忠に対しても宗門争いを招くからと棄教を勧めたほどだった。しかし1570年に長男の義純に家督を譲ったが翌年に急死し、次男の晴信を当主とした。親子二頭支配で領地を守ろうとしたが、龍造寺との戦いに次々と敗れ、高来1郡だけの小領主に転落すると義貞は心機一転、フランシスコ・カブラル神父に洗礼を願い出て、ドン・アンドレと名乗った。弟の純忠にならって、1万名を超える家臣とその家族共どもに集団改宗した。時に1576年4月15日のことである。
ところが改宗から9か月後の1577年1月15日、義貞も背中の皮膚癌がもとで逝去してしまった。弱年領主の取り巻きや仏教勢力が千載一遇の機会と捉えて、キリスト教に一斉攻撃を始めた。その言い分は「義貞御屋形が病気になり他界したのは、仏陀の教えを棄ててイエズス・キリストの許に走ったのが原因だ」という主張である。だからキリシタンを憎んで片っ端から斬り付けた。この時の死者こそ知られざる、日本人初めての隠れた殉教者たちである。暴虐は果てしなく続き、神父や修道士を領内から放逐し、十字架は引き倒され、祈りを捧げていた教会やアルメイダが築いた療養院などをことごとく破壊し、火を放って焼却せしめた。追い打ちをかけるように全改宗者に迫害を加えて棄教を強制した。どちらかと言えば隣りの大村領で起きた寺社仏閣の焼却破壊の仕返しでもあった。どっちもどっちであると言って済ませて良い訳でもない。
それでも口之津や加津佐の全住民改宗の地区では、奉教する人々が深刻で苦渋の顔を見せて、カブラル神父に報復を考えるよう願い出た。やがて一揆的状況となり、僧侶を戴く勢力と対立して抜き差しならないことになってしまう。だがここでは日本人を蔑視するカブラルの態度が災いし、一揆勢力をまとめる原動力とはなり得なかった。若き屋形晴信の周りで彼を操る重臣たちの宣教師への根深い疑心を解くことは出来なかった上に、彼には一触即発の危機を回避し、人心をまとめる方策を立てることが出来なかった。
だが幸いなことに、それ以上の大混乱へと進まなかったのは、カブラルの偏見に基づく固定観念が強過ぎ、彼我ともに相手に関わることをためらい、難題から身を退いたからである。日本人蔑視への拒否反応が、仏教を崇める家臣団をまとめる効果をもたらしたのである。やっと晴信が屋形としての実権を自分の手に取り戻し、立派に自立するための冷却期間を与えてくれたのである。
次に1577年初夏の龍造寺の島原攻めの戦いが、取り分けて重大な転機をもたらすことになった。龍造寺隆信が大軍をもって島原半島へ総攻撃を加え、有馬晴信にとっては屈辱的な大敗北をもたらし、その戦さの中で紀員の義兄が自刃し釜蓋城を明け渡した。これ以降有馬氏は深刻な状況に陥れられた。臥薪嘗胆、それまでの親族の取り巻きにより禁じ手とされてきた南蛮貿易の本格的再開と領主のキリスト教への改宗を再検討させた。十字架を引き倒し、神父を追放し、教会を焼き捨てた自分たちの浅はかな行為が、城下に混乱をもたらし、その隙に龍造寺に屈服させられて侵略者を呼び込んだ。一部の親族たちは責任を感じて改悛の情を顕著にしたが、キリスト教嫌いの龍造寺隆信に味方する親族や家臣もまだ僅かながら残っていた。その手引きで他の幾つかの城も失い、有するのは日野江城と小浜城のみとなり敵の支配下に収まるしかなかった。
時は移り雪崩のように倒壊し、有馬の領地の殆どが龍造寺の手に渡り、今やイエズス会から援助される糧食や兵器、武具などで2つの城を防護するしか手がなかった。結局は口之津や加津佐のキリシタン領民だけが、晴信の周りに残って籠城し死守戦を担うしかなかった。ヴァリニャーノ師がゴアから口之津港に初来日したのは、そんな惨憺たる状況の中だった。城内では師が派遣した神父がたった1人で祈りを捧げ、領民や兵士たちを鼓舞していた。窮鼠猫を噛むほどの気持ちに陥った晴信は、再起を賭けて巡察師に全面的な援助を仰ぐことにした。インドのゴアでヴァリニャーノ師はザビエル師の日本に関する書簡や書籍を丹念に読み込んでいたが、導き出した結論から布教の際は、絶対に政治紛争や戦争に介入してはならないし、尚更武器などを援助することは禁物である。敵側にもキリシタンがいるかも知れないし、十戒の第六番目にある殺人の罪に与することになる。しかし今度だけは信条に背くしかないと判断した。
「汝の隣人を愛せよ」という聖書の教えを実現するためである。目の前にいる子羊の群れを見殺しにするな、との教えである。カブラルから「領主たちは自己保身のために改宗している」との誹りを受けるのも承知で敢えて十戒に背くことにした。
こうして有馬晴信は、1580年3月に始まる四旬節(灰の水曜日から復活祭までの46日間)の間にキリスト教の主旨を修得し、ヴァリニャーノ神父により洗礼を受け、ドン・プロタジオとして人生を再出発することになった。
「ヴァリアーノ神父という耶蘇会の偉か方が、お屋形様に洗礼ば授けられ、紀員殿にも洗礼ば受くるために長崎へ来るごととん報せばい」
と、母の忍の使いが三城城下の寺子屋に駆け込んだのは3月6日の昼時だった。
何でも有馬の屋形の晴信の下達で忍と紀員の2人一緒に、長崎の教会で受洗せよとの命令らしい。報せが届いたのは、東インド巡察師が港の教会で復活祭の祝祭を行う日の前日までに受洗せよとのことだった。忍も紀員も晴信の指令さえあれば入信するとの準備は出来ていた。父も母も仏教徒であるという自覚は薄かったが、父の墓が石を五段に積み上げる方法だったので臨済宗当たりの宗派だったろうと思っていたが、当時領民の葬儀の時に遭遇した時土葬にして卒塔婆を立てていたから、一般庶民は浄土宗の類に入信していたのかも知れない。どちらにしても仏教の「ぶ」の字も学んでいないから、紀員自身は改宗ではなく入信であると胸を張った。勿論母は改宗に当たっただろう。
長崎港脇の波止に建っている教会堂に入ると、トーレス神父が祭壇中央に立っていて、代父をかって出てくれたカピタンモールのドン・ミゲル・ダ・ガマが見守る中洗礼式が始まった。ドン・ミゲルの名を戴いた紀員が進み出て首を垂れ、おもむろに跪くと頭から「父と子と聖霊の名において」と3度聖水が掛けられた。悪魔に心を許さないと誓った上で按手を当てられて、罪なき身に生まれ変わったことを実感した。その場に50人近くの改宗仲間がいたからだろうがとても心強かった。
その厳かな儀式の間、自らの半生に思いを馳せることができた。記憶にないことだが、母や乳母や取り巻きが折に触れては語り出す父の死に纏わる経緯、落馬によって痛めた膝関節が疼き、生まれ育った故郷である釜蓋城、千々石城下が今や龍造寺の息がかかっていることなど、どちらかと言えば悲しい思い出だけが走馬灯のように蘇った。長崎港へポルトガル船でやって来るポルトガル人や新奇で珍しい便利な物品に心動かされ、心の支えとなる信仰までヨーロッパ文化の只中に入った。悲劇が幕を下ろし、晴れ晴れとした未来が開けて来るかも知れない。ここに至るまで様々なキリスト教の核心や垂訓を教わったが、無垢の状態で初心に戻り父や義兄の無念を晴らすことも誓った。代父の名を貰い、今からは千々石ミゲル紀員と名乗ることになる。紀員本人は洗礼名をもらったことで元服したように感じていた。日々の大太刀、小刀の捌きを素早くし、乗馬の際の手綱や鐙の微妙な力加減を磨く修練にもっと集中することを目標に決めた。
受洗した上で参内するようにとの依頼は、何か秘匿すべき魂胆がありそうで、2人とも緊張した面持ちで座敷に入って正座した。ミゲルの他にも重立った家来や親族や一族に連れられた子弟、後継ら合わせて二十数名が集められていた。中には紀員と同じようような元服間近の男子も含まれていた。しかも付き添いのいない孤児らしき者も数人はいた。ミゲルにとって何よりも心強かったのは、ジュリアンが隣に並んで座ったことである。辰巳殿に付き添われて来たのである。彼にも家族に当たる者は1人も居なかった。
「予は今日まで切支丹に成らんでおったが、今般耶蘇会長代理、ヴァリニャーノ巡察師がいらしたじょん、それに併せて改宗ば致した」
と、屋形の有馬晴信がドン・プロタジオとなったと述べた後、
「我が島原の領地は龍造寺の攪乱に拠りて有史以来の危機ん中にある。こん事態ば打開するには不退転の決意と起死回生ば成し遂げる妙策が必要と考えた。それには伴天連たちの知恵も借りんばならん」
と、キリスト教徒になるのは、所領安堵のためであることを明白に伝えた。
そしてそれまで城下の寺子屋でもあった廃寺を改造して、セミナリオとして使うと発表した。二つしか歳の違わない、つまり13歳そこそこの屋形ではあったが、ミゲルにとっては今後とも本家筋の武家を背負う従兄である。ましてや何がしかの扶持を戴いている領主である。年嵩が無かろうが威厳が備わなかろうが、支え合わなければならない。さもないと父や義兄が浮かばれない。自刃の果てに守ろうとしたのは武士の矜持だけではない。島原領民の安寧であり一族郎党並びに婦女子の生命護持である。
ミゲルやジュリアンなど全寮制の神学小学校の在校生には過密なスケジュールが課せられた。その時間割は、以下のようである。
夏は4時半起床、祈りを5時まで(冬は全て1時間遅らせる)。祈祷の後ミサ聖祭、主祷文斉唱、6時まで座敷清掃、勉強、学課(年少者はラテン語学習)9時までラテン語の宿題と暗誦、(年少者は課業)時間を無駄にせず、生徒に手伝わせても良い。9時から11時まで朝食と休養。11時から日本語の読み書き。既修者は日本文書状の読み書きの練習、上達に使う。2時から唱歌、楽器演奏、残りは休憩。音楽は、才能者の選出が大事。3時からラテン語の文章を書き、朗読を聞く(年少者は、ラテン語の文章の読み書きのみ)。夕食前の半時間は自由時間。5時から7時までは夕食、休息。8時までラテン語の復習(年少者は日本文字、ローマ字の学習)の後、良心の反省、夕べの祈り(ロレトの聖母の連結)をして就寝。
祝日のない月の水曜日は2時間だけ日本語の読み書き。1時から自由時間。聖歌合唱、楽器の練習。土曜日の午前中は1週間のラテン語の復習。食後は2時間、日本語読み書きをし、1時に終了。あとは入浴や散髪、告白の時間。食後は休養、霊的な話、説教や教義を会合。日曜と祝日は、別荘か野外で休養か自由。雨、寒さで外出不能時は屋内で休養。非常に暑い時は長期の休暇、休養。
どちらかと言えば、国語、外国語と語学に偏重し、音楽と神学が、技能性、特殊性の高い科目のようになっているが、今日の全寮制の小、中、高一貫校の原形のようでもある。当時のヨーロッパの学校を模しているのだろう。けれどもさほどに広くはないが運動場も整備され体育の科目も必須だった。
大村の寺子屋で一緒だった者6人や、豊後府内から来た武家子弟10人の中にはキリスト教に詳しい者が多くいた。ミゲルはキリシタン仲間の中では全くの新参者だった。ゆくゆくは使節団として渡欧する仲間4人がここに揃う。ジュリアンとマルチノは早々と幼児洗礼を受けていたが、マンショは2年近く前に洗礼を受けていて、ミゲルだけがキリシタンになったばかりだった。4者4様ではあるが、3人が11歳くらいでジュリアンが一つ年上の少年である。
「ジュリアンも幼児洗礼ば受けとるし、何かみんなわいよりばり(ずうっと)以前からキリスト教徒になっとる。気が引くるなあ」
「ミゲル殿、そがんこと気にしなしゃんなや。キリスト教ん宗旨ば理解しきるんはこれからやけんね。日本語訳の聖書もまだ出来とらんのやけん」
と、ジュリアンはそう言って慰めた。
「先生、イエズス様は人間やなかんか?」
と、クラスの誰も疑問にもしないことをミゲルは訊いた。
「マリア様のお腹からお生まれになったから、人の子のように思われるが、復活の秘蹟をなされたから神の子である。さもなければ説明がつかない」
と、教師の修道士が答えるが、勿論他の生徒たちには分かり切っていることが、新参者の彼には疑問として次から次へと湧いてきて、質問せざるを得なかった。出っ鼻から積極的に授業をリードし質問や発言をするのが彼の役目となった。何しろミゲルだけ身分が高く見られていて先生の扱いが少し違う上に、教義などに知らないことが多過ぎた。それが実際の所ではある。結局先生が手を焼いて「授業の合間の休み時間に説明するから、今は静かに待っていなさい」と止められることになる。
「なして語学、日本史、音楽にばっかり重きば置くんか。武術、兵法はやらんとか」
と、ミゲルが授業の進め方にまで率直に口を挟んだが、
「日本人司祭(神父)を養成するためのセミナリヨであり、兵士養成の学校ではないからです。ミゲルはどうしても城主になる積もりなのですか。それなら自由時間を惜しんで兵法書や武芸を自学自習するしかなさそうですね」
と、半ば諦めの表情を浮かべて否を表すしかなかった。ミゲルは今まで通り刀捌きや乗馬の修練を欠かすことはなかった。いや尚いっそう休憩や休日を使っての武芸の鍛錬に磨きをかけた。何しろ自分の生きる意味は武士の本分に拠るしかない。まだまだ戦国の世は続くだろうし、平和な時は訪れる見込みも見えないからである。
3 ヴァリニャーノ京に向かう
有馬晴信の廃嫡の危機を脱し、セミナリオ設置を見届け、下の布教体制を整えたヴァリニャーノ巡察師は、1580年9月14日に府内に赴いたが、大友宗麟との対面は思いがけない事の連続だった。ザビエルの書簡や文献を丹念に読んでいた彼にも想像に及ばないことが聴けた。窮地に陥った中で教えに傾いた有馬氏や大村氏とは違い、宗麟は神の御心に触れた上でザビエル神父への尊崇の念を抱いたと語ったのである。
「拙者はザビエル師が亡くなったんが残念じ致し方がねえ。師の天地創造、十戒などの話で神の存在を深う信じた。生誕、ヨハネによる洗礼、山上の垂訓、十字架での苦悩、復活と昇天の中にキリストによる救済の福音があることう知り、心躍る気持ちやった」
と、語る時に涙を浮かべていた。当時若干21歳で治政経験の浅かった彼が、45歳になる思慮深いザビエル師との邂逅の中で、並々でない心境にあったことが窺えた。神による厳罰とキリストによる救済、これが無かったら戦国の世も平和へと向かうことは出来ないと思った、としみじみと語ったのである。
「前正室奈多の父が神官じ、重臣たちの中に臨済宗徒がようけおり、改宗できたんが3年ほど前やった。本当はもっと早うに洗礼う受けたかった」
と語る今や51歳の彼が、10ほど歳下のヴァリニャーノ神父に親愛の情を抱かせた。
自分もまたザビエル師の物の見方、考え方に傾倒し、それに準拠して行動の指針を立てていることを話した。予想に反してこの出会いは、ザビエル師を介してではあるが、両者肝胆相照らす仲になり得た瞬間となった。
肥前と京、堺とを結ぶ豊後に、前年できた臼杵の修練住院の他に府内に神学大学を置きたい旨を話すと宗麟は快諾した。早速それに適した建物を探し、周辺に宿坊も設える積もりであることもつけ加えた。さらにそこで巣立つ修道士たちをインドのゴアへ修行に行かせる援助も約束させた。日本人医師2人がアルメイダの手解きを受けて活動していることも心強いことだった。その年のクリスマス・イブに正式の開院となったノビシャドの2つの講義をヴァリニャーノ神父は2か月間担当した。
耳川の戦いで敗れて島津義久ら4兄弟に屈服して日向を失い、龍造寺隆信にも勢力を広げられている中で、キリスト教を奉じ領内福祉に重きを置く、宗麟への援助を惜しまないことを約束した。これもヴァリニャーノの基本的態度である、政治的権力への物、金の協力はしてはならない、との方針からは逸脱していた。どうも領主たちからのトップダウンでの改宗には、その本質的な問題が絡んでいるようだった。即ち宗教は極めて個人的で内面的な心うちの信条であるからである。単に布教許可を得るためだけの関係に律しない限り究極の場面では、この手法が孕む負の事態が露出することを覚悟せねばならない。
府内のコレジオの建設に力を入れながら、ヴァリニャーノ師は「日本のカテキズモ」と題するキリスト教要理を著した。神学大学の教則本に供するためだったが、後にミゲルらの天正少年使節が携え、イエズス会総長のアクアヴィ―ヴァの手でラテン語の2巻となってヨーロッパ各地に普及した。その内容はあくまで将来、修道士、司祭になるであろう日本人に識見を修得させるための教材である。それは日本人キリスト者の信仰の規範と教理の真髄を如実に解明していた。
ヴァリニャーノ師の意図を超えたのはヨーロッパで訳本が出たことである。彼は後半の大部分を割いて展開した理論は、日本独自の諸宗教を論破(分析批判)する、極めて内輪向き(ドメスティック)な内容だった。日本で特異に進化した仏教、神道を異宗門から解明する、それまでの欧州の神学系大学には一切皆無であり研究者垂涎の代物ではあるが、イエズス会の日本人通訳で、臼杵ノビシャドの日本語教師であり、仏教諸派の準拠する個々の本義について奥深い造詣のある、ようほう軒パウロの多大な協力があって成ったものである。
1581年の四旬節が始まる3月8日、修練院の院長に就任したペドロ・ラモン神父らが見送る中で豊後を後にし、カブラル神父との論争に決着をつけるべく京都へ向かった。当初カブラルは、ヴァリニャーノ師が五畿内に行くことに必死に反対した。前年9月まで本願寺光佐(顕如)との大量殺戮の合戦があったばかりで、瀬戸内海を通るのに織田氏と敵対、対峙する毛利氏に攻撃される危険があるとの主張だった。確かにその懸念は少なからずあったが、あくまで表向きの口実で、五畿内には有能で機知に富んだ識者が多く、日本人がキリスト教に対して積極的で熱心に信奉する素養があり、言葉の壁も超えてその真髄に迫る能力を有していると理解され、自分の考えが否定される事を懸念しているとの見方が当たっていた。
巡察師とルイス・フロイスとロレンソ・メシアの一行は、五畿内に派遣する司祭、修道士各々2人とローマから同道しているイルマンを引導して、府内港から宗麟所有の船で旅立った。山口通過の際には大友氏と敵対している毛利氏からの攻撃を怖れたり、瀬戸内の海賊の追尾を受けて謂れのない関所税を取られたりしたが、辿り着いた堺の街で大歓迎を受けた。五畿内責任者のオルガンティーノ司祭も安土のセミナリオの生徒や同宿のみんなとともに出迎えた。3月17日のことである。
ザビエルの訪日以来のパードレ支援者である、日比屋了珪の家で格別のもてなしを受けた。キリシタンたちの住まいを訪問する度に豪華な食事を供されたので、巡察師ら一同は心から恐縮して、どうしてこれ程の丁寧で懇切なもてなしをしてくれるのかと聞いた。
「伴天連殿たちが遥か遠方の南蛮国から、2年近くの長い間命懸けの航海をして布教に参られた。にも拘らず無報酬で何の見返りも求められていない。戦乱で安寧のない我々の国に、デウス様への畏敬とイエズス様の救済の福音を知らせるためである、と仰る。今まで仏僧たちに施したのと同じか、それ以上の応対をするのは当然なことですよ」
と、誰もが口をそろえて言った。
数日後に大阪摂津の高槻城下へ向かうと、28歳の若き領主が諸手を挙げて歓迎してくれた。高山ジュスト右近である。信長の重臣であり、戦闘においても不退転の覚悟で臨む有能な武将である。早々に父のダリオ友照が改宗し、同時に右近も入信していた。高槻城主だった父が、五畿内の有力大名三好長慶の配下だった松永久秀に仕えていた時、偶々奈良で熱心に布教をしていたロレンソ了斎の弾き語り琵琶の説教に感激したのが洗礼の動機である。10歳で入信したから弱年改宗だった。高山右近と織田信長とキリシタン諸氏の親密な関係には、語らずには居られない逸話がある。
五畿内を武力支配寸前だった三好、松永両氏は、足利幕府の14代将軍に自分たちが推す義栄を立てるために、三好長慶や松永久秀の次の世代が将軍足利義輝暗殺を敢行する。だが信長や明智光秀の尽力で継いだのは足利義昭であり、直臣でしかもキリシタンである和田惟政を摂津国高槻城主に据えるのに入り乱れての戦闘になった。配下である右近は首に重大な刀創を2か所も負った。右近はキリスト教信者の看病で奇跡的に命拾いして助かった上に、戦死した和田の高槻城主の座を受け継ぎ、荒木村重の家臣に収まることになった。すると隠居した父友照は熱心にキリスト教の布教に力を入れ始めた。領内の隅々に教会を設置しパードレたちへの協力を惜しまなかった。仏僧、神官たちの反発に対しても、神社仏閣破壊を扇動するほどに手加減無しだった。
ところが1578年7月に有岡城の戦いが勃発した。村重が突如として、義昭を入京させた主君信長に反旗をひるがえし、調略した摂津国を領地とすることを信長に認められていたにも関わらず、大敵である中国地方を支配する毛利氏の側に着いたのである。その時点で大阪の本願寺光佐と摂津の荒木村重が毛利陣営の最前線となり、信長の勢力の喉元に突き刺さる巨大な匕首となっていた。秀吉は傍付きの軍師黒田官兵衛を説得に派遣したが翻意を成し得ず、捕虜として村重の有岡城の地下牢に幽閉されてしまった。
更に高槻城を治める高山右近の妹と息子を人質にとり、自らに味方するように仕向け、父の友照がこれに屈服してしまった。右近が金銀や地位や名誉では動かないと断じた信長は「我が麾下におさまらないなら、高槻の教会を全て破壊して伴天連、伊留満、切支丹を皆殺しにする」と脅した。右近は裏切った側に着くのか、正当に主従を守り通すのかで思い悩んだ末に、密かに潜入したオルガンティーノ司祭に「ここは信長殿に加勢するのが正義である」と諭された。デウスに祈りを捧げた上で、右近は修道士となり出家して俸禄や現世身分を放棄し、信長に帰順すると表明して裸一貫で高槻城を出た。村重は高山友照の家族を人質にしてジュスト右近を翻意させる初期の目的を果たせなかった。信長が右近の一番の弱点である信仰心を突いたことでやっと自らに降らせることに成功したのである。
結局この高槻城の陥落によって荒木村重を攻め滅ぼした信長は、五畿内平定において石山本願寺を残すだけとなった。高山父子も無事に生き残り、信長の直参となり高槻の所領を安堵され、周辺領地の加増も受けとった。それ以後高山父子はデウスの教えを熱心にしかも敬虔に守り宣教師の保護につき進んだ。これを機にオルガンティーノ、フロイス司祭やロレンソ了斎など修道士たちの退去や死の危険は去り、全てが一発大逆転で信長のキリスト教に対する理解と親密な関係ができた。数千人と膨らんだ五畿内の切支丹の安全が保障され、信長という強い味方を得たのである。
抑々キリスト教に近づいた動機が、下の大名の場合は領主の地位を守るためだったが、高山右近は幼少の頃からのキリシタンが身に付いていて、就中信仰の心根は全く揺るぎのないものだった。領主による強制改宗は親族だけに限られていて、教えが徐々に浸透する過程で、信徒を失った寺社の廃寺、撤退が全域でスムーズに進んだ。城下には改宗領民がゆっくりと増え、キリシタンとなった家臣や一般民衆は5000人を超えていた。巡察師は、オルガンティーノやフロイスの「適応主義」や「現地順応主義」が五畿内では成功を収め、カブラルの手法と違う遣り方が効果を発揮したことを証明していると感じた。
ヴァリニャーノ師が見回ったところ、高槻の街中にある教会堂は、廃寺を改築した極めて小さい建物だった。そこで数百人が一度に見えることのできる規模の、教会を新築することを信者たちに提案した。加えて十数名の少年を、安土のセミナリオに入学させるように直接に願い出た。大した時間も置かずに、その2つとも右近によって、用意周到に実行に移された。流石に高槻城の御屋形だけあって財力も労力も抜きん出ており、ジュスト右近の実行力は絶大だった。
特に重臣の子弟たちの中から、セミナリオ入学者10人ほどを選ぶのに、親たちの反対意見が激しく噴出した。勉学のための寺子屋に過ぎないし、屋形の資金援助もあるから気軽に入学させて欲しいと懇願しても、誰もが俄かには信じなかった。仏門の出家と同じで髪を剃り現世を離れるとの危惧が先立ち、武士としての身分を放棄させるのではないか、と考えて反対する者がほとんどだった。しかも頑なに反対する者が親族家臣の中に1人いて、領主の面目丸潰れだった。セミナリオから子息を連れ戻したのである。神父らと共に説得したが、なかなか埒が明かなかった。業を煮やした右近は、これ以上脱落者を出さないためにも非情を貫いて、その母子を領外に追放した。
ヴァリニャーノ師らは、1581年の復活祭の礼拝を、高槻の教会堂で厳かで賑々しく執り行ったが、ヴァリニャーノ師のミサとあって遠方から遥々訪れる人が後を絶たず、イエズス会のパードレやイルマンたちの並々ならぬ取り組みが如実に表現されていた。
「イエス(ジェズ)・キリストが十字架に掛かり給いて隈なく世人の罪を贖いなされ、復活為さりて昇天されき。かくの如きことこそが皆の心に留め置くべき秘跡なれ。皆も又復活して最期の審判にあたり罪科なきように神に祈りたまえ。アーメン」
との、ヴァリニャーノ師の言葉は、ローマ字を読み上げるからか、何時もの迫力ある弁舌とは違ってたどたどしく物静かだった。それでも高槻でのジュストとの出会いと相互の愛情ある共感が、巡察師に決定的な確信をもたらした。「適応主義」に徹した布教と日本人司祭の育成に集力することを、日本イエズス会の戦略的目標にすべきである、と。
3月26日の夕刻、急いで五畿内を更に北上して京に入った。直ちに使いを遣って織田信長との謁見を申し出た。信長の返事は即刻の快諾だったという。入京以来、広大な敷地の本能寺を別邸として城郭のように改造していて、そこで29日に巡察師と会う旨を告げてきた。フロイスやオルガンティーノは数度謁見しているが、この度はその上司、インドゴアの総督代理でイエズス会アジア方面巡察師である。天皇を差し置いて日本国代表として会いたいと申し出たことに内心で喜悦していた節がある。
「以前読んだ報告書に、ザビエル師が国王に初めての謁見を願い出たが、献上品がなかったので叶わなかったとあった。何か献上品を用意した方が良いと思うがどうだろう」
と、ヴァリニャーノ師が尋ねると、
「オルガンティーノ師と私とロレンソ了斎修道士が初謁見した時に、置時計、ガラス製水差し、鏡、小型鉄砲、緞子、眼鏡など、いろいろ献上品を揃えたが、壊れた時に修理できない、実用でないなどと粗方は断られた。結局、狩り用の帽子とビロードの狩衣だけになった。信長様は新奇なものでも実用性のものを好まれる」
と、フロイス師が答えたので、今までに持ち込んだことのない品だけにした。しかし謁見の時に受け取られたのは、紫檀製の豪華な椅子と球体の地球儀だけだった。椅子はマカオ駐在のポルトガル婦人の拵えた、背凭れと座面と肘掛けに濃赤色のビロードを張り巡らした代物で、誰が見ても南蛮情緒満載の品だった。地球儀は当時で知られる限りの正確な地形を表しているもので地上世界を網羅して表すものだった。
3月29日、ヴァリニャーノ師とフロイス両神父とロレンソ了斎修道士の3人で謁見したが、最初はお決まりのように地球儀談議に花が咲いた。2度、3度と宣教師らと話すたびに理解していた筈だが、地球儀を見ると元へ戻る。太陽や月と同じに考えればよいとフロイスらが説いても、どうして丸い地球が浮いていられるのかが不思議だった。また丸いとすれば、どの方向へでも限りなく進めば、必ず元いた場所に戻る。それはマゼランが証明してくれた、などと話が進んだ。やがて船での旅の苦労を聞きたくなる。帆船は順風で進むのが最も効率が良いので、どうしても風待ちの日にちが必要である。だから無為に時間を潰すことになり、ポルトガルから日本まで片道だけで2年は掛かる。それならば陸路が良いのじゃないか。今度は大量の荷物の運搬がネックとなる。しかも大陸を横断するのに砂漠や高い山脈を越えねばならない。異教徒の国や山賊の脅威もある。どうしても長期間になり、寄港地に立ち寄りながらの船旅しかない。
「何時の日か日本国66州を平定して、戦さを終らせたら貴公らの国のあるエウロパへ身共も訪れたいものだ。聞くところによると、頑丈な石造りの建物や豪華な財宝、文物などを蔵すると聞き及ぶが、さぞかし見事だろうと思う」
と、しみじみと話す信長の目は輝いていた。
「是非ともエウロパの色々な所をお見せしたいものです。かの地の風景は日本とはまるで違っていて、住まいは木や藁ではございません。もちろん城全体も石やギヤマンで出来ており、遠出は馬車を用い、道路には石が敷き詰められています。海上は羅針盤を使って正確に遠方の地に到達でき、活字という金属で文字を鋳込んで大量に本が刷られます。運河を巡らして灌漑できていて、どこでも農作物が育てられます」
などと、フロイスやロレンソの通訳で答えた。
「それでも帆かけ船での旅は悠長に過ぎるぞよ。1年いや2年近くは掛かるとは無策に過ぎるぞ。何よりも嵐に遭っての転覆やベタ凪による身動き出来ない危険がある。方々(ほうぼう)の国から攻撃されたり、海賊に襲撃される心配もある。ここは支那国、明朝の鎖国を解かせ、馬車隊でオイロパへ向かうのが最善ではと内心考えもした。明智、柴田、秀吉ら家臣との日頃の会談で、交易は近くの国との円滑で納得ずくの商いが得策と考えておる。大陸も陸路を辿れば1年もかからず到達できる筈である」
と、安全で障碍のない輸送を基本とするべきだとした。そして、
「遥々地球の裏側から命懸けで来たれる伴天連らは実に殊勝である。更に無償の奉仕であるとは健気である。だから余は切支丹の普及に力を貸したいと考えた。安土の教会堂は少しの後押しだったが、貴殿の申し出のセミナリオについては相応の援助を致そうと思う」
と、虚心坦懐に述べる信長は、5歳ほど年下でもあり、初対面のヴァリニャーノは余りに手厚い好意に恐縮し、日本風のお辞儀を繰り返した。それも余りに深々と丁寧過ぎてはいた。
「貴殿の待遇は私共にとって本当に有難いことで、心より感謝申し上げます。戦国の世を終わらせ、良民の生活物資や生産での面倒を真剣に考えておられることに、私共も敬服のほかありません。私共も日本国民の霊魂が安寧になるよう心を砕いてまいります」
信長がフロイスと最初に会見した時は、単に新奇な南蛮人を見る目だったが、次第に心の中では比叡山の僧兵や一向宗徒などの仏教勢力と宗論をさせ、布武貫徹の一助として異宗門を利用し、宗教間の均衡をとるのが最善策と捉える気持ちが芽生えていたのかも知れない。フロイスらヨーロッパ人の目では、比類なく冷徹な信長に対しては以下のように映っていた。
率直な分析は大がね日本人の衆目とも一致していただろう。
彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲ではなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。人々は彼に絶対君主に対するように服従し、彼は戦運が己に背いても心気広闊で忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇並びにあらゆる異教的占いや迷信的慣習の軽蔑者であった。当初形だけ法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはなはだ好んだ。なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。(フロイス記)
「貴公らの国の諸侯の中に国王に背く者が出ることはないか」
「折角古い荘園経営の柵から抜け出せるのに、鎖国や抑圧支配で後ろ向きになってはいけない」
「二重の権威はもっての外で、新体制を容易く簒奪されるのは実に口惜しい。身共はそれだけは避けたい」
と、信長の口から突いて出たのは、欧州の各国王の統治方法を聞くことだった。
「我等の国々では無闇に力で統治する時代は終わっていて、どちらかと言えば国と国との関係で戦になることが多いのです。教育により国民の知識が高まり、医療向上で病が減って生活が豊かになると、内紛はやがて少なくなります」
信長が政についてとやかく聞き及んだことは、土地や生産財で縛り付けて農民からの上納米を管理することで支配する時代は古く、新統治法で闊達に生産させ、自由に生活させることが新しい治政と考えていた。
その律令制の古い政治を守ろうとする貴族勢力に、今まさに最期の鉄槌を下ろそうとしていた。だから一番気に掛けていたのは、天皇の処遇のようだった。天下布武がようやく固まってもその権威を転覆し、崩そうとする者や支配の頂点を虎視眈々と狙うものがいると、それに対処することが出来ずに閉鎖的な施策に陥ったり、人の動きを制限して昔ながらの遅れた政治手法に戻ることを気にしていた。
だからヴァリニャーノ師が、正親町天皇との謁見を申し出た時、即座に拒否され二度目は婉曲に匂わせたが憤懣の表情が見られたので、師の方から慌てて撤回を言い出すしかなかった。それ以来宣教師たちの間では、日本では権力の分立が様々な弊害を形作っていると理解することにした。
4 信長とヴァリニャーノ
「様々な品を運んで参ったあの者は何者か。南蛮にはあのように肌の極度に黒い者が居るのか。上背があるのは同じだが、肌の白い者ばかりだと思っていた」
と、信長が聞くので、
「あの者はエウロパの者ではなく、アフリカーノです。地球儀のエウロパの南に位置する大陸のモザンビーク人です。私の身の回りの手伝いに雇っている奉公人です」
と、ヴァリニャーノは率直に、奴隷だった彼を買った(賃金で雇った)と述べた。
「頑丈な身体で働き者のように見えるが、どうにも肌の色の黒さが気になる。風呂に入って洗っても落ちないのか。家来の中にも連日の夏の陽射しを浴びると、誰よりも極端に漆黒の肌色になる者がいる。だがあれ程に黒くはならず、皮が剥けると元に戻る。相当の力持ちと見えて、重い荷物を軽々と持ち上げる。相撲をとらせたら余の回りは愚か、国の内に勝てる者はまず居まい」
と、信長が彼を近くに座らせて、繁々と身体つきと肌の色を品定めしていた。彼には差別の気持ちは更々無く、目新しいものへの新奇の目と特殊能力に興味を向ける天真爛漫の態度があるようだ。
献上品の大部分を吟味の上で突っ返した彼が殊の外にこの黒人の譲渡を所望した。
ヴァリニャーノ師は、一も二もなく献上することに同意した。それでも「名を何と言うか」と聞かれて、ロレンソ了斎が「本人が、日本へ行ったらヤースケと名乗れ、と言われていたらしいのです」と言い出したので、弥助の記憶力の良さに感心して、少しく損をしたようで惜しいようにも思われた。信長への献上品は、皮肉にも精緻な器械や高価な財貨ではなく、ビロードを貼った椅子と金平糖やワインなどの嗜好品だけだったが、後々「黒人侍」として特別待遇され、優遇される弥助が加わった。因みにイタリア人のヴァリニャーノ師には、バスク人のザビエル程には肌の色に差別を感じることは少なかったが、逆に黒人を奴隷にする抵抗感は薄かったようである。
「急ぎ貴殿らに見えることにしたは、翌々日の卯月の朔日、内裏で催す、3回目の『御馬揃え』に伴天連らが列席出来るかを伺いたかったからだ。正親町天皇の臨席もあり、貴公ら天竺からの使節が居れば大いに人目を惹くからで、さすれば国内外に向けて格別の威光を示すことが出来る。是非とも参列されたい」
「誠にかたじけないことで御座候。万難を排して御招待に応え、列席致したい。4月1日の早朝には必ずや御所へ参上仕りまする」
と、ロレンソ了斎が返答して、極上で絶好の機会に巡り合えたことを述べると、フロイスがヴァリニャーノ師に満面の笑みで説明して信長に即座に快諾を通訳した。
実は信長にはこの御馬揃えに遠謀深慮の狙いが込められていた。言うなれば現代において各国で行われる軍隊のパレードと閲兵式に相当するもので、信長の家臣団が騎馬隊を中心に家来たちを引率して行列し馬を走らせる″祭り″である。同年正月の左義長に併せて開催され、1か月後にも再度行われたが、信長の思うような結果を出せないでいた。信長は正親町天皇を己の庇護下に置き、諸国大名を従属させるためにこの御馬揃え行列を催したのである。彼の力が荒廃した京都に平安をもたらし、旧弊権力に過ぎない皇族と公家を素直に追随させたが、未だ天下布武に従わない勢力があった。上杉、伊達、北条、毛利、島津らの遠方の将である。彼らに対する宣戦布告でもあり、震え上がらせておいてから攻め入れば、少しでも戦力を倹約できるだろうと考えていた。
1581年4月1日、当日は少し肌寒かったが、前の2度のような極寒ではなく、天にも突き抜けるような晴天の日だった。正親町天皇の一団の中に座ると考えていたのは、宣教師らのとんだ見当違いだった。不思議なことに、かの高貴人は遥か遠くにポツンと座らせられて、馬の暴走の危険から守る為との名目で数人の武士に囲まれている。正面の参列者席には色々に派手な戦装束をまとった軍の差配者、京や五畿内の有名で重立った招待者が、行列を今や遅しと待っていた。その真只中に弥助の翳している日傘の下で信長が、畳床几に腰掛けていて、その直ぐ隣りに宣教師たちが並んで座ることになった。
信長は、謁見した時よりも更に上機嫌だった。そしてヴァリニャーノ師らが片時も退屈しないように、その顔色を覗いつつ、
「この騎上の武士は家臣の中でも馬遣いの巧みな柴田勝家である」
「戦場では横隊で進む故迫力はこんなもんじゃない」
「これが息子の信雄だが乗馬はあまり得意ではない」
「今少し広い場所であるなら、鉄砲隊の三段連射も披瀝したいものだ」
などと、ひっきりなしにフロイスに通訳させた。
それでも日本風の独特な言い回しは、ロレンソ修道士の言葉に頼るしかなかった。城中での普段の信長は、ロレンソ了斎の語りをとても好んでいたし、フロイスが話すヨーロッパの様々事を異国情緒を感じながら心地よく聴いてもいた。さもありなんである。一方は流暢な琵琶語りだったし、片方はたどたどしい日本語の南蛮口混じりの異国風が目新しかった。
数多の騎馬の荘厳なる隊列が延々と続き、時折戦場常在のように一気に駆け出し、観客の度肝を抜いた。あたかもそこで騎馬勢が攻め込んでくるような、現実感を持たせることに成功していた。万を超す軍勢を目の当たりにする数万の群衆のため息は、それはそれは殊更なものだった。宣教師たちには威勢を顕し威嚇する騎馬上の兵士たちよりも、それを見物しながら慄いたり賞賛したりしている民衆の表情に関心を注いでいた。
2時間は過ぎただろうか。気が付くと信長は弥助と共にその席を空にしていた。騎馬の隊列が途切れて静けさが戻ってから間もなくのこと、歩兵の一群がぞろぞろと繰り出してきて、再び賑やかさが戻った。歩兵の隊列の最後には「神輿」を担ぐ祭りの集団が続いていた。神輿かと見えたが、相撲取りの屈強な男数人が畳二枚を設えた輿を担いでいて、その上に巡察師が献上した、洋風で品のあるビロード貼りの紫檀製の椅子が、注連縄で固定されていた。献上の椅子を見て演出を考えたのか、数々の趣向の引き出しの中から選んだのか知らないが、献上したのはつい一昨日のことである。その椅子の上に信長が腰掛けていて、弥助が相撲取りの恰好をして日傘をかかげていた。
信長の出立ちは戦争の兜と鎧の姿ではなく、派手な狩衣を着て濃赤色のビロードの陣羽織を纏い、孔雀の羽根をあしらった狩り用の南蛮帽子を被っている。フロイスが献上した品々だろう。椅子に貼られたビロードの濃赤色に合わせたのだろうか、濃い赤い色は脈々と流れる血飛沫を表わしている。即ち人間のリビドーを掻き立てる色である。何とも衆目を集める絢爛豪華で見事な演出である。それもこれも信長の発想であり自ら指示して作らせたと聞かせられて、はたまた驚くしかなかった。
ヴァリニャーノは、信長の心中にある本音を察知することは出来なかったが、上辺で推し量る限り、イエズス会とカトリック教界にとって、諸手を挙げて賛意を表せる程の友好的なものだと思った。それほどに至れり尽くせりの歓待を受けた。仏僧たちが羨み妬んで、悪意のある攻撃を仕掛けられないかと危惧するぐらいだった。御馬揃えの数多の観衆が集まっているのを見、更に南蛮寺の順調な発展にも勇気付けられ、巡察師は日本の首都である京にも将来に向けて修行住院と神学大学を建設しようと考えた。
「今回の馬揃えは大成功したと思う。群衆も正月の3倍は居たし、皇族や公家衆も全嫡流が揃っていた。毛利攻めに遣わしている秀吉は来なかったが、5万を超える余の軍団が意気揚々と参加したことで、天下布武が順調に進んでいると示せた」
と、すっかり家臣らしくなった弥助を従えて、信長は満面の笑みだった。
「お目出とう御座いまする」
「首尾上々で御座います」
と、フロイスとロレンソが口々に祝いの言葉を述べた。
慌ててヴァリニャーノも「フェリチダツィオーニ」と声をあげた。
「身共は今から安土に向かい、当分の間は城下の整備に心を砕く積もりだ。ついては巡察師殿に安土の町も見せたい。京での用事が済んだら、必ずや安土に参られたい」
「有難き事この上も御座いません。復活節の第三主日を安土で迎えたいので、その前日の4月14日に信長殿に謁見申し上げたく存じます」
「左様か。安土城も見せたいし、余も安土の神学校を見たいと思うておる」
と、信長との関係では、全て彼の意向に従うに敷くはない、と決めている手前、巡察師は即決で同意の言葉を伝えた。
巡察師は直ぐにでも信長の後を追いたい心境だったが、復活節第二主日の祈りを京の南蛮寺で行う予定を反故にする訳にはいかなかった。荒廃から立ち直りつつある京の再生と御馬揃えの数多の民衆を見たからには、真っ先に布教体制に梃子入れして、新任のパードレを力づけたかった。オルガンティーノを安土に、フロイスを越前に、ロレンソを丹波に派遣する心積もりだったので、京の布教に渋滞が生じないかと気になっていて、どうしても新米の司祭を置くしかない現状を憂いた。勿論デウスへの忠実において無比のロレンソ了斎修道士を暫く京に残せば、新顔の司祭を短期間に日本に慣れさせることはできる。京は日本66州の首都である。そこにレジデンシア、セミナリオ、コレジオなどを統括する最高学府を設置しなければならない。とどのつまり巡察師の頭の中には、日本人自らの手で自国の教界を運営、維持させることの方がずっと有効であるとの判断があって、信者つまり改宗者を拡大することと並行して、ヨーロッパからの移入ではない、自前の司祭の育成こそ急務である。それも首都発信の形で啓蒙するのが絶好である。それが中期目標におけるただ一つの重要課題だった。
14日に安土の町に着くと、オルガンティーノら司祭とセミナリオ建設を準備する人たちが出迎えた。20人近くの入学予定の生徒もその場に揃っていた。後に少年使節主席となる伊東マンショ祐益の兄である祐勝少年が、その中に居たことを後に巡察師が思い出すという出会いがあった。豊後の領主大友宗麟の縁者がいると聞かされたからで、その時はヨーロッパへ使節を派遣する考えなど微塵もなく、当の本人でさえ微に入り細に入り聞き及ぶことも無かった。
御馬揃えの後、専ら安土城に住まいを構えていた信長が、ヴァリニャーノ到着の報せをうけると、城門を飛び出て、300メートルほど下った所にあるセミナリオにおっとり刀でやって来た。ロレンソの説明では、越前に赴くルイス・フロイスが居なくなると、領地運営の手法や農業技術の科学的対処法などで、彼による助言を聞けなくなる不安の日々が続いていた、という。信長の率直な気持ちを知らされて、フロイスの越前派遣決定を撤回することも一瞬頭を過った。巡察師としての自分の判断を少し後悔した。以前にフロイスが話してくれた「時に御身らに対する反対者の陰謀が大きく、その許で頻繁に偽証する者があるが、余は伴天連たちの行状を承知しており、その教えが善良で真実であることをわきまえているので、余が生存中は何びとの嫌がらせも妨害も御身らは受けはしないであろうし、自領内でデウスの教えを説き、教会を建築することを保証する」の信長の決まり文句は、嘘偽りのない胸中から出たものだと改めて思い知らされた。フロイスよりずっと年下の自分に替わりが務まるか気掛かりだったが、当分の間安土を拠点とすることで、信長のご機嫌伺いを継続することにした。安土を出発点として京や摂津へは勿論、越前、丹波も含めて、尾張や美濃へも人を派遣し、週毎に情報還流を義務付けた。オルガンティーノ神父をセミナリオ学校長に配して数か月、それが板に付いた頃、高槻の右近の家臣の子弟も加わってセミナリオの生徒も30名近くになっていた。忙しい中でもヴァリニャーノも2つの教科を担当した。
ヴァリニャーノを呼びつけた上で、1階の畳の間で茶を点てさせ、
「身共は安土の城下に市にも座にも何の障碍も加えない、気ままな暮らしの出来る1大城下町都市を築きたいと思っておる。オイロパの自由都市とやらにも負けぬものをな。だからその内部の成り立ちや人々の様子などを詳しく聞きたいと考えておる。京へつなぐ道路も並木も路幅も見事に出来上がっておるぞよ」
と、切り出した。信長の表情からヴァリニャーノは、並々ならぬ意気込みを感じた。
「我が国、66州が戦国の混乱に晒されているのは、偏に権威と実権が分立していることにある。各州にある領地を守護が管理し、天皇にその租を上納させる。しかしその租が公の普請などに費やされず、貴族諸侯への賂で消滅している。守護もまた大尽気取りで武力のみに頼り仁政を敷こうとしない。これでは諸州を跨ぐ大きな治政は出来る筈がない。守護を廃し単一の実権を築くべきで『天下布武』の意義ありと考える」
「信長殿の意向に沿うとすれば、ポルトガル、スペインの政体が一番ふさわしいと思われます。単独権力の王が税を集め、国内の治水、道路などの大事業や領地間の問題の調整に当たっているからです。権威については、どの国もキリスト教が国教で、バチカンのローマ教皇が負っていて、その2国は二重権力下にはありません。教皇庁のあるイタリアではちょっと事情が違い、統一政権は見られず、ベネツィアやフィレンツィエなど小さな共和都市国家が自由に成立しています。相互に平和裡に共存しているのです」
「我が国は地震や台風など自然災害が多いので、堺などの街の賑わいは一時、一所には成立しても66州各地では望めない。ポルトガルやスペインの政体が適当かと思う」
と信長の慨嘆は止め処がない。
「政体の課題の他にも暦の混乱がある。太陰太陽暦は時代に合わない。太陽が一周する一年の間に、月の満ち欠けは12回に11日余る。3年の間に1か月のずれが出て閏月を入れているが、季節の進み方と合わないから農事の段取りに使えない。特に太陽と月の軌道が重なっていて、日食や月食が定期的に出現しているのに、予測することさえ出来ないでいる。支那伝来の宣明暦を弄って伊勢暦が流布しているが、関東で通用している三島暦の方がまだ増しで日食、月食も結構言い当てているのじゃ。余が天下布武を成した暁には三島暦を使うぞ」
「オイロパでは太陽暦のユリウス暦を使っています。4年に1日の閏日を入れるだけで季節とのズレは全く感じられません。それでもユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の制定から1500年近く経ち、10日以上のずれが生じていて、現在のグレゴリオ13世教皇は太陽の運行と完全なる一致を目指して、グレゴリオ暦の制定に動かれているそうです」
「左様か。それ程に正確な暦を作ろうとするとは、オイロパの教皇庁の権威はますます盛んになるだろうぞ」
と、信長は何か妙案を思い浮かべたようだが、暫し言葉を失ったままで、室内を見渡した。神父たちには似つかわしくない茶室に、日本文化に溶け込む心積もりを健気に感じ、
「今少し謂れのある茶道具を揃えてやろうぞ」
と、言って重い腰をあげた。
5 ヴァリニャーノの大失敗
1575年5月の長篠の戦いで、日本史上最強の騎馬軍団が、3000丁を超える鉄砲歩兵の時差式三連射方式の前に、敢え無く討ち死にとなった。信長が家康と同盟を結んで「甲斐の虎」武田信玄の遺志を継いだ、勝頼との戦いに勝利して、東方の憂いを取り除いたのである。これで天下布武は西方支配の帰趨のみが左右することとなり、信長が本格的に安土に自由都市を築き始めた。東方平定で東海道を均したことで、日本海に沿う北陸道の上杉謙信への睨みと京へ駆け付ける最寄りにあり、琵琶湖の水運も利用できることから安土山に白羽の矢を立てたのである。ヴァリニャーノ師が安土に信長を訪ねた頃には、謙信も入滅していて北陸方面も平穏となり、本願寺光佐との講和で摂津も掌中に収めて五畿内の難題もクリアし、丹波は明智光秀の調略が功を奏しそこを領地として与え、いよいよ本格的に西方の毛利輝元の制圧にけりをつけるだけとなった。ほぼ天下布武の八割方成就した状況下にあった。
大友宗麟や大村純忠、有馬晴信のように貿易や現世利益を求めてキリスト教に近づいた領主たちと違い、信長の場合、領国支配の軍力や財政についての内憂は極めて少ない。だからキリストの教えに深入りはしないし、ましてや改宗に興味さえ示すことがなかった。それでもヴァリニャーノが京や摂津の用を足して安土に戻り、セミナリオの教壇に立っていると聞くと、判を押したように昼時に教会にやって来た。生徒たちの最後尾の椅子に腰掛けて説教に聞き入ったり、昼餉の後の讃美歌や楽器演奏を物珍し気に聴いたり、ヴァリニャーノとの対話で得心が行くと、心の落ち着きを得て徐に城へ戻っていった。
梅雨も明け、暑さが肌を汗ばませる季節となった月曜日の午前中、久し振りにヴァリニャーノ師はセミナリオの教壇に立っていた。ひと月近く岐阜や尾張、越前を巡察して帰ったばかりだった。特に謀反した荒木村重との戦いで信長の逆鱗に触れ、越前の柴田勝家の囲い者となっている高山ダリオ友照とそこへ赴任したフロイスの様子を窺って還ったところだった。相変わらずダリオは信仰に熱心で、フロイス師の布教も順調に進んでおり、快く思いつつ帰ったばかりだった。あと少し九州、下の状況を視察し終えた暁には、巡察師の日本での大体の仕事を果たすことになる。一連の日本管区独立の使命を完遂し、安心してイエズス会アジア管区巡察の旅を終え、ゴアのアジア管区統括本部も後にして、その結果報告のためにヨーロッパの総本部へ戻ることが出来る。そのように考えると心から安堵し、胸を撫で下ろしていた。
その日の昼には早速、安土城に参内して暇を告げるために信長に謁見を願った。信長が安土城下のセミナリオに日参し、キリスト教に対する手厚い援助をしてくれていることに重々の感謝を述べ、早番、インド、ヨーロッパへ戻るについて、外交のための親書を得たかったこともある。
「信長様、五畿内、摂津、岐阜の宣教師の配置替えやセミナリオ、教会の建設などの粗方の手配が無事終了しましたので一旦下へ戻り、できればリスボン、ローマへ戻って、東方の布教に関する報告と今後の体制作りを致したいと考えております」
と、挨拶を交わしたが、
「まだまだ貴公らに聞きたいことがあるぞよ」
との言葉を皮切りに信長の矢継ぎ早の質問に戸惑ってしまった。
「余は今までフロイスからいろいろと教示を願っていたが、彼が越前に赴任した今となっては、オイロパのことを詳らかに聞かせてくれる者が居なくて困る。オルガンティーノもセミナリオに掛かりっきりで中々話し相手となってくれぬ」
とのことで、信長が希望したのは傍付きの助言者だった。
酒も遣らず睡眠時間も短く、何事にも興味を示し理屈好きで合理的に考え、聡明な信長は時間をかけても徹底的に極めることを本分とした。フロイス神父から常々聞かされていたことだが、出会いの最初は商いに関する質問が多く、市場や店屋街の設置と商品の量と質の確保に執心した。自由な気風を醸成することで商う物の流通を円滑にし、何人にも幾らかの利があれば繁栄に繋がることを理解した。加えて金貨、銀貨や鐚銭に至るまで重さも形状も質感も同規格できちんと管理し、流通量をたっぷりにすることが肝要との結論に落ち着いた。物の値段を高騰、下落させないためである。やがて治水や運送用具や農業器具などに関心が移り、施政術が質問の中心だったらしい。安土に城下町を築いてからは、街づくりを基本に考えて、キリスト教も含めて宗教や民俗文化の内実で民心の安寧を図ることで話が落ち着いたという。
フロイスが信長と緊密な間柄になり得たのは、ヨーロッパの諸事情や基本である科学技術や文化の片鱗を懇ろに披瀝したことが彼の一助となったからである。どうもフロイスがお伽衆に加わっていた頃が信長にとって一番順風の時だったのかも知れない。フロイスを信長から離れさせると彼の思考が偏り出すかも知れない。ここは一旦フロイスを安土に戻すことも頭を過ったが、ゴアの印度管区巡察師であるヴァリニャーノ神父が、イエズス会メルキュリアン総長の指令に背くことは出来ない。フロイスを早々に引退させ「日本布教史」を記録させるようにとの厳命が出ているからだ。
この指令に抗し得ないことを深刻に考え、ヴァリニャーノ師自らも当分、ひと月ぐらいのゆとりがあったので、出来る限りの範囲内で、自らお伽衆の仲間入りをすることにした。そのように提示すると、信長は穏やかで安心しきった表情を見せた。かくして週に2、3度ほど安土城の天守に参内することを約束した。
「余が地球は丸く、南蛮がその裏側にあることを理解するのは簡単なことだった。べた凪の日に琵琶湖の対岸の葦並みを見れば分かる。水面すれすれで見るとそれが隠れるからである。更に月や太陽が丸いのは明らかであり、一見不可思議なことではあるが、沢山の星も含めて大空に浮かんでいる。月から眺めれば必ずや地球も丸く見えて、天空に浮遊していることだろう。これを知って以来、余は神の存在を受け容れるに至った。絶妙なる調和が大きな天空を支配する法則を司っている」
と、地球儀をぐるぐる回しながら、信長は明晰なる知恵を覗かせた。
「だがな、人の霊魂という代物を説明する段になると、貴公らは真実しやかにその存在を言うが、皆目見当もつかない。それに死後の世界などを説かれても一かけらの影さえも見出せぬ。あの世とやらを見て還った者など一人たりとも居ないからである。浄土教の信者らも極楽や地獄などと口にするが、お主らも天国と地獄と全く同じことを言い出すから地球の表側も裏側も五十歩百歩である」
このように神への畏敬、霊魂の不滅、福音の甘受などキリスト教の真髄が理解できない信長に改宗は望めそうもなかった。それでも彼は仏僧らが現世利益ばかりを追い求め、僧兵を雇ってまで布武に歯向かう姿勢に辟易としていた。その告白は赤裸々で実に慚愧の念に堪えない様子だった。命懸けでしかも無償の布教を心掛けるイエズス会には、一目も二目も置いてくれていた。巡察師は彼と一定の距離を保ちながらも、絶対に突き放すような態度はとらず、胸襟を開き心情を深く慮り懇切丁寧に接することにした。
そんなある日のことである。
「信長殿、私は日本の人々はオイロパのどの国の民よりも利発で思考力があり、識見に秀でていて愛情溢れる心は優しく、その手は器用で清潔好きで進取で教養ある民族だと存ずる。誰の目にも相当高い文化水準にあると考えます」
と率直に日本人に対する崇敬の念を述べた上で、
「ただ科学的考え方や物質的豊富さが足りず、多様性が必要でもっと沢山の品物を取り入れるべきだと考えます。その解決にはますますの交易とオイロパとの交流を促すことが大事であると思います。1つには子弟に対する教育の充実、2つには印刷技術の導入での啓蒙、3つには貧困や病気に対する療育、などに集力すべきだと思います」
と続けると、
「その昔、支那の国へ遣隋使や遣唐使を派遣した朝廷は、律令政治や仏教教義や市街計画などの手法移入を成し遂げて集権支配を確かなものとした。八百数十年後の今までその権威が続いている。身共は近々日本国66州を平定する。その時は南蛮諸国が、日本国を対等国として処遇することを望んでいる。その後、遣欧使を派遣して日本新支配の礎の参考にしたいと考えておる。ついては印度の提督からの口添えを願いたい。印度との関係が糸口となるからである。何なら水際封鎖で海外交易を拒み、鎖国状態にある明を力ずくで開放させるのも一興である。海上航路よりも地上交通の方が時短になり、殊の外安全でもあるからである。今の明や李氏朝鮮は海賊に過ぎない倭寇に怯えて、海禁策即ち鎖国政策を採っている。腕づくでも開国させねばならない。それはお主らイエズス会にとっても幸いをもたらすだろう。中国へのキリシタン布教を容易にするからである」
と信長が布武後の外交方針を明らかにした。その提言が歓談の中での言質だったので、ヴァリニャーノは仔細を質さずに聞き流してしまった。
「信長殿は、治政に科学技術や合理思考を大胆に持ち込むなど先進的である。仏教に対しては、僧侶たちが本分を忘れ、既得権益を守り自益ばかりを欲深く追求していると非難されている。キリスト教への興味と理解は誰にも勝っておられるが、洗礼についてはおくびにも出されぬ。科学や合理の思考が優り、精神上の神秘なものを受け付けられないのだろう。当分の間、キリスト教への改宗などは持ち出せないと考える」
とは、ルイス・フロイスがヴァリニャーノに語った信長改宗不可能の判断だった。
岐阜と関東への宣教師の派遣などが彼の最後の雑務だったが、6月も終わりの頃にそれを処理し終えると時間にゆとりが出来、将来の見通しを考える余裕が出た。沈思黙考の末に信長の思いを遂げさせる方法を考えた。初めは漠然と大陸の極西と極東の政治や経済の交流関係を深めるため、信長の使節をポルトガルへ派遣することを考えたが、これはイエズス会の仕事ではない。やはりここは高山右近の家臣や大友宗麟、大村純忠、有馬晴信などのキリシタン大名の側近らを派遣するしかない。欧州諸国と比肩できる信徒数や国是の定まった国家は、ポルトガルの築いたインド東方ルートにおいては日本を差し置いては存在しない。宗教を通じてこの東西の提携を目指し、その一環で日本国王信長とポルトガル王との親書交換を仕向ける。これが現時点でイエズス会が出来る最善の計画だった。
信長は、安土城下の目抜き通りの要衝の場所に教会の敷地を用意してくれた。城に通じるその地は、既に重立った家臣の邸があったが強制的に転居させ、屋根瓦には安土城天守と同じ青色の瓦を葺かせ、3階建ての洋館風の一際目立つ建物に仕上げさせた。1階には茶室や東西に長い身廊を通し、東端に祭壇とミサ儀式場、2階はセミナリオ専用の階で寺子屋風に座り机が並べられている。3階には住院を設けたが、50人は寄宿できた。建築資材の収集や人夫の調達や縄張りなどの設計は高山右近が担当したが、信長は350両もの資金を提供した。それ程にイエズス会に協力的なのに、キリスト教の教理を非科学と捉えて理解しようとしないことが、ヴァリニャーノ師には少しの不満ではあった。
7月に入りついに安土を発って日本を離れねばならないとを告げると、
「師がオイロパに還るにあたり手土産を持たせてやりたい。あくまでも日本の風習だで、もし品物が気に入らなければ断ってもいいのだぞ」
と、森蘭丸らが持ち込んだのは、日本独特の調度品である屏風だった。
確かに隋や唐との公式の交流での日本からの主な贈物は屏風で、花鳥風月、人物、風景画が多く描かれた。稀代の才能を持つ狩野永徳の技になる作品で、畳大の6枚に琵琶湖畔から安土山の城郭と城下町の全体図が金箔をふんだんに用いて豪華に描かれていた。元より日本文化に造詣を深めようと努めていたヴァリニャーノ師にとって、断ることなど考えもしなかったが、余りにも素晴らしい出来栄えだったので、ローマ教皇への献上品として最適だと思われた。しかも取り巻きの重立った家来たちが、これは特別な計らいで滅多にないことだと耳打ちするので、
「この屏風には何か特別で重大な隠された謂れでもあるのか」
と、怪訝な目でロレンソに通訳させると、明智や柴田や羽柴はじめ、正親町天皇が幾度も貰い受けたいと頼んでも、一切応じることはなかった品物だということだった。高槻でも堺でもその後に持ち帰る長崎でもこの『安土城と城下図屏風』の展示が恒例のようになった。
送別の宴を催した席で、信長が舞った幸若舞の『敦盛』の段である「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」にもヴァリニャーノ師は格段の興味を抱いた。酒を嗜まない信長が、場を盛り上げるのに何時も舞う演目である。滅多なことでは披露しない舞いであると聞いて、ロレンソが特別に丁重な持て成しであると説明すると、またまたヴァリニャーノ師は恐縮した。天下を取りつつある信長のイエズス会への厚遇が永遠に続くことをデウスに願った。そして物語の要旨を訊ねると、日本の古典に詳しいロレンソ修道士が、『敦盛』のそもそもの出典を説明した。
「平安末期の『平家物語』という軍記がその原本で、どちらかと言えば幼き武将の末期を描いた悲劇です。師が興味を抱かれるのは何故でしょうか」
「セミナリオの教材に日本の古典文学も加えたいと考えている。ヨーロッパでは座右本にイソップ物語なども一般的に使っている。決して聖書だけを学ぶものではない」
と、ヴァリニャーノ師は、日本人に印刷技術を習得させた後、まず手始めとして『平家物語』を出版させるのも妙案だと語った。
そろそろ安土を離れたいと告げた後も、教会のヴァリニャーノ師の許を、信長の配下が入れ代わり立ち代わり訪れ、退去日を無闇に延長させようとした。直截に言わないので、どうしてなのか理解に苦しんでいると、日本人の重要な行事である盂蘭盆会に併せて安土の街でも一大夜祭りを催すと信長の使者が知らせてくれて、やっとその意図を飲み込むことができた。京では盆の8月16日に大文字の送り火をするので、それに合わせて安土の城下でもその行事をしたいと言う。他ならぬ信長の用向きとあれば付き合うしかなかった。
その日がついにやって来た。いつもの年なら各家々の玄関先に松明を灯すのだが、信長はそれを禁止して漆黒の闇を作り出させた上で天守閣に明かりを煌々(こうこう)と焚かせ、安土城の周りをぐるりと篝火で囲ませた。安土城を浮かび上がらせた上で、セミナリオから城門までの道路両脇に松明を持たせた足軽衆を並ばせる。城下の人々たちも絶句する程にライトアップされた景色の中をヴァリニャーノ師を中心にオルガンティーノ司祭やロレンソ修道士、そしてセミナリオの少年たちがゆっくりと歩を進めた。「馬揃えの行列」の時と同様で、全て信長の絶妙の演出によるものだと家来衆が口々に絶賛した。
「巡察師殿、今宵の『送り火』は如何で御座ったかな。わが国では貴殿らが言う霊魂とやらが、お盆の時期におとずれると考えて、迎え火と送り火を焚く習慣がある。今宵が送り火を点して送り出す日なのである。貴殿を送り出すのに相応しい日かなと考えて、旅立ちを遅らせておった。誠に心苦しゅうやった」
と信長が謝ると、ヴァリニャーノ師は感激して、
「信長殿、貴方様の心の籠ったおもてなしに心から感謝いたします。家臣の皆さんが殿の我等への特別な気遣いを奇異に思われる程のとりなしに感激しております」
と、天守から城下の篝火と松明の群光を見下ろしながら別れを惜しみ、より一層の加護あらんことを申し述べて別離の挨拶とした。
ヴァリニャーノ師は、これが信長との今生の別れとなるなどと考えもしなかった。上機嫌この上ない表情の信長も、この時が絶頂期で、10か月後の翌年の6月21日(天正10年6月2日)に、第一位武将の明智光秀の叛逆によって志半ばのまま死を迎えることになる。先ず信長の頭の中では自らの運命を50年と定めていて、その年限が迫っていることに加え、未だ天下布武が成っていないことに可なりの不安と焦りがあった。加えて絶対権力を獲得しつつある中で、己の力に慢心を抱き始めており、いささかの驕りと不遜が芽生えていて、安土城下に總見寺という名の寺を建てる時に、自らを本尊として奉るように決めて、誕生日である5月12日を祝日として全国民が祝うように仕向けるなど尊大極まっていた。加えて老臣で家老の佐久間信盛を排してその配下の兵を明智光秀に預けたことが、粛清の切欠ではないかと光秀の疑念を生み出していた。
ここは今少し思慮深い相談役、あるいは真っ向から意見を披瀝できる宣教師を傍に置いておくべきだった。十数年もお伽衆のように仕えていたフロイス師か、彼に匹敵する見識ある司祭を安土に置くべきだった。ヴァリニャーノ師の日本キリスト教布教史上での大失敗である。翻って日本66州の現状を分析するに、戦国の世を終らせ持続する平和な時代を築くにはまだまだ時期尚早だったのかも知れない。
商工人や農民は、貴族政治の限界を克服し、商品経済と商業を中心とする楽市楽座の恩恵を受けてはいたものの、改革勢力となるにはまだまだ自立できていなかった。日本の未来を担う勢力は、やはり武士階級の中の新興勢力に依拠するしかなかった。秩序ある日々を送り組織的に動けるのは、農民階級から抜け出て、足軽鉄砲隊などに組み入れられた下層武士階級だった。給人傭兵を規律正しく組織し、統治する能力を教育を通して育成する必要があった。下級武士を官僚予備軍として育成できるか否かが、その時点での政治を改革する機運を高めるための帰趨を握っていた。
信長が切り拓いた地平はその端緒を築きはしたが未だに安定していなかった。領地体制を維持する旧態依然とした武士階級が、信長の築いた権力を簒奪することになる素地が残っていたのである。
6 ヴァリニャーノ発案の少年遣欧使節
ヴァリニャーノ師が安土を発ち、高槻、三箇、堺を経て9月中旬に瀬戸内海を渡る船に乗った。先に京へ上るのに海賊の脅威に晒されたのに懲りていたヴァリニャーノ師は、帰路は堺から四国の南岸を辿りながら進む航路を選んだ。何よりも貴重な狩野永徳の作になる『安土城と城下図屏風』をローマ教皇に届けなければならない。そう易々と海賊の餌食になる訳には行かない。完璧に安全な航路をとった。土佐沖を廻り豊後水道を過って府内に着くと、残っていた作業に取り掛かった。ようほう軒パウロ修道士が務めるセミナリオ校長の協力を仰いで在日布教会員の規範書「日本の風習と形儀に関する注意と助言」を完成させ、現地適応主義の本義を説いた。その仕事にほぼ10月の1か月をかけた後、日本副管区組織を完成させるために長崎に赴いた。この時も博多の政情不安を鑑みて薩摩の大隅半島を廻り天草島を伝って迂回するルートを辿った。
長崎に着くとヴァリニャーノ師は、直ぐに日本教区の組織完成のために、畿内、府内、肥前(下)の3布教区に分けた各々(それぞれ)にセミナリオ、コレジオ、ノビシャドを置き、日本人司祭の育成を展望した。都、豊後の布教区での初会合を開き終えていたから、残った最後のシモ布教区での会議を催し、その任務を終えた。時すでに1582年1月になっていた。
前教区長カブラル神父の日本人蔑視観に基づく体制を破棄し、30年前のザビエル神父からのイエズス会の初心である「適応主義」に立ち返った布教体制の確立を図り、日本人司祭の育成に向けて動き出した。これで日本巡察の任務を終えてヴァリニャーノ師はほっと息をついたが、2月半ばに吹き始まる北風に乗って、マカオへ向けて長崎を旅立つ船は、すでに積み荷作業を始めていて出航に備えている。『安土城と安土城下図』六曲屏風やインド提督、スペイン、ローマへの献上物の品々の梱包を船員らに命ずると、離日の準備が一段落したと判断し、ゴアへの一行揃って口之津へ船で向かった。
豊後、都の様々な文物の整理は済ませていたが、下(有馬、大村などの肥前)には未だ気になる残務があった。最新の布教状況報告に書き足したかったので、取り敢えずは有馬のセミナリオとノビシャドへ向かうことにした。来日の時に持参した巡察師の行程予定表や事前調査録や大量の日本に関する書類を持ち帰るためでもあった。
口之津港から海岸沿いにヴァリニャーノ師一行は、有明海を右に臨み、普賢岳を左に見上げる、陸稲田と蜜柑畑の広がる往還を進んだ。大潮の日なのか、海がゆっくりと高来の有明湾内に向けて流れているのが分かる。ヴァリニャーノ師にとっては、2年半前に初めての日本上陸直後に歩んだ道である。欧州では見慣れない珍しい風景だったが、何故か母国イタリアのペスカーラ港からキエティに向かう風景を思い浮かべていた。差し詰め有明海がアドリア海、蜜柑畑は果てしなく広がるブドウ畑と入れ替わっているが。
東の最果ての異国での不安と疑心が幾分和らぎ、沸いてきた希望に胸が弾んだ記憶が蘇った。あの時は夏の陽射しの中だったが、今は冬であり幾分寒さは感じるが、任務を成し遂げた充実感から得も言えぬ安らかな気持ちに包まれていた。神の御心に深く感謝しながらゆっくりと歩んだ。
雲仙岳の麓に連なる小さな丘を背にセミナリヨは建っていた。30人ほどの生徒に教師が5人常駐していた。もっとも入れ代わり立ち代わり教壇に立つので、2人で生徒たちの質問に答えたり自らの考えを教示したりしている。こっそりと小屋の中の様子を覗き見てヴァリニャーノは驚きを隠せなかった。子どもたちのラテン語の上達が目覚ましかったからである。ほんの1年余り留守にしただけなのに、ぎこちなくはあるがしっかりと聞き取れる。流石日本人の子どもたちだ。学問に対する素養が備わっている。武士階級の子弟であるから、ある程度は値引きはしなければならないが、ヴァリニャーノはついついヨーロッパの騎士の子供たちを思い浮かべてしまう。彼らは自らの文化水準を慢じて語る程には、その知識量や理解力の程度は知れている。日々の学習にかける執念や努力や勤勉さにおいては、殊の外日本人に適う民族などない、それが実情だろう。誠実で質素で勤勉であるかどうかが両者を分ける質である。多分それは地震や自然災害の多さから身を守る術を不断に追い求めて備わった国民性だと思われた。老若男女押し並べて然りである。
現代なら小学校卒業の年に当たる、若干13歳位の子どもたちの意気盛んな学習の様子を漫然と見渡しながら、今後の展望に思いを馳せた。当然のことながら日本布教区の未来図を想像したのである。ここに集う子どもたちが、十数年後にイエズス会アジア副管区日本教区の中枢を担う人材に育ち、溌溂と動き回る姿が瞼に浮かんだ。聖堂の中で日本人たちに洗礼を授け、聖歌を歌い、説教を語り、告解を聞いている。勿論全て日本語で進められ、礼拝に集う日本人数十人が日本語で印刷された聖書を紐解き、日本語に訳された讃美歌を合唱する。そんな夢みたいな光景が、ザビエル師が日本に上陸して30年後の今から、またぞろ30年後の新世紀の17世紀には現出されねばならない。そこでは当たり前のように純粋に日本人のみのキリスト教団が出来ている筈である。
「巡察師様、何か考え事をされてますか」
と、ゴアのボン・ジェズ教会から一緒に同行してきた修道士が不思議そうに訊ねた。それ程にぼんやりと、失念している師を見たことが無かったからである。彼は長崎の教会堂に残って司祭になる修行をすることになっている。
「いや、別段の事ではない。この子たちをヨーロッパへ連れて行ったら、どれ程喜ぶかと想像していたのだ」
「喜ぶというより仰天して絶句するでしょう。良し悪しは別として、文化の違いが一目瞭然だからです。私たちが日本に来て、見た景色に対する感覚と真反対の想いが沸くでしょう。でも往復の航海に幾多の危険と長い年月がかかります。とても耐えられないと思います。可哀相ですよ」
「かも知れない。それでもイエズス会初代会長のロヨラ師が、教義習得 ― 霊操鍛錬 ― 聖地巡礼へと体系付けられ、最終章にエルサレムへの巡礼を提唱された。ヨーロッパへの紀行は少年たちにとって得難い体験になるのでは、と考えているのだ」
「子息たちの親を説得することが難しいような気がいたします」
「それが大きな壁かも知れないなあ」
一瞬ためらいの表情を見せたが、ヴァリアーノ師はいろいろな問題を解決すれば、十分に可能であるとの目算を立て始めていた。信長との会話の中でのヒントから成人改宗者を遣欧使節とする(遣隋使や遣唐使のように派遣する)ことも考えたが、九州はともかくとして摂津高槻の高山右近や堺の小西行長など都教区の大名たちは政治や雑務に追われている上、何時領地が合戦の場になるかも知れない。派遣などとても考えられなかった。改宗に関心のある信長の3男信孝も新しい領地が予定され、赴任の準備が進められていて、信長に提案するどころか、億尾にも出せなかった。
それに加えてヴァリニャーノ師の心の中には、大きな不安と消せない危惧があった。大人の改宗者たちだとヨーロッパで見聞する様々な体験を理解するのは容易だが、その奥にある薄汚い悪習や謀略的側面に眉を顰めることは明らかだ。宗教改革派からの誹謗中傷も悩みの種だったが、実の所カトリック教会内でのイエズス会は新参者でしかない。遡ること300年以上、13世紀初頭に活動を始めたアッシジのフランシスコ会やトマス・アクィナスのドミニコ会、その数十年後のアウグスティノ会などが老練なる安定組織を誇っていた。そのカトリック他派も海外布教に比重をかけ始め、1534年にモンマルトルの丘で誓いを立て、エンリケ航海王子の庇護を得て、東方ルートに漕ぎ出して50年に満たないイエズス会は尻の青い鼻つまみ物位に蔑まれている。マカオまでは良いが、ゴアからリスボン、ローマへと向かうに連れて派流の違いから不協和音の類が激しくなる。老舗の宣教師たちとの宗派の違いによる見境のない争いをするのは、日本の仏僧らと何の変わりがないと失望するだろう。それ故にセミナリヨの子どもたちならば、何とか裏事情に搔き回されずに済むと思い至った。
遣欧使節の選考基準は、セミナリヨの最少年齢で、将来の司祭候補、これが最も重要だが、キリシタン大名に縁のある者を対象とした。その表向きの体裁はあくまでキリシタン大名が派遣する使節としたかったからである。どちらかと言うと有馬も大村も、領地支配に南蛮貿易の受益を当てにしての改宗ではあったが、領内の改宗者の数が甚だ多かった。領主の率先しての改宗に従った大村は6、7万を数え、ヴァリニャーノ師の勧めで洗礼を受けたばかりの有馬では、既にキリシタン大名となっていた先代から受け継いだ者も含め2、3万人ものキリシタンを抱えていた。大友氏の豊後府内でも1万人近い信者がいて、日本国内の3教区の中でも九州地区のキリスト者の数は、この3領だけが突出していた。三候以外の五畿内や安土、岐阜、三河など残りの信者数は孤立信者などを加えて、どんなに多めに見積もったとしても1万人には満たなかっただろう。九州三候の使節として派遣されるべき根拠である。
まず頭に浮かんだのは、ザビエル在日中からキリスト教旨に随って改宗を考えていた大友宗麟の親戚筋を探ることだった。安土のセミナリオで名簿を見ていて、そこで見付けた伊東祐勝が、大友宗麟の妹が嫁いだ先、日向国綾城領主の伊東氏の直系だったことを思い出した。有馬のセミナリヨにも伊東マンショ祐益という名の生徒を発見し、滅多にない奇遇にヴァリニャーノ師は飛び上がるほどに心躍った。1577年に島津氏の侵攻で日向を追われた伊東氏が親戚筋の大友宗麟を頼って豊後府内に身を寄せた。その領地を奪還せんと臨んだ耳川の戦いで大友氏が敗れ、伊東氏は完全に領地を失った。
その折孤児同然となり洗礼を受けて有馬のセミナリヨに来たのが、大友宗麟の名代に相応しい伊東マンショ祐益である。兄の祐勝は直系の血筋で伊東一族の配置替えに伴なって五畿内に移っていたが、祐益はその傍系が預かったので豊後府内に残され、有馬のセミナリヨに住み込んでいた。出航の差し迫った今となっては五畿内、安土に戻って兄を説得する時間的余裕はない。船はもう直ぐ吹き始める北風を帆に孕んで出航せんとしている。豊後府内に赴いて宗麟と口合わせする時間すらない状況だ。大友氏の名代こそ筆頭遣欧使節とすべきだから、ここは已むを得ぬことと考えて、伊東という姓だけに執着してマンショ祐益を大友屋形の代理として使節代表とすることに決めた。
次いで有馬晴信が派遣する少年の検討を試みると、30人に満たない神学生の中に正に有馬晴信の実の従弟がいた。晴信の父で今は亡き先代義貞の3番目の弟である淡路守千々石直員の子息、ミゲル紀員である。義貞の次弟は大村純忠であり大村領の屋形である。有馬氏を継いだ晴信とは2歳年下の正真正銘の従弟である。彼の父、千々石直員は有馬氏の譜代として島原半島の領地を守るために、雲仙普賢岳の中腹に釜蓋城を築いた。そこを根城に龍造寺氏と戦い続けた。1569年に紀員をもうけた1か年後、龍造寺隆信との戦闘で敢え無く敗死した。その一粒胤である。義兄大和守直員も1577年に龍造寺氏との籠城戦で敗れ自刃していて、大村に逃れた時すでに母子家庭で一人っ子となっていた。当然であるが、親が兄弟の大村純忠とも直系の血縁となり、同じ血筋の実の甥っ子となることから有馬、大村両侯の名代を兼ねることも出来た。
イエズス会の創始者はバスク人のイグナチオ・デ・ロヨラであるが、根っからの騎士、軍人で、日本なら侍、武士だったが、傷痍軍人となり大学で神学を修めた後、カトリック正統の反宗教改革運動に身を投じた人である。宣教活動を推し進めるための現地闘争団の結成に際し、バラバラに出身地、境遇などを選んだ上で、3人の員数で協議し行動することを基本に据えていた。コミンテルンのパルチザンや中共の山村工作隊もこれを真似ているが、批判、反批判、調停の分担など色々の面から3が最少人数の隊員構成となる。キリスト誕生の折、彗星の落ちた所を目指して東方から「三賢者」が現れたとの聖書に因み、3領主の名代とすることが必要だった。この2人を正使とすることに決めたが、千々石ミゲルが2候を代表することで、伊東マンショと併せて初期の目的に足りてしまい、最少構成人数には1人足りなくなってしまう。
そこで3人目は、どちらかと言えば改宗者、入信者の多数いる大村領内の少年たちの中から選ぶことに決めた。分けてもミゲルと仲の良い、中浦ジュリアンが選び出された。彼に第3の白羽の矢が立てられた。数年前からのミゲルの友人で、大村領下であり純忠の三城城から湖のように波濤の高くない大村湾の対岸に位置する中浦郡の中浦城主の遺児である。義賊だが海賊として有名を馳せた小佐々一族の末裔で、国人領主故中浦甚五郎の唯1人の子息である。彼は伊東マンショと同様で天涯孤独である。承諾を得るのが難しそうな千々石ミゲル紀員の母、忍を納得させるのに幼少からの友と一緒だからと説明すれば、少しは安心させられると考えたのである。有馬の侯、領主晴信の従弟であることで、ミゲルを大村領主の直臣のように一段上に見て、常に着き従っている関係だった。そのことを忍は承知であり友人の彼に親愛の情を持っていた対していたからである。
ところが、ヴァリアーノ師が少年使節を計画していると聞き及んだ、有馬のセミナリヨの教育担任の司祭たちが、突然に推薦したい生徒の名を挙げた。30人近い生徒の中でも勉学に熱心で抜群に成績優秀であり、大村領波佐見郡在住の原マルチノである。大村純忠の重家臣である原中務の継嗣でもある。名代正使とするには血縁でないため無理だが、大村家とも姻戚関係にあることも良い条件だった。マルチノは特にラテン語と神学に秀でていて記憶力が良く、学友の中でも一番の年少だが、ものの見方と理解、判断力に優れていた。彼を是非とも入れて欲しいとの提言だった。数年は掛かるだろう欧州への航海と陸行など、教皇との謁見までの困難を考えれば、浅薄な言い方ではあるが、予備的補充員として1人増やしておくのも一考されることだった。この2人を副使と位置付ければ名目上の釣り合いも採れると判断した。日向領都於郡のマンショ、有馬領千々石郡のミゲル、大村領北部在のマルチノ、同領西部在のジュリアンと4人の出身地域が夫々(それぞれ)離れていて、イエズス会の組織編成要領に適っていた。
この有馬セミナリヨ一期生の4人が三候名代の少年使節団として選ばれた。今日なら小学校6年生3人と中学校1年の少年たちである。『4人(Quattro)の少年たち(ragazzi)』が『東方の(Tre MAGI)3賢者(d'Oriente)』の名代として選ばれたのである。だが抑々先に承知の戦国、武士の時代である。寺子屋もそうだろうが、セミナリヨに行かせるためには、すでに元服の儀式は済まされて、ヨーロッパでの騎士と同じ身分と名乗り出れば、存外に若僧呼ばわりされることもあるまい。武家の倣いでは元服して初めて社会に出られるからであり、もはや「少年」ではなく、立派に「侍」としての本分を弁えている。帯刀も髷も月代も羽織袴の正装もしなければならない身である。それでも4人のヨーロッパへの旅は、日本人武家子弟の司祭になるための「修学旅行」の意味合いが濃くなるのは致し方なかった。未だ社会の荒波を知らない年齢であることに相違ないからである。日本人司祭を目指すにはラテン語を習得して宗旨を原語で理解しなければならない。欧州出身の司祭たちも通った道である。無くてはならない日本人としての品格も獲得せねばならない。それには日本語、国史の修養も必要である。年輩の日本人イルマン、ジョルジュ・ロヨラを日本語と日本文化の付き添い教師とし、傍付きのドラードたちに印刷技術を修得させて聖書や教科書の印刷が出来るようにすることもヴァリニャーノ師の発案の一部だった。
航海だけでも純粋に往復に4年近くは掛かり、陸路や行事に参加する期間を加えると、合計6年以上はかかるだろう。たとえ下層の侍であっても、20歳を超えればそれ相応の俸禄を受ける身となる。それを返上させるのだから忍びない。彼らの俸禄に代わる生活費の原資がなければならない。加えて日本教団を維持するのに、今少しの資金も潤沢でなければならない。セミナリオやコレジオやノビシャドをもっと充実し、教会を建てる費用も募らなければならない。日本の戦国の世は商品経済の黎明期であり、イエズス会は布教の前提として改宗者から金銭を募ることはしないので、手に余る数の信者を抱えた今となっては、忽ちに資金が底をつくことは目に見えていた。ポルトガル人の長崎での貿易収入の一部を捻り出させても雀の涙に過ぎなかった。
そこで次にこの使節に課せられたのが、ポルトガル、スペイン、イタリアや教皇庁からの資金援助を募ることである。日本布教への資金援助を惜しまないように仕向けるには、大陸の東の果てのジパングからやって来た同宗門新入りの騎士、王子たちが野蛮な人士ではなく、教養や品格があり賢くて利発的であることを印象付ける必要があった。
ヴァリニャーノ師の心積もりでは、この使節を無闇に制御できない程派手に喧伝することはしないが、かと言ってザビエル離日以来30年の、日本でのイエズス会の布教が順調で収穫の多い、賞賛されるべき成果を挙げていることを示すのが主眼だった。目立つことで下手に他派の反感を買うことなく、極東という遠方にカトリック教会の目を向けさせて自派の勢力拡大につなげたい。そう考えるのは巡察師という任の趣旨にもピッタリ合致している筈である。それでもスペイン王フェリペ2世やグレゴリオ13世などの権威者との謁見、諸侯や枢機卿との会見に際しての配慮、諸教会訪問時の対応は、ヴァリアーノ師自ら同道することでしか問題生起に善処できないと思われた。
更に遣欧使節と銘打つからには「親書」の作成が必要だった。有馬晴信と大村純忠は、2、3日もあれば調整できるが、豊後の王との連絡は往復の日にちを考えると、とても間に合いそうになかった。安易ではあるが、事後承認にすることで解決できると考えた。祐筆に頼めば、文面も花押も似せて作成するなど造作もなかった。マンショとジュリアンの説得は直ぐに済んだが、ミゲルとマルチノには各々母親と両親の了解を得る必要があり、ヴァリニャーノ師自ら本人を連れて、実家に赴く必要が生じた。
7 ヴァリニャーノの説得
ヴァリニャーノ師は差し当たり大友宗麟の「親書」の作成に執りかかった。就いては20歳のジョルジュ・ロヨラ日本人修道士を宗麟の祐筆に採用することにした。なかなかの達筆で有馬セミナリヨの日本語教師を務めていて、何かにつけて祐筆が傍にいた方が良いと思われるので、訪欧の一員に加えることも告げた。セミナリヨの日本人教師には、多才を競うほどの人材が揃っていた。
ヴァリニャーノ師は、大友宗麟に関しては、勝手に派遣の手筈をとっても、別段の混乱は生じないと甘く考えていた節がある。彼の了解を得ずに事後承認とすることで、早計に判断してロヨラに「親書」を書かせた。もちろん花押も似せて書かせたから完全なる偽造である。後にその時の豊後の修練長だったペドロ・ラモン司祭が「使節派遣はお屋形の関わり知らぬことで、伊東マンショと宗麟の血筋が薄く、気品ある王族ではなく浮浪児に過ぎなかった」と、内部告発することになる。もっともスペイン出身でありイタリア人の巡察師と若干の確執はあったようである。
親書の内容は、
「私は三十年前に教皇が送られたザビエル神父の教示を受けたところの豊後王ドン・フランシスコである。日本にキリスト教を伝えたザビエル師が蒔いた救霊のみ教えの種が我が身に降りた、その御仁恩、御仁恵に感謝申し上げます。戦乱の最中であり老齢の身でもあり渡航がままならず、妹の息子で日向王の子である伊東ジェロニモ祐勝を派遣しようとしましたが生憎遠隔地にいて無理であり、更に巡察師の出発の日も切迫していましたので、彼の従弟に当たる伊東マンショを派遣することにした次第です。巡察師父を介して賜った教皇からの下賜品である遺骨匣は大切に所蔵しております」
などと、認めさせた。兎に角使節の携帯する親書らしからぬ弁解、言い訳の多い文面である。流石にヴァリニャーノ師は偽造に気が退けたと見えて、マンショと豊後王との親戚関係が薄いこと、出発の慌ただしさの中で色々苦心惨憺したことなどを、自分が置かれた状況を宗麟の思いであるかのように正直に書き込ませた。
有馬晴信の親書には、師が原案をつくり正真正銘本人が運筆し、従弟の千々石ミゲルを名代とすると、これは堂々とのっけの文面に書き入れさせた。ヴァリニャーノ師が有馬領の口之津港に上陸し、日本初のセミナリヨを設置した領地であると書き、押しも押されもしないキリシタン有馬王の指示のもとに正使として派遣したと書かせた。
有馬での派遣準備が一段落すると、早馬で三城城の大村純忠の許にジョルジュ・ロヨラを遣わし、大村侯の第3の親書を拵えるのを待った。事のついでのように純忠の家臣である原中務の末息の原マルチノと西彼杵の外海の地付き領主小佐々一族の中浦ジュリアンについては大村領からの派遣だが、大村侯の名代ではなく副使扱いとすることを告げた。純忠侯直参の信頼厚い中務だから御屋形の命であると告げさせるだけで、長旅の生死にも関わる大仕事でも何らの抵抗もないと思われた。案の定マルチノの親は、往復4年の航海と陸路や行事への参加などで2、3年は要すると説明すると、息子の生命の危険は尋常ではないと分かっても、平静を装う面持ちで不平不満や悲痛な訴えを奏上する気配を全く見せなかった。
中浦ジュリアンを加えた、2人の派遣も了承した。長崎の地権の譲渡の件以来、3度ほどの謁見だったが、純忠のヴァリニャーノ師への信頼は厚く、遣欧使節派遣の件は全くの異論はなかった。しかし問題は、純忠の室の妙圓の方の苦言だった。これには流石のロヨラも閉口した。苦情の主な部分はミゲルの派遣についてである。
「千々石紀員君の母、お忍様は決して納得されないでしょう。あん人は亡夫、直員殿の遺恨が頭を離れません。龍造寺隆信への仕返しばかりを考えているのです。もっとも夫ばかりか、親族から生命の安全を厳命の上で預かり受けた、養子の大和守直員までも殺されたのだから当然です。子息の紀員とともに龍造寺隆信の首級を挙げ、釜蓋城を奪還することだけを夢見ているのです」
と、有馬のセミナリヨにお忍を寄越してヴァリニャーノ師本人に息子の派遣撤回を願い出させると言い出した。
ロヨラが「親書」を仕上げるのに手間取っているうちに、忍は伊奈と共に有馬へ向かった。セミナリヨで遣欧使節団が結成され、様々な関係者との調整や当面のマカオまでの衣や食関連の荷物も揃えて、口之津から直接中型船で長崎へ向かうと聞かされたので、一刻を争って有馬へ駆けつけることにした。ロヨラからは長崎へ直接向かうと聞かされていたので、2人は内心穏やかではなかった。
「叔母様、口之津からの船が出る前に日野江城下に着けるでしょうか? 間に合わせるためには、長崎へ向かった方が良いのでは?」
「お伊奈様、出航準備の慌ただしい長崎では、引き留めるどころか、話し合いすら難しくなるからです」
「そうですね。兎に角急ぎましょう」
伊奈は詰まらないことを訊ねたと恥じた。とやかく心配することよりも、出発前の口之津へ足を運ぶことが先決だった。勝手知ったる日野江城下への道は、凍てついた火山灰土が固く均されていて、冷たいながらも草鞋の裏に食いついてその割に歩き易かった。正月の雲仙岳へ続く道は、温泉での湯治客たちが行き交い、鄙びてはいるが賑わっていた。
若殿の晴信に掛け合っても、今回の事態に思いは通せないと承知されていたから、二人は直接セミナリヨに向かった。丘陵を背にしている建物は廃寺を利用してはいたが、宣教師が使い勝手の良いように改造し、運動場も整備されていて、学び舎らしさがそこかしこに表れていた。寒空の澄み切った空気を切り裂くように撞木の音が響き渡った。お昼の合図である。
案の定玄関先に大量の荷物が積み上げられていた。何しろ数年は要する長旅の手荷物である。衣類だけでも列記すれば筆舌尽くせないものがある。公式の使節だから礼服も夏、冬、替え衣の予備が加わるので1人分だけでも行李は一杯になっていた。
「紀員は何処でしょうか。うちん息子はおるとね」
忍が飛び出してきたセミナリヨの世話役の修道士に声をかけると、異様な剣幕の顔色を察して咄嗟に承知したらしく、2人を玄関の上がり框に腰掛けさせ、
「今すぐに呼び出すけん、少し待って下さい」
と声を掛けたあと奥に入って行った。しかし、何時まで経っても本人が現れる気配がなかった。代わりに他の者が続々と応対に出た。最後に校長のモーラ神父まで出てきて、冷や汗をかきながら時間稼ぎをした。忍と伊奈は、奥で紀員が皆に囲まれてどう対処すべきか話していると悟った。
「顔だけでん見せてくれんけ。お願いです」
痺れを切らして哀願すると、20分ほどしてやっとミゲルを伴ってヴァリニャーノ巡察師父があらわれた。
「お待たせ、しました。旅支度のために、遅くなりました。申し訳、ありません」
ヴァリニャーノ師が短文並びの片言で口火を切った。
「この度は有馬セミナリヨの中で遣欧使節を結成して、豊後王、有馬王、大村侯の名代をローマへ派遣することになりました。それに伴いドン・プロタジオ晴信とドン・バルトロメオ純忠の二人の名代として千々石ミゲル君が選ばれました。彼を扨て置いて縁戚にあたる者がおりません。是非とも承諾して頂きたいのです」
「晴信殿に聞かれてご承知だと思いますが、紀員の父も兄も龍造寺隆信との戦いで敗死しております。私どもの居城だった釜蓋城も今や敵の手にあり、何れの日にか奪還して、そこに戻るために息子共々臥薪嘗胆、一途に邁進している所です。何年掛かるか分からないどころか、生きて帰れるかも知れない長旅は私たち母子、縁者にはどうにも許すことはできません」
「事情はよく分かります。でも5年間だけ暇をいただけないでしょうか。リスボンまでの往復に3年半、ローマまでの陸路1年半の期間を私に預けて下さい。純忠殿から聞いたのですが、龍造寺は配下に収まっている限り、有馬にも大村にも殲滅戦は仕掛けないそうです。肥後攻めなどに協力すれば同盟として認めるらしいのです」
「憎き龍造寺のこと、口先だけで信用できません。それに5年間とすれば敵討ちに絶好の機会を逃すかもしれません。好機を逃すのは慚愧の念で悔やまれるでしょう」
「ドン・ミゲル殿は未だ13歳、5年後でも18歳でございます。一先ず戦闘で命を落とすことは免れる訳で、航海上での命や病災いは私、巡察師が全力でお守りし、その安全を保証します」
両者の意見相容れず相和せずの平行線状態がしばらく続いた。
その時点で有馬、大村のどちらも龍造寺勢力に圧倒され、領地はじり貧の極小に陥っていた。15歳の若き領主のドン・プロタジオ晴信は、最早龍造寺の敵とさえ見做されず、見くびられており、たった1つ残された居城の日野江城に息を潜め、その日暮らしにさえ汲々としている。ドン・バルトロメオ純忠は、龍造寺との戦いに敗れ敵の許に長子喜前を人質に取られ、領主即ち王とは呼べない有様である。
巡察師の作成した親書の中では事実を曲げることなく、宗麟と晴信にはスペイン語での王の呼称であるレイ(Rei)、純忠には諸侯を表すホウ(Hou)を使っている。豊後王、有馬王、大村侯と厳密に使い分けしているのである。つまりミゲルは、正式には有馬王と大村侯の名代であり、マンショは豊後王の名代である。
「叔母様の胸の内を察して上げて下さい。私も姻族ではあるが幼少から慕ってくれている義従弟の苦難や命の危険をを見す見す見逃してはおけません。何の手立てもせずにいて、後から大きな後悔をしたくはありません」
伊奈の堰切って出た言葉が、あまりにも弱々しく涙をこらえて居る様子だったので、とうとう忍は、我が子に向き合い、
「紀員だけは、母の言ってることを分かってくれんね」
と、愁訴するや目から涙を零してしまった。
「母上さま、悲しまないで下さい。ミゲルはもう子どもやなかとです」
剃り上げたばかりの頭を手で撫でながらポツリと語った。黒のつなぎの僧服が似合う年頃になったと自己主張しているようで、忍は手の甲で瞼を拭った。
「私はヴァリニャーノ師を今は亡き父のように慕うとります。刀剣を振るったり馬を走らせたりしていると体の芯で実の父を思い起こすんやが、天文学や科学を学んだり、聖書を暗誦したりする時は巡察師様が父役になって下さるのです。師が同行して下さるから何の心配も要りません。必ずや欧行を成し遂げた暁には、立派な城持ち大名になって亡き父上ん恨みば晴らして見せまする」
常日頃から忍の口癖のように語られる仇討の仔細口上をそっくりそのまま真似をした。この言葉遣いを聞き及んでは流石の忍もたじろいだ。それ以上ミゲルに対して二の句を継ぐことはなかった。
ただヴァリニャーノ神父に対しては、罵詈雑言の行も含めて、あらん限りの派遣撤回の訴えを述べ立てた。当初ヴァリニャーノ師は、ミゲルにラテン語や宗教学など日本人司祭の基礎を習得するための修学の旅をさせると宣言して憚らなかったが、忍の訴えを聞いているうちに、抜き差しならない事情を斟酌して、
「前言を撤回します。ミゲルだけは司祭にはさせません。洋行の間はただ1つの目標、お屋形になるための帝王学を中心に教え、王になるための素養や思慮深く周到なる戦略戦術に長けた軍師に育てましょう」
と、初めの目論見とは対極にある教育目標に変えてしまっていた。
ただヴァリニャーノ師には、たどたどしい日本語にはそぐわない稀にみる説得力があった。それもあれこれを捲し立てるのではなく、むしろ真心から述べる、即ち真摯で嘘偽りのない態度と朴訥さを兼ね備えた、何事にも控えめな日本人特有の国民性に合致する人間性があった。高等教育に浸った教養があり世俗一般の欲を一切持たない性格が滲み出ていて、忍の愁訴が砂地に水が吸い込まれるように受け容れる慈愛が感じられた。これぞ対ジパング布教施策であるザビエル由来の「現地適応主義」とイグナチオ・デ・ロヨラの「霊操」と「規律主義」によって育まれた良質な素養であろう。
「私の命に懸けても子息をお守りいたします。忍殿の意向に沿うよう、是非もなく尽力いたします。デウス様のご加護のもとに、立派に成長して堂々と生還するミゲル君の姿を想像しながらお待ち下さい。必ずや私も彼の手を曳いて再び口之津の地に降り立つことをお約束致します」
と、ヴァリニャーノ師が結語を述べると、忍は心からの納得はしていないが、最良、最高の約束は得られたという、満足感に浸っていた。2時間以上長く続いた押し問答はやっと幕を下ろした。奇妙にも感じられるが、忍は亡父直員の遺品の中から、小脇差を持ち出し持参していた。最初からミゲルに手渡す積もりだったのである。
「これを父上の身代わり、お守りとして肌身離さず持って行きなさい。これは直員様が自刃したときに使用した曰く付きの小脇差です」
こう言い終えると、抜き身を一頻りしみじみと見つめた後、鞘に納めてミゲルに手渡した。忍は(父の遺恨を忘れるな)の気持ちを込めはしたが、失くしたらそれまでで、自分が捨て切れない恨みを忘れることが出来るかも知れないと考えたからだった。が、受け取ったミゲルの側は遺恨の念押し以上のことと受け止めさせられた。もしも(本来の目的を達せられなかったら、自刃して果てることも覚悟しなさい)との母の最後通牒と受け止めた。
武士の本懐は生と死の境を悟性で消し去る所にあり、デウスに対する畏敬もキリシタンにとっては現世と来世を繋げ、その結界を滅する教えだと考えていたから尚更である。
忍は伊奈を促すように目配せをし、すっくと立ち上がると踵を返して玄関に向かおうとした瞬間、ヴァリニャーノ師がその肩をポンと叩いた。伊奈が立ち去るのを逡巡しているので、着物の裾を曳こうとするのと同時だった。
「忍殿、お待ち下さい。今から4人の派遣使節によるお別れの演奏を披露させますので、何卒聴いてやって下さい」
と、突然の演奏会を提案した。長い間離ればなれとなる母子の慰めになればとの粋な計らいである。ヴァリニャーノ師の強い勧めで、教室の机にセミナリヨの生徒たちも集められて観衆となった。4人の少年使節の旅立ちの演奏を聴くように準備され、忍も無碍に断る訳にはいかないような状況だった。
日曜礼拝の聖歌隊や器楽演奏の練習もセミナリヨの生徒の重要課題だった。新物質の発見、発明と科学技術の進歩の甚だしい時代、絵画や彫刻や衣食住などルネッサンスと呼ばれて劇的な発展を遂げたが、西洋音楽に関してはグレゴリオ聖歌などの教会音楽にその本流があった。
当時ジョスカン・デ・プレという作曲家が聖歌隊の曲として著名で、彼の手になる男声六、七重合唱曲が教会のミサでも唄われ、ルネッサンス音楽として器楽曲も多数持て囃されていた。それを基礎に1世紀ほど後になるとバロック、古典楽派などへ発展するのである。すでに対位法や和声法を駆使して確立していた。ザビエルがロレンソ了斎の奏でる琵琶を見てリュートと呼んでいたし、ゴアでの布教にも聖歌や演奏が欠かせなかった。彼も布教には音楽の力は承知のことで、幾種類かの楽器を持ち込んでいたことは確かである。キリスト教と同時に日本に入って来たのは、ピアノの先祖の鍵盤打弦楽器のクラヴォとギターの類の琵琶に似たリュートなどである。
ミゲルはクラヴォを弾くのが好きだった。指先の素早い熟しや一定の拍子をとるなど手指の器用さが必要だが、音程が僅かにズレたり突然に音が出なくなる心配のない楽器だからである。左膝に弱みを抱えているミゲルは、前にも増して上半身を鍛えていたから、剣術とクラヴォの演奏はどちらも彼にお誂え向きの物になっていた。弾き手としての彼は繊細というよりは、むしろ奏法に大胆さと力強さがあった。
4人が演奏したのは、「キリエ・エレイソン(主よ憐れみ給え)」と「アヴェ・マリア」それに状況に合わせて「別れの歌」を追加した。合唱曲を器楽演奏向けにアレンジし直したもので、合唱ではラテン語で歌われるが、器楽曲で奏すると言葉の障害はなく、その荘厳さと透き通る和音が得も言われぬ静謐な感情を沸き立たせた。4人で演奏すると弦楽四重奏になるわけで、そのハーモニーは微妙に協和して心地良さを醸す。
演奏が終わるとヴァリニャーノ師の説教が始まった。神のみ心を成すために聖マリアを通してイエズスを地上に送られたという意味合いの話があり、
「天にましますわれらの父よ、み名が尊まれみ国が来たりて、天と同じに地にもみ旨が行われんことを。こたびの4人の少年たちの航海の無事と教皇様並びにポルトガル王謁見が成功し、立派なキリスト者となりて、意気揚々と帰還することを祈念致し、デウス様のご加護の大いならんことを願うものです。日用の糧をわれらに与え、人に許すようにわれらの罪を許し給え。試みに引き給わず、われらを悪より救い給え。父と子と聖霊のみ名において、アーメン」
との、決まり文句の祈祷文でさえ彼女たちの心を揺さぶった。
忍も伊奈も、きっとヴァリニャーノ師が言うように、人が戦で殺し合い血で血を洗う戦国の世が終わり、穏やかに暮らせる世が訪れるならば、自分たちのように遺恨に執着するような惨めな人生も無くなるだろうと思った。だが師がくどいように述べる「汝、右の頬を打たれたれば、左の頬を差し出せ」、「汝の敵を赦し愛せよ」などとの説教には内心では納得出来なかった。
「母のことを常に思ってくれている紀員のことだから、幾分か安心して旅立たせることが出来ます。事故による病や死が危ぶまれるが、少なくとも戦による死からは免れることができる。それでも5年半は長すぎます。何卒ヴァリニャーノ神父様の護衛、安全確保を心からお願い申し上げます」
と、訴える忍の涙を浮かべての震え声には、長期の別離がもたらす母の深い哀しみと13年間降り注がれた情愛の尋常ならざる重みが表わされていた。
送別の会が終わる頃には、冬の短い日がとっぷりと暮れていた。女2人が外海まで夜行で帰るには不用心な時間帯である。ヴァリニャーノ師の経っての申し出で、忍と伊奈はセミナリオの分室に泊ることになった。別れを惜しむのは良いが、執着心に囚われ過ぎるとミゲルの心を乱さないかと心配だったが、儀式控室を兼ねた離れに枕を並べて、夜更けまで語り合いながら何時しか眠りに落ちていた。
戦国末期の1569年に城持ち大名の一粒胤として生を享けた千々石ミゲルが、13歳で長崎を発ちローマ教皇に謁見し、8年半の航海の末日本に生還し司祭を目指して尽力したが、10年後にイエズス会を脱会し棄教したのは何故だろうか。裏切者としてキリスト教関係者から鬼の子ミゲルと罵られ、一方では狂暴化し滅殺処分策をとる政治権力者側は売国賊とレッテルを貼って屡々日本刀を振り下ろしてきた。沈黙して隠遁生活を送っていれば双方からの襲撃を受けるいわれはなくなる筈だ。
私の見立ては唯一つである。陰ではキリスト者としての顔を持ち、陽においては昼行燈の武士として四苦八苦していたのだろう。陰陽の使い分けが適わなくなった時、果たして悲惨な最期となったに違いない。その死から4年と10か月後、天草・島原の乱が勃発した。
「天草四郎は千々石ミゲルの子息である」
という情報が、実しやかに事件後に忽ちヨーロッパに拡散する。
「日本という遠い国から4人のカトリックの少年武士がやって来る」
という情報と同じルートを辿って広まったのだろう。
どちらもイエズス会の関係者が発信元と思われる。後者の知らせは、ローマ教皇をはじめカトリックの陣営が新教に対する対抗改革の成功への『夢』が産み出し、前者の噂はその願望が潰えそうに見えた時に『幻』だったのかとの落胆として広範に流布したのかも知れない。これを一概に誤報であると決めつけるのは早計である。その裏にある真実を見逃すことになるからだ。元来生涯独身を通すのがカトリックの修道者であり、イエズス会の頑なな掟である。使節の中で還俗したのはミゲルだけである。彼唯一人が妻帯して男子を4人もうけたが、早世した次男の代わりに益田好次の息子を一時養子としたとか、長崎で通事をしている時の私塾に四郎が弟子入りしたとか色々考えられるからだ。
とにかく一巻末の「夢にまで見たリスボン」に続く巻は、ミゲルら少年遣欧使節のポルトガル、スペイン、イタリア歴訪の1年と8か月の滞在へと続く。これらカトリックを信奉する国々では、遥々地球の裏側の極東からやって来た、キリスト教徒の少年たちを熱狂的に大歓迎したことは歴史上でも特記されている。
彼らが訪欧したのがグーテンベルクの印刷機が急速に普及した時期と重なり、数百種類の出版物が刊行されたが、教会関係者の偏った冊子を省いても確かな史実を語っている。それに付けても帰国後の日本での記述が少なくしかも断片的であることが残念である。ミゲルについては政、宗どちらからも無視されるのはまだ増しで、悪意に満ちていて敵意すら感じさせる。
私の描くミゲルはあくまでも善意に寄り、彼に味方するものである。