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明くる日、さざなみ荘に勇海さんが挨拶に来た。
昼間のうちに真咲さんにそのことを知らされ、私と真雪さんはいよいよかと予感めいたものを感じあった。二人で散歩に行くと浜に出て、きらきらと太陽の光を反射する海を眺めながらさざなみ荘の行く末もすこしだけ話した。
「あたしはさ、夏の間ぐらいって思ってたし、どうとでもなるけど。菫は高校あるもんなー」
堤防の端っこにしゃがんで真雪さんが唸る。
「とりあえず、卒業まではお世話になれるならなりたいかなと」
匠海と話した後、私はどうすべきかと布団の中で考えていた。真咲さんが赤ちゃんを産む。そうなれば生活は変わるだろう。勇海さんの家に嫁いでも、勇海さんがさざなみ荘に来ても、私の周りは一変する。
けれど、私はまだまだ一人では生きていけない。情けないけれど。一人暮らしするほどのお金もないし、頼れる人だって他にもいない。ならば、どうにかして真咲さんに頭を下げるしかなかった。
「卒業後は進学?」
「考えてなかったので、今から間に合うか怪しいんですけど」
「え、考えてなかったってじゃあどうするつもりでいたの?」
「さざなみ荘のお手伝いをしていけたら、って思ってました」
それが唯一の、自分にできることだと思っていた。どうしようもなくった私を救ってくれた真咲さんへの恩返しだと。
「私、新しいことより、今ここを大事にしなければ、この生活を守らなければ、ってことしか考えることができなかったんだと思います」
母に捨てられ祖母に呪われ、それがけしてまともな世界じゃなかったと頭で理解していても、抜け出すことができなかった日々。真咲さんに誘われてさざなみ荘に来て、すこしずつ楽になっていくことに気がつくと、次は失ってはならないという恐怖もひしひしと感じ出していたのかもしれない。
もしかしたらまたあの日に戻るのかもしれない。祖母が死に、形ばかりの叔父にお金を渡され、なにもわからない世界に放り出されたあの日。
「でもそこにしがみついてたら、きっと以前と何も変わらないんじゃないかと思って。たとえさざなみ荘が私の居場所じゃなくなったとしても、ここで過ごしたことはなくならないし、無駄じゃないし。そう思ったら、真咲さんが言ってくれたように、他の世界を見るのもいいんじゃないかと思いました」
そこまで一気にまくし立てる。頬がほんのり熱かった。息を吸う。足はしっかりと、コンクリートを踏みしめている。
「うん。そっか。いいね、菫」
私を見上げて、真雪さんが笑ってくれた。金色の髪がさらさらと滑り落ちている。
「はい。なので、真雪さんにひとつお願いがあるんですけれど」
「ん? なになに、あたしに?」
思い起こせば、お願いがある、なんて言ったの、初めてかもしれない。お願いなんて、聞いてもらえると思ったことがなかった。
「もし真雪さんさえ良ければ、私が卒業するまでさざなみ荘にいてもらえませんか」
あつかましいだろうか。真雪さんの考えも聞くこともなく言い出して。
「へ? あ、全然いーけど、なんで?」
さすがにちょっとそわそわしたけれど、真雪さんの返事はものすごくあっさりしていた。あまりに素早かったので、私の方が理解に追いつかなかった。
「え、あ、えーと、その、もしさざなみ荘に勇海さんも住むこととなると、さすがになんというか、気まずいというか遠慮するというか……」
もちろんそれはその場合を仮定しての話だった。けれど、さざなみ荘を買い、店を開いている真咲さんが出て行くよりその可能性が高いのでは、とも思う。
「あーそゆことね。確かに新婚さんのとこに一人はキツいね。いーよいーよ。どうせ次のこと考えてないしあたし」
「ありがとうございます」
「そうなっとあたしも仕事すっかなー。金はなくなるし」
予想以上にあっさり軽い答えに拍子抜けする。
でもこれが真雪さんなんだろう。初めてあった日のことを思い出す。
「もしさ」
真雪さんが立ち上がって伸びをした。
「ねーちゃんがさざなみ荘は閉めるとか、売りに出すとか言い出しても、菫のことはあたしがなんとかすっから、安心しなよ」
「え、いや、え、真雪さん?」
「いやいや菫キョドりすぎだから。万が一の話だよ。つーかまあだいじょーぶだって。あのねーちゃんがそんなこと言うことないから」
だから、あんたは安心して自分の未来を心配しな。
そう言ってにっと笑った真雪さんの顔が、とてもきれいだった。きれいって言葉しか浮かんでこない自分が情けないぐらい。
潮の香りに混じって、甘い香りが鼻をくすぐる。ずっと、真咲さんと真雪さんの間に感じていたあの香り。
「ありがとうございます」
もう一度そう伝えて、私は大きく息を吸った。
きっと大丈夫。
そう思って勇海さんを迎えたのだけど、無駄だったとは言わないけれど、いらぬ心配だったのだとその夜わかった。
二人は真雪さんだけでなく、私にも結婚していいかと訊ねてきて、重ねてこのままさざなみ荘は続けていきたいから二人にも変わらず手伝って欲しいと頭を下げた。勇海さんは市役所勤めをもうしばらく続けたい、真咲さんも子どもを育てつつさざなみ荘は守っていきたい、だからこそ私と真雪さんにもこのままいて欲しいと。
私と真雪さんはもちろんと喜んでその申し出を受けた。勇海さんができればここに住みたいというのも、断る理由はなかった。むしろ自分たちがいていいのかと問うたぐらいだ。
ひと通り話が終わって一緒に夕食を食べようとなったとき、真雪さんが台所にいる私にすっと寄ってきて「ほらね」と言ってくれた。その手が背中をぽんと叩いてくれる。私も「はい」と答えて一緒に冷やしておいたトマトサラダを盛りつけた。
それから港まつりはすぐ。匠海のおかげもあって出店はしっかり売り切れて終わり、次の日はみんなで存分にぐったりと休んだ。
そのうち夏休みも終わり、冬が来て。真咲さんのお腹はどんどん膨らんで、私も初めて胎動というものを感じる経験をさせてもらった。検診のたびに見せてもらうエコー写真に三人ではしゃぎ、予定日が近づくと三人で緊張した。
温かい春の日差しが降りそそぐ午後。その子は生まれ『渚』という名前がつけられた。丸い顔でよく笑うかわいい女の子で、勇海さんと真咲さんはもちろん、私や真雪さんも匠海やその家族も一気にメロメロにした。勇海さんなんて産まれたその日から溺愛っぷりがひどく、真咲さんに呆れられている。でもそんな真咲さんも幸せそうで、私と真雪さんは二人、良かったねえと言い合ったりもした。
そして今日。
夏の終わりが見えて、涼しさが増してきた日。
勇海さんと真咲さんの結婚式が挙げられた。
といっても二人は元々挙げる気もなく、大きな場所でやることを拒んだので、さざなみ荘で近親者だけを呼んで行った。白いワンピースに身を包んだ真咲さんのヘアメイクは真雪さんが担当し、小さなウエディングケーキは私が担当した。
あれから、少しずつ料理を教えてもらい、この日のためにケーキも練習し続けた。
いつもと違う雰囲気に渚ちゃんは最初こそ大泣きしたものの、真雪さんのとっておきの変顔に機嫌を直し、小さな式は滞りなく終えることができた。
「やー、これで一安心だよ」
片づけをそこそこに、真雪さんと二人、逃げるように浜へとやってきた。さざなみ荘ではまだ勇海さんのお父さんを初めとした男性陣が酒を飲みめでたいめでたいと騒いでいる。もちろん真咲さんと渚ちゃんは勇海さんとそのお母さんが真っ先に休ませた。匠海は私たちの代わりにあれこれ世話焼きをしてるかもしれない。
「お疲れさまでした」
めでたい日でも、海は変わらない。私たちはのんびりと堤防を歩き、太陽へと向かう。
「菫もありがとう」
「いや、私はなにも」
「んなことないって。菫がいたから、ねーちゃんだって今日があるんだと思うよ」
そうかな、と私が笑うと「そうなの」と背中をパシッと叩かれた。
「ところでどう、受験勉強は」
「んー、必死。もしかしたら厳しいかも」
「そっかー頑張れ」
担任からは挑戦するべきだとは言われている。勇海さんも真咲さんも応援してくれた。でも渚ちゃんと離れてしまうのはちょっと寂しい。
「じゃあ匠海は?」
「え? いや、というかじゃあってなに、じゃあって」
「あはは。だってそういうノリで聞いた方がいっかなーって」
「ノリって……べつに、今までと変わらずだけど」
匠海は、仙台の大学を受験予定だ。私は東京なので離れてしまう。
だからなのか、去年の夏休み以降、本当になにもなかった。
それがいいのかどうなのか、私にもわからない。学校は一緒だから顔を合わせたら話はするし、さざなみ荘におかずを取りにも来るし、こんな風に浜に散歩に来たりもする。
ただめまぐるしく変わっていくなか、変わらないものがあったのは、それはそれでありがたかった。
「えーつまんないなー。せっかくの青春が」
「人の青春を勝手につまらない判定しないでよ」
「じゃあ充実してた?」
隣に立つ真雪さんが、私の前に進んで振り返った。夕日を背にしてるせいか、顔はよく見えない。ただその縁を、金色の髪が空と溶け合うように透けていった。
「うん。とっても」
高校入学と共に来たこの小さな島は、私にとってまったく違う世界で、でもどうやってでも生きていかなければならない世界だった。さざなみ荘を失ってはいけない。きっと心のどこかでそう思って生きていた。
いつからだろう。笑えるようになったのは。
ごはんが美味しいと思えて、安心して眠れて、明るい場所に帰れるのだと気づいた日は。
「なら良かったね。てか言うことないね」
きっとそれらには徐々に気づいたのだろう。
でも私を、私の世界を変えたのは。
「いつでも帰ってきなよー。もううちらが家族じゃないとか他人行儀しないでよー」
一歩近づいてきて、真雪さんの顔がはっきり見えた。
夏を二度過ごしたのに全く日に焼けない白い肌に、きっちりメイク。鮮やかなアイラインは、今日は緑だった。
進路について真咲さん、勇海さん、真雪さんの三人に相談したとき、しこたま怒られたのを思い出す。私は卒業したら、文字通りここを出て行くつもりだった。学費としばらくの生活費の目処が立ったとき、なんとかなると知ってそう伝えた。お世話になりましたと、あとはなんとか自分で生きていくと。
まさかあんなに真咲さんに怒られるとは思っていなかった。勇海さんまでもが淡々と説教をし出すので、さすがに参ってしまった。
同時に、浅はかな自分を恥じてしかたがないぐらい、後悔して、嬉しかった。
母でも父でもない。姉や兄とも違う。
けれど家族なのだと、改めて教えてもらって、私は布団をかぶって一晩中泣いた。
「はい。連絡もちゃんとします」
「既読スルーしたら押しかけるからね」
「えっ……それはさすがに重いんだけど」
「あたしは自由の身だからねー。ってのは冗談にしても遊びに行くよ」
真雪さんの笑顔は、変わらずきれいなまま。
でも今だってやっぱり、パジャマ代わりのTシャツやジャージはボロボロのゆるゆるで、寝癖たっぷりの頭をかきながらお昼近くに起きてくる。
ただ時々、渚ちゃんの夜泣きの面倒を見ていることも知っている。
「あ、匠海が逃げてきた」
真雪さんの視線が浜の入り口へと向かう。振り返ると匠海が手を上げた。私もそれに応えると、真雪さんが「じゃああたしは先戻るわ」と言い出す。
「こっそりと裏口から入らないと」
「だいじょーぶ。そーゆーとこ、抜かりないからあたし」
「知ってる」
「おや、菫もだいぶあたしのこと詳しくなったね」
「いや、きっとまだ知らないこともたくさんあるんですけど」
「あるか、まーそうか」
「でも」
波の音がざぶんと跳ねた。ウミネコが頭上をふわーっと飛んでいく。
真雪さんの金色の髪が、風にふわりと浮いた。
「真雪さんは、真雪さんなので」
私が言うと、真雪さんはきょとんとしてから、あははと笑った。きれいな顔をきれいに歪めて。
話が聞こえていなかったのか、不思議そうな表情を浮かべた匠海がやってくる。彼は今年もよく日に焼けていた。
変わらない。なにもかも。
だけど私の世界は確実に変化している。
きっとこれは、この先もずっと、私が死ぬ日までそうなのだろう。
それでいい。それがいい。
私はもう、恐れない。
「そうだね」
真雪さんが言った。
「菫も、ずっと、菫だよ」