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 夏休みはあっという間に過ぎていって、八月がやってきてしまった。さざなみ荘の夏は、すこしだけ客が増えた。海水浴やドライブのついでに寄ってもらえたり、わざわざ口コミを見てやってくるお客さんもいる。

 今年は真雪さんもいるおかげで、目も回るほどの、というわけではない。それでもお店を閉めた後の自分たちのお昼ご飯のときには、無言になる瞬間が何度もあった。

 それでも真雪さんの提案で花火をしたり、かき氷祭りを開いたり、夏を満喫していた。真雪さんと二人で車に乗って、比較的近くの牧場テーマパークに行ってバーベキューもした。匠海たちも呼んでさざなみ荘でもやろうか、と言いながら帰り道がしんどくなるぐらいたらふくの肉を食べた。

 夕涼みをしながら庭で三人すいかを食べて「この種ですいかが育つ」と聞いた真雪さんが畑に種を飛ばしたりもした。「今蒔いたって間に合わないわよ」と真咲さんに笑われ、じゃあ来年は育てようと大事に保存し出して私も笑ってしまった。

 短い髪は快適で。風が吹く旅に背中が涼しかった。

 そんなある日、真咲さんが倒れた。

「ごめん、でも大丈夫だから」

 朝、まだお昼の営業準備をする前。洗濯物を干していた真咲さんがうずくまっているのを真雪さんが発見した。救急車を呼ぼうとしたけれど、大丈夫だと言い張られたのでとりあえず涼しい和室に移動して、寝かせている。

「ほんとー? ねーちゃん身体は丈夫だったから心配なんだけど」

 おぶって運んだのは真雪さんだった。あんなに細いのに、ひょいと背負ってすいすい運んでいった。

 客用の布団を急いで敷いていた私がその姿に驚いていると、真雪さんは「これでも男だからね」とにっと笑ってみせた。

 水を一口飲んだ真咲さんが「身体は、って」とはにかむ。

「まあでも、やっぱり話しておかないとよね」

 その口調が、すこしだけかしこまった雰囲気をはらんでいて、私の背筋がすっと伸びてしまった。こういう前置きは、私の経験上、いい話ではない。

「なに、改まって」

 真雪さんも心なしか眉根が寄っている。

 私と真雪さんを真咲さんは交互にゆっくり見て、それからふう、と息をついた。

「私ね、妊娠してるの」

 もし、私が再び行き場をなくしたら。

 そこまで考えたところで、全く予想していなかった単語が聞こえてきた。

「え、マジで?」

「そう。マジで」

 真雪さんがぽかんとした表情を浮かべたのも一瞬。

「マジか! やー! ねーちゃんおめでとう!」

 広くないとはいえ室内に響きわたる声量で、真雪さんが叫び喜んだ。あまりのテンションに私の身体が逆方向に傾いてしまう。 

「ちょっと、うるさいわよ」

「いやいや、だって妊娠でしょ? 赤ちゃんでしょ? ねーちゃん、ずっと欲しがってたじゃん」

 そうね、と真咲さんが先ほどよりも血色のいい顔ではにかんだ。

 妊娠。

 おめでたい、話には間違いない。私は真咲さんの過去をよく知らないままだから、欲しがってたなどの経緯はわからないけれど、それならなおさら喜ばしいことだ。

 真雪さんは喜色満面、真咲さんは照れながらも幸せそうな雰囲気が漂ってくる。

「一応、伝えておくと父親は」

「え、そんなん勇海さんでしょ」

「そんなんってなによ」

「えっ、勇海さんなんですか」

 さらっと言った真雪さんだったけれど、私は初耳だ。

 あの、甘い香りがする。目の前で。

「菫、気づいてなかった?」

「あ、すみません、全然……そうなんですね、おめでとうございます」

 仲がいいのは知っていた。ここさざなみ荘を買うときには知り合いだったみたいだし、彼のおかげで周りともうまくやれたのだと真咲さん自身から聞いていた。

 ただ、まさか匠海のお兄さんと恋人関係だとは考えたこともなかった。

 匠海は知っていたんだろうか。

「ありがとう。黙っててごめんなさいね。まだ安定期でもないし、いつ言おうか迷ってて」

「いえ、そんな。むしろ知らなかったとはいえ、無理させてやしないかと……」

「菫、めっちゃかしこまってんね」

「え、いや、だって妊娠って病気じゃないからこそ大変だって聞きますし」

「ひゃー、最近の性教育ってすごいいいこと教えてんのかな? だいじょーぶ、ねーちゃんはして欲しいことはきっちり言うタイプだから」

「そうよ、菫ちゃんが悪く思うことなんてなにもないんだから」

 身近な人の妊娠は初めてのせいか、胸がきりきりと締め付けられるような、それでいて居心地の悪いようなそわそわ感に襲われる。

 自分がどうしたのかわからない。

 でもなんだか、二人とは違う場所に、空間にいるみたいだ。

「で、結婚は?」

 真雪さんの無邪気な質問が飛ぶと、真咲さんは「うーん」と首を傾げた。

「実はまだ、悩んでて」

 いつものような明るさのない、顔だった。具合が悪いのをさっ引いたとしても、どこか困ったような後ろめたいような表情。

「……ごめん、まさか、あたし?」

 それにさっと気づいたかのように、真雪さんの声のトーンも下がった。

 けれどその言葉を聞いた真咲さんの反応は、早かった。

「真雪、それだけは違うわ。確かにまだあなたのことは勇海君にも言ってない。けれどね、もしそれが理由で結婚を躊躇うような男なら、私は子どもを一人で育てるわよ」

 その全てが、きっぱりと揺るぎない芯があった。

 私は思わず、二人を交互に見る。

「……ありがと」

 やっぱり、血の繋がったきょうだいなんだろう。

 二人と私の間に、透明な幕がかかっている。

「そうじゃなくてね、私はここを続けたいし、でも勇海君は長男だし。このあたりはまだまだ、家を継ぐっていう感覚もどうしたって強いのよ」

「あーなるほど。めんどくせーと言いたいところだけど、まあそれだって選択のひとつだもんね」

「それに一度結婚には懲りてるからね」

「だいじょーぶだよ、あいつと勇海は違うって」

「そんなの、一緒に暮らしてみるまでわかんないものよ」

 だんだんと、二人の声が遠くなっていく気がした。そんなことないのに。

 おめでたい、話なのだ。

 真咲さんが望んでいた赤ちゃんを授かり、さざなみ荘に新たな家族が生まれる。結婚は悩んでいると言っても、可能性はゼロじゃない。

 とても、喜ばしい、ことなのだ。間違いなく。

 私はその後も会話に入ることができず「今日の営業、お休みにしますって書いて貼っておきますね」とその場を退散した。ふらつくかと思った足はむしろ妙にしっかりしてて、代わりにマジックを握った手が震えていた。

 後日、どういういきさつがあったのかは知らないけれど匠海からメッセージが届いた。浜で会う約束をして、その時間通りに向かう。

 もう夕方、離れた場所でヒグラシが鳴いている。

 匠海はすでにいて、私が来たことに気づくと「よう」とだけ言った。この数日会っていなかっただけで、随分と夏過ぎるほどに夏っぽくなった気がする。

「兄貴と真咲さんのこと聞いてさ」

 予想通りの会話に、私たちは事実を淡々と確認した。まだ結婚は悩んでいるという点には「まあ悩むんだろうな」という感想だった。

「それで真雪さんのことも聞いて」

 そう言った匠海が、ちらっと私を見る。

 どうしてか私の胸が、ぎゅっと縮こまった。

「あ、いやべつに気持ちわりぃとか、偏見とか、そういうのないからな」

 そんな私の顔を見て、慌てたように弁明する。

「ただ……その、菫、仲良かったしって……」

 しかし続いた言葉を私はすぐに理解できなかった。どういう意味かと問おうとして、鼻の頭をかいた匠海と目が合う。

 その瞬間、ああ、と声が漏れた。

「真雪さんとは……友だち、だから」

 恋愛にもセックスにも興味がないと言ったときの真雪さんを思い出す。あれは嘘じゃなかっただろう。それに私も真雪さんに対してそういう感情を抱いたことはなかった。

 ただ『友だち』という言葉が正しいのかわからない。

 真雪さんは、真雪さんで。

 私にとっては、なんなのだろうか。

 匠海は明らかにほっとした表情を浮かべた。まさかそんなことを心配していたのかとすこしだけおかしい。この間、港まつりの誘いを受けたのに。

 そこまで考えてから、そうだった、と思い出す。

「あのね、匠海」

 伝えておかなければ、と口を開けば、なにを予想したのか匠海が再び緊張した面もちを浮かべた。

「港まつり、一緒に行けないと思う」

 さざなみ荘として、露店を出す予定になっている。しかし真咲さんは妊娠中、しかも初期だ。無理させるわけにはいかない。本人は自分もやるとは言い張ったので、適度に休むことと私と真雪さんがメインでやることを条件にした。私はたいして料理はできないけれど、接客ならなんとかなる。

「あ、そっか」と匠海はそれだけで理解してくれた。

「せっかく誘ってくれたのに、ごめん」

 私も応えたのに。

 だけどしょうがない。いや、私はそちらを選ぶ。

 匠海とさざなみ荘を天秤にかけたわけじゃやない。

 かけたのは、私の未来だ。

「んー、てかさ、それなら俺も手伝うよ」

「え?」

「いや人手は多い方がいいだろ? それに兄貴だって無関係ってわけじゃないんだし。魚料理しかできないけどな」

「でも、せっかくのお祭りなのに」

「それ言ったら菫だって一緒だって」

 いいじゃん、楽しいって。

 そう言って匠海が笑った。夕日を顔に受けて、心の底からのような、爽やかな顔で。

「……いいの?」

「俺がやりたいんだから、いいんだよ」

 今、この瞬間を切り取ってしまってしまえたらいいのに。

 なぜかそう思った。オレンジの空、涼しい風、哀しげなヒグラシの声、ゆったりとした波の音。

「ありがとう」

 この数日間、ずっと違和感があった。

 元々仲の良かった真咲さんと真雪さんだけど、今はいっそうそう見える。そこに私がいるのが不思議で、親戚っていったって遠縁だし、一緒に暮らしてるのだってまだ僅かだし。

 私にとってのさざなみ荘が、すこしずつ変わっていく気配を感じていた。

 でも、今。ここで匠海が笑っている。私に向かって。私と一緒にやろうと言ってくれる。

 私にとってのさざなみ荘は、あの家だけじゃないのかもしれない。そう思わせてくれるような眼差しで。

「二人にも伝えてみるね」

「おう。よろしくな」

 ウミネコが飛んでいった。海の向こうの本土の灯りが輝きを増していく。

 切り取れないのなら、せめて。

 私は大きく息を吸って、空を仰いだ。


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