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 ついに夏休みへのカウントダウンが始まると、友人たちからの遊びの誘いが次々舞い込んだ。

 ありがたい、ことだと思う。

 しかし、内容はほぼ一緒。海か、ショッピングモールか、誰かの家。みんな口を揃えて言う。「田舎なんてなんにもないし」かといってバスで仙台まで行くのも気軽じゃない。電車があった震災以前だって、それに乗らなきゃ帰れないというタイムリミットとの戦いで、行くのは気合いがいったのだと口々にこぼす。

 私にとっては、誰かと過ごす時間をもらっているだけで、充分だ。

「菫ちゃん、すっかり健康的になって。私、うれしい」

 夏休み初日の朝ご飯。真咲さんがお手製の浅漬けをつまみながらそう言った。

 真雪さんは、まだ寝ている。

「そう、ですか?」

「うんうん。最初のころは、この子走れるのかしらって不安になるぐらい、細かったもの」

 あ、太ったって言ってるわけじゃないのよ、と彼女が続ける。

 自分でも、身体の変化はわかっていた。あきらかに以前より脚は太くなったし、顔が丸くなった。けれどそれが嫌かというとそうでもない。夜は眠れるようになったし、わけもなく疲労感に襲われることもなかった。

 それになにより、ごはんがおいしい。

 どう考えても、真咲さんのおかげだ。

「太らない体質なんだ、って思ってました」

「だから太ってはないわよ」

「あ、いえ、そうじゃなくて。母も、祖母も細かったので」

 母は、その細さを自慢していたような気がする。祖母も、テレビに映るふくよかな人を見ては「みっともない」と言っていた。

「細身の家系ではあるのかもね。うらやましい。ひいひいおじいちゃんは一緒のはずなのに、どこで変わったのかしら……」

「真咲さん、全然太ってないですよ」

「そう? でも三十にもなるとね、やっぱり落ちなくなるのよ」

 そう言って真咲さんは肩をすくめた。「真雪も細いのよねえ……きょうだいなのに」と口も尖らせる。

 なんだかそれがとてもかわいらしくて、思わず笑ってしまった。そんな私を見て、真咲さんは目をぱちぱちさせる。

「いい朝ね。いい夏休みが始まったわ」

 そんなことを言って、彼女は味噌汁をおいしそうに飲んだ。

 真雪さんが起きてきたのは、さざなみ荘のランチメニューの下拵えをしているときだった。

「あついー。東北って雪国じゃないの、もっと涼しいんじゃないの」

 そんなことをぼやきながら、だるだるの部屋着でお腹をかく姿にも、もうだいぶ慣れてきた。

「今年の夏は暑いみたいですが、お盆も過ぎればだいぶましになりますよ」

「お盆……ってまだだいぶ先じゃん」

「海で泳ぐなら、それまでです」

「あ、あれ? クラゲがとかいうやつ?」

 氷をいれたグラスに麦茶を注いで手渡すと、真雪さんは一気にそれを飲んだ。

「それもですが、海が冷たいです。むしろその前もかなり水は冷たいです」

 去年の夏休みを思い出す。島の海水浴場にみんなで行ったとき、太陽も砂浜も暑くてしかたがないのに、海に入って身体を沈めるのに勇気がいった。紺ぐらい平気だろ、と言っていたのは匠海で、島育ちは違うのだろうかと思ったのも覚えている。

「へー。菫は友だちと海行くの?」

「はい。明日、さっそく」

「いいねー、青春」

 にっと笑った真雪さんが、きれいだった。寝起きで、頭はぼさぼさで、なんなら涎の跡だって口のはしについているのに。

「それで真雪さん、お願いがあるんですが」

 それで、の使い方を間違えたかもしれないなと思いつつ、続けてしまう。

「髪の毛、切ってもらえないですか?」

 一息に言ってしまうと、胸がすうっと軽くなっていくみたいに、楽になった。

「え?」と真雪さんは私を見る。

 そのきれいな瞳が、私を見透かすみたいに、じいっと見つめてくる。

「もちろん、いいよ。夏は暑いもんねー」

 けれどその返事はすぐに聞こえてきた。いつもと同じ、からっとした声で。

 その後、さざなみ荘の営業を終え、真咲さんと真雪さんと私、三人で片づけとお昼ごはんを終えてから。

 私は庭に置かれた椅子に座っていた。髪の毛は先に洗面台で濡らしてきた。足下には新聞紙が広く敷かれている。

「じゃあやりますか」

 あの大きなバニティーケースを広げた真雪さんが、私の身体にケープをさっと巻いた。

 今日もよく晴れている。空に雲はあるけれど、どこまでも突き抜けて青い。浜からは波の音とウミネコの鳴き声が聞こえてくる。風のない、夏の、午後。

「で、どうする? 希望は?」

 私の目線と同じぐらいに膝を折って、真雪さんが聞いてくる。その指が、耳の上の髪を梳くように触る。

「とくにないので、お任せで」

「長さも? 短すぎるのはやだなーとかない?」

 ばっちりメイクの真雪さんには、睫の影が落ちている。

「いえ、真雪さんを信じるので」

 それにどういうのがあるかとかわかってないです、私。そう続けると、真雪さんはあははと笑った。

「じゃー、ちょっと頑張っちゃうね、あたし」

 そう言って私の背後に回った真雪さんからは、甘くていい香りがした。

「あ、待って。自分で切る?」

「え?」

 いよいよ、と思っていたところで、真雪さんが手を止めた。

「ほら、こう、自分でジャキッと。お別れだぜ! 的な」

 まったく考えていなかったことを提案され、なるほど、と頷く。

 とはいえ、髪に思い入れも未練もない。

 ましてや、切ることで何かを変えたいわけでもない。

「いえ。いつも自分で切っていたので。むしろ切ってもらいたいです」

 切ることで、変わることがあるかもしれないと思っているだけだ。

「おっけー。したらザクザクいっちゃうねー」

 真雪さんはそれ以上のことは言わなかった。

 腰近くまである髪に櫛が通る。頭をいくつかの領地に分けるようにしてクリップで留められ、うちひとつに鋏が入った。

 しゃきん。

 軽くて尖った音が、髪を切り離す。

「てかいつも自分で切ってたの?」

 真雪さんの手は、かろやかに動いている気配がした。

「はい……美容室、行ったことなくて」

「そっかー。その割に、きれいに整ってるじゃん」

「そうですか?」

「うんうん。頭の形もきれいだしねー」

 しゃきん。

 しゃきん。

 鋏は次々に、私の髪の毛を落としていく。

 真雪さんは時々私の顔を正面から見ながら、軽快に鋏を使っていく。途中、違うのに持ち替えたのか、切られる感覚も変わっていった。

「明日の海、匠海も一緒?」

「たぶん、来ると思います」

「びっくりするだろーなー、あいつ」

 手を止めることなく、適度に話をしてくれる。美容師として働いていたときもこうだったのだろうか、きっと真雪さんならお客さんにも人気だったろうなと想像する。

 どれぐらい経ったのだろう。頭を動かさないように気をつけながら視線だけ落とすと、新聞紙の上には大量の髪の毛が散らばっていた。心なしか首筋も涼しい。

「……うし、こんな感じかなー」

 真正面で前髪を触っていた真雪さんが、ふうと息をついた。

「いかがでしょーか」

 渡された大きめの手鏡をそっと持ち上げる。

「……わ、え、わー」

 そこに映った自分の顔に、変な声しか出せなかった。

「あはは。どう? 結構切っちゃったけど」

 少し長めの、ショートカットだった。うなじに毛がなくて、すうすうする。耳は半分隠れていて、長めの前髪はゆるくサイドに流されていた。

「すっきり、しました」

 見慣れない自分だ。ずっと長いだけで、それを一つに結うだけの髪の毛だった。

「あたし的には、かわいくて満足なんだけど」

「あ、私も、満足、大満足です」

「ほんとー、よかった。うれしい」

 大げさじゃなく、別人みたいだった。思わず首を振って右も左も確かめてしまう。

 今まであった髪がない。

 でも。

 鏡の中の、私と目が合う。

 そこにいるのは、紛れもない、私だ。

 髪の毛を切ったぐらいで、なにも変わらない。

 私は、私。

「ありがとうございます。えっとお代は……」

「は? なに言ってんのー。サービスよ、サービス」

「いやでも」

「あたしも、久しぶりにやれて楽しかったし」

 真雪さんはそう言って笑って、頑なに受け入れてはくれなかった。私もさすがに言い過ぎても、と丁寧にお礼を言って、今度なにか好きそうなものでもお土産に買ってこようと内心決めた。

 その夜は、シャンプーの軽さとドライヤーの楽さを知り。次の日の朝は寝癖の酷さを知った。

 海水浴場へは、勇海さんが匠海と一緒に送ってくれたのだけど。

 二人とも私を見てぽかんとしてて、それを見た真咲さんと真雪さんが大笑いして。

 友人はみな、褒めてくれたし、私も切ってもらいたいと口々に言っていた。お世辞でも、真雪さんのことを褒めてもらえるのはとても嬉しかった。

 変わったのは、私ではなかった。

 ほんのすこしだけ、世界が変わった。

「ねえ、匠海」

 海水浴からの帰り道。熱をたっぷりため込んだアスファルトを、二人だけで歩く。

「港まつり、一緒、行っていいかな」

 念入りに日焼け止めを塗ったはずなのに、肩や頬がじりじりと痛かった。

「え……あ、ああ。もちろん」

 匠海の顔もすっかり赤くなっていた。すでに焼けていたというのに、これ以上濃くなるんだろうか。

「帰りは、真咲さんたちと帰るけど」

「えっ……あ、いや、うん。それは。つうか、きっと兄貴の車も一緒だろ」

「あ、そうなのかな」

「荷物運ぶしな。だから結局、俺も一緒だって」

 そっか、と笑う。

 そうだろ、と匠海も笑った。

 眩しいぐらい、いい顔だった。

 蛙の子は蛙。

 だから私も、母や祖母のようになるかもしれない。

 それでも。

 隣を歩く、彼を見る。

 私より頭一つ大きな匠海は、私を物のように扱ったりしない。ひどい言葉も言わないし、暴力を振るったことだってもちろん見たことがない。でもそれは、私がそうさせてしまうかもしれないことだ。だからこそ、私は蛙の子として、なりを潜めてしまうのが正解なのだろう。

 それでも。

「ところで真咲さんは、なに出すんだ?」

「あ、たしか唐揚げとおにぎりとあとなんやかんやとフルーツ寒天だったかな」

「なんやかんやって」

「まだ悩んでるみたい」

「まあなに出したってうまいからな」

 長い坂道を下る。道路は二車線あるのに、車は滅多にやってこない。それでも、橋がかかってからは観光客も増えたのだという。

 太陽が海の向こうの本土へと傾いていた。塩気でべたついた肌に、風が吹く。

 私は簡単には変われない。でもきっとそれは真雪さんだってそうなのだ。だからあの人は、自分らしく生きている。

 なら変えるのは、ほんのすこしだとしても、私の周り。

「夏だなあ」

 当たり前のことを匠海が言った。どこか遠くでアブラゼミが鳴いている。

 こんな夏がいつまでも続けばいいのに、と思わなくもない。


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