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さざなみ荘に帰り着いたのは、午後五時半。台所に荷物を持って入ると、すでにごはんが炊けた香りが充満していた。
遅れて入ってきた真雪さんは畑から取ってきた茄子とオクラを手にしている。
着替えておいでと言われ、その通りにした。不安がないわけではない。
自分の部屋に置いた鏡に顔が映る。
その顔に、初めてやることに対しての不安ではないのだ、と気づいた。
台所に戻ると、真雪さんはすでに肉の下拵えをしていた。ガリガリと胡椒を削っている。
「よし、じゃあ作るよー」
そこからの真雪さんは、いつも以上に丁寧だった。私が包丁の持ち方すらわかっていなくても、笑うことなく一から教えてくれる。茄子のアク抜き、オクラの下処理。出汁は市販の顆粒だしを使えば楽だし、味噌汁なんて好きな具をなんでも入れれるから、と気楽に構えていいと言ってくれる。
私はときどき深呼吸をしながら、覚束ない以上にどんくさい手つきで、それらを少しずつこなしていった。
「ほら、できた」
気がつけば六時半。どれだけ時間をかけてしまったのか、身体中の力が一気に抜けていく気がした。それでもなんとか、オクラと茄子と豆腐の味噌汁が、小鍋の中にできてはいる。
「ほい、味見」
真雪さんが小皿にすこし汁をよそって差し出してくる。
目が合ってしまって、まばたきができない。
「だいじょーぶ、あたしがついてたんだから」
作れはした。でもそれは横について全て教えてもらったからだ。私の技術、ましてや才能ではない。
胃がぎゅっとなるような感覚が私を襲う。
やっぱり、美味しくなかったら。
かといって拒否するわけにもいかない。意を決して小皿を受け取り、口をつける。
「……みそしる」
「ん?」
「ちゃんと、お味噌汁の味がする……」
ほんのすこし、口にしただけだけど。
でもそれは、確かにいつも食べている味噌汁と同じ物だった。
「ほら、だからできるって言ったっしょ……って、菫?」
突然、身体が軽くなった。
膝から崩れ落ちそうになって、慌ててふんばる。
「ちょっと、泣くほど? そんなうまかった?」
絶対、駄目なんだと思っていた。
母も、祖母もできなかった。しなかったわけではないのは、薄々感じていた。冷蔵庫はいつだってお酒ばかり入っていたし、ここの台所みたいに道具も調味料もなにもなかった。
蛙の子は蛙。だから、私にだって無理なのだと。
「ごめんなさい……まさか、できると思わなくって」
すこしだけこぼれてしまった涙を指先で拭い、笑って見せる。ゆっくり息を吐くと、だいぶ気持ちも落ち着いた。
「なんで?」
「え?」
「なんでできると思わなかったの?」
けれど真雪さんの顔のほうが曇っていた。握ったままだったおたまを置いて、私へと向き直る。
「いや、えっと……不器用だし」
「菫、不器用じゃないよね? 包丁だって慣れたらうまかったし」
「自信なくて、料理に」
「どうして? やったことないなら自信もなにもなくて当然じゃない?」
落ち着いた気持ちが、再びだんだんとしぼみ始めていた。真雪さんの口調はきつくない。けれどどこか逃がさない空気をはらんでいる。
「菫さ、私にはムリ、って思ってない?」
「え、っと……」
「前も思ったんだけど、私なんて、どうせ私は、って空気を感じるの、菫から」
なんで? と真雪さんは続けた。
なんで、と聞かれても、と私は黙ってしまう。
それでも、黙っていたところできっとこの時間は通り過ぎてくれないのだと、わかってはいた。
「……母が、祖母と同じなんです」
その言葉は、いつの間にかすうっと私の口から抜けていた。
「世間的に見ても、私から見ても、駄目な母でした。そんな母と祖母もまったく一緒でした」
だから。
「だから、自分も同じだって?」
私が言うより早く、真雪さんが口にする。
私はただ頷いた。
しばらく、無言が続いた。ああやっぱり、言うもんじゃないんだこういうのは、と思うばかりの時間が過ぎる。
やがて聞こえたのは、真雪さんのやさしい声音だった。
「あのね」
その声に顔を上げると、真雪さんの顔は険しいというか真面目そのもの。
「もしその理論が当てはまるなら、あたしの両親はどうなるわけ?」
「え?」
「あたしさ、ノンバイナリーでしょ。もういっこは隠してたんだけど」
真雪さんがしずかに息を吐いた。
「アロマンティック・アセクシュアル」
初めて聞く単語に、理解がおいつかない。
「平たく言えば、恋愛もセックスも興味がない」
「あ……」
「もし菫が言うように、子は親と同じになるっていうなら、あたしの両親はあたしを生んでないわけ」
それに、と続ける。
「それならねーちゃんはどうなんのさ。あの人はあたしと確かにきょうだいだけど、違うよ」
薄々、わかってはいたのかもしれない。
真咲さんとは似てない真雪さん。同じ親から生まれたのに違う二人。匠海が言うように似ている部分はあったとしても、二人は別人格だ。
「菫が、そう思ってるのを否定したいわけじゃない」
真雪さんの手が、私の手を取る。
「でもそんな風に考えてたら、幸せになれないじゃん」
その細い指先の熱が、私の手のひらに落ちた。
「うちだってロクな親じゃなかったよ。ねーちゃんのことはただの道具扱いだったし、あたしにいたってはもうずっといないもの扱いされてる」
声が、ふるえていた。
「そんな奴らと同じになりたくないし、なるわけないじゃん。ねーちゃんは、菫に優しいでしょ」
胸に鈍い痛みが走る。握った手は、私を握り返してくれた。
「あたしはあたし。菫は菫だよ」
それは自分に言い聞かせる言葉だったのかもしれない。
自分だけが不幸なのだと思ったことはなかった。
本当だろうか。
明るくて、優しくて、甘い香りのする世界を見て、自分とは違うんだと勝手に思っていなかったか。
真雪さんはすこしだけ黙ってから、音がするほど勢いよく息を吸った。
「うし、肉食うぞ。肉」
私を見た顔は、いつものような明るい笑顔。
「いっぱい食べて、幸せな気持ちになろう」
握られた手は、温かくてしっかりしていた。
「はい。いっぱい食べましょう」
私も大きく頷く。
これでなにが変わるのか、わからない。なにも変えられないかもしれない。
それでも。
それでもきっと、意味はあったのだと思えるように、なれるといい。
二人、笑いあって肉を焼いた。私の手のひら二枚分ありそうな大きな肉は、一緒に焼いたカリカリのガーリックを上に乗せ、真雪さん特製のソースをまとい、白米と味噌汁とともに、二人の胃の中へと消えていった。