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夏休みが近づいてきた学校は、どこか浮き足立っていた。
海や花火や、ちょっと遠出しての買い物の話。誰かが今年は家族で東京に行くと言えば、いいなあと連呼される。
みんな、きらきらしてるな、と思う。私がこの場にいれるのが不思議なぐらい。同じ生き物なのかなとさえ思ってしまう。
でもここに、なんとかいれている。
それは紛れもなく真咲さんと匠海のおかげなのだろう。
帰りのバスは、暑さによるだるさ以上のものが、私の身体を覆っていた。島にかかった橋をバスが通ると、観光なのか海を眺めながら歩いて渡っている二人組が目に入った。
姉妹だろうか、背格好がよく似ていた。笑い声が聞こえてきそうなぐらいの笑顔を浮かべている。
バスは一瞬で彼女たちを置いていき、島へと入っていく。
海を横に、前に。坂を上って、下りて。バス停に留まるたび、人が減っていく。
さざなみ荘に最寄りのバス停に留まったとき、乗っているのはもう私だけだった。ありがとうございました。定期を見せ、運転手さんに挨拶をし、バスのステップをゆっくりと下りる。
潮風の匂いがした。高校だって港町にあるから、海の匂いがするはずなのに。
どうしてか、ここに立つと強くそれを感じる。
さざなみ荘への道をひとり歩く。たいした距離はない。突き当たりは海になるこの道を歩けばものの二分。
今日は定休日。真咲さんも出かけると言っていたから、誰もいないだろう。
そう思ってさざなみ荘に入る道を曲がると、玄関前に人がいるのが目に入った。
大きな赤いスーツケースに座って、スマホか何かをいじっている。
「あ、帰ってきた」
誰、と私が警戒したのと同時に、金髪の長い髪のその人が顔を上げた。目がばっちり合ってしまう。まだ距離はあるけれど、知らんぷりはできなさそうな感じだ。
その人は髪の毛以外、全部黒だった。暑くないのか、随分ゴツいブーツを履いている。その足が低い音を立てながら、私のほうに向かってきた。
「えーと、あれだよね、ねーちゃんが引き取った、女子コーセー」
近づいてきてわかる。美しい顔。服装に反してアイラインはレモンイエローだった。耳にはぱっと見、数えられないぐらいのピアスがついている。
「……どちらさま、でしょうか」
見たことのない、人だった。というか今まで関わったことのないタイプの女性だった。年齢的には二十歳過ぎぐらいなんだろうか。目尻にひとつだけホクロがある以外、真夏に似合わないぐらい肌が白かった。
「え、あたし? ああ、名前は月島真雪。ここって月島真咲が経営してるよね? その家族」
「真咲さんの、えっと、妹さんですか?」
全然似てなかった。というか真反対に見えてしまう。いや、人を見た目で判断してはならないけれど、顔立ちすら面影がない。
「んー、まあそんなとこ」
なにがそんなとこ、なのだろう。そんな答え、怪しさポイントが増すだけだ。ねーちゃんと呼んでいたからそうだと思ったのだが、従姉妹ということもありえるだろうか。でもそれなら従姉妹だと言うだろう。
「あ、今めっちゃあたしのこと怪しんでるよね? えらいえらい。そうゆうとこしっかりしとかなきゃね」
頭の片隅で匠海に助けを求めるべきかと考えていたのを見透かされたようで、思わず身体がびくっとしてしまった。
「まあねーちゃんさえ帰ってくればねー……まさかこの状況で玄関の鍵開けてくれとも言えないしさ。どうしよっか?」
どうしようかと言われても、といよいよ鞄のポケットのスマホを握ろうとしたとき、車のエンジン音が聞こえてきた。
目をやれば、勇海さんが運転する軽トラだった。助手席に真咲さんが座っているのが見える。
「お、噂をすれば」
金髪女性がラッキーと笑う。
さざなみ荘の敷地に少し入ったところで止まった軽トラから、真咲さんが勢いよく下りてきた。
「真雪、なんでこんなところにいるの」
その顔は心底驚いている。
「ね、ほんとに家族だったでしょ?」
真雪と呼ばれた彼女はそう言って私にへへんと胸を張る。私は返事もままならず、曖昧に二人の顔を見比べただけだった。
「で、どうしていきなり来たの」
あの後、勇海さんに買い出しの荷物を運び入れてもらってさよならしてから、私たちは三人、リビングのテーブルに座っていた。私は制服から部屋着に着替えたけれど、真雪さんは真っ黒なまま。
彼女は、二十代前半、といったところだろうか。首も手首も指先までもが全部細くて、アクセサリーが重そうだった。
目の前には勇海さんがおみやげと買ってきてくれたドーナツと真咲さんが入れてくれたアイスティー。だけどなんとなく、手をつけにくい。
ところが真雪さんはそれをぺろっと平らげてから二つめへと手を伸ばした。
「どうしてって……まあ、ちょっといろいろあったような、なかったような? 気まぐれ?」
「気まぐれって、せめて連絡ぐらい寄越しなさい。菫ちゃんに怖い思いさせたでしょう」
「あー、うん、それは悪かった。でもしっかりした子で良かったよ。ねーちゃんが親戚の子引き取るって聞いたときはだいじょぶそれ? とか思ったけどさ」
「真雪、論点をすり替えないの」
あやまりなさい、と真咲さんが強めの口調で言った。
それを真雪さんはむう、と口を尖らせてから「わかったよ」と息を吐く。
「菫ちゃんだっけ、悪かった。ごめん」
「あ、いえ……嘘じゃなかったですし」
「だよねー。あたし嘘は言ってない、うん」
「真雪、開き直らない」
「はーい」
似てない姉妹だと思った。今もそう。二人の顔立ちや背格好は、全然違う。
でも、さっきから二人のやりとりをみていると、とても兄弟姉妹っぽかった。血が繋がっているって、こういうことなのだろうか。
私に兄弟姉妹はいないから、わからないけれど。でも匠海のところも、こんな感じかもしれない。
「それで、大荷物だけど、どうする気なの?」
真咲さんがアイスティーを飲んでからそう訊ねた。カラン、と氷が音をたてる。
「あー、うん。良かったらひと夏ぐらいここに住めたらなーって」
二つめのクリームがたっぷり入ったドーナツをかじった真雪さんがあっけらかんとそう言った。唇の端に、シュガーパウダーがついている。
「……ちょっと待って、ここに住むの?」
「そ。元民宿って言ってたし、空き部屋あるかなーって思ってさ」
「あるかなーって、そりゃあるけど、あなた、仕事は?」
「辞めてきた」
きっと真咲さんも話の展開についていけていないのだろう。しかし私はそれ以上だ。外野でしかないけれど、さざなみ荘に帰ってきてから一度も落ち着けない。
連絡もなしに突然来て。ここに住みたいと言いだし。仕事は辞めてきたと。
とりあえず随分と思い切りのいい? 自由気まま? な人だということはわかった。
「え、ダメ?」
きょとんとした顔で、真雪さんが私と真咲さんを交互に見る。
「いや、だめっていうか……」
なぜか真咲さんも私を見た。もしかして私が嫌がると思っているのだろうか。たしかにせっかく慣れてきた環境がまた変わるのは、と思わなくもないけれど、真咲さんの家族ならば私に拒否権はない。
「あ、あの、私はべつに。妹さんなら、私がなにか言えた立場ではないですし……」
そこまで言ってから、真咲さんの表情が変わったことに気がついた。「うん?」といった疑問符が頭に浮かんでいるごとく、目をぱちぱちさせている。
「真雪、あなた自己紹介しなかったの?」
「いや、したよ。月島真雪です、月島真咲の家族ですって。ね?」
真雪さんがそう私に聞くので「はい」と頷いた。
しかし真咲さんは、うーんと唸るように眉根を寄せてから、真雪さんの方に向き直った。
「一緒に住みたいというのなら、私としては正直に話したほうがいいと思うのだけれど」
「え、あ、そだね。うん、べつにいーよ。菫ちゃんなら」
真剣な声の真咲さんに対して、真雪さんの声は軽かった。アイスティーをストローで一気に啜っている。
「あのね、菫ちゃん、真雪は妹じゃないの」
「え、でもそんなとこって……」
「弟」
「……え?」
「身体は男なの」
はい? と思わず左隣の真雪さんをまじまじと見てしまう。彼女……いや彼? はアイスティーを飲みながらなぜかピースサインを私に見せる。
とてもきれいな顔立ちに、しっかりめのメイク。髪はさらさらの金髪ストレート。確かに服装はどっちとも言えずなモードな感じだけれど。
すっかり、女性だと思ってしまっていた。
「正確にはノンバイナリーってやつでさ、男でも女でもあるというか、性別がないっていうか」
知っている言葉だった。去年、高校で習ったところだ。身体の性に関係なく、性自認、性表現に男性女性の枠組みをあてはめない、というセクシュアリティー。
LGBTQ+のことを学んだときには、多様ってこういうことかと思ったとはいえ、まだまだ実感のわかなかった言葉。
「ねーちゃんが心配してるのはわかるよ。あたしは性別に捕らわれないってだけで、身体は男だし、中身に男の部分もあるわけだし」
「あ、あの」
そしてこういうとき、どういう反応をすべきなのか。どういう言葉を伝えるべきなのか。それは誰も教えてくれなかった。
それでも無反応ではいけない、気がした。
「もしかして失礼なこと言ったりしませんでしたか?」
「ん?」
「私、てっきり女性の方だと思いこんでしまって。勝手に妹さんだと決めつけて……その、傷つけたりしなかったかなって……」
なにが正しいかもわからない。もしかしたら更に失礼なだけかもしれない。
失礼しました、と頭を下げると、ズズーッというストローで吸う最後の音が鳴り響いた。
「うん、やっぱりあたしここに住むわ。いいでしょ、ねーちゃん」
「まだ菫ちゃんがいいとは言ってないでしょ」
「えー、ダメ? 菫ちゃん?」
え、と顔を上げる。真雪さんはとびっきりの笑顔でこちらを見ていた。眩しいぐらいに、きれいでいて、あっけらかんとしていた。
「最初にそうゆうこと言ったの、菫ちゃんが初めて」
「えっと……そう、なんですか」
「うん。あたし、あなたとなら一緒にやってける気がする」
ね、だからいいでしょ? と真雪さんは言う。やっぱり自由気ままというか、奔放というか。
正直なひと、なのかもしれない。
「あ、えっと私は、その、さっき言ったように、拒否する権利はないので……」
真雪さんのセクシュアリティーがなんであれ、家族が同居することに部外者の私がとやかく言えるわけもない。
そう思って「だから、いいです」と答えようとしたところで、今度は真咲さんの手が私に延びてきた。
「えっ、ま、真咲さん?」
爪が短く手入れされた柔らかい指が、私の鼻をつまむ。
「なんでそんなこと言うの。私、悲しいわよ」
そうだそうだーと横槍が入る。
「菫ちゃんだって家族でしょう?」
やさしい、声だった。
同時に、いやになるぐらい、寂しい言葉だった。
家族。私にとっての家族は、男にすがった母と、男にすがった祖母だ。
こんな、きれいで優しい人たちが、家族なわけがない。
鼻から指が離される。解放された鼻が、甘い匂いをかぎ取った。
「すみません……あの、でも私も、真雪さんが住みたいと言うのなら、異論はないです」
それはドーナツの香りなんだろうか。
それともこの人たちから香る、とてもいいものの香りなんだろうか。
わからない。わからいけれど、ここが今の私の居場所だから。
「じゃあ決まりね。わーい。どの部屋空いてるの?」
「あのね、民宿はもうやってないんだから」
そんな二人の会話を聞きながら、静かにアイスティーを啜る。砂糖の入ってないそれは、ちょうどいい具合に、苦かった。