3.出立(1)
「おはよう」
眠気まなこを擦りながらサンドがノソノソと階段を降りてくる。
「また夜更かししたのか?いつも言ってると思うが——」
「あー、分かってるってば。ちょっと急ぎの仕事頼まれてたからしょうがないじゃないか」
不機嫌そうな表情で食卓に着くサンドを見て、これ以上の指摘は逆効果になりそうで続きの言葉を飲み込んだ。
「おはよ。おじちゃん」
続いてリビングに入って来たナナシは対照的に、しっかりと身支度を済ませている様子だ。さらにすっかりナナシの隣が定位置となったマルの首元には、ナナシが選んだであろう赤いスカーフが巻かれている。これまで俺が何度挑戦しても首輪の一つも嫌がって付けなかったあのマルが、今ではまんざらでもないのか毎日首に巻いたスカーフを靡かせているのだから多少のジェラシー的な感情も抱いてしまうというものだ。
「おはよう、ナナシ。……それにしてもマルお前少し太ったんじゃないか?」
そう言ってマルの身体を撫でると、『触るな』と言わんばかりの鋭い視線を向けてくるマル。遂に俺は飼い主ですらなくなったのか。しかし久しぶりに触って気がついたが俺と二人で過ごしていた時とは異なりすこぶる毛並みが良くなっている。フワフワになった毛が、ふくよかになったと錯覚させたようだ。悔しいが飼い主としては俺よりもナナシの方が向いているようだ。
「ほら、ご飯できたからみんな早く席に着いて。せっかくのご飯が冷めるわよ」
カリモさんに促され全員が席に着き、ナナシの「いただきます」の合図で朝食が始まった。
若いサンドは勢いよく口の中に食べ物を次々に押し込むと、それを飲み物で胃へと流し込む。ナナシはちょこちょこと行儀良く朝食を口にしているが時折コソコソと自分の朝食を側に座るマルに与えている。カリモさんは挽いたばかりのコーヒーを美味そうに飲んでいる。
「話があるなら早く言いなさい薫君。ジロジロと私たちの様子を伺って。何か話があるんでしょ?」
ポーカーフェイスには自信があったのだが、カリモさんにかかればそんな自信など簡単に粉砕されるのだと改めて思わされた。だが果たしてこんな世界になってから得た安定した生活を放棄する話をしてしまっていいものかと葛藤がある。自分一人だけであるならばなんの迷いもなく正しいと思う道に進めるのだが、複数人ではそう簡単にはいかない。何せ人それぞれ正しいと思っている事が一緒だとは限らないからだ。そして何よりみんなの平和に過ごす姿を見ていると自分の判断に迷いが生まれる。
「ここ数日で無勢と何度か話をしたんだが、恐らくここを離れることになる。やはり雲行きが怪しくなってきてるらしい。すまんなみんな」
「何でおっちゃんが謝るんだよ。みんなでまた新しい場所探せばいいだけでしょ」
先程まで不機嫌だったサンドがそれが当然の様に言われると、幾分か救われた気持ちになるのと同時にサンドの心根の優しさを嬉しく思った。
「そうそう。またみんなで冒険に出かけると思えばそう悪くないわよ。ねぇナナシ」
カリモさんの問いかけにナナシは満面の笑みを浮かべて頷く。ナナシにとってはちょっとした遠足気分なのかもしれない。
「そう言ってもらえて助かる。まだ何も決まってはいないが
、恐らく無勢の一団と今後行動を共にする事になると思う。このあと今後の話をするから、サンド。お前も話し合いに参加しろ」
「それはいいけど、指示されてる見回りの仕事はどうすればいいの?」
「それなら無勢が手を回してるから気にするな。朝食を済ませたら準備しておけ、あいつが迎えに来るからな」
サンドはそれを聞くと急いで朝食を食べて自室に戻った。そのすぐ後にチャイムが鳴りカリモさんが玄関に向かうと無勢を連れて戻ってきた。
「いやー、まだ朝食途中でしたかこれは悪いことをしました。いやー本当いい匂いだ。お腹が空いてきますね」
「今あなたの分も出すから座ってちょうだい」
カリモさんはそう言って無勢に朝食とコーヒーを出す。
「何だか催促したみたいで申し訳ないですね」
「催促してるだろうが。お前にも支給された食料があるんだから、わざわざウチに来て飯を食うな」
呆れてため息を吐きながら無勢に話すが、聞いている素振りさえ見せずに出された飯を貪り食う。
「おはようロンゲさん。早いねもう来たんだ」
用意を済ませて降りてきたサンドが挨拶をすると、口一杯に食べ物を詰め込んだ無勢は頬張りながら答えるので、テーブルに口の中のモノが飛ぶ。
「汚ねぇな。口を開けるな口を」
無勢は急ぎ口の中のモノを飲み込む。
「あー、美味しかった。カリモさん朝食ありがとうございました。ナナシちゃんは今日も可愛らしいね。そうだ、この前美味しい飴を手に入れたから今度プレゼントするからね」
「いいからさっさと行くぞ。いつまでも俺の家に入り浸るな、家なき子かお前は。それになによりナナシの教育に悪い」
「誰が素行不良な中年だ」
俺と無勢のやり取りを見て三人は声を出して笑った。
カリモさんとナナシ、マルと別れて俺たち三人は無勢が乗ってきた車に乗り込む。運転席にはサンドが座り助手席に無勢が座るため俺は必然的に後部座席に座る。
「普通は保護者の俺が助手席じゃないのか?」
「薫ちゃんが隣に座ると横からゴチャゴチャうるさく言われてサンドが可哀想だろ?運転はリラックスしてするに限るの。大人しく後ろに座っときな」
貶された側としては納得は出来ないが、言ってる事は理解できる。そのせいで尚更怒りも湧くというモノだ。だが確かに俺が助手席に乗れば言わなくてもいいことまで言ってしまいそうなのは事実なこともあり、ここは甘んじて後部座席で大人しよう。
走り出した車は無勢の指示した方角へと進む。時折ブレーキの踏むタイミングや、ハンドルの切り方に意見を出したくなるが釘を刺されたこともあり、グッと開きかけた口を噤む。
「それで何処に向かってるんだ?」
気を紛らせるつもりで何気なく質問すると、無勢はルームミラー越しに視線を向けて話す。
「周りにバレたら即終了の秘密の話だからな。アリサさんが管理している研究施設の一つを提供してくれたからそこに向かってる」
「本当に大丈夫か?研究施設なんてそれこそ司令官の監視下じゃないのか?」
「施設は何ヶ所にも分散されていて、流石の奴らもその全てを管理何てできてやしないからそこは大丈夫だ。それよりも想定していたよりも早く、ここを出て行かないといけない事態になりそうだ。奴ら思いの外敏感でな、俺たちの行動に気づくまでそう時間がないかもしれない」
「出て行くのはいいが、拠点を早く見つけないと大人数で長く夜間の行動をとるのは感染の危険も上がるんじゃないのか?」
そう問いかけると無勢はミラー越しにこちらに送っていた視線を逸らして答える。
「……まぁそこら辺の話も今日アリサさんからあるから、そう焦るなよ薫ちゃん。それに車内とは言え盗聴されてないとは限らないんだ。話はまた移動したあとにしようぜ」
「お前が使っている車が盗聴されるとは思えんが……わかったよ。話は後でしっかりと聞かせてもらう」
ミラー越しに映る無勢の顔からはいつものニヤついた笑みが消えた真面目な顔をした無勢が映っていた。
その後サンドが運転する車は、沈黙した俺たちを乗せ目的地へと静かに向かった。




