1.ニューライフ(3)
時計の表示は午後五時、台車を押しての移動の為どうしても時間を要してしまう。拠点までの距離は残り百メートルほど、周囲に対しての警戒を上げる。
「マル、頼む」
拠点を中心にマルが周辺を調査に回り問題がないかを確認する。その間に俺は周辺の建物内に異変がないか見渡しながら拠点へと歩く。拠点に戻る時はいつも真っ直ぐ帰らない、万が一を考えて追跡が難しいルートを通るようにしている。相手が猟犬を従えていれば話は別だがそうそう、そんな奴はいないだろう。
建物内は特に異変はなし、拠点にも押し入られた形跡はない。しかし改めて拠点の外観を観察してみたが、中々に立派な家だ。ヨーロッパ風でシンプルな外観、あとは少し残った外構を仕上げれば完成だっただろうに無念だろう。辺りを見回り終わったマルが拠点の玄関まで帰ってきたのを見計らい玄関の扉を開け台車ごと室内に持ち込んだ。マルを家の中に入れ鍵を掛ける、この時、チェーンはしない。万が一、侵入者が現れた場合、屋内に誰か居ますと教えているのと同義だ。だから敢えて外したままにしている。
地下室へ繋がる床下扉を開き、入り口に置いているランタンのスイッチをいれた。LED球のおかげでこれだけでも地下室での生活に不便しない。台車に乗せて運んできたポリタンクの固定を外し、一つ一つ地下へと運ぶ、最後に運ぶのに使った台車も地下室へ降ろし終わった。マルが地下室に降りている事を確認した上で、床下扉を静かに閉じた。床下扉は中から鍵ができる作りとなっおり、一度入れば余程のことがなければ外からは侵入できない。俺は念の為、ダンボールを床下扉に貼り外に光が漏れるのを防ぐ。
降ろしたばかりの灯油入りのポリタンクを部屋の隅にまとめ、ゴーグルと防毒マスクを外し、小洒落た木製のハンガーラックにぶら下げておく。まさかこれをデザインした人物もこんな物を吊るすのに使われるとは考えもしなかったろう。そのすぐ横に並べたダンボール箱が二つ、ウエストポーチから出した貴金属とタバコを分けて投げ入れる。次に鞄から取り出したマルお気に入りのドックフードを棚に並べられた別のドックフードの横に並べた。マルは今にも飛びかかりそうな程に興奮している、その様を見ると仕事中、俺たちのは探索中だが、その間にこの歓喜を抑えてくれているのかと思うと頭が下がるが、まだ夕食には早いと諌める。マルは残念とばかりに落ち込み、マルのために持ち込んだペット用のベットへ行き、ふて寝した。俺はそれを横目に持ち帰った物資をそれぞれの保管場所にしまう。地下室は一辺がだいたい五、六メートル、高さ約三メートル、十二分な広さと高さのおかげで窓がなくても、閉塞感とは無縁だ。そして極め付けは防音設備を有しているのだ。持ち主のこだわりが垣間見えると共にこの部屋を何に使うつもりだったのか疑問も生まれる。なにせこれほど大きな地下室への入り口が、人一人分のしかも床下扉だ。おかげでソファーを持ち込めず、ビーズクッションに座る羽目になった。この拠点の数少ない不満点だ。俺は偶然見つける事ができたが、そうでなければ床下収納への扉にみえてしまう。それだけの情報だが、ここの完成を心待ちにしていたであろう持ち主が、普通の趣味、の人物ではなかったのではと勘繰ってしまう。しかしそのおかげで今、マルと夜を静かに過ごせている。そう考えると、これ以上の無粋な詮索はやめた。部屋は四角形の構造で北側の壁に棚を設置している、日用品、食品、その他備品でそれぞれ仕分け、整理して規則正しく並んだ数々の物資。我ながら壮観だ、長年スーパーで勤めた為、レイアウトには少しこだわりがある。売れ筋、大きさ、色、etc…。今となってはそれほど役立つ能力ではないのが口惜しい。
物資を片付け終わった。これで今日の予定は終了だ、張り詰めた緊張から解き放たれ急に身体が重たくなる。肩に担いだままのライフルと腰に巻いたナタをホルダーごと、地下室での俺の定位置、大きなビーズクッションの隣に立てかける。衣服を全て脱ぎ階段下の洗濯カゴに押し込む。そばに準備しておいた洗面器にペットボトルの水を注ぎ、そこにタオルを浸し絞った。湯水の如く、なんて言葉がある国は世界広しと言えどもこの国ぐらいではないだろうか、あの平穏な日常では蛇口を捻れば飲める水がいつまでも溢れ出た。水資源が乏しい国からは信じられない夢の様な光景だったことだろう。しかし電気が止まった事でそれまで当たり前だったあらゆるものが失われた。飲み水の確保は現状それほど難しくはないが、生活用水となると厳しい、何せ何十リットルも必要とするからだ。なので濡れタオルで身体を拭くことで清潔を保っている。服を重ね着ての探索行動のため大量の汗で不快だった身体は拭くだけでも気持ちがいい。使い終わったタオルはハンガーに掛けて棚に吊るしておく。
棚から物色した新しい下着とTシャツに着替える。棚に大事に飾っているお気に入りの緑色が滲む薩摩切子のグラスを手に取り、ウイスキーを一本ストックから出してグラスに注ぐ。ビーズクッションに腰を下ろしようやく一息つけた。
「マル、そう怒るなよ」
隣でまだふて寝を続けるマルを撫でながらウイスキーを口にして、今日の疲れを癒した。
マルが顔を舐めている。どうやら疲れて眠ってしまったようだ。いやはや歳はとりたくないものだ、まるで公園で日向ぼっこをしていたら寝てしまうおじいちゃんのようだ。時計の表示を確認すると、午後八時、いつもの夕食の時間を三十分も過ぎていた。そりゃあマルも腹が空いているはずだ。
「悪い悪い、すぐに用意するからな」
声を掛けるとマルは尻尾を勢いよく振り回す。エサ入れを拾い上げて棚のドックフードを選ぶ、まだ残りが入っている袋が残っているが、流石にお預けをした後に期待外れのエサを出すのは忍びない。今日手に入れたマルお気に入りのドックフードをエサ入れに流し入れ、マルの目の前に置く。マルは俺の目を真っ直ぐに見つめる。
「よしっ」
合図と共に凄い勢いで頬張る。人間の俺からすれば違いなど無いように感じるが、やはりそこは人間と同じで好みがあるのだろう、食べるスピードがまるで違う。
次は、自分の食事の用意を始める。棚からカセットコンロを取り出す、ガス漏れ予防の為ガスボンベはいつも外して保管している。多くの人はたかだかそれぐらいと思い、管理を疎かにする。しかし、その結果が火事に発展する事もあり得るのだ。手間と最悪の結果を想定すれば大抵の手間はかけるべきだと俺は考えている。棚に並ぶ食料を眺め吟味する。本当は缶詰類は長持ちするので使うのを後回しにするべきだ、だが同時にこんな環境下では食事は何よりの楽しみ、妥協はしたくないとの強い思いもある。よって缶詰のトマト缶とオイルサーディン缶、あとはパスタを二束、深めのフライパンを出し、トマト缶とオイルサーディン缶を全てフライパンに入れて火をつける。熱を帯びてきた頃合いでパスタ二束を投入し時折り箸で混ぜ、茹でる様に煮詰める。パスタを一本、口に運ぶ、硬さを確認して火を止めた。そのままフライパンと箸、あとは棚からヌルいビールを一本手に取りビーズクッションに座る。
「いただきます」
料理と呼べる代物ではないがこれがなかなかに美味いのだ、トマトの酸味にオイルサーディンの塩味のコラボレーション、さらにパスタを直接煮込む事で旨味をパスタが吸収する。更にビールで胃に流し込んだ日には最高だ、ただ惜しむのは冷えたビールではないことだけだ。
あっという間に平らげてしまった。マルもとっくに食事を終わらせて眠りについていた。心地良い満腹感に包まれるがまた寝入る前に片付けを優先する。使い終わった缶はまとめてある缶の袋へ、フライパンと箸は洗面器に残った水で綺麗に洗う。水気をトイレットペーパーで拭き取り、棚の元の位置に戻しす。ビーズクッションへと戻り、寝入るマルの頭を一撫で、ランタンの光量を下げ、静かに瞳を閉じた。