2.別れ道(7)
青々とした芝生の上を走り回る少女と白い犬。少女が手に持ったボールを投げると犬は嬉しそうにボールを追いかけ、ボールを咥えると少女の元に届けに戻る。その様子を少し離れた場所で、両親と思しき男女が肩を寄せ合い微笑んで眺めていた。少女と犬は二人を目指して競争を始めるが、犬は少女にペースを合わせ時折心配そうに何度も少女に顔を向けて遅れていないか確かめている。先に辿り着いた少女を男が抱き上げた、それと同時に少女の腕時計のアラームが鳴り響く。
「もう時間だよ」
少女の言葉と共にそれまでの景色は一変して男以外の全てが消えてしまい真っ暗な中をただ一人で立ち尽くす男。残ったのは暗闇の中を響き渡る少女の腕時計のアラーム音だけだった。
日課の柔軟体操をして身体のコンディションを確かめる。マルはいつもと変わらず横になったまま時折横目でこちらを伺う、山巣と少女は疲れが溜まっているのだろう起きる気配はない。
着替えを済ませて荷物を準備していると山巣が目を覚ました。
「おはよう、おっちゃん」
「あぁ、よく眠れたか?」
「うん、不思議とよく眠れたよ」
眠気まなこを擦り少女も起きてきた。山巣が朝の挨拶を少女に言うと彼女は笑顔を返した。起きてきた二人に温かいお茶とカンパンを朝食として渡して食べさせる。今後についての話を切り出そうとするとそれまで和やかだった二人の表情が一変し、不安な表情に変わった。
「まずは安心しろ、お前たちをほっぽり出したりはしない。当分は俺が面倒をみてやる。だがずっとじゃない、生きる術を教え終わるまでだ。わかったな?」
二人は不安な表情が少し和らぎ大きく頷いた。
「あとお前たちの呼び方だが、山巣はこれからサンド。お嬢ちゃんはナナシだ」
「僕は今のまま山巣でいいよ」
「バカ、何処で誰が聞き耳立ててるかわからないんだ、本名は大事にとっておけ、そして何事も警戒しろ。まさかや何もそこまで、きっと大丈夫なんてのは失敗しても取り返しがつく事態だから許されるんだよ。出来ることは何でもやれ」
「わかったよ。でも何でサンドなの?彼女は名前がわからないから名無しのナナシってのはわかるけど」
「山巣 道明の山と道でサンドーだろ」
「彼女もそうだけど僕の名前もひどいね。おっちゃんネーミングセンスが壊滅的だよ」
全くもって心外だ。と考えながらも自分で気づいていなかっただけなのではと自分自身に疑問も生まれる。なにせじいちゃんのネーミングセンスを知っているだけに、そのセンスを受け継いでいる可能性を考慮にいれると強い否定は出来ない。
「ま、……まぁただの呼び名だ、深く考えるな。それと今から俺は済ませたい用事があるから出かける」
「用事なら手伝うよ」
「いや一人でいい、それに色々あって二人とも疲れてるだろ。護衛にマルを置いていくからゆっくり休め。あとここにあるものは好きに使ってくれて構わない」
気を遣ってくれるのはありがたいが、今日の行動に連れて行けば足手まといになるのは目に見えていたので残す事にしたが、義理堅そうなサンドは申し訳なさそうにしている。
「マル、悪いが二人を頼んだぞ」
声をかけ頭を一撫でする。撫で終わるとマルは自らまだ食事中のナナシの側に近寄り身体を横にした。元来動物は弱者を嗅ぎ分ける力に富んでいるそうだがそれでも、守る順番を理解しているのが誇らしく嬉しかった。装備や荷物の準備が終わり後は出発するだけとなったが、自衛の為にとサンドには予備として持ってきていたコンバットナイフを渡した。
「あるに越したことないから持っておけ。いつでも誰かが助けてくれる訳じゃないんだからな」
昨日出会った人間にわざわざナイフを持たせるなんて危ないことは今までならしなかった。しかし昨日から二人を監視したが面倒見のいいサンドにナナシも怯えることなく懐いている。少なくともナイフ一本分ぐらいは人を信用してみようと思った。
サンドはナイフを受け取るとナナシに見えないように毛布で隠した。出たら鍵を閉めて部屋を出ないように釘を刺して扉の鍵を開ける。
「行ってらっしゃい」
出かけようとした背後からサンドの声でなんとも懐かしい言葉が耳に届いた。それと同時に誰かが俺の腰にしがみついた。振り返るとナナシが抱きついてこちらに笑顔を向けている。声が出せないナナシなりの送り出す挨拶なのだろう。そんなナナシの頭に自然に手が伸びたが、我に返りその手をナナシの肩にのせ二度ほど軽く叩いた。
「行ってきます」
送り出されて部屋を出た。一階までの階段を登る足がいつもよりも軽い気がする。そして何も持っていない掌をただぼんやりと眺めてしまう。今の自分は果たしてこれからの事を考えているのか、それとも何かを振り返っているのかさえ定かではない。階段を登り終え一階の扉前に着いたがまだ心を整理できていない。目を閉じ、開いていた掌を握り締め深呼吸を繰り返した。少し高鳴った心臓が落ち着きを取り戻すのを待って、日常への扉を開けて歩みを進めた。
昨日ショッピングセンターの監視に使った建物とは別の家に侵入し、二階からまたショッピングセンターを監視している。サンドの話を聞く限り彼らはそれほど口の硬い仲間ではなさそうだ、もし拷問でもされた日にはマーライオンの如くドバドバと情報を話すだろう。そうなれば必ず奴らはまたここに現れて二人を探すのは目に見えている。だが昨日の時点で奴らに二人の事を話していないことを考えると、恐らく取り越し苦労だとは思うが監視を続けた。
単眼鏡が映すショッピングセンターの駐車場にはおびただしい数の鳥が集まっている。鳥たちの標的は昨日撃ち殺された彼女で既に原形をとどめないほど食い荒らされていた。その光景に人間もただの動物なのだと教えられた。そんな光景を見ながら一つの問題が頭の中を巡っている。カリモさんだ。彼女自身とは面識すらないのだが、葉山さんの娘さんである彼女をこのまま放っておいていいのかと自問していた。葉山さんは東京に出た後のカリモさんと疎遠だったからか、彼女の話を殆どしていなかった事もあり名前を聞いてようやく思い出したぐらいだ。そんな彼女の為に多大な犠牲を払う危険が伴っても助かるべきかと言えば確実に否である。しかし彼女の親である葉山さんには言葉では言い尽くせない程の恩がある。本当はそれだけでどうすべきかは決まっていた。腕時計は午後一時を表示している。奴らが偵察に来るのは午前中のため今日の所は一先ず安心だ。日没まではまだ時間があるのを確かめ一度メインの拠点に足を向けた。
道の所々にできた水溜り、飛ばされたゴミや木の葉が昨夜の嵐の激しさを物語っていた。数日ぶりに訪れた拠点周辺はいつもと変わらず異常は見受けられない。だがいつにも増して警戒を強くした。
建物内にも異変はなく数日ぶりに降りたはずの地下室が随分懐かしく感じられる。本当は一息つきたいところだが時間もあまりないため大型のボストンバックに必要な物を詰めていく。衣服や食料品にコンロ、詰めていくと結構な量になってしまったが何とかバック一つに収まった。時計に目をやるとまだ少し時間には余裕があるので棚からグラスを取り出しウイスキーを注いで出口の階段にグラスを置いた。階段下に隠している鍵付きの保管箱を引っぱりだし鍵を外し、中から出した銃弾を手に取り階段に腰を下ろす。ライフルの弾倉とウエストポーチに入れた予備の弾倉に弾を込め、側に置いたグラスのウイスキーを一気に口に流し飲み干すと自分でも驚くほど大きなため息が出てきた。しかし間をおかずにランタンの明かりを頼りにライフルの整備を急いで行い部屋を離れた。
町役場の拠点に帰る途中、少し道を外れて衣料品店にナナシ用の服を調達しに寄った。ナナシの服の趣味はわからないがあまり目立たない色合いの服を中心に袋に詰め込む、髪留めなどその他小物類なども適当に見繕い店から出ると、まだ道に残る水溜りや建物の窓を怖くなる程赤い夕日が眩いほどに照らしている。手には大きなボストンバッグにナナシの服が入った袋、第一のルールに違反しているこの状態に不安を覚えて自然と帰る足は早くなった。




