1.ニューライフ(1)
―世界なんていつなくなってもおかしくない―
気づけば俺のモットーになっていた。物心つく前に阪神淡路大震災、物心がつく頃にはノストラダムスの大予言、就職時期にはリーマンショック、転職時期には東日本大震災による福島原発メルトダウン、そして今この時いつ世界大戦が起こってもおかしくない世情だ。いつだって何かが起きたり、起こる事を望んだりとは、溜めすぎた溜め息のあまりに魂まで放出してしまいそうになる。いっそのこと全世界に存在する核爆弾を使って人類ラストを飾る花火大会でも開催してくれた方が清々しいとさえ思えてならない。
ただそう思っていた、そして思えていた事がどれほど恵まれていたのかを日常を失った時、初めて気づくのだと俺は知った。
始まりは都心ではなく北からだった。最初に報道されたテレビのニュースでは原因不明の感染症が広がっているとだけ、次に報道された時にはあらゆるSNSや動画サイトに北の惨状が拡散され尽くした頃だった。それの感染はこれまでのどの病よりも急速に広がり、瞬く間に日本全土を埋め尽くした。これまで長年積み上げてきた人類の文明が最初の報道からたった十日ほどで崩壊するなんて多くの人たちは考えもしなかっただろう。
「そろそろ行こうかマル」
声を掛けると足速にマルが駆け寄ってきた。マルはその名前に似つかわしくない精悍な面持ちのシベリアンハスキーだ。毛色は単色の白が全身を覆う。生まれてすぐにじいちゃんが引き取り狩猟時の俺のお供にと育ててくれたのだから今となっては感謝の限りだ、でも名付けのセンスだけはズレてる人だった。地下室での生活にも慣れてきたせいか外へ探索に出るのが少し億劫に感じる、しかし生きる為には物資が必要だ。それに溜めた糞尿をいつまでも部屋の隅に置いておくわけにもいかずライフル銃を肩にかけ研いだばかりのナタを腰のホルダーに納め重い腰をあげる。立ち上がる瞬間が一番歳を重ねた事を実感する、もうアラフォーまでそう遠く無いなどと考えながら顎に蓄えた髭を触り渋々外へ出る準備を進める。
一階へ繋がる階段を静かに登り床下扉の前で首にぶら下げた防塵機能付きの防毒マスクを口に付け、水泳ゴーグルで目を守れば準備は万端だ。音を極力出さないようにゆっくりと扉を持ち上げ周囲を見渡す。特に異常はなさそうだ、扉をいっぱいに開けマルを外に出す。
「マル行け」
合図を聞くとマルは一階、二階と順に異常がないかを見回る、異常があれば一度吠え、俺の元へと戻るように訓練している。いつまで経ってもこの待っている時間が嫌いだ、自分のリスクをマルに背負わせ、ただただ待つこの時間が。
窓に打ちつけた板の隙間から差し込む光が部屋を舞う埃を目立たせ防毒マスクが埃の吸引を防いでくれていることに感謝できた。確認を終えたマルが帰ってきて胸を撫で下ろし玄関へ向かった。覗き穴から外を伺いまた問題がないのを確認し鍵とチェーンを外す。余談だが玄関の覗き穴はドアスコープやドアアイと言うらしい、小さな穴にしては立派な名前をお持ちなのだ。
玄関から外へ出ると登ったばかりの朝日がゴーグル越しにでも眩しかった。玄関の鍵を閉め周囲を警戒しながら進む。外では俺が前を歩き後ろをマルが付いてくる。人と違い前以外にもアンテナを張れるマルが背中にいると随分と心強い。
「さてと、今日は何処を探すか。今の所俺の食料は当分大丈夫だし酒もある。心許ないのがお前のドックフードとこれから重要になる灯油だな」
どうも、一人になってからマル相手に話をするのが習慣になってしまった。これはどこぞで読んだのだが一人孤独に無言で過ごすと精神疾患を発症する確率が格段に上がるそうだ。俺にはマルがいてくれて行動面、精神面全てにおいて救われている。
「一番近いホームセンターに行ってみるか、あそこならお前が好きなドックフードもあるかもしれないぞ」
声を掛けると理解したマルは尻尾を激しく振る。俺はマルの頭を一撫でし、再び警戒を強めて移動を始めるとマルも尻尾を落ち着かせ背後の警戒に戻った。目的のホームセンターまでは約三キロ、警戒しながらとはいえ一時間もあれば着く距離だ。肌寒い季節が近づいて来たとはいえ薄手のダウンを着ての移動やはり暑い。防毒マスクでの呼吸も楽とは言えないし、ゴーグルないに溜まる汗も定期的に拭き取るのが面倒だ。しかし安全面を考慮すれば仕方のない事だ。
移動中は肩にかけたライフルも腰に下げたナタもどちらも手には持たない。
ルール第一、手はなるべく空けておけ
いつ塀を登るかわからないし、手に物を持って全力疾走するのは骨だ。そして何より手が疲れる。
道すがら道路に乗り捨てられドアが開いたままの車が何台かあった。警戒しながら小物入れやダッシュボードの中を確認し、ライターやタバコを探し、あれば回収して腰に巻いたウエストポーチへと入れていく。たまに貴金属の類も見つけたが貴金属は値打ちがありそうなものだけを回収した。自分とマルが出す音以外は野鳥の囀りぐらいしか聞こえない、現代人として育った俺がこの静けさに慣れるにはまだ時間が必要だ。
「小腹が空いたな、少し寄り道するか」
通り掛かりに見つけたコンビニで栄養補給することにした。外から中を注意深く確かめる、電気が付いていない店内は薄暗いが太陽の光はやはり偉大だ、問題なく店内を確認できた。物資を大量に確保する時を除けばこういった小型店舗、とりわけコンビニは勝手がいい。入り口側がガラスな為、容易に室内の状況を把握できるからだ。腰に下げたナタをホルダーから取り外し構える。軽く深呼吸をし、マルに目をやり頭を一撫でし音を立てないように店内へと入った。床には棚に陳列されていたであろう商品が至る所に散らばっていた。いくらお行儀がいいとされている日本人でもこんな事態になれば治安の悪化は免れない、目立つ食料は大方持ち去られた後だが棚の奥に隠れていた焼き鳥の缶詰を見つけポケットに入れた。ドリンクコーナーにはまだ幾分か残っていたビールがあったためそれも一本ポケットに入れた。その後バックヤード、トイレ、レジ裏を確認して安全を確保した。ここで持参した糞尿を蓄えた袋を背中のリュックから取り出しトイレに流したが貯水タンクが空の為流れない。おればバックヤードに行き、廃棄と書かれたドリンク類を大量に貯水タンクへと流し込み無事糞尿は下水へと流せた。
ルール第二、トイレはそのままにせず流すべし
衛生的にも視覚的にも嗅覚的にも、何より俺的にもそのままなんて耐えられないからだ。トイレを出てすぐに雑誌コーナーがありまだ読んでいない雑誌を二冊リュックに詰め表に出て駐車場のタイヤ止めブロックに腰を下ろし防毒マスクを外し深く息を吐いた。
「お疲れマル、お前も食べな」
ポケットに入れた缶詰を取り出して開け一切れ食べ、残りをマルの前におくと美味そうに食べ始めた。別のポケットに入れたビールを取り出し手袋を外して開け一口飲むが生温い為それほど旨くはない、それでも飲んでしまうのだから中年男の悲しいさがと言わざる終えないだろう。マルが隅々まで丁寧に舐め回した缶は眺める俺の顔を映すほど輝きを放つ、もう回収される事は無いと分かってはいたが、ゴミを店備え付けのゴミ箱へと入れた、やはり俺はまだこの世界に慣れていないと実感する。手に握ったナタをホルダーへと戻し防毒マスクを付けマルの頭を一撫で。警戒を強めて目的地を目指し歩き始めるとマルもまた俺の背中の警戒を強めた。