第4話「丸つけのその後」
「ごちそうさまでした」
夕飯が食べ終わり、食器を洗った後、ユウは自分の部屋に戻り、かばんから教科書とノートを取り出した。
「さて、宿題をさっさと終わらせないと」
机に並べた教科書とノートの中から、たまたま見かけた数学のノートが僕の目にとまった。
数学以外の教科の宿題をやろうとしたものの、妙に気になってしまい数学のノートを開く。
僕が開いた数学のノートには、赤ペンで書かれた川端さんの文章が書かれていた。
おじいちゃん先生の授業の時に書いてくれた説明だ。
僕はノートをチラチラと見ながら、誰もいない空間に向かって、授業での発表のように説明してみた。
「——となるので、答えは30になります」
悪くない気がした。まともに説明なんかできなかった僕が、こうも説明できるようになっている。
初めて真面目にノートを振り返ったかもしれない。これも彼女のおかげだ。
僕は彼女の説明を再度読んだ。だんだんと、単なる説明ではなく、筆跡として、さらには文字として、細部を見るようになっていった。
なんだろう、この特別感。ただの文字なのに、消せない文字。
僕のノートの中のここだけ全く別の領域だ。
習字を習っているのだろうか、バランスの良い綺麗な文字だが、やや角張っている。
きっちり行に収まるように書かれており、全体的に美しいものの、どこか緊張しているような……。
川端さんも緊張するんだろうか?
まあでも、人のノートに書く時は少し緊張するものか、と僕は納得することにした。
僕は彼女の文字を恐る恐る指でなぞってみた。
なんか、すごくいけないことをしているみたいだ。でもやめられない。
もう一度、ゆっくりと彼女の文字をなぞる。
その時、ドアが開く音が聞こえた。
「あら、偉いわね~! あんたが勉強だなんて」
反射的にノートを閉じる。
「入るときはノックしてよ!」
「ノックしたわよ」
そう答えるのは僕の母さんだ。
「何よ、そんな焦って」
「別に焦ってなんかいないよ」
「勉強じゃないの?」
「いや、勉強だよ」
「じゃあ何もおかしくないじゃない」
「うん、おかしくない」
微妙な沈黙が流れる。エロ本を隠すかのような行動をしてしまった僕は自分の行為に戸惑った。
「それで、最近学校はどうなのよ?」
「特に何もないよ」
「それならいいけど……。何かあったらすぐ言いなさいよ。ユウは溜め込みやすい性格なんだから」
溜め込みやすい、か……。
「うん」
僕は溜め込みやすいんだろうか。どちらかというと、人に伝えるのが苦手なんだと思う。
何かあってもそれをどう伝えるのが適切なのかわからない。そもそも、伝えるべきなのかがわからない。
そうこうしているうちに、僕はまともに話せなくなってしまったような気がする。
でも、川端さんの説明のように、話すことが決まっていれば……。
僕にもできるだろうか? 少しずつ頑張ってみようかな。前向きに。
「相変わらず汚いノートね~。どこに何が書いてあるのかわからないじゃない」
僕が考え込んでいる間に、母さんはノートを開いていた。
「あ!」
「何よ?」
「いや、なんでもない……」
変に動揺してもバレるだけ、いやそもそも何もおかしなことは書いていないんだから、大人しくしていればいいんだ。
「あら? これは先生が書いたの?」
そう言って母さんは川端さんが書いた部分を僕に見せる。
「い、いや、そこは隣の席の人が書いてくれたんだ。数学の授業でノートを交換して丸つけしあうってのがあって」
「へえ~、ずいぶんと丁寧に書いてくれてるのね。先生かと思ったわ」
それには返事をしない。
「ユウもこのくらいとはいかないまでも、もう少し綺麗に書きなさいよ。これじゃ汚すぎて復習もできないでしょ」
「過去は振り返らない性格なんだ」
「その割にはノートを開いてまじまじと見ていたじゃない」
「それは……宿題をやろうとしていたからだよ! ほら、もう用事は済んだでしょ! 宿題をやるから出てって!」
おじいちゃん先生の数学の授業では宿題がない。でも僕はごまかすためにそう言った。
「はいはい、出て行きますよ~」
僕は母さんの背中を押して部屋から追い出した。
静かになった部屋で、改めてノートに書かれた川端さんの文字を眺めた。
今度、便箋を買ってきて書いてみようかな。