第3話「丸つけ」
始業のチャイムが鳴り、教室のドアがゆっくりと開き、眼鏡をかけた白髪のおじいちゃん先生が今度はドアをゆっくりと閉じた。
のそのそと歩きながら少しずつ教卓へと近づき、ちょうどチャイムが鳴り終わった頃に教卓の前に立った。
号令の後、おじいちゃん先生がシワだらけの口を開いた。
「え~、それでは前回の宿題の丸つけから——」
すかざす生徒の一人が声を上げる。
「先生。前回の授業で宿題は出ていません」
「あれ、そうだったか……。いかん、また出すのを忘れてしまった。歳のせいか……。皆さん、すみませんが、今解いてみましょうか」
おじいちゃん先生は毎度宿題を出すのを忘れ、本来宿題となるところを授業の冒頭で解く流れになる。
そして、この数学の授業では恒例の丸つけがある。問題を解いて、隣の席とノートを交換しお互いに丸つけし合うのだ。
「なぜその答えになるのか、誰かに説明できるようになることで勉強が身になるんだ」
おじいちゃん先生はそう言うものの、皆はそこまで真面目に取り組まず、仲の良い生徒達は説明をしているふりをして雑談をしたり、間柄が微妙な生徒達にとってはただの休憩時間になったり、あるいは淡々と答えを言い合うだけになっていたりと、先生の理想からはかけ離れたものであった。
「橋森君、ノート貸してくれる?」
「え、でも、まだ全然解けていないんだ」
僕は解答が書けていないノートを見せたくなくて自分の体に寄せた。
「ほら、ね」
しかし、そんな僕の思惑とは関係なく、川端さんは僕にノートを開いて差し出した。僕は警戒する小動物のようにノートとともに縮こまっていたが、彼女の優しく微笑みながらノートを出して待っている姿を見て、ノートを手渡すことにした。
僕は黒板に書かれた先生の答えを見ながら丸つけをした。彼女の解答は全問正解だった。
「すごい、全問正解だ」
そう言って僕は彼女にノートを返そうとした。
「ちょっと待ってね」
川端さんは何やら赤ペンで僕のノートに書いているようだった。
「はい、橋森君。ありがとう」
「う、うん、ありがとう」
お互いにノートを交換した。僕は自分のノートを見た時、丁寧に解答までの流れが赤ペンで書かれていることに驚いた。
これまで、このおじいちゃん先生の数学の授業の、この時間で、ここまで真面目に添削してくれた人はいなかった。
「じゃあ、私の方から説明してもいいかな?」
僕は黙ってうなずく。彼女は椅子をユウの方へ少し近づけ、僕のノートに書いた赤い文字を指差しながら説明を始めた。
彼女の指先に書かれた赤文字よりも、指と指先、手の甲に僕は見入っていた。
最近爪を切ったばかりなのかな。やっぱり女子だから爪の手入れや爪やすりを念入りにやっているのかな。
どうしてこんな手が綺麗なんだろう。ハンドクリームのおかげ? 夏場でもハンドクリームはつけるものなの?
「ごめん、ちょっと説明わかりにくかった?」
「いや、そんなことないよ」
自分自身が手を握りしめながらグッと脇を締めたまま固まっていることに気づいた。
「そう? 一応もう一度説明するね」
次は集中して川端さんの説明を聞いた。彼女の説明はわかりやすく自然と頭の中に入ってきた。
「今度は橋森君の番だね」
僕は彼女の説明を思い出しながら、ゆっくりと自分の言葉で解答に至るまでの流れを説明した。
「うん、すごくわかりやすかったよ」
「ありがとう——」
僕が川端さんの名前を言おうとした時、おじいちゃん先生が
「はい、じゃあそこまで」
と言い、教室の生徒達は静かになり前を向いた。
「では、え~」
眼鏡を外し、名簿に顔を近づけるおじいちゃん先生。指でたどりながら、
「橋森さん」
眼鏡をかけ直したおじいちゃん先生は教室全体を見回して「橋森さん」を探した。顔と名前が一致していないのだ。
「ちょっと起立して発表してくれるかな」
僕は緊張しながらも返事をし、ノートを少し見つつ、先程川端さんにしたように皆の前で説明した。
「はい、ありがとう。簡潔にまとめられていて良い説明だった。他の問題も同じように説明する癖を忘れずに」
おじいちゃん先生はゆっくりと拍手しながらそう言った。ちょっと嬉しそうだった。
席に着いた僕はちらりと隣の川端さんを見た。彼女はいつものように優しい笑顔で答えた。
授業が終わり、僕は川端さんに声をかけようとした。しかし、彼女は休み時間に入るやいなやどこかに行ってしまった。
おそらくトイレだろう。自分もトイレに行きたいのでどうしようか迷ったが、僕はこの休み時間に彼女に伝えたかったので待つことにした。
川端さんが席に戻ってきたタイミングで、
「あの」
「ん? どうしたの?」
僕は机の下に置いたこぶしを握りしめながら、
「さっきはありがとう。川端さんのおかげでちゃんと発表ができた」
すると、彼女はにこやかな表情を見せながら、僕のふとももを素早くつかんで手を引っ込めた。
「やっと私の名前呼んでくれたね」
この瞬間、トイレに行きたいという気持ちを忘れてしまった。
「ちゃんと手は洗ったから安心してね」
結局、僕はこの後の二限の授業中に、先生に申し出て、一人トイレに向かうことになるのだった。