君と雨上がりの朝に色をつけて
真っ白で空っぽだった俺に、君は優しく色をつけてくれた。水に絵の具を垂らすように、それは一瞬にして俺の中を鮮やかに染め上げた。見たことのない世界をくれた。
だから今度は、君を蝕む絶望を、俺がありったけの幸せで包んであげたい。
まだ夕方の五時なのに、太陽はすでに仕事を終え沈んでしまった。この季節なのだから仕方ない。けれど、歩道のフェンスを背に座る俺の、行き交う人々を挟んだ目の前に立ち並ぶ店の明かりのおかげで、辺りは昼間のような明るさだった。足音やたくさんの話し声、自転車のブレーキ音や、背中のフェンス越しに聞こえる、大通りを行き交う車の音は、止むことを知らないようで。吐いた息は白く、下を向いていても冬の冷たい風は容赦なく顔をなぞり、ギターを持つ手が寒さで震えた。
自作の一曲を歌い終え、あぐらをかいていた足を組み直し、ギターを抱え直す。座っている部分のひんやりとした冷たさが体の芯へ直で伝わり、ぶるっと体が震える。深々と被っていたコートのフードから前を覗き見ると、やはり見えるのは沢山の人々の歩く足だけで、目の前で止まる足なんて一つも無かった。
フェンスにもたれかかり、ふうっと一つ大きく息を吐く。
もちろん、演奏を聴いて讃える拍手なんて聞こえない。歌い終わりがどこなんて誰も知らないし、そもそも聴いてすらいないだろう。
彼氏彼女で寄り添い絡むように運ばれる足、夜遅くまで遊び歩いた高校生の軽やかな足取り、お疲れなサラリーマンのゆっくりとした歩幅。いろんな足が、俺の視界をちかちかと埋め尽くす。
「こんなところで路上ライブかよ」
「表情暗すぎ」
たまに聞こえる通りすがりの呟きは、声量は小さいのにどれも俺の心の穴を大きくしていった。
関わったこともない赤の他人だからこそ、俺とは違って幸せなんだろうなとか、俺だけが不幸なんだという思い込みで、また今日も胸が苦しくなる。
路上ライブを始めたのは、高校を卒業し、上京してすぐだったような気がする。きっかけは音楽で食べていきたいという昔からの夢、そして、彼女の勧めだった。俺は大学に入学してすぐ、他学部のとある女性に一目惚れをし、勇気を出して告白した。それが人生で初めての告白だったけれど、特に間も無く「こちらこそ」と返事をもらい、晴れて付き合うことになった。そしてその彼女に、路上ライブをやってみたらどうか、と提案されたのだ。
彼女と別れる前までは、毎週行なっていた路上ライブにはいつも彼女が来てくれた。その頃はまだ作曲の技術も幼かったけれど、彼女からお金を取るのはどうかと思っていたし、むしろ聴きに来てくれたお礼として、彼女が欲しいと言ったブランドの服やバッグを買ったり、行きたがっていた高級レストランに連れて行ったりした。けれど、日を重ねる毎に彼女の散財ぶりが度を増し、最終的には俺の持っていたギターまで売りに出されそうになった。そこで俺は、彼女の目当ては俺のお金だったことに気づいたのだ。彼女にとって俺は、彼女の財布でしかなかった。彼女が俺にしていたことは、本心からの行為ではなかったのだ。
今思い返してみると、なんて馬鹿だったんだろうと自分を殴りたくなる。
半年前に彼女と別れてからは、ライブこそ続けているものの、前までの「充実感」は俺の心からかけらもなくさっぱり消えていた。ボロボロになった心で、きらきらして見えていた周りの景色も見たくなくて、フードを深く被り下を向くのが癖になった。
横に水瀬 椋と自分の名前だけを太いマジックで殴り書きして立てかけたスケッチブックが、風でぺらりと音を立てる。
もちろん今日も、目の前に置いた黒いキャップには一銭も入っていない。風で飛んでいきそうで、近くに落ちていたそこそこ大きな石を入れてみる。
それはゴトっと音を立て、キャップの中に収まった。
「ははっ、だっせー……」
乾いた笑いに、また一つ白い息が空へと昇っていく。
これは、俺が俺でいるための証明みたいなものだ。
小さい頃から音楽が好きだった俺は、何があってもギターを弾き、歌い続けていた。
祖母が亡くなった時も悲しみを歌に乗せ、目指していた第一志望の大学に合格できなかった時も悔しさでギターをかき鳴らした。そう、音楽は俺の「感情」の一部だ。
だから今も、こうやって力なく動く指で、めちゃくちゃなコードを空へ投げ飛ばしている。
何のために弾いているのか、歌っているのかもわからないまま。
俺が得るものは何もかもが「偽物」だった。本物だと思っていた愛は、結局はなんの価値もないただの石ころで。
それなのに、その頃の俺は幸せ者だと喜んで、馬鹿みたいに笑ってた。
だから俺は、埃かぶった輝く宝石でさえ、向き合うことすらせずに、汚いと手放してしまうようになったのかもしれない。
「いっ……」
拳に力が入り、手にピックを持っていたことを忘れ食い込んだ痛みに思わず小さく呻く。
乾いた空気のせいで、声も少し枯れている。
街の灯りが少しずつ消えていく中、歌う気力も無くなって、片付けようとギターストラップを首から外したその時。
——チャリン。
石ころしか入っていなかったそのキャップの中に、キラキラと光る百円玉が二枚、大切そうに入れられた。
弾かれるように見上げると、そこには寒さで耳を真っ赤にしながら俺の顔を見る、水色のマフラーを巻いた女子高校生が立っていた。
左右にゆるい三つ編みをしており、色素が薄いのか、髪の色はほんのり茶色がかっている。
スカートは膝より少し下、履いている黒いローファーには何故か引っ掻いたような傷が数本あり、薄汚れている。
「すごく素敵な曲ですね。もっと聴いていたいです」
「え……」
初めてだった。本当は一番聞きたかった、待っていた言葉なのに、素直に喜べないのは何故だろう。
それに、下を向いていてよく見てはいなかったけれど、誰かが俺の歌声を聴いている気配なんて全く感じなかった。
「聴いてたって、どこで……」
唖然としたまま尋ねると、その子は後ろを振り返って立ち並ぶ店の方を指差して言った。
「そこの、壁際で聴いてました。人がたくさん通ってるから、姿は見づらかったんですけど……」
目の前にはブランド物を売る店や美容室などが立ち並んでいた。その店の光で俺はかろうじて照らされていたけれど、その間を行き交う人の多さに、俺は存在さえもかき消されたものだと思っていた。
「……いつから聴きに来てたんだ?」
「先週の火曜日にも、ここでライブやってましたよね?」
「え?あぁ……うん」
「その時が初めてです、私が聴きに来たのは。歌詞や雰囲気に共感できる部分がたくさんあって、無意識に聴き入っちゃいました」
俺はその言葉を、その子には悪いがお世辞だとしか受け取れなかった。自分でも、なんでこんな曲しか作れないんだろうと苛立っていたからだ。頭の後ろをフードの上から掻き、息をつきながら言う。
「いいよ……お世辞はもう聞きたくない」
「お世辞なんかじゃ……。本当に好きなんです!」
不思議だ。こんな世界なんて、と貶すような、少なくとも充実した人たちからは一切の共感も得られないような、穢らしい曲なのに。
少し力のこもったその声に、俺はまた無意識に下がっていた顔を上げる。すると、再びばちっと目が合う。
「もしかしたら来週もライブやってくれるかなと思って、今日をずっと楽しみにしていたんです。この前はお財布を家に忘れてきちゃって、話しかけるきっかけが掴めなくてそのまま帰ってしまったんですけど……」
その子は手を遊ばせながら、ほんの少し恥ずかしそうにはにかんだ。
「でも、このライブを楽しみにできたおかげで、明日からの嫌なこと、一瞬だけど全部忘れることができました。人生が華やかになったというか……。頑張れば楽しみがあるって思えました。あなたのおかげです。本当にありがとうございます」
天使のような笑顔。でもそれが、俺の心の中の「偽物」と重なってしまう。
いつも目の前で、隣で笑ってた「あの人」が目前にチラついて、心臓が嫌な音を立てた。
言うな。言うな。この子には何も関係がない。
「……やめろよ」
「え?」
暗い声が出る。でも、繕う気力は無かった。
それは止まることを知らず、胸に籠る熱を吐き出すかのように口から出ていった。
「いついなくなるかも分かんねーようなやつの言葉を信じる方が馬鹿だ。人生が華やかに、なんて綺麗事言うなよ」
つい語尾に力が入ってしまう。何言ってんだ俺は。
そう思うけどやはり、俺は期待されてはいけない人間なのだ。そう思ってしまう。
どうせ俺が期待したところであっさり消えていくことなんて、目に見えて分かってる。
ありがとうと言いたいのに。謝りたいのに。何でこんな言葉しか出てこないんだ。もう俺は、自分の気持ちが分からない。
過去がまた、俺の心を蝕んでいく。
「くそっ……」
拳を握って膝を叩くと、その上にぽたりと雫が落ちシミを作った。
街の中は騒めいているのに、静寂が二人の間を流れる。
目から溢れて止まらないものの答えは、どこに落ちているんだろう。いつから俺は「ありがとう」が言えなくなったんだろう。感情の在処が分からない。
「……すみません」
その子は静かに謝ると、少しの間その場に立っていたけれど、遂にはゆっくりと体の向きを変えその場から去っていった。
再び、騒ついた声と足音が耳に入ってくる。
「馬鹿なのは俺だ……」
ため息混じりに呟き、ギターを抱えたまま顔を埋めた。
しばらくそうした後で、なんとか帰路に着き、自宅である小さいアパートの少しサビた手すりのある階段を上り、やっとのことで自分の部屋の前に着くと、ポケットから鍵を取り出し鍵穴に刺し込む。
刺し込んだけれど、そこで手が止まった。
「っ……」
突然喉の奥に熱を感じ、胸の奥がぎゅうっと苦しくなる。
俺はドアを開けることなく、背を向けゆっくりとその場に座り込んだ。
あの場所で路上ライブをすることが、俺の生きがいでもあった。けれどその生きがいも、もう俺の心に希望を灯すことはないのかもしれない。
どうせ趣味でやっていることだし、お世辞で褒められても、今更信じることができなければ意味がない。あの子への罪悪感も、頭を冷やすたび積もりに積もっていった。
俺は翌週のライブを最後に、音楽活動を辞めようと心に決めた。
「え……」
翌週の火曜日。日が落ちてきた頃にギターケースを背負いコートを着ていつもの場所に着いた俺は、その場でフェンスを背に立っているある人物を見て、右手に持っていた黒いキャップを落としそうになった。
そこにいたのは、先週俺のライブを密かに聴いていた、俺が突き放したあの女の子だった。
その子は一人、寒さで赤く染まった手で文庫本のようなものを読んでいた。
今の時間帯は学校帰りの学生がぽつぽつと歩いているくらいで、先週ほど混んではいなかった。
けれど寒さは変わらない。コートを着ていても冷えるのに、マフラーだけを巻いていて寒くないのだろうか。
それに、その子は未だ俺に気づかない。文庫本に夢中になっているのか、周りすら見えていないようだった。
きっかけというか、少し気まずさもあり何て話しかければいいかわからなかった。
とりあえず俺は、ゆっくりとその子に近づく。
「……!」
俺が彼女の前で足を止めたと同時に近くの街灯に光が灯り、ようやくその子は俺の存在に気がついた。
勢いよく本を閉じ、俺の顔を目を丸くしたまま見つめている。
俺はギターケースを足元に置き、再びその子と目線を合わせる。
「……なんで来たんだ?」
問うと、彼女は気まずそうに目線を泳がせた。けれど、覚悟を決めたとでも言わんばかりに眉を寄せ、再び目が合う。
「もう一度、あなたの歌が聴きたかったからです」
力強いその声は、俺の心の中にある固く冷たい何かをじわりと溶かしていくように温かかった。そんな気持ちにさせた当のその子は、真っ直ぐに俺の目を見つめている。
その視線から目を逸らし、いつものようにギターケースからギターを出してその場に座りあぐらをかく。
それからケースの中に入れていた表紙のくたびれたスケッチブックを取り出し、自分の名前が書いてあるページで折り壁に見えるように立てかけた。黒のキャップも定位置に置く。
ここまではいつもと変わらなかった。
目の前で、ライブの始まりを待っている女の子がいるのを除いたら。
最初のコードを指で押さえ、一度だけ深呼吸をする。
伴奏から始まり歌に入ると、昨日とは違う何か新鮮なものを感じ自然と肩の力が抜ける。
歌っている間、ふと顔を上げて見ると、その子は目を閉じその曲に聴き入っているようだった。
一つ一つの弦が奏でる音、ピックが弦を擦る音、重ねた歌声とのハーモニー。
それら全てを感じ取り、まるで抱き枕のように優しく抱きしめて寄り添っているような面持ちだった。
曲が後半に差し掛かった時、女の子がゆっくり目を開け、膝を折り俺の横に来てしゃがみ込んだ。そして、立てかけてあるスケッチブックを指差し、俺のほうを向き口パクで「使っていいですか?」と尋ねた。
何をし出すのかと思いながらも俺は演奏を止めず、とりあえず頷く。
女の子はスケッチブックを手にとってめくり真っ白なページを探し出すと、鞄から黒ペンを取り出して何かを描き始めた。
時折聞こえる、キュッ、という音に、俺はちらちらと女の子の方を見る。
音の感覚や長さ的に、文字というよりは絵を描いているように思えた。
しばらくして一曲歌い終わり、一息ついて再び横を見ると、丁度何かを描き終わったのかペンのキャップを閉じる音と共に「見てください」と女の子は描いた面をこちらに見せてきた。
そこには、遠くにそびえる大きな雪山を見つめる一人の女性が描かれていた。
その雪山からは朝日が顔をのぞかせ、逆光で山が黒く描かれている。
黒ペン一つだけなのに、太い線や細い線、影や光なども忠実に描かれている。
「私にはさっきの曲、こんな風に感じました。たった一人、希望を願って明日を見つめているような……」
「希望?」
「はい。希望を願うのなら、今は希望すら見えない暗闇にいるということですよね。希望って、まるで届かないような場所にあっても、長いトンネルみたいでいつかは出口に辿り着けるのと同じだと思うんです。時間も同じ」
その子は物思いにふけるようにどこかを見つめていたけれど、俺の視線に気づいてすぐ我に返ったように俺とスケッチブックを交互に見た後、「勝手に描いちゃってごめんなさい!」と慌ててスケッチブックのそのページだけを破ろうとした。
この曲には、今まで心に溜まって引っかかっていた全ての思いを詰め込んでいた。
失恋で心に開いた穴。騙され、突然どん底に突き落とされた悲しさ。
なのに、この子はそれを「希望」だと言った。俺はその時、何を思い立ったのだろう。自分でもわからなかった。
俺の手は、紙を破ろうとする手を止め、絵の描かれたページを開いたまま壁に立てかけ、ギターストラップを首にかけ直していた。
雪が少しちらついてきたため、ギターケースに入れていた少し大きめのハンドタオルをその子の頭に被せる。
「え、あの……」
されるがままになっている彼女を横目に、ピックを持ちギターを構えた。
この時、心の中の何かがカチリとはまった気がした。俺の求めていた、本当の答えがここにあったんだ。これが俺の本心で、今の俺だということ。暗かった心が、雲の隙間から差す日の光のように晴れていく。こんな気持ちは初めてだった。
「弾き終わるまで、聴いてて欲しい」
「……」
俺は目を丸くしたまま固まるその子の返事を待たずに、さっきの曲をもう一度弾いた。
少し強めの風が吹き、フードが頭から外れ、再び雪が鼻の上に乗る。けれど俺は気にせずに歌い続けた。
白い息が天に昇っていく。ギターの奏でる音色が、真っ白なこの世界を虹色に染めていくような気がした。
さっきのような暗い自分はそこにはいなかった。どうにでもなれと思った。
きっと、その絵が教えてくれたのだろう。今の俺に希望は見えない。けれどその希望は、もう目の前にあるよ、と。他人事な励ましは耳にタコができるほど聞いてきた。けれどこんなに率直に、けれど納得できる言葉は初めてだった。
弦を抑える指は、冷たくかじかんだせいで少し痛い。だけどそんなことは今は関係なかった。喉もなぜか乾いた痛みを無くし、体の奥から歌声が空へと続くようだった。
すると、歌が後半を迎える頃、目の前を歩くスーツを着た足がスピードを緩め、遂には立ち止まってこちらを向いた。
二、三人が同じように立ち止まり、スマホを取り出し動画を撮影し始めたり、スケッチブックを眺めて「綺麗……」と零す人もいる。
その光景に、俺は歌いながら思わず隣に座る女の子の方を向くと、その子も俺の顔を見つめ驚いたような顔をしていた。
やがて弾き終わり、一つ息をついて顔を上げると、数人からの拍手が起こる。
そして、黒いキャップにチャリン、チャリンという音と共にお金が入っていく。
覗くとそこには百円玉が三枚と五百円玉が二枚入っていた。
「よかったよ、曲もその絵も。それは君が描いたの?」
ぽかんとしていると、ふと最初に立ち止まった若いサラリーマンの男性に声をかけられ、顔を上げる。
その男性は女の子の方を見ており、スケッチブックを指差していた。
「は、はいっ。今描いたので、その…お恥ずかしいですが……」
「そんなことない。すごいね、君の歌も。二つがものすごく合ってて引き込まれちゃったよ。また見に来させてね」
そう言うと、その男性は黒いキャップの中に、二つ折りにした千円札を入れてひらひらと手を振りながらその場から去っていった。
俺は頭を下げることしかできなかったが、心の中には今まで感じることのできなかった温もりを確かに感じた。
やがてそこにいた人たちが去っていき、人通りも少なくなってきた。
キャップに入っている、風で少したなびく千円札と数枚の小銭を見つめる。
それからスケッチブックに視線を移し、流れるように女の子を見つめた。
女の子は、無意識に止めていたんだろう息を吐き出し、背中を丸くしてほっとした表情を浮かべていた。
「……名前、何ていうんだ?」
「え?」
「名前。聞いてなかったよな」
再び足を組み直し訊くと、その子は余韻に浸っていたのか我に返ったように「あ、名前……」と呟いた。
「私の名前は、望月冬花です。冬に花って書いて、トウカって読みます。高校二年生です」
「冬花ちゃん、って呼んでもいい?」
「えっ!?は、はいっ!」
「俺の名前は……さっき見たよな。水瀬 椋。大学二年。名前は適当に呼んで」
「そっ、そんな。私なんかが……」
「いいって」
あわあわと戸惑う冬花ちゃんに、俺はギターをケースにしまってから、きちんと冬花ちゃんの方へ向き合い口を開いた。
「最初に会った時……あんなこと言ってごめん」
「……謝らないでください。私こそ、いきなり話しかけちゃったので、迷惑だったかなって……」
「そんなことない。……一つ、お願いがあるんだけど」
「お願い?」
「もし冬花ちゃんが良いなら……これからも俺と一緒に、音楽をつくってほしい」
「えっ?でも、私、音楽の才能は……」
「ああ、作曲の方じゃなくて。俺の曲を聴いたありのままのイメージを、今みたいに絵に起こして欲しいんだ」
「あ……なるほど」
「忙しいだろうし、無理にとは言わないけど……」
少し俯いた冬花ちゃんは、俺の言葉に弾かれるように顔を上げて俺の目をしっかりと捉え口を開いた。
「涼さんがこれからも音楽を続けていけるのなら、ぜひやりたいです。やらせてください!」
そう言って心の底から嬉しそうに微笑むその顔に、俺の頬もいつの間にか緩んでいた。
この日から、俺と冬花ちゃんの二人でつくっていく音楽活動がスタートした。
「うわっ、汚ねぇな……。昼までには掃除終わらせないと……」
建築業の親父が、倉庫を自分の作業部屋として改造していたこともあり、教室の半分くらいのなら、と余っている倉庫を一つ貸してくれることになった。
倉庫と言っても、物置きのような普通の倉庫ではなく、屋根付きの大きくて広いもの。
そこを二人の仕事場にしようと考えたのだ。
流石に俺の部屋に呼ぶのも気を遣わせるし、こちらから押しかけるのも無理がある。それに、冬花ちゃんによると親が相当な心配性のため、あまり遠くへ一人で行かせてもらえないそうだ。
幸い俺の実家は冬花ちゃんの家から歩いて十分程度のところにあるらしく、学校帰りにでも通いやすいだろうと考えたのだ。
しかしそこは実家の裏山を抜け少し進んだところにあり、二年間放置されたままだった。
倉庫の中は親父の趣味である家具集めで買ったのであろうアンティークな家具が適当に置かれていた。それも古いものばかりで、机の角には小さな蜘蛛の巣が張られているものもあった。
埃を吸わないようにマスクを付け、実家から借りた掃除用具一式を使い家具の汚れ、床、簡易窓の掃除を進めていく。
今日は土曜日のため大学の講義は休み。しかし冬花ちゃんは、この辺じゃ偏差値の高さで有名な高校に通っているらしく、今日も午前中は授業とのことだった。
午後は何も予定がないと言ってたから、とりあえず俺の実家の場所を教えるついでに連絡先も交換済み。分からなくなったら連絡してくるだろう。冬花ちゃんは今日を楽しみにしているらしく、メールでも「楽しみにしてます‼︎」という文面と共にジャンプしている可愛いクマのスタンプが三つも送られてきた。
「椋、あんた昼ご飯はー?」
背後から声がし、振り返るとそこにはエプロンをつけたまま中を覗き見る母の姿があった。
埃の舞う倉庫の中を、ハエを追い払うような仕草をしながら眉を歪め見渡している。
俺が高校卒業後家を出てから二年ぶりに見たその顔は、少しだけシワが増えていた。
「いい、いらない。それよりこの辺の家具処分しないのか?この棚とかネジ外れててもう使えないし」
「処分するって言ったって、あの人のことだから高値がつくまで置いとくとか言いそうだし。それよりあんた、久しぶりに帰ってきたと思ったら急に倉庫貸してなんて言い出して、何に使うわけ?」
「……大学の研究に使うんだよ。友達も呼ぶから様子見に来たりするなよ?」
「はいはい……。何の研究に使うのか知らないけど、掃除終わったら道具は玄関の掃除箱に片付けといてよ」
「分かってる」
母が倉庫からゆっくり去っていく足音を背に、真ん中に置いてあるアンティーク調のちゃぶ台を拭き上げた。
あっという間に艶を取り戻したそれを眺めつつ、息を吐きながら周りを見渡す。
「ここにレジャーシート敷いて、クッションを何個か置けば何とか……」
「わあっ、すごい!」
「わっ、びっくりした」
腰に手を当て思案していると、ふいに背後から感嘆の声がして思わず肩が跳ねた。
「と、冬花ちゃんか。学校お疲れ。ここまでの道よく分かったね?連絡きたら実家の前まで迎えに行こうと思ってたのに」
「あ……お、お疲れ様です!昨日メールで送って下さった地図を見てきたので」
「理解できたならよかった。ここ結構奥に入り込んだとこにあるから、送った地図単純すぎないかなって心配してて」
「分かりやすかったですよ。ここ、なんだか秘密基地みたいでわくわくしますねっ」
冬花ちゃんは、きらきらと目を輝かせ倉庫の周りをまじまじと見渡していた。
「ここを、俺らの仕事場にしようかって考えてるんだ。俺は曲を作って、冬花ちゃんには絵を描いてもらう。寒いから、後で使わなくなったストーブ持ってくるよ」
「ありがとうございます。こんなお洒落なところで絵が描けるなんて嬉しいです!」
嬉しさの笑みを溢し、冬花ちゃんは「お邪魔します」と言いそっと倉庫に足を踏み入れた。
「すごい……この家具、全部高価なものですよね?」
「親父の趣味なんだ。って言ってももう使ってないし、蜘蛛の巣は張ってあるわ埃は被ってるわでどうしようもなかったんだけど」
呆れ笑顔で小さい棚の上を人差し指でなぞっていると、小さく呟かれた「よかった」という声に振り返る。
「ん?」
「……よかったです。涼さんの元気なお顔を見られて」
「俺?」
「はい。曲は凄く素敵なのに、ずっと寂しそうなお顔をしていた気がして……」
「あぁ……ごめん」
「えっ、あ、いやっ、なんで謝って……」
あたふたと俺の顔を覗き込んで慌てる冬花ちゃんに、思わず笑いがこみ上げてきた。
「はは……。まぁ、色々あってさ。あの時は歌うことで精一杯で、聴きに来てくれる人たちの気持ちなんて考えられなかった」
「……」
空気が重くなっていくのを感じ、「でも」と明るいトーンで続ける。
「冬花ちゃんが希望をくれたから」
「そんな……私は何も」
前で組まれた手を遊ばせながら、冬花ちゃんは恥ずかしそうに俯いた。
母を除いて、こうやって面と向かって女性と話すのは何ヶ月ぶりだろう。
だからというのもあってか、俺も少しだけ緊張で手汗が滲む。頭を掻きながら辺りを見渡した。
「とりあえず、シートとかクッションとかあるだけ持ってくるから、そこの椅子にでも座ってて」
ひとつだけ拭き上げていたお洒落な木の椅子を指差すと、冬花ちゃんは嬉しそうに「はい」と言い、いそいそと椅子の方に近づいていった。
座ったのを確認してから家に戻り、母に使わなくなったシートとクッションはあるかと聞くと、丸絨毯と座布団ならあると言われ、それら一式を家の中の大きな押し入れから取り出し両手で抱えた。ついでにストーブのことも聞くと、ちょうど買い換えようと思っていたらしく、今家にあるものを持って行っていいと言われた。
こんなにいろいろ準備ができると大抵は驚かれるが、家具好きな父を持つ以上は日常茶飯事である
後でストーブは取りに行くとして、ひとまず絨毯と座布団を抱えて倉庫の扉を開ける。大きな座布団2つを抱えていると流石に前が見えないため、俺がドアを開ける前まで、倉庫の中から聞こえていた何かを擦る音の正体は分からなかった。
「ごめんな、遅くなって」
「い、いえいえ!」
よいしょ、とひとまずそれら一式を床に置いて体を起こすと、ふと、冬花ちゃんの足元に視線が行く。冬花ちゃんはなぜか急いでローファーを履き直し、手にはハンカチのようなものを持っていた。
「……それ、前も気になってたんだけど。何でそんなに汚れてるんだ?」
初めて会った時も、ローファーには擦れたような傷がたくさんあった。勝手に擦れたりするには深い傷ばかりで気になっていたのだ。
俺が冬花ちゃんの足元を指差しながら訊くと、俺の目を見た後でとてもわかりやすく慌て始めた。
「あ、これは……。帰ってくる途中で石に躓いてしまって……」
「にしては汚れすぎてないか?傷も入ってるし、そんなに大きな石だったのか?」
俺がその場にしゃがんでローファーをまじまじと見つめると、反射的にぱっと足を引っ込められる。
「だ、大丈夫ですから……!それより、この絨毯の柄、凄く好きです!」
冬花ちゃんはぱっと椅子から立ち上がって、床に置いてある絨毯を眺め始めた。話題を変えたがっているのは丸わかりだったけれど、あまり深掘りするのも良くない。
ここはそっとしておこうと、俺はゆっくりと立ち上がった。
絨毯を敷き、座布団を置いてから軽く入り口を掃いて、二人で不要な家具を外に出してから、大体の掃除と設置は終了。
ストーブも中に運んで、座布団に座り、二人でちゃぶ台を囲んだ。
早くここで、二人で曲をつくりたいという気持ちが昂るが、簡易窓から夕日の光が差し込み始めているのに気づいた。
比例して、倉庫の中も、オレンジ色に染まっていく。
冬花ちゃんが左手につけた腕時計をちら、と見て眉を下げた。
「もうこんな時間……」
「冬花ちゃん、門限何時?」
「七時です」
スマートフォンを見ると、時刻は六時四十五分を表示した。
「時間が経つの早いな」
「そうですね……」
出会ったばかりなのに、名残惜しさが二人の間に漂った。少しの間、沈黙する。
ふいに、冬花ちゃんが思いついたように口を開く。
「椋さん、彼女さんっているんですか?」
唐突すぎて、一瞬固まってしまう。
「え、どうしたの急に」
「あ、いや……。もし私がこうやって椋さんと二人で会う所を彼女さんが見てしまったらと……」
冬花ちゃんは眉を下げ、心配そうな面持ちで言った。
「今は……いないよ。半年前に別れたんだ」
「そうだったんですね。すみません、聞いちゃいけないこと聞いたみたいで……」
わかりやすくしゅんと萎れる冬花ちゃんに、俺は両手をぶんぶんと振り答えた。
「いやいや、気にしないで。ただ、俺が捨てられたようなものだから」
「捨てられた……?」
冬花ちゃんは帰る支度をする手を止め、俺の目を食い入るように見つめた。
「俺の一目惚れで彼女に告白したんだけど、俺は初めての彼女だったからなんでもしてあげたいって気持ちが大きすぎて。それがいけなかったんだろうな。付き合ってるうちに彼女が俺の財布でなんでも買うようになってしまって、最終的にはめちゃくちゃ高い靴を買わされた後に連絡先も消されて、それ以降会えなくなったんだ」
「そんな、ひどい……」
「まぁ、俺もあいつに未練はないし、別れて正解だったって思ってる。あのまま付き合ってたら、俺もおかしくなるところだった」
はは、と力なく笑いかける。冬花ちゃんは見開いた目を細め、眉間に皺を寄せて心底辛そうな顔をした。
「あ、ごめんね。こんな暗い話」
「いえ……。私こそ、すみません」
下を向く冬花ちゃんに、ゆっくりと立ち上がりつつ口を開く。
「家まで送るよ。今の季節はすぐ暗くなるから」
「わあっ、ありがとうございます」
同様に冬花ちゃんも嬉しそうに立ち上がり、靴を履き鞄を持って倉庫を出る。
昼よりもツンとした寒さが体に纏わりついてくる。分厚いジャンパーを着てきて正解だった。
ギターケースを背負って、暗くなってきた道を並んで歩く。
いつの間にか、夕日が山に隠れそうなほど沈み、反対側から月が顔を出してきた。
青と赤をさっと撫でて混ぜたような、幻想的な夕景色が広がる。
「綺麗……。絵になりそうです」
「ん?あぁ、ほんとだ」
空を見上げてから、ちら、と隣を見ると、冬花ちゃんは人差し指と親指を立てLの形を作り、両手でカメラのファインダーを覗くようにうっすらと現れた月を見上げていた。
すっと視線を地面に落としてから、ふうっと息をつく。冬花ちゃんがゆっくりと腕を下ろすのを待ってから、俺は一つだけ聞きたかったことを訊ねた。
「……なぁ、本当に良いのか?」
「え?」
「俺の曲のイメージを絵に起こして欲しいなんて、今考えたらめちゃくちゃ難しいことだよなぁって思えてきてさ……。それに、唐突だったし」
「もちろん、イメージは人それぞれにありますし、楽しい曲も、今が辛い人には淡々と悲しく聞こえたりすると思います。でも、私は椋さんの作る曲が大好きなので。希望に沿えられるように頑張りたいです」
「……ありがとう。それにしても、絵凄く上手いよな。最初に見た時もびっくりした。絵描くの好きなのか?」
「はい。小学生の頃から、休み時間はずっと自由帳に絵ばかり描いてました。今も、授業中にノートの端に描いちゃったりします」
「凄いな。描けない人からしたら羨ましいよ。俺は休み時間になるとすぐボール持って友達と外に遊びに行ったり、高校の頃も授業聞かずに寝てたりしたもんなあ」
「あはは……」
高校の頃のことを思い耽っていると、冬花ちゃんは小さく愛想笑いをした。けれどそれは、どこかぎこちなかった。
「私は、椋さんが羨ましいです。学校でものびのびと生活できて、友達もたくさんいて……」
「そんな良いもんじゃなかったよ?寝てばっかりだったから、内申点は下がるわ赤点ばっかりで」
正直、寝てばっかりだったのは家に帰ってから眠くなるまでずっと、趣味のギターを弾いていたからだった。良いフレーズが浮かんできたときは、徹夜したこともあった。
それで何度も親に怒られ、担任にも目をつけられていた。ギターを取られそうになったところでやっと勉強魂に火がつき、三年の最後のテストは平均点以上をとって卒業することができた。
そんなごく普通の高校生活を、冬花ちゃんは何故かものすごく羨ましがった。
その場を盛り上げようと高校時代の面白いエピソードを話すけれど、面白さで笑うというよりは、明らかな愛想笑いだった。
「冬花ちゃんは学校帰りに友達と何か食べに行ったり、買い物に行ったりしないのか?」
「お母さんとは行くんですけど、友達とは……行ったことないです」
「そうなんだ。駅の近くのクレープ屋、冬花ちゃんと同じ制服の子たちがよく来てるから、てっきり冬花ちゃんも来たことあるものかと思ってた」
「学校から近いし人気ですもんね。あのクレープ屋さん」
どこか違和感を感じつつ進む会話。まるで、何かを隠すような、残って取れない何かがあるような。誰にだって隠したいことはあるけれど、これから一緒に活動していく仲だ。何でも言って欲しい気持ちはある。
けれどまだ出会って三日目だ。話せないのも無理はない。俺は息を吐きながらポケットに手を突っ込む。
「明日は何する予定?」
「明日?……そっか、明日は日曜日……」
冬花ちゃんは一瞬ぽかんとして俺の目を見たのち、何か納得したようにゆっくりと視線を前に戻した。
「もしかして、来ようとしてくれた?」
「は、はい……。でも、そっか。休日はゆっくり休みたいですよね」
「あーいや。冬花ちゃんの気持ちはありがたいし、俺も今すぐ曲を作りたい気持ちで山々なんだけど、俺の方こそ冬花ちゃんには休んでほしいから」
「……ありがとうございます。それじゃあ、毎日朝が早いので、明日はゆっくり寝ます。午後から起きて、新しい画材でも買いに行こうかなぁ」
「いいね。俺も一人だしゆっくり寝るかな」
「寝ちゃいますよね」
ふふっと柔らかく笑う冬花ちゃんにつられて口角が上がる。
話しているうちに、家の近くに着いたらしい。冬花ちゃんは、あれです、と家らしき建物を指差した。赤い屋根の、可愛らしい一軒家だ。
横断歩道を渡って、家の前まで歩き辿りつくとゆっくりと体がこちらに向き二人向かいあわせになる。
「送ってくださってありがとうございました。来週から、頑張ります!」
「ありがとう。毎日じゃなくても、来れる日で大丈夫だからね。俺の作曲が間に合わないかもだし」
「……迷惑じゃなければ、毎日行きたいです。椋さんが良ければ曲を作るところも見たいし、椋さんにも会いたいので」
「そ、そっか。それは嬉しいな」
明らかに動揺してしまった。冬花ちゃんはそういうこともストレートに言えるんだなとちょっと驚いた。
「月曜から、学校が終わったらまたそのまま来ても良いですか?」
「もちろん。俺は基本的に大学が三時半頃に終わるから、それからならいつでもおいで」
「……」
微笑みかけると、突然、冬花ちゃんが目を潤ませとっさに下を向いた。何か傷つけるようなことでも言ってしまっただろうか。どうしたらいいか分からず、顔を覗き込もうとした。その瞬間に顔がゆっくりと上がる。
その顔は、俺が思っていたのとは正反対だった。
「……嬉しいです」
冬花ちゃんは片手で目を擦った。泣き笑いの顔だった。
出会った頃から思っていた。冬花ちゃんは、少し変わった子だ。
見た目は奥手で恥ずかしがりなのに、自分の思ったこと、やりたいことははっきりと言える。
思いつくことも唐突で、感情表現も豊かだ。
「俺そんな心に響くようなこと言ったかな」
「私にとっては響くことなんです。ありがとうございます」
そうやって柔らかく微笑まれると、何て返せば良いのかわからない。それでは、と玄関の門を開けて中に入る冬花ちゃんを、小さく手を振って見送った。
門の前に立つ街灯がぱっと明るく灯り、冷たい風が前髪をふわりと持ち上げた。
「C……違うな。ここから繋いで……」
ジャン、とギターを鳴らしては、ちゃぶ台の上に置いた紙にコードを書き込んでいく。
月曜日。大学から帰ってきてすぐギターを持って実家に行き、玄関に出しておいたストーブを倉庫に運んでから、俺はさっそく作曲を始めていた。
昨日は丸一日倉庫を空けていたためまだ少し湿気の残る空間だけれど、数時間過ごすには問題無いだろう。
カリカリとボールペンの音が倉庫内に響く。
講義中、頭の中では次々と曲のフレーズが浮かんでいた。今までこんなことはなかった。冬花ちゃんと出会ったからだろうか。曲に、自分に自信を持てるようになっていた。
作曲中のこの曲に、冬花ちゃんはどんなイメージを持ち、どんな絵を描いてくれるのだろう。
頭の中で、そればかりがぐるぐると回っていた。
「椋さん、いますか?」
突然、倉庫のドアを小さくノックする音が聞こえ振り返った。くぐもったドア越しに聞こえる声の主は、明らかに冬花ちゃんだった。急いで立ち上がり、靴を履いて倉庫のドアを開ける。
「こんにちは。今日から、よろしくお願いします」
「お疲れさま。来てくれてありがとな」
「椋さんもお疲れ様です。今日、ずっと楽しみにしてました!」
ちまっと上を見上げる冬花ちゃんを、俺は笑顔で出迎えた。
楽しみにしていた、そう言われるとやはり嬉しかった。お互いの趣味を活かし一つのものを作り上げる楽しさは、計り知れないだろう。
マフラーを首から解き向かいに座った冬花ちゃんは、ちゃぶ台の上に置かれた作曲途中のコード譜を見て感嘆の声を漏らす。
「これが新しい曲なんですね……。どんな曲になるんだろう」
「とりあえず、サビは完成したんだけど聴く?それとも全部完成するまで待つ?」
「聴きたいです!良いんですか?」
「いいよ。またちょっと弄るかもだけど」
「やった……!」
冬花ちゃんは嬉しそうに微笑み、ギターを構えあぐらをかく俺の前に正座した。
楽しみに輝く瞳に見つめられ、心臓がとくとくと少しだけ速度を早める。
二人しかいない空間のはずなのに、妙に緊張してきた。深呼吸を一つして、ピックを持ち直す。
弾き始めると、目の前から「わぁ……」と声が上がった。拙いメロディーではあるが、俺が好きなアーティストの新曲を聴いている時と同じような面持ちで、冬花ちゃんはひたすら聴き入っていた。
今回の曲はバラード系。卒業ソングのような、子守唄のような優しいメロディ。
今の、素直な気持ちを歌にしたものだ。
聴いてくれる人がいる。待っててくれる人がいる。この気持ちに嘘をつかなくなったのは、きっと冬花ちゃんのおかげなのだろう。
俺は心に決めた。これからはこの子のために歌おう。幸せを守るために。一瞬一秒を噛み締めるために。
弾き終わりゆっくりと手で弦を押さえる。音色が完全に消えてから、どうかな、と前を向くと、冬花ちゃんは潤んだ瞳でこちらを見つめていた。今にも泣きそうな瞳で。
「すごい……すごいです。心に響いてきて……感動しちゃいました」
冬花ちゃんのために歌おうと決めたその気持ちが伝わっていたことに驚いた。それと同時に、嬉しさで胸が熱くなる。
けれどまだサビだけだ。自分でも完璧だと言えないリズムやメロディーをこんな風に讃えてくれる冬花ちゃんに、俺は照れ隠しに笑う。
「サビだけでそんな風に言ってくれたのは冬花ちゃんが初めてだよ」
「私こそ、椋さんの曲を聴いて、素通りできる人の気持ちが分からないくらいです」
冬花ちゃんは愛しさを含んだ目で見つめてくる。
その瞬間、心臓がとくんと温かい音を立てた。この気持ちは前にも感じたことがあった。何か新しいものを見つけたときに感じるそれだ。けれど、その気持ちの名前はわからないまま。俺はどう返そうか迷って「ありがとう」と言いながら一旦ギターをケースの中に置く。
「今のだけだったら、まだ絵のイメージ湧かないよな?」
「うーん。具体的にはまだ湧かないですけど、色の感じなら……」
「おぉ、どんな色?」
「水彩の……オレンジと黄色?」
冬花ちゃんの言う色は、二色とも暖色と言われる類のものだ。今の季節には雪、すなわち青や白ような寒色が合っていそうだけれど、曲のように人から人へ与えるものは暖かい方が心地がいい。なるほど、と呟いて、コード譜の隅にオレンジ、黄色と書き込んだ。
「すごいな。サビを聴いただけで色のイメージが湧くなんて」
「椋さんの曲が素晴らしいからですよ」
微笑みつつ褒めてくれる冬花ちゃんに、俺は少しだが照れてしまう。
この日から欠かさず、日曜日を除き冬花ちゃんは毎日来てくれた。そして俺の曲作りを眺めては音色を聞き、スケッチブックに色をつけていった。
だんだんと形になっていくその絵は、誰が見ても立ち止まらずにはいられないようなものだった。細かいタッチ、色の濃淡。それぞれが曲に合っていて、俺もまたその絵に合わせた曲調を意識するようになった。
何度も弾き直し、書き直し。うまくいかない時は、ギターを触ってみたいという冬花ちゃんにギターを貸して、楽しそうに弦をはじいているのを見るだけの日もあった。けれど、俺のために頑張ると言ってくれた冬花ちゃんの思いを台無しにするなんてことはしたくない。そう思う気持ちが背中を押し、ようやくコード譜の最後のページまで差し掛かっていた。
曲を作りはじめてから一ヶ月が経ったとある日。夕方五時を知らせるチャイムが鳴る音と同時に、俺はボールペンをちゃぶ台の上に半ば叩きつけるように置き、大きく息を吐いた。
「できた……」
ぼすっと二枚連なって置かれた座布団の上に倒れ込む。
あの後、いろいろ試行錯誤を繰り返し作詞も終わらせ、遂に新曲が完成した。
「お疲れ様です、椋さん」
寝転がったままの俺の視界に、缶らしきものの底が映る。
「それは?」
よいしょ、と起き上がると、冬花ちゃんは柔らかく微笑んで持っていた缶を差し出した。
「さっき、椋さんが寝ていた時にこっそり近くの自販機に行って買ってきたカフェラテです。好みがわからなかったので、私好みになっちゃったんですけど……」
「げっ、俺寝てたのか……。わざわざありがとう。いくらだった?」
「あっ、お金は気にしないでください。私が勝手に買っただけなので」
「そんな。払うよ」
「……じゃあ、お金の代わりに完成した新曲、今聴かせて欲しいです」
ちゃぶ台の上のコード譜に視線を移した冬花ちゃんに、俺は少し考えてから「わかった」と答えギターを構え深呼吸をした。
そして、たった今完成した新曲を、静かに奏でた。
「すごく綺麗……感動して泣きそうです」
「そんなに?」
「はいっ。さすが椋さんです」
弾き終わると、サビだけを聴かせた時よりもはるかに感動してくれた冬花ちゃんは、曲に対するイメージがはっきりと浮かんだらしく、あと少しで描き上がる絵を仕上げたいと言い、黙々と描き始めた。俺はそんな彼女をちゃぶ台に伏しながら眺める。
綺麗な横顔。真剣な眼差しは、鮮やかに彩られたスケッチブックに向いたまま離れない。
沢山の色鉛筆が入っているペンケースを漁っては色を乗せ、再び鉛筆を手に取り輪郭を縁取っていく。
これが、俺の作った曲のイメージであると改めて思いながら眺めると、何だか自分の曲に温かみが増したようで嬉しくなる。
「ありがとうございます、椋さん」
降ってきた柔らかい声に顔を少し上げる。冬花ちゃんは塗る手を止め、こちらを見て微笑んだ。
「なんでお礼?」
「私に……希望をくれて、ありがとうございます」
「それは俺の台詞だよ」
言うと、冬花ちゃんはゆっくりと首を横に振った。
「あの後気づいたんです。私は希望を与えたんじゃなくて、貰ったんだってこと……」
「この前言ったじゃん。希望をくれたのは冬花ちゃんだって」
「……ふふっ」
「……はは」
不毛な会話に、俺もつられて笑いがこみ上げる。俺たちは、お互いに希望を与え、貰っていたのだ。
自分では見つけられなかった。けれど、見つけてくれた相手がいる。これが俗に言う、運命の出会いというものなのだろうか。そんなことを考えて、再び自然と頬が緩んだ。
静寂が俺たちの間を通り抜けていく。手のやり場に困って靴下に空いた穴をいじっていると、コト、と優しく色鉛筆が机に置かれる音がした。
「できました」
呟かれた声は、少し上ずっていた。
顔を上げて見ると、俺も思わず息を呑む。
真っ白だったスケッチブックが、オレンジと黄色を混ぜた淡いカーテンで埋め尽くされていた。まるで、空を覆い広がるオーロラのように。
暖かい風が今にもこちらに吹いてきそうな、色鉛筆だけで描いたとは思えないほど透き通った絵だった。高校生がこの短時間で描いたと言えば、誰もが驚くだろう。
「すご……。凄すぎて言葉が出ない」
「そんな。でも、褒めてくださってすごく嬉しいです」
恥ずかしそうに視線を逸らす。俺がスケッチブックから冬花ちゃんの方へ顔を向けると、目を合わせ、心底嬉しそうな顔で微笑んだ。
次の日。今日は火曜日で、ライブをすると決めている日だ。冬花ちゃんに出会わなかったら、俺はもう二度とここでギターを弾くことはなかっただろう。そう考えると、冬花ちゃんには感謝してもしきれない。そう心で噛みしめつつ、ギターケースを背負い直す。
建物の間からさす夕日の光に目を細めながら、いつもの黒いキャップ、そして、冬花ちゃんの描いてくれた絵が描かれたスケッチブックを手に、俺はいつもの場所へ歩いていく。
相変わらずこの通りは行き交う人が多いけれど、俺はこの場所が好きだった。だだっ広い公園の隅じゃ寂しいし、店の立ち並ぶこの通りは日が照っていなくても、街灯やいろんな店の明かりで人の顔がよく見えるほどに明るいからだ。
いつもの場所に着き、ゆっくりとギターケースを下ろしてから、地面に座りあぐらをかく。それから、何となくコートのポケットに入れていたスマホを取り出し何度か指でスクロールしていると、一通のメールが届いているのに気づき開く。送り主は冬花ちゃんだった。十五分くらい前に届いていて件名はなく、本文から始まる短いもの。
『もうすぐ学校終わるので行きますね。新曲解禁、楽しみにしてます!』
新曲解禁、と言えど、知名度があるわけでもない。けれど、一人でも楽しみにしてくれている人がいると思うだけで、俺の胸は高鳴っていた。
笑顔のマークが文末に二個ほどつけられており、昨日見たあの笑顔が頭の中に浮かんだ。
優しく細められる目、薄く染まる頬。
あの笑顔を見るたび、今を後悔しなくなった。あの時ああしていれば、と悲観的にならなくなった。冬花ちゃんに出会ってから心の変化が凄まじく、自分でも驚くほどだ。
ギターを取り出し、チューニングを済ませてスケッチブックを開く。
ペラペラとめくり、冬花ちゃんが描いてくれた絵のページで折り壁に立てかけた。
その途端、道を歩いていた人たちがその絵をちら、と見ては通り過ぎ、その後ろを歩いていた人は絵の前を通り過ぎるまでずっと絵から目を離さなかった。
「絵の反響すごいな……」
行き交う人達の目を一瞬で惹きつけるその絵は、すでに存在感を放っていた。
絵が描かれているのが大きなキャンバスではなく、こんな汚らしい小さなスケッチブックなのが申し訳ないくらいだ。
「椋さん!」
名前を呼ばれ、聞こえた方を見ると冬花ちゃんがマフラーをなびかせながらぱたぱたと走ってくる。
相変わらずの寒さなのにマフラーだけを巻いているあたり、冬花ちゃんらしさを感じた。
息を切らし肩を大きく上下に弾ませる冬花ちゃんと目を合わせる。
「お疲れ。寒くないのか?」
「いえ……寒くは、ないです。……あ」
少し前かがみになり呼吸を整える冬花ちゃんの目が、俺のすぐ横に向く。そして、恥ずかしそうにはにかんだ。
「飾ってくれたんですね」
「ついさっきこの絵を立てかけたら、通りすがりの人たちが何人かじっと見てたよ。やっぱりすごいな、冬花ちゃん」
「いえ、絵だけじゃ未完成です。椋さんの曲があってこそ、この絵は完成するんですよ」
息が整ったらしい冬花ちゃんは、背筋を伸ばすと「隣、いいですか?」とスケッチブックの飾ってある方とは反対の方を指差した。
「うん。あ、何か敷こうか。一応いらなくなったタオル持ってきてるけど」
「ありがとうございます」
隣にタオルを敷くと、冬花ちゃんはゆっくりとそこに座った。
二人の間の距離はそこまで遠くはない。
少し寄ったら肩がぶつかってしまうほどだった。それを気にせず、ギターを見つめ目を輝かせている冬花ちゃんに、何故か俺の心臓が鼓動を早め手の動きをぎこちなくさせた。
深呼吸をする。吐く息は緊張で少し震えていた。
急かすこともせず、ただそこに座っていてくれる冬花ちゃんにちら、と視線を送る。
それに気づいた冬花ちゃんは、ただ、ふわりと微笑んだ。それはいつもと変わらない。
けれどおかげで、緊張が解けたような気がした。
「じゃあ、いくよ」
ピックを構え言うと、はい、と力強くはっきりした返答が返ってきた。
リズムをとって、最初の音を鳴らす。
そして静かに、ゆっくりと歌声を重ねていく。
寒い空気が纏わりつく。けれど心臓は、それに反比例するかのようにしだいに熱を帯びていった。
すると。
「ママ、まって!おうたきく!」
「この絵凄くない?超綺麗なんだけど」
サビに入る頃には、俺たちの前には数人が立ち止まって聴き入っていた。小さな子から高校生、お年寄りまで、俺たちの前を通り過ぎようとしていた人たちがしだいに足を止め、こちらを振り返るようになった。
嬉しさに笑みが溢れそうになるが、ぐっと堪え最後まで歌った。
演奏が終わり顔を上げると、聞いたこともないくらいの大きな拍手が響いた。
歓声が上がる、ほどではなかったが、明らかに俺たちを称えるものがそこにはあった。
そのまま帰っていく人も数人いたが、残った人達は黒いキャップに次々とお金を入れて去っていった。
「あ……ありがとうございます!」
思わず立ち上がって、頭を深々と下げる。
すると隣に座っていた冬花ちゃんも、慌てて立ち上がり頭を下げた。
何人かに「よかったよ」「凄く綺麗だった」と褒め言葉をもらい、感動で二人顔を見合わせ笑い合った。
その後、この前歌った曲も歌い、聴いてくれた人たちが去っていったタイミングでギターを片付ける。
黒いキャップには、決して多くはないけれど前回のライブの倍と言ってもいいほどの金額が入っていた。
俺はギターを背負うと、そのキャップに入っていた金額を数え、その半分を手に取り冬花ちゃんに差し出す。
「え?」
「冬花ちゃんの分だよ。受け取って」
「そ、そんな……。私はただお手伝いをしてるだけで、稼ぎに来てるわけではないので……」
「一緒につくってくれたんだから、これはもらって当たり前なんだよ。いらないって言われても、無理やり鞄に入れるからね」
冬花ちゃんは俺の説得に折れたのか、渋々それを受けとった。しかし、すぐ財布にしまわずに、手のひらに乗ったそれらを見つめ、困ったように俺の目を見た。
「……あの、椋さん。私、お金のために描いてるんじゃなくて、本当に椋さんの曲が……」
「わかってる、わかってる。それは冬花ちゃんから十分すぎるほど伝わってるよ。だからこそ受け取ってほしいんだ」
そう言うと、冬花ちゃんの肩からわかりやすく力が抜けた。頬も緩み、「ありがとうございます」と言い大切そうに鞄から財布を取り出しきちんとしまった。
それを見届けてから、行こうか、と二人その場所をあとにした。
それから、約一ヶ月後。
再び新曲が完成し、冬花ちゃんにも新たに絵に起こしてもらい、二人でまたあの場所に行きライブをした。
十二月十六日。クリスマスがもうすぐやってくるというこの時期に、クリスマスに合うような曲を作った。冬花ちゃんも、何も言わなくてもその想いを汲み取ってくれたのだろう。冬景色の中寄り添いクリスマスツリーを見上げている恋人たちを淡い水彩絵具で描いてくれた。
毎回のように用意をしライブを始めると、すぐに数人が集まり曲に耳を傾けてくれた。
前と違っていたのは、二、三人が俺たちが来るのを待ってくれていたことだった。
嬉しさで胸が高鳴り、終始あまり寒さを感じなかった。
休憩がてら、ふうっと息をつくと隣から「お疲れ様です」と聞き慣れた声が聞こえる。
「何か飲み物でも買ってきましょうか?」
すでに鞄から財布を取り出していた冬花ちゃんは、立ち上がりながら尋ねた。
それに気づき慌てて止め、座るように促す。
「この前奢ってもらったんだし、今度は俺が奢るよ。何がいい?」
ポケットに小銭が入っているか確認しながら訊く。
「ありがとうございます。じゃあ……カフェラテをお願いします。無かったら椋さんにお任せします」
「了解。すぐ戻ってくるから、ここで待っててね」
立ち上がりながら言い、返事を背後に自販機へと向かう。
少し歩いたところにある自販機に、ちょうどカフェラテが売っていた。ついでに俺もそこで缶コーヒーを買い、急いで冬花ちゃんの元に戻ろうと歩みを早めた。
けれど、俺はその足を途中で止めた。
冬花ちゃんの座る目の前に、四人の女子高生が立ちはだかり冬花ちゃんと向かい合わせになっていたからだった。それもまるで囲んでいるかのように見え、こちらからはその子たちのせいで冬花ちゃんの姿も隠れていて、当然彼女たちの顔も見えなかった。
唯一分かったのは、冬花ちゃんと同じ制服を着ているため、同じ学校の生徒だということ。友達なのだろうか。楽しそうな笑い声も聞こえる。邪魔をしては悪いと思い、建物の影に隠れ、会話が終わるのを静かに待った。
五分くらい経った頃だろうか。やがて話し声が止み、笑い声と共に彼女たちが去っていく気配を感じて、冬花ちゃんの元へ駆け寄った。駆け寄ってすぐ、俺はあの場所で待機していたことを死ぬほど後悔したのだった。
「え……なんで……」
「っ……おかえりなさい」
冬花ちゃんは、両手でスケッチブックを抱えるように持ち座っていた。描かれた絵は酷く汚れ、たくさんの泥の付いた靴裏の足跡で埋め尽くされていた。冬花ちゃんは笑顔を繕い出迎えてくれたが、眉は下がり今にも泣きそうに唇を噛みしめている。絵を持つ手も震えていた。
「何で、こんな……」
手に持っていた缶二つが、俺の手から落ち地面に叩きつけられる。
冬花ちゃんの目の前にしゃがみ目線を合わせようとするが、ぱっと俯いてしまいなかなか合わない。
肩に両手を置き、「何があったか話せるか?」と訊くが、冬花ちゃんは口をひき結んだまま黙っていた。やがてスケッチブックにぽたぽたと涙が落ち、だんだんと絵が滲んでいく。
何度聞いても、冬花ちゃんは黙って静かに泣くばかり。なんだか消えてしまいそうなその小さな姿に、俺は聞くのをやめ、冬花ちゃんの頭を自分の胸元に埋め背中をさすった。
その日は、家に送る道中も会話はなく、別れ際に小さく頭を下げてくれるだけだった。
冬花ちゃんが玄関のドアを開けて中に入ったのを確認してから、俺は手元に持っていたスケッチブックをゆっくりと開いた。
少量の砂が、紙と紙の間からさらりと落ちる。こみ上げてきた正体不明の悔しさに、俺はスケッチブックを持つ手にぎゅうっと力を入れ、歯を食いしばった。
先ほどまで少しだけ降っていた雪は雨へと姿を変え、量を増し俺の髪やコート、ギターケース、スケッチブックをしっとりと濡らしていった。
その日の夜、俺はベッドの上で、一人眠れないまま、仰向けになり暗い天井を見つめていた。
自販機に飲み物を買いに行っていた数分の間に何が起こったのか。
考えられる原因としては二つ。一つ目は、冬花ちゃんが手を滑らせて道の真ん中に落ちたスケッチブックが、通りすがりの人たちに踏まれてしまった。二つ目は、考えたくもないが、俺が目撃した女子高校生四人が先輩か、もしくは冬花ちゃんと仲の良くない誰かで、意図的にやられた。けれどみんな笑っていたし、側からみれば楽しそうな光景だったような気もする。
どちらにしても、あの冬花ちゃんの泣き顔が頭にこびりついて離れない。
それに、普通ならどうしてこんなことを、と悔しがるはずなのに、冬花ちゃんは「私のせい」とでも言うように俯いていた。
色々あって、人の感情や仕草に敏感になっていたこともあり、そういうことを読み取るのは得意だった。
天井に真っ直ぐ掌を伸ばしてから、落とすように額の上に乗せる。
今日は火曜日。日曜ではないから、明日必ずしも会えないわけではない。けれど、もしかしたら会えないかもしれないという気持ちが駆けて毛布で顔を覆う。
無理はしないでと言いつつも毎日来てくれたのもあって、いつの日か、冬花ちゃんと会うのが待ち遠しくなっていた。
出会った日の顔、初めて目の前で新曲を披露した時の顔、真剣に聴き入ってくれている時の冬花ちゃんの顔が走馬灯のように駆け巡る。少しずつ、意識がすうっと遠のいていき、やがて、俺は眠りに落ちた。
それから、冬花ちゃんはぱたりと倉庫に来なくなった。
メールでは「用事があるので」の一言きり。
それが約一週間ほど続き、とうとう一週間を過ぎる頃には、そのメールも来なくなった。
寒さが勢いを増したある日の朝、目が覚め、冬花ちゃんに「おはよう」とメールを送ってみるが既読はつかなかった。
朝だし忙しいか、と自分を無理にでも納得させ、着替えて顔を洗い、トースターに食パンをセットしてフライパンに卵を落とす。
「さむ……」
鼻をすすり、目玉の形になって焼けていくそれを見ながら蓋をする。
黄身と白身の色がはっきりしてきたそれをぼうっと眺めていると、ふいにベッドの上に置かれたスマホが着信音と共にブブッと震えた。もしかしてと思い、フライ返しを持ったままベッドに駆け寄りスマホを手に取る。
メールは来ていたけれど、送り主は冬花ちゃんではなく、高校からの友達である悠斗だった。
『今日、講義終わったら北高行かない?』
同じ大学に通う悠斗は、俺と同じ心理学科を専攻している。志望校の音大に落ち、何もする気がなくなり落ち込んでいた俺を、この大学に誘ったのも悠斗だった。心理に少し興味のあった俺は、勢いでこの大学を受けた。
悠斗の言う北高とは、この辺にある偏差値の高い高校のことで、今思い返してみれば、冬花ちゃんの通う高校だった。制服を見たときに何故思い出せなかったのだろう。一瞬見透かされた気持ちになったけれど、悠斗は俺の活動について何も知らなければ、もちろん冬花ちゃんのことだって知らない。彼が言っているのはきっと、毎年この時期になると行われる北高の有名な文化祭のことだろう。
悠斗は毎年行っているらしく、俺もその度に誘われていたが、なんとなく断り続けてきた。
けれど今日は、もしかしたら冬花ちゃんに会えるかもしれない。二年生だという情報は聞いているし、大学から北高までは歩いて行けるほど近い。
いいよ、とだけ返信し、焼けた食パンを皿に移す。フライパンに乗ったままの目玉焼きをその上に乗せ、かぶりつく。いつもならテーブルに置いてスマホをいじりながら食べるけれど、何故か焦燥感が先走って、キッチンに立ったまま朝食を済ませた。
大学に着き講義室に入ると、いつものように寄ってくる一人の気配を感じつつ背負っていたリュックを長机に下ろす。
「よっ、椋」
相変わらず容赦なく肩に置かれる悠斗の腕の重さにはもう慣れたものだ。ほとんどが鍛えた筋肉らしく、周りの女子からも何故か人気だ。顔はいいのに彼女がいないのは、その抜けた性格のせいなのかもしれない。
「おはよ、悠斗。肩痛い」
「あはは、悪い。お前、今年はノリいいんだな」
「え?」
「文化祭。絶対断ると思ったのに」
「あぁ……。北高に俺のいとこが通いはじめたんだよ」
とっさについた嘘だったけれど、人よりだいぶ鈍感な悠斗はすぐに信じ込み隣にどかっと座る。俺もようやっと席に着くと、悠斗はスマホを出して北高のホームページを開き、「ん」と目の前に差し出してきた。
そこには高校の文化祭とは思えないほど、出店情報、ステージの出演者からタイムテーブルなど様々な情報が分かりやすく配置されていた。さらには、来たるクリスマスにちなみ、生徒会が交渉しコラボした高級ケーキ屋があるらしく、用意される高価なブッシュドノエルが特別に数量限定で販売されるとか。
悠斗のスマホを持って軽くスクロールしながらいろいろ見ていると、悠斗はこちらを向いたまま机に肘を置いた。
「毎年すげーよな、北高の文化祭。あ、お前は毎年誘っても行かないって言って引きこもってたから知らねーか」
にやりと笑って用意していた嫌味のように言ってくる。
「うるさい。色々あったんだよ」
そう言ってスマホを返し、自分のスマホを取り出す。そしてチャットアプリを開き、冬花ちゃんの名前をタップしトーク画面に行く。今朝の挨拶に、未だに既読はついていなかった。会いに行くとはいえ、高校の文化祭だ。人もかなり多いし、会えない可能性の方が高いだろう。けれどもし会えた時、いきなり来られても困るだろうし、一応連絡しておこうとキーボードに指を伸ばした。
「ん、あれ?お前彼女いんの?半年前に別れたんじゃなかったっけ?」
「ちょ……勝手に人のスマホ覗くな。てか彼女じゃないし」
気づいたときには、横から悠斗の首が伸びてきていた。
慌ててスマホを机に伏せると、悠斗は「ちぇっ」と言い面白くなさそうに前を向いて座り直した。
「そんなに俺に隠すような相手?怪しいな」
「いや、まぁ……。最近知り合った人なんだけど」
隠すと誤解が次々と生まれそうで、俺は正直に全て話すことにした。
俺が趣味で路上ライブをやっている時、聴きに来てくれた女の子が、自分の曲を聴いてイメージを絵に起こしてくれたこと。その子と二人で活動していること。
そして、この前あった出来事によりメールに既読がつかないこと、北高の制服を着ていたから、もしかしたら今日会えるかもしれないということも。
全てを話し終わると、悠斗の先ほどまでのおちゃらけた雰囲気は一粒も残っていなかった。頬杖をついて、俺の顔を見ていた目線を講義室の前のほうに向け、「なるほどな〜」と半ば息を吐きながら言った。
「だから今日誘ったらのってきたわけだ」
「まぁ……うん。人探しも兼ねて、と思って。ごめん、嘘ついて」
「え?お前いつ嘘ついた?」
「覚えてないのかよ……」
軽くつっこむと、悠斗は「よし、わかった!」と勢いよく立ち上がった。
「俺もその子探すの手伝う!」
「え、いいのか?」
悠斗が文化祭に行く一番の目的は、彼女を作るためだと言っていた。それなら合コンに行けばいいのにと言ったことがあるが、それは俺のプライドが許さない、と訳のわからないことを言っていた。
そのことを思い出し眉を下げ半目で悠斗を見つめていると、こちらを向いた悠斗も眉をひそめる。
「何だよその目は。あのなぁ、お前俺が彼女探しのためだけに毎年文化祭行ってたと思ってたのか?」
頷きそうになり、小さな笑いと共に消化する。
まだ解決したわけではないけれど、心の重りが少しだけ取れたような気がした。
今日の講義は午前中しか入れていなかったため、終わると同時に講義室を出た。
北高の文化祭はこの辺ではかなり有名なのもあり、交通機関の混雑を避けるために昼から開催されている。そして、明日の午前中、最終日は午前中から午後にかけてと、時間帯をずらし計三日間行われる。
大学を出ると、すでに北高へと向かっているのであろう人々を見かける。
「で、その子には言ったのか?今日行くって」
俺が手に持っていたスマホを、悠斗が顎で指しながら聞く。
「一応連絡はしておいたけど、既読になってないんだよな……。せめて読んでくれればいいんだけど」
「ま、いきなり来られても困るよな」
「別にクラスにズカズカ入って聞き回ることはしないけどさ」
「手がかりはあんの?髪型とかクラスとか」
「髪は、左右にゆるい三つ編みしてる。クラスは分からないけど、二年生って言ってたな」
冬花ちゃんと出会ったときのことがふと頭によぎる。彼女の冷えて赤くなった指に握られた百円玉が、まるで宝石のように見えたあの瞬間は、一生忘れることはないだろう。
「パンフレットです、よかったらきてくださーい」
道中、北高に近づくにつれて、北高の制服を着た何人かの生徒が文化祭のパンフレットを配っていた。
こんなに寒いのに、外で何時間も配ってるんだな、と思うと、やはり外で待っていてくれた冬花ちゃんとの記憶が駆け抜ける。
どうしてこんなに、頭の中が冬花ちゃんのことばかりになってしまうのだろう。
もちろん目的は彼女だが、あまりにも依存してしまっている自分に、正直驚いていた。
「すげー。ここ、オリジナルの味噌売ってんだって」
学校に着くやいなや、悠斗はまるで玩具売り場に来た子供のように模擬店を見て回っていた。あまりこちらの事情に付き合わせるのもな、と思い、俺は文化祭を楽しみつつ密かに冬花ちゃんを探すことにした。
「へぇ。悠斗、そこチュロス売ってる」
「まじ?買ってくる!」
走っていった悠斗を見送りつつ、パンフレットに視線を落とす。
二年生の模擬店は、三階と記してあった。あたりを見回して階段を探し、チュロスを二本握って笑顔で戻ってきた悠斗と一緒に階段を上がる。三階に着くと、さっきとは全く違う空間が二人を出迎えた。ここであのブッシュドノエルも売っているらしく、廊下から既に高級な雰囲気が漂っている。
「この階が二年生なのか?」
「そうらしい。お前も自由に見たいだろうし、店を回るついでに冬花ちゃんっぽい人いたら連絡してくれ」
「りょーかい。じゃあまた後でな!」
ひらひらと手を振り、ドーナツを売っている一番奥のクラスに颯爽と入っていく悠斗を見送ってから、一つずつ教室を見ていこうと手前の方から順に入っていく。
ここは肉まんとあんまんを売っているクラスで、ほかほかと湯気があたりに広がっていた。外にいて寒かったのもあり、暖を取りつつ肉まんを一つ買ってから教室内を見渡してみる。やはりシフト制なのか、レジや補充を合わせて五、六人しかいなかった。探してみても、冬花ちゃんらしき人物は見当たらない。一つ息をついて、肉まんを食べながらその教室を後にした。
次々と教室を見ていくが、見つからない。廊下を歩く生徒の顔も見てみるが、やはり違う。やっぱり会えないか、と半ば諦めつつ、最後にパンフレットに二の五と書かれていた家庭科室に足を運んだ。
ここは手作りのクッキーを販売しているらしく、簡単に作れるヘルシーなクッキーを焼き立てで販売するため、家庭科室を使ってクッキーの調理が行われていた。
教室よりも広いため、たくさんの人が出入りしておりシフトの人数も多そうだった。陳列されている出来立てのクッキーを眺めてから、あたりを見回してみる。奥の方でクッキーの香ばしい匂いがしたから、ちょうど焼けたのだろう。やはり見当たらないな、と家庭科室を出ようとした時、ばったりと目の前でドーナツを持った悠斗と会った。
「おお、椋。お前ここにいたのか。どうだった?探してる子見つかったか?」
「いいや。とりあえず二年の教室は全部見て回ったけど、それっぽい子はいなかった。もしかしたらシフトの時間じゃないかもしれないし、他の階も一応見てくる」
「おう!俺もここのクッキー買ったらそっち向かうから」
「お前どんだけ食うんだよ……」
呆れつつ、躊躇なしに家庭科室に入っていく悠斗に別れを告げ、家庭科室を出て歩いていこうとしたその時だった。
「きゃー!」
「火傷してる!誰か水持ってきて!」
「先生!先生呼んで!」
数人の女子生徒の叫び声に、弾かれるように振り返った。
周りの人や、俺と同じように家庭科室の前にいた人たちも、何事だと中を覗いている。
足を踏み入れると、その事態を目の当たりにしたらしい悠斗が、青ざめた顔でこちらに向かって走りながら、大声で叫んだ。
「誰か救急車呼んでください!」
その声に、すぐ近くにいた先生らしき男性がポケットからスマホを取り出し焦った顔で耳に当てた。
「おい悠斗、何があったんだ?」
駆け寄って聞くと、悠斗は少し汗の滲んだ額を拭い息を切らしながら言った。
「女の子が一人、右腕を大火傷したらしい。チョコを溶かす湯煎用のお湯を運んでたら、何かに躓いてお湯が全部右腕にかかっちゃったらしくて」
「え⁉︎大丈夫なのか?」
「分からない……。俺が見に行った時にはもう、見てられないくらい赤くなってたし、その子も火傷の熱さで気絶してたから……」
悠斗は現場の方を振り返ってすぐ、目線を逸らして苦虫を噛み潰したような顔をした。
俺も現場の方に目を向けると、数人の先生たちがタオルに水を含ませ腕の熱を取り必死に冷やそうとしていた。すぐ横にケトルがあったから、沸いた直後のお湯なのだろう。相当熱かったはずだ。
すると、悠斗が急に青ざめたかと思うと俺の目を見て口を開いた。
「そういえば……その火傷した子、三つ編みしてたような気がする……。もしかして、椋が探してた……」
ドクン、と心臓が重い音を立て跳ねた。さぁっと背中に寒気が走る。
俺は悠斗の言葉を待たずして、人だかりを掻き分けその子の元へ走った。
そして目に入ったのは。
「……っ!冬花ちゃん!!」
それから、サイレンが鳴り響く中、冬花ちゃんは救急車で近くの病院まで運ばれていった。俺はといえば、心は半分放心状態で、ただその一部始終を立ったまま見ているだけだった。頭の中で、感情が入り混じってよくわからないことになっている。会えた嬉しさと、悲劇の悲しみのどちらにもたれたらいいのかわからない。
しばらくして冷静になった俺は、いてもたってもいられなくなり、悠斗に「病院に行く」とだけ言い残し走って冬花ちゃんの運ばれた近くの病院まで行った。
息が切れようと関係なかった。ゆっくりと開く病院の自動ドアが、じれったく感じた。
受付で事情を話していると、たまたま通りかかった、冬花ちゃんの手当てをしたのであろう看護師さんが部屋まで案内してくれた。
半ば勢いよく病室のドアを開けると、そこには窓の方を向いて静かに佇む冬花ちゃんの姿があった。右腕は痛々しいほどに包帯で厚く巻かれている。
「……冬花ちゃん」
呟くように名前を呼ぶと、それに応じてぱっと振り返ったその顔には、嬉しさや喜びの色は一切なかった。口は笑みを見せようと必死だったが、目は笑っていなかった。
「椋さん……」
「その……友達と文化祭に来てて、ちょうどあの場にいたんだ。騒ぎを聞いて、火傷したのが冬花ちゃんだって分かって……」
泳がせていた目を冬花ちゃんの方に戻すが、同時に冬花ちゃんも俺から目を逸らしてしまった。そして俯いたまま口を開く。
「ごめんなさい」
「なんで謝るんだよ。……腕、大丈夫か?」
一歩、二歩とゆっくり距離を縮めていく。冬花ちゃんもそれを拒まず、ただベッドの上で真っ白な、太くなった右腕を見つめていた。
「……大丈夫です」
掠れた声を溢す冬花ちゃんとは、未だに目が合わない。
とりあえず俺は、近くにあった丸椅子を引き寄せ、冬花ちゃんの側に座った。
静寂がふいに訪れる。廊下から聴こえる声がさらにそれを感じさせるが、初めて会った時のように気まずくはなかった。
本当は、聞きたいことが山ほどあった。
なぜあの時、スケッチブックがあんなに汚れてしまったのか。一緒にいた子たちとはどういう関係なのか。傷の入ったローファーのことだって、たくさんたくさん、聞きたかった。けれど、こんな悲惨な事件が起きてすぐに聞くのは、冬花ちゃんの心の傷を抉ってしまう他ないと思った。
「……あの」
降ってきた声に前を向く。
「ごめんなさい……。急に連絡も無しに行かない日が続いてしまって」
「いや……それは全然大丈夫だよ。元々無理はしないでねって言ってたし」
語尾に力がなくなる代わりに、拳にぎゅっと力が入る。
冬花ちゃんは小さく深呼吸をすると、ゆっくり口を開き、静かに話し始めた。
「私、人と関わるのが苦手なんです。小学校の頃に、信頼していた唯一の友達が私の悪口を言っているのを聞いたのがきっかけで、人を信用できなくなってしまって……それ以降、友達が作れなくなったんです」
少しの間の後、ごくり、と唾を飲む音が聞こえた。心なしか、声が震え始めたような気がする。
「今のクラスメイトとも全然打ち解けられなくて、いつの間にかクラスから孤立してしまいました。それから、私がちょっと変わってるからなのか、一部のクラスの子たちに悪口を言われたり、嫌がらせをされるようになってしまって……」
ぴたりと話が止む。冬花ちゃんは唇を噛み締め、再び窓の方を向いてしまった。俺はそこまで鈍感ではない方だと自分でもわかっている。頭の中で、何かがかちりとはまる音がした。
冬花ちゃんは、いじめられていたんだ。
傷の入ったローファーも、砂で汚れたスケッチブックも、全部いじめが原因で。
あの時にいた同い年の子たちは多分、クラスメイトの、冬花ちゃんをいじめている子たちで合っているだろう。
その場に俺が居合わせたから、顔を合わせるのがつらくなってしまい、倉庫に来れなくなるのも理解できる。
「っ……」
歯を食いしばる。
いじめに苛立つよりも先に、流れ込んできた感情。それは、胸に刺さるほどの悲しみだった。
あの日、汚れたスケッチブックを抱きしめながら一人泣いていた冬花ちゃんのあの顔が脳裏に浮かぶ。自分は何も悪くないのに、自分のせいだ、と言い震えながら涙を流すあの姿が。
消えてしまいそうなほど小さくなった背中を見つめる。こんな小さな背中に、とてつもなく大きなものを背負っていたのだ。
包帯の巻かれた方の腕に、そっと手を伸ばす。冬花ちゃんは触れられた感触に、驚いたように目を開きこちらを向いた。
「ごめんな……気づいてやれなくて」
冬花ちゃんは触れられることを拒みはしなかった。俺の言葉に眉を下げ、目を細めゆっくりと首を横に振り、「椋さんは何も悪くないです」と言った。
俺は小さく、ありがとうと呟き腕に触れていた手をそっと離した。
「……私、明日から二週間、入院することになったんです」
冬花ちゃんがぽつりと言った。確かに、この火傷は病院での処置が必要だ。包帯が巻かれた範囲的に、右腕のほとんどが火傷の傷を負っている。
「……そっか」
「ごめんなさい……」
また、冬花ちゃんは弱々しい声で謝った。
再び、なんで謝るの、と言おうとしたけれど、遮られた。彼女の涙と、震える声によって。
「ごめんなさい……っ……ごめんなさい……」
縮こまるように少し立てた膝に顔を埋め、冬花ちゃんは泣きながら何度も何度も謝った。
多分これは、俺だけに向けた謝罪ではない。冬花ちゃんの両親に向けられた言葉でもあるのかもしれない。そんな感情が、その小さな背中からひしひしと伝わってきた。
その日はただ、泣き止むまで冬花ちゃんの背中をさすり続けた。
窓から差し込む夕日の光が少しずつ影を薄くし、肌寒さが体をまとわりついてきた。
翌日の夕方。いつもの場所。地面の上にあぐらをかいてギターを抱え、チューニングを確かめる。
風が運ぶひんやりとした空気が、今日は寂しく感じる。二人でここに座ってライブをしたあの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
冬花ちゃんと連絡が取れなくなって以来のライブだからか、妙に緊張していた。
別に人気があるわけでもないし、お客さんも固定されていないから緊張することの方が不思議だけれど、それでも何故か、ギターを抱える手に力が入った。
ギターケースの中にしまっていたスケッチブックを取り出し、ペラ、と一枚ページをめくる。色が乗ったそれは、少しだけど重みを感じた。これは、冬花ちゃんが初めてこのスケッチブックに色をのせた絵だ。
「……ありがとう」
誰にも聞こえないような声量で、そこに冬花ちゃんがいるかのようにスケッチブックに向かって囁いてから、そっと壁に立てかける。
そして、前奏を弾き始める。
けれどそれは、一人の声によって中断せざるを得なかった。
「あれ?冬花いないの?」
力強い声に上を向くと、数人の女子高校生が目の前に立っていた。囲まれているようで威圧感に少しだけ恐怖を覚えてしまう。
「そりゃあいないっしょ。あいつ入院してるし」
「あ、そうだった。忘れてたー」
「うける。ずっと来なくていいのに」
記憶が正しければ、彼女たちのことは少しだが見覚えがある。この人数に、この面々。
「えっと……君たちは?」
念のため聞いてみると、不満そうに腕を組み存在感を放つ長い茶髪の子が一歩前に出てきた。
「あなた、冬花の彼氏か何かですか?」
「え、いや……彼氏ではないけど」
唐突な質問にぎこちなく答えると、後ろにいた背の低い子がポニーテールを揺らしてニコニコしながら前に躍り出てきた。
「何歳ですかー?」
こんな人通りの多いところでこの状況は大変気まずい。はやく切り抜けたいが、何か言っても聞かないだろうから素直に答えることにした。
「二十一……です」
すると、先ほどまでニコニコしていた子が何かを見下すように、にたりと悪い笑みを浮かべ、隣にいた背の高い黒髪ショートの子の肩に手を置いて笑いだした。
「あいつ成人男性と遊んでるとか超ウケるんだけどー!」
「生活指導にチクッてやろ」
間違いない。この子たちが、冬花ちゃんをいじめているんだ。
途端に、脳裏に冬花ちゃんの笑顔や照れた時に見せたふんわりとした笑み、一人顔を埋め震えながら泣いていたあの顔が浮かぶ。
そして、何かが体の中でプツリと切れた。
自分でも何を言い出すか分からない口を、俺は思うままに動かした。
「……もう、ここには来ないでほしい」
「は?」
ギターをそっとギターケースの上に置き、膝に手をついてゆっくりと立ち上がる。
彼女達も、何事かと一歩後ろに下がった。
「もう二度と、俺と、冬花ちゃんには関わらないでほしい」
俺と、彼女達の間に沈黙が訪れる。
「……、あはははっ!」
突然、茶髪の子が手を叩いて笑い出した。後ろにいた数人の子も、何かを話してはくすくすと笑っている。
「まじウケる。あいつの何がいいの?何もできないし、動き鈍いし見ててイライラするだけじゃん。うちらが構ってやってんだから感謝しろって思うよね」
拳をぎゅっと握る。何か言ったところで、この子達は聞かないだろう。
再びポニーテールの子がリーダーの子の腕に絡みながら顔を出した。
「あたし見たよー。この前の文化祭で、うちらが出した足につまずいて火傷した時、超泣きそうになってた。ほんとスカッとしたよね!」
「でもさー、そのあとあいつ気失うわ、救急車来るわ先生に色々聞かれるわで、まじ迷惑したんだけど」
「ちゃんと下見て歩かないからああなるんだよね」
「うちら何も悪くないもんねー」
心臓がどくん、と嫌な音を立てる。
あの火傷は、意図的に仕組まれていたものだったのか?
ただの事故では無く、この子達によって計画されていた「いじめ」の一つだった?
悲しみ、怒り、憎しみ。それら全ての感情が決壊したダムのように心の中で一気に流れ出す。気づいた時には、俺はギターや何もかもを放り出し、目の前に立っていた彼女たちを押し退けてスケッチブックだけを脇に抱え、一人駆け出していた。
「っ、はぁ…はぁ…」
病院に着き、病室のドアを勢いよく開けると、何事かと目を見開いて俺を見つめる小さな姿に、力なく笑い返す。
「椋さん……?」
冬花ちゃんは、少しだけど安堵したような面持ちで俺を出迎えてくれた。
俺はあの後、病院まで休まず走り続けた。まるで映画のワンシーンのように、ずっと、ずっと走り続けた。
冬花ちゃんの腕に巻かれた包帯は、昨日より少しだけ厚さが減っていた。腕の形がわかるほど、ガーゼの上から薄いもので巻かれている。
息が整わない。肺が苦しい。身体中が熱い。だけど、そんなことよりも先に。
俺は、無我夢中で冬花ちゃんを抱きしめた。
「え、あの……」
高校生とはいえ、すぐに消えそうなほど小さい体。纏う雰囲気は、決して良いものではなかった。だから、消えてしまわないように、この腕で、体で、しっかりと抱きしめた。
すると、俺の背にそっと両手が添えられる。
小さくて、でも温かみを感じる冬花ちゃんの手だった。
「守ってやれなくて、ごめん」
抱きしめたまま、冬花ちゃんの耳元で呟く。その瞬間、俺の肩に何かがぽた、と落ちた。
続けて鼻を啜る音、呼吸の震えを感じる。
病室には、静けさを刻むように時計の針の音が響いていた。
冬花ちゃんの体は、ちゃんと温かい。それを感じることができただけでも、ほっとして肩の力が少し抜けた。
しばらくして、そのままそっと口を開く。
「さっき、冬花ちゃんと同じ学校の子たちが、俺がいつもライブをしてるあの場所に来たんだ。それで、その火傷があの子達の仕掛けたことだったのが分かって」
「……やっぱり、そうだったんだなぁ」
ゆっくりと体を離すと、冬花ちゃんは目尻に溜まった涙を左手で拭きながらぽつりと呟いた。
「……知ってたの?」
訊くと、冬花ちゃんはこくんと頷いて口を開いた。
「調理班が同じだったから、何かされるだろうとは思ってたので」
冬花ちゃんは右腕に左手を添え、労わるようにゆっくりとさすった。
「でも、こんな形で椋さんにまで迷惑かけちゃうんだったら、私……やっぱり椋さんに声、かけなきゃ良かったな」
「え……?」
冬花ちゃんは俺と目を合わせず、下を向いて心底辛そうに目を細め、再び口を開く。
「私……火傷で右腕の神経が麻痺しちゃって、絵が描けなくなったんです。だから、もう……椋さんのお手伝いもできないし、私が隣にいる意味も無くなっちゃいますよね」
なんでそんな事、と言おうとしたが、冬花ちゃんはそれを遮るようにベッドから降りてスリッパを履き、ハンカチを手に持って「もう遅いですし、気をつけて帰ってくださいね」とだけ言い、笑うことなく俺の返事を待たずして病室を出て行ってしまった。
俺は、数分の間誰もいなくなった静かな病室に一人立っていた。両手のひらいっぱいにすくっていた水が、何かの拍子に一気に溢れ空っぽになったような。当たり前のように眺めていた綺麗な花が、ある日突然枯れてしまったような。そんな喪失感に苛まれた。
また、俺は大切なものを失ってしまうのか。
病室に差し込む夕日の光が、足元に大きな影を形作っていた。
「おーい、椋。聞いてる?」
「……え?」
我に返ると、講義室には俺と悠斗の二人だけしか残っていなかった。
翌日。昨日のことが頭から離れず、大学での講義も集中できなかった。どうやら悠斗から話しかけられたことにすら気づいていなかったらしい。
「昼飯、食べに行こうぜって言ったのに全然聞いてねーんだもん。何かあった?」
「ああ、いや……。ごめん、行こう」
先に立ち上がり講義室を出ると、悠斗は後を追うように立ち上がり小走りで追いかけてくる。
食堂に着いて、俺は唐揚げ定食、悠斗はカレーを注文し、窓際の席に着いた。
「今日の唐揚げめちゃくちゃ美味しそうじゃん!一個ちょーだい」
「いいよ」
「うわ、めずらし。いつもなら絶対くれないのに」
悠斗はカレーのスプーンで俺の目の前にあるからあげを一つすくい頬張った。幸せそうに食べるその姿を横目に、ため息をついて窓の外を見る。
「なあ、悠斗ってさ。いじめってどう思う?」
「え、何急にそんな話。食事中なんですけどー」
口を尖らせる悠斗。
「食事も何も関係ないだろ。別に汚い話じゃないんだし」
「関係あるよ。いじめって汚いじゃん」
「え……」
思わず箸が止まった。何事もなかったかのようにカレーを口に運ぶ悠斗を、じっと見つめてしまう。
「……そんなに見つめられたら悠斗くん照れちゃう」
「気持ち悪い」
「ひどっ!」
途端、笑いが込み上げた。やっぱり悠斗といると、心に引っかかったことや悩みが嘘のように小さくなる。そして、笑顔をくれる。
笑っていると、悠斗が子を見守る母親のように目を細め、うんうんとうなずいた。
「やっと笑ったな、椋」
「え?」
「なんか今日、朝から元気なかったじゃんお前。あの子と何かあったのか?」
いつもは何にしても鈍感なのに、こういう、人の心情や気持ちの変化には誰よりも敏感な悠斗。俺は、悠斗には敵わないと思った。
「実は……」
俺は文化祭の後の事から、いじめのこと、昨日あったことまで全てを悠斗に話した。
悠斗も、時に同情するように顔をしかめたり、怒ったり悲しんだりしながら話を最後まで聞いてくれた。
そして、最後には皿が少し飛び跳ねるほど勢いよく机に突っ伏してしまった。
悠斗も、小学校の頃にいじめられた経験があると聞いたことがある。そのせいで、気持ちが痛いほど分かるのだろう。
「おい、食事中だぞ。行儀悪い」
「辛すぎるだろそれ……だから俺、いじめって嫌いなんだよ。この世界、いや、宇宙で一番」
「命に別状がなかったのは良かったけど、昨日、冬花ちゃんに、私といる意味がないって言われて……」
「それで今、どうしたらいいか分からないわけか」
「ああ……。俺に何かできたらいいんだろうけど」
初めて出会った日、空っぽだった俺に希望をくれた。自信がなかった曲を、これでもかと褒めちぎってくれた。そんな君に、恩返しがしたかった。なのに、こんなふうに終わるなんて絶対に嫌だ。
けれど、だからどうすると言われても、すぐには思いつかなかった。
「椋はどうしたい?」
珍しく落ち着いたトーンで首を傾げ尋ねてくる悠斗に、俺は静かに箸を置いた。
「俺は……これからも今まで通り冬花ちゃんと二人で活動したい。絵が描けなくなったからって、冬花ちゃんが居なくてもいい理由になんてならない。冬花ちゃんの存在自体が俺にとっての希望だから」
普段なら絶対に言わない、映画のセリフのようなクサい言葉。でもそれは、俺の中で固まっている決意や、思いそのものだった。
それを聞いた悠斗は、何度か頷いた後「じゃあさ」と口を開く。
「これからも一緒にいればいいんじゃない?」
「…え?」
当然のように言う悠斗に、つい素っ頓狂な声が出てしまった。
「だから、別に冬花ちゃんは椋のことが嫌いになったわけじゃないんだよな?だったら一緒にいていいに決まってるじゃん」
遠回りしなくても、すぐそこにある答え。
なくなったら、また探せばいい。いつでも、何度でも。俺はそれを、ずっと望んでいたんだ。自分から手を伸ばそうとしなかった希望は、もう手の届く場所にあったんだ。
そう思った途端、俺は無意識に椅子から立ち上がっていた。
それに気づいた悠斗は、驚くことなく優しい目で俺を見上げている。
「ごめん悠斗、午後の講義任せた」
「りょーかい。いい報告待ってる」
一つ頷いて、俺は最後に残った唐揚げを立ったまま頬張り、食器を返却し走って大学を出た。
冬花ちゃんの入院している病院に着くと、病室のある二階へ階段を駆け上がった。
やがて病室の前に着く頃には、冬なのに汗でとても蒸し暑かった。
一つ深呼吸をしてドアをノックする。
しかし、部屋の中からは物音ひとつしなかった。廊下を歩く看護師さんや患者さんの足音、遠くから聞こえる話し声以外、何も聞こえない。
「冬花ちゃん?」
もう一度ノックしてから病室のドアをゆっくりと開ける。けれどそこには、冬花ちゃんの姿はなかった。
ロビーに行っているのかと思い見に行ったがおらず、病室の前で少し待ってみても少しも帰ってくる気配を感じなかった。
「あの、ここの部屋に入院してる女の子、どこに行ったか知りませんか?」
ちょうど目の前を通りかかった看護師さんに尋ねてみると、顔だけ俺の方を振り返り、部屋の番号を見てすぐ、「あぁ」とこちらに向き直った。
「冬花ちゃんですよね。お知り合いの方ですか?」
「はい。面会したいんですけど、見当たらなくて……」
「病室にはいらっしゃらなかったんですか?」
「はい。しばらく待ってみたんですけど、なかなか帰ってこなくて」
「何かあったんでしょうか……。今日は五時ごろから腕の消毒と診察があるから、病室で待っててねって言ったんですけどね」
そう言って看護師さんは腕時計をちら、と見て、眉を少し下げた。
「四時五十八分…。いつも時間前には必ず病室にいるのに、どこ行っちゃったんだろう……」
「俺、探してきます」
そう言って、俺は病院の廊下を小走りで走った。
トイレの近くやロビー、受付、入院棟全ての階を見て回ったが、どこにもいなかった。もしかしたら既に部屋に帰っているかもと思い戻ってみるがおらず、さっきの看護師さんが困った顔をして辺りを見回していた。そして俺に気づくと、焦ったようにこちらへと近づき口を開く。
「私も本部の方へ探しに行ったんですが、どこにもいなくて……。もしかしたら、病院の外に行っちゃったのかな……」
これは、入院している人の中でたまに起きる事だと看護師さんは言った。精神的に追い詰められたり、余命宣告をされた患者さんが、ふらりと勝手にどこかへ行ってしまうらしい。ドクン、と心臓が大きな音を立てた。
俺の足は、自然と出口の方へ向いていた。
「外、探してきます。見つかったら病院に連絡します」
「わかりました。私も次の患者さんが終わったら、すぐに探しに行きます」
看護師さんはそう言うと、パタパタと走っていった。
「どこ行ったんだ、冬花ちゃん……」
必ず見つける。もし、今一人で泣いているのなら、俺が全部受け止めるから。
俺は捲っていたシャツの袖を元に戻し、病院から出て走った。
一時間くらい探したところで、急に雲行きが怪しくなった。そして予想通り、シャワーのような大雨が地面に打ち付ける。
これはもう少し寒かったら大雪になっていただろうなと思うほどの量だった。
傘を持っていなかったので、案の定服が肌にくっつき、髪は水を吸って重力に従って萎れるようにしなっていた。けれどそんなことは今はどうでもよかった。早く、見つけないと。
病院の周り、近くの公園、歩道橋など、ありとあらゆる場所を探してみるが見つからず、範囲を広げるべく実家の近くまで走った。
「もしかして……」
ふと、少しの希望を胸に、俺は二人で使っていた倉庫へ向かった。
倉庫に行くのは何週間ぶりだろうか。あの事件があってから、一人でも、なんとなく行く気にはなれなかった。
信号を待っている間も落ち着けず、足踏みばかりしてしまう。
やがて実家へ着くと、俺は急いで倉庫のある方へ育った茂みをかき分け向かう。
すると、倉庫の前に、誰かが小さく蹲っていた。扉のすぐ横、壁際に体育座りをし膝に顔を埋めている姿。
近づくにつれてそれが誰なのか確信できた。
水色の入院服に、ゆるい三つ編み。
「冬花ちゃん!」
大声で名前を叫び近寄ると、肩がぴくっと反応しゆっくりと顔が上がった。
「椋さん……っ」
目が合う。合った瞬間、その綺麗な瞳に雨ではない滴が次々と溢れた。
やがて、冬花ちゃんは決壊したかのように声を上げて泣き出した。
俺は冬花ちゃんの前にしゃがみ込み、ぎゅうっと抱きしめた。肌がとても冷たく、右腕に巻かれた包帯は所々巻きが取れかけ、土で汚れていた。
入院服のまま、この寒さの中ここにいたのかと思うと、それだけで胸が締め付けられる。
さらに抱きしめる腕に力が入った。
「ごめんなさいっ……椋さん……私……」
「謝らないで。無事でよかった……」
背中をゆっくりさすりながら言うと、冬花ちゃんは俺の肩に額を乗せ、また「ごめんなさい」と言った。
しばらくの間、俺たちは倉庫の前で抱き合っていた。それから、冬花ちゃんが少し落ち着いてきたところで、倉庫の鍵を開けてから中に入る。
ストーブを付け、その前に座るよう促してから、置いていた毛布を冬花ちゃんの背中にそっと掛ける。
そしてスマホを取り出し病院に「冬花ちゃんは無事です。すぐに連れて戻るので、少しだけ時間を下さい」と連絡してから、冬花ちゃんの隣に座った。
倉庫の屋根に打ち付ける雨の音。ストーブの熱風の出る音。ただそれらを聴きながら、少しの間俺たちはそのまま何も話さず座っていた。
いつもなら密度を感じるこの空間も、今は何だか、がらんと広く見える。
「……寒くないか?」
訊くと、冬花ちゃんはゆっくりと頷いた。頷いたが、それ以外は何も話さない。少し待ってから、もう一度質問した。
「どうしてここにいたんだ?」
俺の質問に、冬花ちゃんは膝を抱える腕の力を強めたように見えた。
そして、小さく息を吸う音が聞こえる。
「椋さんに、会いたくて……」
この状況だと不謹慎に思えるかもしれないが、俺は正直、とても嬉しかった。
けれどそれに反するかのように、冬花ちゃんの表情はみるみるうちに歪んでいった。
「退院したら、また学校に行かなきゃいけないんだと思ったら、怖くて、耐えられなくて……そうしたら、椋さんの顔が浮かんで、気づいたらここにいて……」
ぽつ、ぽつと声を発する冬花ちゃんの言葉を、俺は取りこぼさないようにしっかりと聞いていた。
学校に行けばまたいじめられる。この残酷な現実に、冬花ちゃんは今、蝕まれている。
冬花ちゃんは俯いたまま、震える声でぎゅうっと目を瞑りぽつりと呟いた。
「消えたい……」
喉の奥に、何か熱いものが込み上げてくる。
まだ高校生なのに。これから先の未来があるはずなのに、それらを一気に根こそぎ取るように目の前を真っ暗にした現実。
俺も、一途に思っていた彼女にあっさりと捨てられた時は、これからの未来がぷつりと切られたように先が見えなくなった。そして、自分の存在意義を完全に見失っていた。
そうだ。あの時、感情に任せて弾き歌っていた曲に、冬花ちゃんは励まされたと言っていたのを思い出した。絶望の底にいた俺の気持ちに、冬花ちゃんはあの時共感していたんだ。自分も同じ立場にいたから。
俺はゆっくりと立ち上がり、壁に立てかけていたギターに手を伸ばした。
そして再び冬花ちゃんの隣に座ると、ギターをちらっと見た冬花ちゃんは目を細め、眉を下げほんの少し切なそうな顔をしてまた俯いてしまう。
俺はあぐらをかいてギターを構えたけれど、弾かずに冬花ちゃんの方を見た。そして静かに口を開く。
「俺たちが出会った時に弾いてた曲、覚えてるか?」
頷いたのを確認して続ける。
「あの曲、すごく褒めてくれたよな。周りの人たちはみんな通り過ぎていくのに、冬花ちゃんだけだった。生まれて初めてだったんだ、あんな風に褒められたのは」
冬花ちゃんがはっとしたように俯いていた顔を上げる。そして、やっと目が合った。
「俺は、これからも冬花ちゃんとずっと一緒にいたい。俺にとって、冬花ちゃんは生きがいだから。俺は、冬花ちゃんにずっとそばにいて欲しいし、俺も冬花ちゃんのそばにいたいよ」
「でも……っ」
ようやく、冬花ちゃんが口を開いた。
ボロボロになった包帯の巻かれた腕を左手で掴み、訴えかけるように。
「もう絵も描けないし、私が隣にいたら、また椋さんに迷惑を……」
途中で言葉を遮るようにぽん、と冬花ちゃんの肩に手を置くと、ぴたりと話すのをやめ俺の目を見つめてくる。
「冬花ちゃんは、俺に迷惑かけたことなんて一度もないよ。これからもきっと、一生ない。絵が描けなくなったからって、ここにいちゃいけない理由になんてならないよ。俺は、冬花ちゃんだから一緒にいたいんだ。もし他に絵を描ける人が現れたとしても、俺は絶対に冬花ちゃんを選ぶよ」
「っ……」
肩からゆっくり手を離し、再びギターを構え出会った時に弾いていた曲のサビを奏でる。
頭の中に、あの日の出来事がスライドショーのように流れていく。
思わず突き放したあの日。それでも来てくれた冬花ちゃんが、スケッチブックにペンを走らせる姿。二人で倉庫で笑いあった日のことも。
どれも、色濃い思い出だ。初めての経験だった。
サビを弾き終わる頃には、冬花ちゃんは完全に顔を上げメロディに聞き入っていた。
「冬花ちゃん」
ジャン、と最後の音を奏でてから静かに名前を呼ぶ。
「一つだけ、わがままを言ってもいいかな」
小さく冷たい華奢な手をそっと取る。冬花ちゃんは俺から目を離さずに少し首を傾げた。
「他に理由なんていらない。俺だけのために、生きててほしい」
そう言った瞬間、冬花ちゃんの目から、ぽたぽたと地面に滴が一つ、二つと落ちていく。
瞬きをする度、さらにそれは数を増していった。手を伸ばし拭ってやるが、どんどん溢れて止まらなかった。
やがて、喉から絞り出すように冬花ちゃんは口を開き話しはじめた。
「ずっと、居場所が欲しかった……。私は、私が嫌いだから……この世界に生きる意味が分からなかった……。誰かにすがっても、私のせいでその人が不幸になるのなら、もういっそ、この世界から消えたかった。私がいなければ、私に関わってきた人たち……クラスメイトや家族だってもっと幸せになるはずだった」
冬花ちゃんは地面に両手をつき、吐き出すように言葉を並べた。止まらない涙や肩の震えを見て、俺は自然と拳を握りしめる。
「私が生まれてこなければって、毎晩ずっと考えて……辛くて、苦しかった……!」
どこにも、誰にも吐き出せなかったのであろうそれは、地面に容赦なく叩きつけられる。
胸につらさが伝染していくようで、耐えられずに歯を食いしばった。
「……でも」
ふと、冬花ちゃんはゆっくりと顔を上げ、未だに涙で充血した目で俺を再びしっかりと捉えた。心なしか、微笑んでいるような気がする。
「椋さんが、私に居場所をくれました。生まれて初めて、ここにいていいんだって……椋さんのおかげで、私は生きてていいんだって思えました」
少しばかり震えた声。けれど、先ほどの表情とは対照的なその笑顔に、心臓がやっと速度を緩めゆっくりと脈を打ち始める。
初めて冬花ちゃんがこの倉庫に来た帰り道、俺が「いつでもおいで」と言った瞬間に泣きそうになっていたのは、冬花ちゃんにとって、ここが居場所だと思えたからなのだろうか。冬花ちゃんが今まで、ずっと欲しかった居場所。ここを冬花ちゃんがそう呼んでくれるのなら、俺はこれからもずっと、この居場所を守っていこうと誓った。
「退院したら、またここにおいで。いつでも待ってるから」
そう言うと、冬花ちゃんはまた目を潤ませる。そして、深く、頷いた。
いつの間にか雨は止んでいた。倉庫の簡易窓から差す日の光が眩しくなって、洗い立ての草の匂いを、冬の風が窓からここまで運んできてくれた。
二週間後。冬花ちゃんは退院した次の日から、毎日のように倉庫へと来た。それも、朝から夕方まで、ずっと。俺が大学に行っていていない時間帯も、掃除をしてくれたり、時には一人ストーブの前で気持ちよさそうに昼寝をしている姿を見たこともあった。
冬花ちゃんは今、学校に行っていない。医師から、一週間の休養期間が与えられたのだ。親に事情を話すと、冬花ちゃんの望みならと遠出はしない約束で外出を許可してくれたらしい。腕の火傷跡も消えこそはしないけれど、包帯を巻かなくても洋服を着たり、お風呂に入ったりすることはできるようになったらしい。
さらに、あの火傷事件がいじめによるものだということが学校で噂になり、正式な報告の前に校長の耳にまで届いたらしく、いじめをしていた女子数人が謹慎、退学処分となったと冬花ちゃんが教えてくれた。
「よかったね、では済まされないと思うけど……とりあえず、もうあの子たちと会うことはないと思うから安心だね」
「はい」
冬花ちゃんは退院してから、束縛から解放されたように爽やかな笑顔を見せるようになった。今この話をしている時も、辛いとか、苦しいとかいった感情が一切伝わってこない。
「椋さん」
ふと、名前を呼ばれ窓の方にやっていた目線を戻す。
「本当に、ありがとうございました」
目を細め、まるで生まれたての赤ちゃんを見る母親のような、愛おしい笑顔で微笑まれる。瞬間、心臓がドクンっと跳ね、顔に熱が上がってくる。最初の出会いはロマンチックなんてものじゃなかった。だけど俺は、自分の気持ちに嘘をつきたくなかった。
俺は、冬花ちゃんのことが好きだ。
そう思った途端、込み上がってくる気持ちに駆り立てられるように口が開いた。
「冬花ちゃ……」
言いかけたところで俺の言葉は、この倉庫のドアを勢いよく開ける音で遮られてしまった。
「やっぱりいた!久しぶり、椋」
真っ赤なネイル、毛先だけを巻き茶髪に染めた髪。濃いメイク。笑顔でこちらを見るその人は、俺を捨てた前の彼女、麻理だった。一瞬誰だか分からなかった。付き合っていた頃は、黒髪でメイクも薄く、清楚な雰囲気だったからだ。
何を思って容姿を変えたのかは分からないが、その前に知りたいのは、なぜここにきたのか。そしてそもそもなぜこの場所を知っているのか、だ。
「……お前、なんでここを知ってんだよ」
「椋、全然変わってないねー。髪も服も、ギターだってボロボロじゃん」
「質問に答えろ」
「あーはいはい。妹に聞いたの」
「妹って」
聞くと、彼女は冬花ちゃんの方を見た。
「あなたと同じクラスの、粕谷 凛って分かるでしょ?」
冬花ちゃんはその名前を聞いた瞬間、ぴくっと肩を揺らし明らかに動揺して眉を下げ、下を向いた。
すると麻理は冬花ちゃんに近づき、目線の合うところまでしゃがむと肩に両手をぽん、と置いた。何をされるか、崖っぷちの思いでそれを見る。
「ごめんねぇ。あの子が冬花ちゃんに嫌がらせをしたせいで退学になったって聞いて……一度謝りたかったの。妹に代わって」
思わず耳を疑った。
冬花ちゃんをいじめていたのが、麻理の妹だったという事実。
冬花ちゃんも俺と同じことを思ったようで、目を見開いたまま固まっていた。
「私からも、凛にしっかり言いつけておくから。本当に辛い思いしたよね、ごめんね」
麻理は真っ赤なネイルをした長い指の大きな掌で、冬花ちゃんの頭を撫でながら言った。
けれど、冬花ちゃんは安堵した表情を見せることなく、ただ、ひたすら怯えたように目を逸らしている。冬花ちゃんも察したのだろう。彼女が、「善意を装ってやっている」ということに。
麻理も妹と同じく、そういう性格なのだ。
「それでさ、話があるんだけど。椋」
「何」
ぶっきらぼうに返すと、「なんでそんなに怒ってんのよ」と笑い気味に返される。
いつも冬花ちゃんが座っていたクッションの上に躊躇なく座った麻理と、反対方向を向いて座る。今は、顔も見たくなかった。
俺が冬花ちゃんに片手で「ごめん」とジェスチャーで示すと、すぐに察してくれて、頷いて立ち上がり倉庫の外へと静かに出て行った。
その後の足音が聞こえなかったから、ドアのすぐ裏にいるのだろう。
はぁ、と一息ついてから、本題に入る。
「それで、ここに来た本当の目的は何?」
「ふふっ、やっぱ分っちゃうか」
爪をいじりながら、実は、と切り出される。
「私、今彼氏いないんだ。椋と別れてから付き合った彼氏ね、最初はいい人だなって思ってたんだけど、結局遊ばれてただけだった。かっこよくて年も近いし、と思って付き合ったのに、こんな風にあっさり別れられるなんて思ってなくて。だから、戻って来たの」
「は?」
「あの時のことは、ほんとにごめんね。あの時は、連絡しなかったんじゃなくて、できなかったの。急に途絶えたから、私がわざと切ったって思われたかもしれないけど。そうじゃなくってね」
彼女は一息置いてから、にっこり笑って、俺の気持ちを踏みにじる一言を放ったのだった。
「私たち、また恋人同士に戻らない?」
頭に血が上る、とはこういうことを言うのだろうか。焦燥感に駆られ歯を食いしばる。
「……お前がされたことは、全部お前が俺にしたことだ。どっちにしても、俺はもうお前に恋愛感情はないし、もう一度やり直せるとしても、やり直そうとは絶対に思わない。俺には、守りたい人ができたから」
「え?」
「俺は冬花ちゃんと生きていく。だからもう、お前は二度と、俺たちと関わるな」
俺は彼女をキッと睨みつけた後、立ち上がり、倉庫のドアの方へと向かった。彼女が今どんな顔をしているのか分からないが、振り返らずにゆっくりとドアを開ける。するとそこには、俺の方を振り返って涙を流す冬花ちゃんがいた。
「椋さん……今の、本当ですか?」
外に出てドアを閉める。冬花ちゃんの方に向き直り両手を広げると、すぐ胸に飛び込んできた。強く、優しく抱き止める。
「冬花ちゃんはどう思うか分からないけど、俺は……冬花ちゃんのことをこの先ずっと守っていきたいと思った」
「椋さん……」
「もう、一人で泣かせないから。だから……」
抱きしめたまま、耳元でそっと囁く。
心臓の鼓動に、そっと身を任せながら。
「好きだ。ずっと、これからも」
言った途端、冬花ちゃんは埋めていた顔をゆっくりと上げ涙目で俺の顔を見上げる。。
そして頬を赤らめ、ふんわりと微笑んだ。
驚くかと思ったのに、冬花ちゃんはまるでこの時を待ち望んでいたかのように晴々としていた。小さな口がゆっくりと開く。
「私も……椋さんが、好きです」
ざあっと冬風に木々が揺れた。寒さをとり払うように日が差し、俺たち二人を暖かく包み込む。
俺はやっと、「本物」にたどり着いた。
固まっていた心がゆっくりと溶けていった。
額をコツンと合わせ、二人で微笑み合う。
「ありがとう」
私は、私が大嫌いだった。
鞄も教科書も制服も、全てを捨ててどこか遠くに逃げ出す夢を何度も見た。
ずっと、孤独な世界で一人ぼっちで生きていくのだろうと思っていた。そしていつか、一人でこの人生を終えるんだろうと。
あの日、あの場所で、あの歌を聴くまでは。
「冬花、これやっといて」
教室に入るなり、いじめの主犯である粕谷 凛が笑みを浮かべ、数学の課題冊子を私の机の上にどさりと置いた。それも、取り巻きたちの分も含め五冊。
「え……」
「六限だから間に合うでしょ。もし間に合わなかったら、どうなるかわかってるよね?」
そう言いながら、凛は再び口角を上げ私の背中をドンと押し、そのまま取り巻きたちの元へ笑いながら戻っていった。
震える手で、一冊をペラ、とめくってみる。
やはり予想は的中。問題が並んでいるだけで、他には何も書かれていなかった。
二週間前から出されていた分厚い数学の課題冊子。二週間前から取り組んだとして昨日やっと終わるくらいなのに、それを今から五冊だなんて。終わるわけがない。
けれど、終わらせないとまた嫌がらせをされてしまう。私は一秒でも無駄にしないように、授業を除く全ての時間を課題に費やした。
しかし。
授業前に廊下に呼び出され、取り囲まれる。
「ねえ、私言ったよね?終わらせないとどうなるかわかってる?って」
「やだ、最悪!先生に怒られちゃうじゃん」
「冬花が全部やってくれるって言うから任せたのに」
「冬花のせいにするからね」
そう言われ、授業中は先生の話に全く集中できずにずっと下を向いていた。
けれど先生は、課題が終わってない人は各自居残りをして終わらせて帰ること、と言い、終わっていない人の監視を始めてくれたおかげで、自分の課題が終わっていた私は五人の目を盗んですぐに帰宅した。
朝より深く傷の追加されたローファーを履き、校舎を出る。
あの五人は案の定居残り確定だったが、明日何をされるかわからない。考えただけで心臓がぎゅうっと締められるように苦しくなる。いっそのこと休んでしまおうかとも思ったが、両親に心配はかけたくなかった。それに、一日休んだところで現状が変わるわけがない。
寒さの中歩く足は重く、マフラーの中に埋めた口元からかすかに白い息が上る。
一人別の世界にいるような、明るい世界から切り離されたかのように孤独を感じ、耳を塞ぎたくなって、並ぶ店の灯りで照らされた壁際にうずくまる。目の前には、どこの誰かもわからない人たちの往来で道路が見えない。
しばらく一人でその場にいると、ふいに近くからギターの音色が聴こえてきた。
そして、続くように男の人の歌声。
ざわざわとした人々の声にかき消されそうになっていたが、気になってよく耳を澄ましてみる。その歌に、音色に、私はいつの間にか吸い込まれていった。
目の前に希望がない。生きる意味を見失い、暗闇の中を彷徨っている。まさに、私と一緒だった。まるで私の心の中を歌っているようにさえ聴こえた。変に励ますような曲とは違い、ただ、つらいと泣き叫ぶような曲。
私はそこで、あなたに救われた。
あなたは私に、希望をくれた。
私の未来を照らしてくれた。
私に居場所をくれた。
だから、これからも。ずっと。
あなたと共に、生きていきたい。
最後まで読んでくださってありがとうございます。このお話は、私が高校二年生の時に、自分と似た境遇の仲間を作りたい、そして、自分の辛い思いを何かに吐き出したい、と思った時に書いたものだったりします。なので、このお話に出てくる冬花ちゃんと、高校二年生の頃の私の境遇は少し似ています(いじめられてはいませんでした)。
冬花ちゃんが雨の中、倉庫で椋と二人きりで話すシーンは、ほぼあの時の自分と同じ気持ちをぶつけたものになっているので、もし冬花ちゃんの気持ちがわかる、って方がいれば、一人じゃないよという思いが伝わればいいなと密かに思いながら書いていました。
一人でも誰かの心に響いてくれたらなと思います。