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死んでいった世界と、ありふれた悲しみのおはなし  作者: 吉野 諦一
第二章 流転する運命と僕らの選択
8/23

覚悟




 転院してすぐに千世の病状が改善される、なんて魔法のようなことは起こるはずもなかった。入院初日におこなった精密検査でも、診断は以前受けたものと何ら変わらないものだった。


 けれど千世本人はその事実を意に介さないようだった。わざわざ転院を選んだ決め手について訊いてみても「いつか話す」と茶を濁すだけで答えてくれない。何か思惑があるらしかったが、教えてくれない時点で僕にとっては不安要素でしかない。


 入院再開から二か月近く経って、ようやく僕にも情報が開示されるようになった。担当医は三十代くらいの女性で、髪をバレッタで束ねているのが特徴的だ。


「確認したい点がいくつか」


 まずは指を一本立てて担当医は言う。


「英さんとはどのような間柄ですか?」

「交際しています」

「ご結婚はなさっていないんですか?」

「はい。婚約もまだです」

「彼女からは家族だと伺ったのですが」

「同じ孤児院の出身で、小さい頃から一緒に暮らしていました」

「……なるほど。わかりました」


 続けてもう一本の指を立てる。


「以前の病院では英さんの病状をどう聞かされていましたか?」

「停滞期だと。この病には即効性のある治療法がないので、患者の気の保ちようによるところが大きいとも聞きました」

「即効性のある治療法がない、と言われたのですか?」

「……いや。確立されていない、と言っていた気がします」

「そうですか」


 もう一本指を立てるかと思いきや、担当医は既に立った二本の指を折り曲げた。こちらを真っ直ぐに見た後、椅子を回してデスク上の書類に手を伸ばす。


 何かおかしなことを言っただろうか。肩身の狭くなる思いだが、いっこうに責められる様子はない。むしろ同情されているような気配さえある。


「単刀直入に申し上げます」


 やけに重みのあるトーンで担当医は言う。


「あなたは騙されています」

「え?」

「まったくもって褒められたことではないです。前の担当医も、彼女さんも」

「理解できるように話してもらってもいいですか」


 焦るあまりに煽るような文脈になってしまったが他意はない。何とかそう伝えたいものの表情筋が固まって思うように意思表示できない。


「お怒りはご尤もです」

「いや、そんなことよりどういうことか教えてください」


 騙されているって、医者が嘘を吐いていたのか。信じられない。


「誤解される前に言っておきますが、あなたを騙す提案をしたのは英さんです。前の担当医からも裏付けは取ってあります」

「千世が、提案を」

「はい。悪意はないようですが良くないことです」


 他人事のように、ともすれば少し面白がっているようでもある担当医の態度に苛立つ。

 だが僕の感情は二の次だ。問題なのは、それが千世にとってメリットになっていたかどうか。


「それは千世の病状に関係することなんですか」

「直接的には関係ありませんよ。ただし英さんが自身の体を第一に思ってらっしゃらないことははっきりしています」

「どうして」

「自分より大切な人がいるからですよ」


 初めは何を言われているかわからなかった。けれど親しげな笑みを浮かべる担当医と、退屈そうだった千世の表情が結びついて、その意図に行き着く。


「英さんから伺いましたが、あなたは昨年度、就職活動をされていたそうですね。その後の卒業論文に苦戦していたとも。そういった大事な時期に余計な負担をかけたくなかったのでしょう」

「余計だなんて、僕は」

「あなたがそう思うことも、英さんにはお見通しだったのでしょうね。だからこそ、春を待って治療方法を変えた」

「いくらなんでもそんなことは――」


 あり得ないと言いかけて、咄嗟に口をつぐむ。彼女は僕が想像もつかないようなことを平気でやってのける人だった。


 千世にとってそれは必要な選択だったのだろう。けれど自分の身体を蔑ろにしてまで僕を気遣ったというのなら、ますます僕は許せなくなる。彼女ではなく、自分自身を。


 自分では幸せを思い描けないからといって、すべての選択を千世に押しつけてしまった。僕は千世の秘密を暴くべきだった。そしてその選択が、僕の望むところではないとはっきり言ってやらなければならなかった。


 馬鹿か、僕は。

 千世がいるだけでいいなんて、とんでもなく傲慢な願いだ。


「意地悪はこれくらいにしましょう」


 担当医は再び表情を真剣な面持ちへと変える。ポーカーフェイスというより、まるで天邪鬼のようで心情の読みにくい人だ。


「先程言ったことは忘れてください。英さんがあなたに気を遣っていたのは確かですが、それだけで治療を先送りにすることはあり得ません。春まで転院を待ったのにも相応の理由があります」


 正直、疑心暗鬼だった。千世が僕を騙していたというなら、他にどんな重大な隠し事があってもおかしくない。


「僕は、彼女にとって重荷なんでしょうか」

「それは違います」


 医師は即答する。


「あなたの存在が彼女の選んだ方針に大きな影響を及ぼしたのには違いありません。ですが、それは決してネガティブな意味ではないんです。そのことをあなたに知ってほしかった」


 言葉の端々に感じられる熱。千世が信頼を寄せる理由はきっとここにあるのだろう。


「実を言うと、英さんに頼まれたんです。自分の口から伝えると彼は絶対に怒るから、代わりに怒られてほしいって。あの方、見かけによらずわがままな性格のようですね」

「すみません」

「あなたが謝る必要はないですよ。というか、わたしからすればもっとストレートに感情をぶつけられて然るべきだと思っていたのですけど」


 その言葉を聞いて確信する。この人は信用に足る人だ。


「さて。続けて個人的な意見を申し上げると、これまでの治療過程は英さんにとって最善ではなくとも最適でした。目的のために多少のリスクを取っただけなんです。治療法を選ぶ権利は患者にありますから」


 担当医は身体の向きを変え、デスクに広げられた書類に視線を落とす。


「以前の病院での治療方針は『現状維持』かつ『体力増進』だったようですね。あなたには前者しか明かされていなかった。後者は転院が前提の方針ですから、伝えればあなたが気を揉むと考えたのでしょう」

「医者がそんなふうに一部情報を開示しないなんてことはあるんですか」

「患者本人が望まないのなら、往々にしてある話です」


 思わず全身の力が抜けた。担当医が何か隠していることには勘付いていたものの、不信感ばかり募らせてしまっていたのが情けない。


 思えば僕は精神的に追い詰められていたらしい。疑念を抱いていたなら直接問えばよかったのに、それすら思いつかず勝手な推測で自分を責めていた。


 その場で見えるものだけに固執するせいで、千世の益になることを何ひとつできていない。


「僕にできることはないんでしょうか」


 この台詞を何度も言った。あの壮年の担当医は、毎回似たような台詞で返した。

 今度の医者も、同じ台詞を言うのだろうか。


「第一に、傍に居てあげることです」


 それを聞いて僕は落胆する。結局、何も変わらないのか。


 震える膝を両手で押さえながら、内心を悟られまいとする。いつだってそうだ。自分の無力は、自分が一番よくわかっている。


 けれど担当医はもうひとつの提案を残していた。


「第二に、受け入れてあげてください。英さんは独りで決断してきた強い人です。どうかあなたにはその決断を尊重してあげてほしいのです」

「決断を、尊重する?」

「はい。そのために今日はあなたをお呼びしたのですから」


 それから担当医は、詳らかに千世の治療の経緯を話し始めた。それは僕の理解を大きく裏切るもので、またどうしても看過できない千世の闘いの記録だった。


 僕が知らなかった事実は、すべてが僕のためだった。その事実を受け入れなくてはならない。




 かくして僕は覚悟する。


 今度こそ。千世を大切に想うのならば。





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