あくる日の墓標
二月になった。大学での講義期間も終了し、いよいよ見舞い以外の用事がなくなってしまった。しかも今日は千世の検査日で面会ができず、僕は下宿先最寄りの喫茶店で暇を潰していた。
ガラス張りの壁面から透けた空は鼠色。三つ隣の席で愚痴を言い合っている婦人たちは部屋干しの憂鬱から逃れるために外出したらしい。このところずっとはっきりしない天候だったのもあり、洗濯物も鬱憤も溜まりっぱなしなのだろう。いっそ雪が降ってくれればいいのだけれど、生憎僕が下宿してきた四年間でここら一帯に積雪はない。
ふと、この四年間に意味はあったのかと考える。高校生の頃から生涯年収なんてものを気にして大学進学を決めた。最近になって、所詮は皮算用だったのだと思う。だけど皮算用でも何十年と先を見据えていなければ、救いようのない窮境に立たされてしまう。
今の社会は「長生きする」ことを前提に作られている。社会保障も生命保険も、自らの未来のために投資すると言えば聞こえはいいが、道半ばで倒れる人にとことん負担を強いる世の中だ。
生涯がいつまで続くかなんて誰にもわからない。途中退場は容赦なく置き去りにされ、決して許されない。だからいつまでも生きられるという皮算用で日々を繋いでいくしかない。僕はそんな社会が大嫌いだった。
僕に見える今際の世界が老人ばかりなら、こんなことは思わなかった。だけど違う、この社会には若くして亡くなる人も驚くほどいる。そしてその大半がまともな最期でないことを、僕は知っている。それらは明らかな自殺だった。
生きるとは何なのだろう。そんな糞みたいな問いを、何度も繰り返している。
ガラス越しに街路を眺めていると、憂月が通りかかった。向こうも目敏く気づき、そこから一分も経たないうちに真向かいの座席に腰を落ち着けていた。
「了解も得ずに相席とは、さすが新鋭バンドのボーカルは違う」
「いえいえそんな、新鋭だなんて」
「皮肉だよ」
憂月の義眼は今日も翡翠のように輝いている。普通なら不自然なはずなのだが、彼女の全体像からして不自然さの寄せ集めなので却って調和しているようだった。服装もいつもの黒セーラーではないようだが、防寒具代わりの赤パーカーが普段通りにも見える。
「何の用?」
「冷たいですねえ、お兄さん。ツンデレですか?」
「べ、別に遺伝の法則なんて発見してないんだが」
「それメンデルですよお兄さん」
「二文字あってるんだから実質同じだろう」
「大雑把すぎますって」
店員を呼んでミックスジュースを頼む憂月。ついでに僕もコーヒーをおかわりする。
「最近、お会いしてませんでしたね」
敢えて最近とぼかして言ったのは、具体的にいつからなのかを弁えているからだろう。
あのライブ以降、僕は造花庭園を迂回して病棟へ渡っていた。
「今は就職先の事前研修で忙しくてさ」
軽々と嘘を吐いた。見舞いはほぼ毎日行っている。
「就職されるんですか」
「そりゃあ、学生は卒業するわけだし」
「なんだか不思議な感じですね。お兄さんが社会人になるって」
「どういう意味だ、それ」
確かに自分でも実感が湧かないが、他人に言われるとニュアンスが違ってくる。しかもそれを十代女子に言わしめる僕。小さじ一杯分は情けない。
淹れたてのコーヒーの苦さに顔をしかめつつ、砂糖を追加投入した。憂月のほうは喜々としてストローの先っぽを噛んでいる。行儀が悪い。
「卒業って言ったら、きみもだろ。進路は?」
「芸大に進学が決まってます。AOで」
「なんとなくそうじゃないかと思ってた。受験生って感じ、なかったから」
「どういう意味だー、それー」
「そのまんまの意味だろ」
進学が決まっていなければバンド活動なんてできるはずがない。どういう経緯かは知らないが、受験と並行できるものではないと想像くらいはつく。
それにしても、芸大か。
「僕の妹も芸大志望なんだ。合格したら、同級生になるな」
「へえ! 妹さんですか!」
憂月は強い関心を示したようだった。
「どこの学科志望なんですか?」
「声楽科とか言ってたが」
「私とおんなじです!」
机をばたばたと叩きながら憂月は「いやー俄然楽しみになってきましたよー」と上機嫌になった。この流れで実は血縁関係のない孤児院での義妹だとは言えない。
また余計なことを話してしまったな、と後悔した。こんなわかりやすい個性と才能の塊を義妹と近付けたら碌なことにならなさそうだ。
「それでそれで、妹さんのお名前は?」
「ああ、うん、内緒だ」
「どうしてですかー!」
「害しか及ぼさなさそうだからな」
「ええー……」
オノマトペが浮かびそうなくらい露骨にがっかりされる。なけなしの良心が痛んだ。
「お兄さんはそうやって私を翻弄するんですね。やなヤローです」
「それはこっちの台詞だがな」
「私はヤローじゃないですよ」
「変なところに突っ込むな」
というか、他は否定しないのか。
憂月はテーブル上に散らばった水滴を指先で繋げて遊び始める。体積を増していく雫の玉が光を吸って白く見えたり透けたりした。
今はこうして目の前にいる彼女が、あの舞台で脚光を浴びた少女と同一人物である事実に違和感を覚える。あのときの憂月は遠い存在で、水滴の池を作って喜ぶような親しみやすさは感じられなかった。
「なんでアイパッチしてたんだ?」
自分でも何故それを訊いたのか不思議だった。憂月も左眼を丸くしている。
しまった、と思いカップに口をつけるも誤魔化しは失敗に終わる。
「面白かったでしょ、あれ」
手遊びを止めて憂月は言った。
「あの意味がわかるのはあの場でお兄さんだけだったんですよ」
首筋に氷の粒をぶつけられたような心地だった。
隠された右眼が作り物であることを僕以外は知らないはず。憂月はそう考えてアイパッチをつけていたのだ。
これ以上ないくらいの特別な扱いに、今の今まで気づかなかった自分を恥じた。
「ごめん」
「いいんですよ。伝わらなかったのは残念ですけど」
「……ごめん」
距離をとっていたのは僕のほうだった。憂月は少しでも近くに感じてもらえるように工夫していたのに、僕はそれを無視してしまっていた。
片側だけの視界で諦観を抱くばかりで、現実に存在する距離感を見誤っていた。同じく平面的な世界を見ていると思っていた憂月は、それでも可能な限り眼に映るものを正しく認識しようとしている。
それを才能の一言で片付けてしまうのは簡単だろう。でも、僕にはできない。逃げの一手を繰り返す後ろ姿を晒してきた僕には。
「ちょっと歩きませんか?」
微笑む少女の提案に、首を縦に振る以外の応答が思い当たらなかった。
◇ ◆ ◇
駅と反対側に向かって伸びる路側帯の白線上を、綱渡りするように憂月は歩いた。僕は歩道からその背中を追う。交差点を曲がって閑静な住宅街に入ると、通り過ぎる車両を気にしなくて済むようになった。
墓参りなんです、と憂月は前を向いたまま言った。
「住宅地の中に集合墓地があって、そこへは月に一度花を供えに行くのです」
自分がどうしてこの地区にいたかを律儀に説明する意味合いで言ったのだろう。しかし一切の感情がこもらない言葉には、この話題を続けたくないという意思があった。
僕はそれを汲み取って、彼女が話したいことだけを話せるように努めることにする。要はいつもと変わらない対応。
膝下丈のプリーツスカートが風にはためき、揺れた。
「めくれてません? めくれてませんよね?」
「水色」
「よかったー、見えてない」
憂月の下着が水色ではないという心底どうでもいい情報が手に入った瞬間だった。
「こうしていると私って普通の女子高生みたいですよね」
まるで自分が普通ではないのは一般認識だと言わんばかりだった。
「お兄さんは、自分のことを普通だと思いますか?」
「平凡という意味でなら普通だと思うけれど」
「平凡ではないでしょ、お兄さんは」
「僕ほど変哲のないやつもいないだろう」
「そう釈明する人ほど信用ならないものです」
身に覚えはないが、社交経験値ゼロ付近の僕では反例を挙げられそうにない。
論破できたと判断したのか、憂月は得意げに両手の甲を腰に当てて上体を反る。
「お兄さんは普通じゃない。私も普通じゃない。よって一緒! 証明終了!」
「馬鹿丸出しだから証明とか二度とするなよ」
「えっへっへー」
そこで笑うのは確かに普通ではない感じだ。
「誰かと一緒だと思うと安心します。普通じゃなくたって、誰とも違うと決まったわけじゃない。孤独なんかじゃない」
明るい口調だが、その言葉は外側に向けて発せられたものではないような気がした。
あの孤独に震えた唄声を思い出す。儚く脆い、あの声を。
「きみは仲間に恵まれている」
「バンドのメンバーですか? あの方々はただ優しいだけです」
「それでも仲間だ」
「私はそんなふうには思えません」
憂月の足取りが少しだけ鈍くなる。
「そう思えないから、いつまでたっても不幸体質なのかも」
「珍しく弱気なんだな」
「墓参りの日はいつもこんな感じですよ」
そう言った憂月の背中は、とても小さく見えた。
集合墓地は団地の日陰にあった。高低差のある斜面に雑然と並べられた墓石には、部外者を寄せつけない鋭利さが付随していた。
「お兄さんはここで待っていてください」
僕は大人しく従うことにした。墓地に隣接する花屋で菊を買ってやると憂月は喜んだ。
花束を抱えながら分け入るようにして墓地の奥へと進んでいく憂月の姿を遠巻きに眺めながら、さっきの発言の意図を考えてみる。
セトやナガサキといったバンドの構成員たちを仲間だと思えない――憂月はそのことに負い目を感じているらしかった。孤独を嫌うのに自ら孤独を選ぶ矛盾を、彼女は自覚している。だからこそ自分は不幸体質と呼ばれているのだと、客観的な事実を承認している。
誰もが幸福になりたいと願う。そのために行動する。そうすることができないのなら、理想と現実の差は永遠に埋まらない。そのことも、きっと憂月は知っている。
孤独は嫌、というのが憂月の本心だとしよう。それでも孤独を選び、理想を叶えようとしないことに、どんな意味があるだろう。彼女が自分の今際を知りたいと願うことにも、何か関係があるのだろうか。
我ながら邪推が過ぎている、と思った。ナガサキに言われたことを引きずっているのか、憂月と接しているうちに妙な使命感を抱いてしまっているのか、自分でも判然としなかった。
ただ単に、憂月を千世と重ねているだけなのかもしれない。
どうやらそれが最も正解に近いというのが憎らしくて、自己嫌悪は加速した。
戻ってきた憂月の様子はいつもと変わらず、むしろ調子を立て直したようだった。結局誰の墓参りだったのかは尋ねないことにした。
借り物の柄杓を水汲み場の傍に返却して、僕たちは来た道を引き返す。
行きとは違い、帰りは並んで時折肩を擦り合わせながら歩いた。
「お兄さんは、死後の世界を信じますか?」
ぽつりと憂月が呟くように尋ねてきた。
「そうだなぁ。信じたくないけれど、信じるしかないと思う」
「どういうことです?」
「信じない者には天国への道は開かれないからだ」
「おぉ、宗教っぽいコメント」
曲がりなりにも孤児院育ちで宗教的な思想に触れることが多かった。天国とか地獄とか、そういうあの世の存在についてもよく話を聞かされた。その受け売りを言ったまでだ。
より正確には主を信じることなのだけれど、説教臭くなるだろうからやめておこう。
「もしかして何かの信者だったりします? でも信じたくないってことは熱心ってわけでもないのかな」
「実家がそういうのだったってだけだよ」
孤児院での暮らしはそれなりに厳格なところもあったが、基本はおおらかで独自のルールに近いものも多かった。今でも何が宗教的行事だったか区別できていない慣習もある。それだけ生活の深い部分に根付いていたのだと思う。
憂月は何やら勘案しているようだったが、考えがまとまったのか軽く咳払いをした。
「私は宗教信者でないので詳しいことはわからないです。でも、信じることで天国に行けるのなら、私は信じなくていいと思います」
「天国に行きたくないのか」
「だって行ったら戻ってこれなさそうじゃないですか、この世に」
また自己矛盾か、と思いきや違う。これは別の宗教観だ。
「天国がどんなに楽しい場所だったとしても、私はいまのこの世界が好きなんです。いつか私が消えてしまっても、また次の私になってこの世に戻りたい」
考え方は理解できる。だけどこの世をそこまで肯定できる憂月の気が知れなかった。
僕に見えている世界と、彼女の見ている世界はまったく反対なのだと痛感する。
「わからないな」
それが本心だった。
「どうしてそんなに生きたいんだ。どう生きようが、みんな死ぬだろ」
「逆ですよ。みんな死ぬから、好きに生きるんです」
「死んだら何も残らない」
「同意です。過去を洗い流して、生まれ変わります」
「矛盾してるよ、きみは」
何も残らないのなら、残せないのなら。そこまで生を肯定できる道理が無い。
憂月は好物ばかりを摘み食いする幼児のようだ。都合の良い思想だけを拾い集めて作り上げた、歪な模造品の命で動いている人形。ひどく脆い、無形のガラス細工。
そんな彼女が足を止めた。
「お兄さん。私は、死ぬのなんて怖くないんです。本当に怖いのは、自分に言い訳をして現在を生きられないこと。過去に縛られ、未来に怯えるなんてカッコ悪いでしょう」
それだけ言って、憂月は再び歩き始める。僕はすぐに後を追うことができず、立ち止まったままでいた。
墓に菊を供える憂月がどんな表情をしていたのか、僕は知らない。それは紛うことなく過去に縛られている証拠であるからこそ、彼女は見せたくなかったのだろう。
今際の際を知りたがることも、不確定な未来を知っておきたいという思いから来ているのだろう。そうすれば怯えはある程度取り除けると考えて。
憂月の行動には一貫性があった。ただ、それを支える持論が実現不可能なだけだ。それが彼女の抱く矛盾の正体なのだ。
「誰もが理想通りには生きられないよ、憂月」
先を行く彼女には聞こえない声で呟く。振り返ることのない彼女の代わりに、僕は墓地のあるほうへ振り向いて、天を仰いだ。
冬空は変わらず澱んだ色合いで、いつ冷たい雨が降っても不思議ではなかった。