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死んでいった世界と、ありふれた悲しみのおはなし  作者: 吉野 諦一
第三章 さよなら、半分の世界
18/23

失はれた物語


 薄黒い雲が空を覆っていた。


 病室の窓を開けると湿気を束ねたような風が侵入して、室内の涼やかな空気と差し代わる。予報通りであれば、正午を過ぎたあたりには雨が降り出す。


「いつもありがとう、遥斗」


 千世のその言葉を聞くのはこれで何度目だろうか。彼女の律義さゆえに口癖になっているのを知っていても、僕にとっては特別な言葉だった。


 大きな手術の日が近づいている。置かれたカレンダーの丸印までに残された時間は少なく、それまでに面会できるのも当日を除けば今日が最後だ。


「こうなってから、ずっと私は貴方に頼りっぱなし」

「僕はまだまだ頼られ足りませんよ」

「あら、言うようになったわね。昔はすぐ私に泣きついてきたのに」

「いつの話ですか、それ」

「貴方が小学校低学年の頃よ。犬に吠えられて、涙目で私の背中に隠れるまでが定番だった」


 憶えがない。でも千世が笑って話せる思い出なら、それは悪い記憶ではないのだろう。

 けれど同じ記憶を共有できないことは少し悲しかった。


「その犬って孤児院で飼ってた犬ですか」

「ええ。忘れちゃった?」

「吠えられて涙目になった記憶はないです」


 特に考えもなく答えてしまったけれど、そこで正直に言わずにいれば千世の笑顔に影が差すこともなかったのだろう。


「何となくそうかなとは思っていたの。あの子を彼、なんて呼んでいたし」

「名前は憶えていますよ」


 確かクッキーという名だった。毛色が焼きたてのそれと同じ色だったのが由来だと聞いた気がする。


「いいえ、そうではなくて」


 妙に申し訳なさそうな面持ちで千世が言う。


「あの子、雌なのよ」

「……本当に?」

「嘘は吐かないわ」


 なんてことだ。僕が真剣に告解していたあのときには、千世は間違いに気づいていたということになる。これは大恥だった。


 傍に備え付けられた鏡を覗けば、やはり僕の顔は赤く染まっていた。


「人が悪いです、千世……」

「うふふっ」


 いい加減うんざりする僕の不器用さは、いつも千世の笑い声に肯定されてしまう。からかうのではなく慈しむように笑うから、僕も悪い気はしなかったのだ。


 もしも僕が今よりしゃんとして、つまらない勘違いをしなくなったら。そんなふうに変わった僕を、同じように千世は笑ってくれるだろうか。


 仮定の中の千世は肯定する。でもそれは僕が勝手に思い描いた想像でしかない。もしもで始まる物語は、主観の入る前提からして実際とは異なる。要するに僕自身に都合の良い未来しか思い描けないということだ。


 現実には、起きてみないとわからないことばかり。個々人の仮想空想は、現実の前には無力でしかない。


 だからこそ僕は確かめるべきなのだ。たとえそれが陰鬱な推論だったとしても。


「千世は、産みの親がどんな人なのか考えたことはありますか」

「藪から棒に、どうしたの」

「答えてください」


 迫るように促した。鼓動が早まるのを感じる。

 普通なら戸惑うはずの千世は、表情を変えずにいた。


「施設の子どもは自分を産んだ親の顔を知らない。だから幼少期には必ず、血の繋がった家族を空想する。周りの『普通の家庭』を参考にして。貴方も一度は想像したことがあるでしょう」

「兄弟たちの話は関係ありません。今は、千世に訊いているんです」

「私は」


 タオルケットの上の虚空を見つめたまま、千世は言う。


「空想したことは――ないわ。だって、私は知っていたから」

「実の親を、ですか」

「母親のほうはね。父親は、わからない」


 孤児院に預けられる際、名前の書置きが残されていた場合。ごく稀に姓と名の両方が記されているケースがある、と牧師は言っていた。


 千世が施設を発つ前に僕はそのレアケースが彼女だと知った。それを理由に当時の僕は憤っていた。千世は実の親に引き取られるのだと、そう思い込んだ。


 だが実際はそうはならなかった。そのことを僕はふとしたきっかけで思い出していた。


「どうして、血の繋がった家族がいると知っていたのに、その家の子どもにならなかったんですか」

「意地悪な質問ね」


 小さく咳払いをして、答える。


「遥斗は、見ず知らずの人が実の親だと名乗り出てきて、その人を大切に思える?」

「……思えません」

「そういうことよ。家族とは血縁じゃなく心の繋がり。そう施設で学んだでしょう」


 千世は孤児院のことを頑なに施設と呼ぶ。今でも自分から孤児院の話をすることは滅多にない。振り返ってみれば、千世にとってあの家が決して快いだけの場所でなかったのだと想像する材料は幾らでもあった。


「本当に、それが理由ですか」


 僕は予感していた。千世がまだ何か隠しているのだということを。


 そして、それはたった今確信に変わった。

 千世はとても、とても悲しそうに天井を仰ぎ見ていたからだ。


「私のお母さんはね、私を引き取る前に亡くなっていたの。施設を発つ準備が整った頃になって、牧師からそれを知らされた。知らないままでいるよりはいい、なんて曖昧な理由で」


 温和な千世が初めて見せる強い感情。

 シーツを握る手が、震えていた。


「私はあの施設が家族の在る場所だとは認められないの。でも私を産んでくれた女性はもういない。そうなる前にどうして迎えに来てくれなかったのか、って悔恨だけが残った。そうすれば私は、家族の温もりを少しでも知ることができたかもしれないのに」


 千世が僕に隠した治療についての事実。最も確実に治せる手段を選ばなかったこと。その理由が、子どもを妊娠できなくなる弊害があったからだということ。


 現行の治療法でも、不妊のリスクはゼロになっていないということ。


 思えば、僕への配慮というのは表向きでしかなかったのだ。


 千世にとって子を設けられないことは、血の繋がった家族を得られないことと同義。だからこそ命を賭した。


 ――彼女もまた、孤独だった。


 実の親を想像するしかない孤児院の多くの子と違い、彼女には本物の親に迎え入れられる可能性があった。その機会を失った後に知らされることは、いったいどれほどの苦痛か。


 幻想には身を委ねられず、現実には決して手が届かない。


 その感覚を僕は――張り裂けるくらいに知っている。


「僕が、伝えます」


 決意がそのまま言葉になっていく。

 潤んだ千世の瞳を真っ直ぐに見つめて。絞り出すように。


「家族の温もりを。僕一人では難しいから、きみと一緒にそれを見つけたい。だからそんな、悲しい顔をしないで」


 頬を伝って流れるものがあった。

 それが涙だと気づいたのは、同じものが彼女の眼からこぼれ落ちるのを見てからだった。


「どうして――」


 どうして僕は、泣いているのだろう。


 悲しいことなんて何もない。僕には何も。涙を流していいのは僕ではなくて千世のはずなのに。


「遥斗、貴方はやっぱり、優しい」

「違います、僕は優しくなんて」

「そう言って、貴方はずっと私のことを気遣ってくれた」


 千世の手が僕の頬に触れる。温かな涙がその手を濡らしてしまう。


「不器用でも、拙くても、私を愛してくれていたこと、私は知っているもの。それが優しくないのなら、世界のどこにも優しさなんて在りはしないわ」


 推論でも空論でもなく、彼女が導き出した結論。

 それは僕がこれ以上なく信じられる、幸福な真実だった。


「ありがとう、千世」


 その言葉に万感の想いを乗せる。

 この人の孤独を癒せるのなら、僕の人生を捧げたって構わない。


 愛する彼女の触れる手に僕自身の手のひらを重ね、もう一度決意する。


「僕ら、きっと家族になろう」


 そう唱えたとき、まるで天啓のように曇り空から光が差して――






 頭の片 隅で、 少女の 声がす る。

 それが 、どん な音色だ ったのか を

 僕 は思い 出せな くなっ た 。



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