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死んでいった世界と、ありふれた悲しみのおはなし  作者: 吉野 諦一
第三章 さよなら、半分の世界
16/23

神の不在、願いの行く先


「ユウは俺の彼女の名前です」


 長髪のウィッグを外したユウ、もとい司が言った。


「舞台芸術のメイクが専門で、よく練習台にされるんです。それで今回みたいな女装もさせられるんですけど、俺自身が声色を変えられるのもあって、洒落にならないクオリティに仕上がるというか」


 元から中性的な体格、容姿の司。そこに技術が加われば女装は容易い。そう頭では理解していても、あまりの完成度に僕は言葉を失うばかりだった。


 思考の内とはいえ、女性的な可愛らしさとか語ってしまった自分が恥ずかしい。


「そんなわけで、自己申告してみたんですが」

「ああ、うん。言われなきゃ気がつかなかった」

「やっぱりですか」

「沙智もあの感じじゃあ全然気づいてない」

「酷いなぁ」


 がっくりと肩を落とす司。注意して見ると、女性にしては肩が角ばっていることに気づく。


 身体のラインを隠すワンピースを着ているのもあって、気を抜くとどちらの性にも見えなくはない。胸にも少々何か詰めているようだし、やや女性寄りなくらいだ。


「言っておきますけど、女装は俺の趣味じゃないですからね。女装させるのがユウの趣味なだけです。俺は嫌々やってますから」

「そういう風には見えないけどな」

「いやまあ、ライブハウスで出待ちしてる子たちをすり抜けるために活用したりはしてますけど……でも必要に迫られているときだけです。信じてください」

「別に疑ってはいないよ」


 しかし訊いてもいないことまで語られては弁明の意味があまりないような気がするのだが。


 これは自分の彼女の腕前を褒める文脈なのだと勝手に納得してやった。


「いいんじゃないか。実際可愛いわけだし」

「……俺を落とそうとするのはやめてくださいね」

「そんなことするかよ」


 その場合千世とは一生顔向けができなさそうだ。それは嫌だった。


 司にだって彼女がいる。今の様子からしてかなり惚れ込んでいそうだ。以前にも彼女のためにお金を使っていると発言していた。


 思えば僕は他人の恋愛というものを知らない。中学時代にそういう話を耳にしなかったわけではないが、そこに興味を示す余裕は既になかった。高校や大学でも人間関係を全て破棄しひたすらに生活費と学費を稼ぐ生活だった。最近になってようやく他人に目を向けられるようになった経緯がある。


 だからこうして他人と関わり、刺激を受けることが新鮮だった。そうすると欲が出始める。


「司は、ユウさんのどこが好きなんだ?」

「全部ですよ」


 即答だった。


「俺の知っている部分は全部好きだし、知らない部分も知ればきっと好きになる。恋人ってそういうものじゃないですか」

「惚れているから、そう思うのか?」

「どうでしょうね。あいつに惚れていなかった期間がないので」

「一目惚れ?」

「そんなところです」


 恥ずかしげもなく答える司。


「惚れた弱み、って言葉がありますけど。個人をどうしようもなく好きになってしまうと、自分の中での価値観や優先順位が大きく変動してしまう。その頂点に、相手を据えざるを得ないわけですから」

「価値観や優先順位が変動するのか」

「狂ってしまう、と言ってもいいかもしれない」


 身に覚えがあった。僕も千世を想い過ぎるあまりに視野を狭めていた。憂月の内情なんて大して考えもせず、自分の未熟さだって放置して疎かにしていた。


 人を好きになることは、弱くなることでもある。


 どこかのブログで読んだような安い言説を、危うく信じてしまいそうにもなる。


「本当は好きかどうかなんてわからないです。好きなんて曖昧な感情、何を以ってそう言えるのか、哲学者じゃないんだから答えられない」

「哲学者ならわかるのか」

「ものの例えですよ」


 司は廊下の外側の壁に背を預け、天井に半分遮られた夜空を仰ぐ。絵になるその姿は、外見に誤魔化されない彼自身の芯の強さを表しているようでもあった。


「俺が言えるのは、一度に惚れる相手は一人だけにしろ、ということです。たった一人でもこれだけ狂ってしまうんですから、二人を同時に好きになったらどうなることやら」

「それを僕に伝える意味はあるのか」

「はい。というか、これを言うために外に呼び出したようなものですし」


 もたれかかったまま顔だけを戻し、司は僕の眼を見据える。


「近いうちにあなたは選ばないといけなくなります。その覚悟はできていますか」

「どういう意味か、わからない」

「今はわからなくとも、いつか必ずわかります。俺は予言者じゃないし、あなたは哲学者じゃないけれど、絶対に」


 司はそれきり言葉を断った。僕の前でウィッグを装着し直し、軽く咳払いして声の調子を整える。ただそれだけで彼は彼女になっていった。


 だがその変貌を経てもなお、司は司だった。正体を知った後で言うのもおかしいかもしれないが、今は凛とした女性の皮を被った司だと感じられる。それは彼の核となる部分がきちんと表明されているからこそわかるのだと思った。


 僕の核はどこにあるのだろう。かつて僕には千世への想いだけがあった。千世の居ない世界に僕の居場所はないと信じていた。けれど今はそう断言できない。


 憂月という存在に出会ってから、少しずつ何かが変わり始めた。そのおかげで前に進めているという感覚もある。


 けれどそれは果たして本当に良い変化だと言えるのだろうか?


 千世の望まない方向に僕は変わっているのではないだろうか?


 遠くない未来にやってくる選択。


 僕にはまだ見えなかった。




  ◇ ◆ ◇




 午後十時を過ぎた頃、司とシマネさんは終電があると言って帰った。


 女子会は終始和やかだったと思う。彼女らと距離を取って様子を眺めていただけの僕だったが、それでも雰囲気の良さは肌で感じられた。


 もう一つ言えば、司がユウとして違和感なく馴染んでいたのには驚いた。女子同士の話題は割とディープだと聞いたことがあるが、帰り際まで沙智と歓談していたから正体には気づかれずに上手くやり過ごしたのだろう。ひょっとしたら彼には役者の心得でもあるのかもしれない。


 玄関で二人を見送ったあと、残った僕と沙智、憂月は後片付けに取り掛かる。


「完璧な立ち回りでしたよ。ワカサくん」


 テーブルに置かれていたガスコンロを箱の中に仕舞いつつ、憂月が言った。


「知ってたのか」

「ライブ終わりに何度か見てますから」


 振り向いてキッチンのほうを確認する。沙智は鼻歌交じりに食器を洗っている。


 ワカサという名は司のバンド内名義だ。本人に聞いた話ではバンドメンバーの中で一番若いから、ナガサキにそう名付けられたのだとか。初めにそれを聞いたとき、あまりに間が抜けていて笑ってしまった。


「彼も色々大変なんだな」


 コンロの片付いたテーブルの上を湿った布巾で拭いていく。普段あまり活用していないベージュのテーブルが誇らしげに光った。


「あのさ、憂月」

「何でしょう」

「今日は楽しかった?」


 少しだけ間を置いて、憂月は答える。


「はい。とっても」

「それは良かった」


 僕から見ても楽しげだった。その見立てが正しかったことに何より安心した。


 沙智の立てた計画では、この後沙智がコンビニへ出掛けていくことになっている。つまり僕と憂月が二人っきりになる展開だが、その時に何をすべきかという指示は一切聞かされていない。


 僕には司のような演技力はないから、具体的な指令を受けたところで実行はできないだろう。それを見越しての沙智の判断だとすれば、やはりあの義妹は僕のことをよくわかっている。


 食器の片付けが終わったところで沙智は財布を持って出ていった。楽器のように鳴る皿や水の流れる音が消え、室内の時間が転調したように感じられた。


 孤児院に居た頃を思い出す。あの空間は心の安らぐ場所ではなかった。どこにいても誰かの吐く息が近くにある気がして、いつも逃げ場を探していた。そうして辿り着いた居場所が千世の傍で、それは今でも変わらないように思う。


 なのに僕は千世の居なくなった世界を想像する。千世が居なければ僕は幸福を思い描けないというのに。別の幸福の像を結ぼうとする自分の無意識の思考が、とてつもなく邪悪なもののように感じられた。


 身近過ぎる臨終の映像が僕を歪めている。


 そんな僕を正常に戻せる存在は、千世ではなく――


「私には姉がいるんです」


 唐突な憂月の言葉で、意識が毒のような静寂の外側に押し出された。


 まるで他人事を語るみたいに憂月は続ける。


「と言っても、父親は別みたいなんですけれど。私の父親は母親をとても愛していましたが、姉の父親はそうではなかったみたいで」

「そんな話、誰から」

「八歳の頃に母の親族から聞かされました。お前の母親は未成年のうちに見知らぬ男に孕まされた子を産んだと。身内に白い眼で見られ続けた母が一族の墓に納まることを許されたのは、ほんの一年前のことです」


 どうしてそんな話をするのか、とは訊かなかった。憂月が自身の過去を話すことなんてこれまで一度もなかった。この状況は願ってもない。


 ただ滔々と身の上を語る憂月。僕は黙って聞くしかない。


「そんなわけで私も親族から厄介者扱いでした。経済的負担はするが一緒には暮らせないと住むところまで与えられました。相当嫌だったんでしょうね――彼らから見て、私は不幸の塊でしかなかったから」


 クラスメイトに、不幸が服を着て歩いていると呼ばれていた憂月。親族だけでなく周囲からも日常的にそう思われていたのだとしたら、心が死んだっておかしくない。


 僕の見てきた今際の際は肉体的なものだと思い込んでいた。だが憂月のような例を鑑みれば、精神的な死を捉えていることも有り得るのではないか。


 常に死に続けている精神とそれでも生き続ける肉体。


 拷問だ。


「けれど、お兄さん。私はそれでも自分が不幸だなんて思いません。今日という日が楽しくて、楽しくて、忘れかけていたことを思い出しました」

「忘れかけていたこと?」


 思わず僕は訊いていた。


 憂月はにっこりと笑う。泣きそうなくらいに。


「私はこの世界に恋しているんです。どんなに酷くても、醜くても、私はこの世界のことが愛しくてしょうがない」


 だから過去に縛られず今を幸福と信じて生きる。

 死にさえも焦がれ、生まれ変わって再び生き直すことを望む。


 点と点が、繋がっていった。


 妄信的なまでに愛してしまっているが故に、この世界の穢れを見ることができない少女。


 司の言う通り、人は惚れると価値観を狂わせざるを得なくなる。憂月にとってはこの世界が至上であり、その格付けに美醜は関与しない。


 翡翠色に輝く憂月の右眼はその象徴だった。何の像も映さない人造の瞳は、世界の片側だけを愛させるために与えられた証。


 そんな彼女に、自分が幸か不幸かなんて断定できるわけがない。


「お兄さん。私はきっと、短命です」


 生きているのか死んでいるのかわからない眼が僕に向く。


「あなたの願いを叶える時間は残されていないかもしれない。それでも……ううん。だからこそ、私のもう一つの願いを聞いてください」


 憂月の身体が、顔が、眼が、僕に迫る。他のどんな人も迎え入れたことのない至近距離に彼女の肉体があった。少しでも身動きすれば互いの肌が触れ合って、何か境界を越えてしまいそうな予感が脳裏をよぎる。


 その先に僕の居場所があるのか? それは違うと理性が知っている。


 彼女は僕の願望の投影だ。だから求めるものがそこにあると勘違いする。


 永遠に生き続ける存在。

 慰めを授けてくれる存在。

 居場所を与えてくれる存在。


 そんな都合の良いものなんて、世界中を探したってありはしない。


 だから。

 その願いにだって意味はなかったのだ。


「私は、あなたの子として生まれ変わりたいのです」


 薄い唇が僕に触れて蕩ける。


 そして彼女は眠りに落ちた――


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