きみをとどめむ
音声テープの再生みたく整然とした話し方。かつ自然すぎる声の抑揚。それらがかえって不気味さを際立たせていた。
かりかり、かりかりと爪が皮膚の表面を削り取るように上下する。
『私は幸せですよ』
僕の知る憂月はそれを決して口にしない。
この二か月弱で、どんなことがあればそんな矛盾を吐けるようになるのか。
「――だったら、良かったよ」
けれどその矛盾を糾弾することなんてできるはずもなく、僕はお茶を濁した。
これまでの憂月の信念を憂月自身が捨てられたのなら、冬頃とは整合しない発言も有り得るのかもしれない。理想を求めるあまりに様々な観念を呑み込み続けた彼女は、処理できないほどの矛盾の袋小路にいた。
それがどんな起因があったにせよ一掃されて、幸せを認識できたというなら重畳だ。僕も肩の荷を降ろしても構わなくなる。何も不安になる要素はない。
だから。
きみは本当に幸せか、なんて言えるわけがなかった。
「無理は、しないでくれ」
僕が口にできるのは、せいぜいそのくらいが関の山だった。でもその一言が、憂月の琴線に触れてしまう。
「無理をしない、なんて不可能です」
真っ青になった指先が、僕の手首の皮を摘まんだ。色が憂月の指と僕の肌との間ですり潰され、浸透していく。
「痛いよ」
「お兄さんに会わなかった二か月で、私は不安になりました。私は脆くて弱くて独りだから、先の見えないことがとても怖かった」
「だから無理やりにでも自分を幸せだと思うことにしたのか」
「そうすればいつ今際の際が訪れても平気でしょう?」
語る少女の眼には迷いがなかった。
「あなたが悪いんです。私に、教えてくれなかったから」
きみも僕のせいにするのか。
奥歯がぎりりと軋む。砕けても構わないとさえ思えるくらい、強く噛み締める。そうしなければ全てを台無しにしてしまいそうだった。
「それとも今すぐに教えてくれるのですか。私の、今際の際を」
あの造花庭園で幾度か聞いた、少女の希う台詞。
憂月は信じていたに違いない。自らの死期を知れば、後悔をせずに生きられると。与えられた終わりまでの時間を、どう生きるか自分で決められると。
そんな都合の良い話はないと説明するべきだった。その用意は充分にあった。
けれど、できなかった。
確かに憂月の苦しみの原因は、他でもない僕だ。彼女の望みを知っていながらもそれを断たなかった理由だって、わかっている。
僕は惜しんでいたのだ。
僕の救いになるかもしれない、白野憂月との繋がりを。
「……手、洗ってきます」
無言の僕に何の感情もぶつけることなく、憂月は会館の奥へと歩き去っていく。姿が見えなくなってから、立ち上がって会館の外へ出た。
摘まれた手首は青に侵されたまま、しばらく戻ることはなかった。
◇ ◆ ◇
「ミッション失敗、って顔してるね」
客引きの最中だった沙智に発見され、連行されたのは音楽棟と呼ばれる旧校舎だった。
こちらもメインストリートから離れた避暑地のひとつらしく、予備の音響機材の山に隠れて学生たちが休息している場面に何度か遭遇した。多少の埃臭さに目を瞑れば、悪くない穴場だといえる。
そこで僕は憂月とのやり取りのあらましを沙智に話した。今際の際の件に関しては余計な説明の手間がかかるので今は伏せた。
「白野さんに酷いことを言った?」
「逆だ。さんざん責められた」
「あらま」
僕からの報告を、沙智は横長の木箱に跨り、フランクフルトにかじりつきながら聞いていた。真剣味に欠ける態度だったが、別に構わない。
カーゴパンツにノースリーブを合わせた沙智の恰好はいかにも垢抜けた女子大生といった風体だ。元々美的センスは高かったが、僕の服装にはいちいち文句をつけなかった。
だがよくよく考えれば、断捨離の際に僕の普段着も捨てようとしていた。あれは間接的に僕のセンスに文句をつけていたのか。しかし残念なことに、僕は今日その服を着てしまっている。
「兄さんは自分が思っているよりも不器用かもしれない」
「そんな馬鹿な」
「あの白野さんを怒らせるって相当だよ」
「どの白野さんなのか知らないが」
「隔離姫、って呼ばれてる」
「それはまた、神々しいお名前で」
隔離はおそらくボーカルの名義から来ているのだろう。ということはつまり、憂月のバンド活動は大学内でも知られているのか。
推測にはなるが、入学当初から既に本格的な音楽活動をしているというのは周囲にあまり良い印象を与えないだろう。逸脱した才能を以ってして事実上のフライングを堂々とおこなっていては、周囲から隔離された存在になっても仕方ない。
「あの子、浮世離れしてるよね。見た目からして近寄りがたいのに、何でかあたしだけにはぐいぐい来るんだ」
「沙智だけに?」
「初めは正直かなり変な子だと思ったよ。他の同期とは一切関わりを持とうとしないから、白野さんへの連絡事項とかはあたしが橋渡し役。ま、あんな綺麗な子に親しまれたら悪い気はしないんだけど」
沙智のみを狙い撃ちして友人になった。普通なら、明らかな意図がなければそんな行動はしない。友達が欲しいだけなら限定する必要はない。しかし憂月が自身を不幸体質だと認める以上、余計な人脈の拡大は嫌うかもしれない。
沙智と親しくなるのが目的だったとしたら。憂月は、沙智が僕と関わりがあると知っていたのか。ならそれは、どこで知った? 妹という断片的な情報に加えて苗字も違っているというのに、沙智を僕の縁者と判断できたのには理由があるはずだ。
『私は幸せですよ』
脳裏をかすめる無機質な声音。
ゼンマイ仕掛けの人形のように、次第に機械的になる言動。
あのとき初めて、僕は彼女を不気味だと思った。
「兄さんはあの子とどんな関係なの」
もっともな疑問だ。沙智からすれば憂月の接近は偶然ではなく、僕が先に紹介していたからだと考えるはず。
「彼女は山間の病院に通院していたんだ。そのときに知り合って」
「それは何回も聞いた。それだけじゃ有り得ないでしょ、あの執着は」
沙智は勘繰っている。ただならぬ関係なのではないかと訝しんでいるかもしれない。
もう隠し立てはできそうになかった。
◇ ◆ ◇
「――そう。それは、つらかったね」
僕の右眼を髪越しにじっと見つめた後、沙智は短く言葉を切った。
「実を言うとね、思い当たる節がなかったわけではないんだ。兄さんにはあたしたちと違う世界が見えているのかもしれないってずっと思ってた。でも生き物の死に際が見えるなんて。そんな残酷な世界を見続けていたなんて」
「信じるのか?」
「兄さんはそんな大層な嘘を吐けるほど器用じゃないでしょ」
「それもそうか」
「ぶっ」
合点がいき深く頷いてみると、急に沙智が噴き出した。
「いや……そこは納得するところじゃないでしょ……くくっ」
「おかしいか?」
「兄さんのそういう裏表のないところに千世姉さんは惚れたのかもねー」
そんなこと言われても。
ああでもそういえば、僕の敬語を聞いて和むとも言っていたか。あれは僕の不器用さの象徴みたいなものだった。
裏表がない、か。沙智に勘付かれていたというなら、その通りなのだろう。
一般的に見れば、僕は普通ではないのかもしれない。人間は、裏表があるのが普通だから。
「前にも言ったけど、兄さんはストレスをすぐ顔に出すからさぁ。白野さんも気づいてたんじゃない?」
「今際の際を教えなかったことをか」
「それもあるけど、もう一つ」
フランクフルトの串をフェンシングみたく僕に向けて、沙智は言う。
「兄さんが心苦しく思ってたこと。白野さんは自分のことで兄さんを苦しませたくなかったんじゃないかな」
沙智の指摘は道理に適っていた。僕の躊躇を憂月は汲み取って、わざと棘のある台詞を言ったのだとすれば、あの静かなヒステリーも違った意味に捉えられる。
今際の際を知りたいという願望はあくまでも表側なのだ。その裏側には別の思惑がある。でなければ彼女は僕のことなんて慮らず、苦しめてでも自分の死に際を訊き出そうとしただろう。そのくらいのなりふり構わなさが、憂月にはきっとある。
一直線に沙智と接点を持ったことだってそうだ。何処から聞き出した情報かはわからないが、何らかの手間を経てまで僕へのパイプを繋ごうとしている。
つまり憂月の行動には、明確な目的意識がある。
「そんな難しく考え込まなくてもいいと思うんだけど」
呆れ口調で沙智は言った。事情を大体把握したのか、したり顔で串をくるくる回している。
「何かわかったのか? すごいな、教えてくれ」
「なんでもないよ、まったく。不器用なのはお互いさまかね」
……よくわからないが、沙智は妙な誤解をしているようだ。訂正するのも難しそうなので放っておくことにした。
ふと埃をかぶった置時計に目を向ける。二時過ぎ。僕も沙智も軽く伸びをした後、ほぼ同時に立ち上がった。
「さぁて、休憩はそろそろお終いにしましょうかねっと。もうすぐ妹尾先輩の出番だろうし」
「へぇ、沙智は司のことも知ってるのか」
「学内きっての有名人だからね。っていうか何で兄さんが下の名前呼びしちゃってるの」
「たまにご飯を奢る程度の仲」
「ほんとにっ!?」
今日イチの反応をする沙智だった。
「兄さんがあの妹尾先輩とそんな仲だったなんて……あぁでも白野さんと縁があるなら不思議でもないのか……ということはあたしにもお近づきになるチャンスが……」
ぶつぶつと真剣な面持ちで思案し始める。沙智は割とミーハーなところがあった。
「さっさと行こう。司の出番があるんだろ?」
「あぁそんな軽率に呼び捨てしないで……妹尾先輩は兄さんが気安く関わってはいけないくらい尊い存在なんだから……」
「あいつも神様か何かなのか」
沙智にとっては偶像なのだろうなとは思うが。こういう信者を発生させてしまう司は返すがえすも罪深い男だ。
「じゃあ今度ご飯奢るときは沙智も誘うよ」
「行きます」
「即答かよ」
いつの間にか自分の頬が緩んでいることに気づく。沈んでいた気分も回復して、背筋が自然にしゃんとする。身体が軽くなったような心地だ。
そして音楽棟を出た直後――狙い澄ませたようにやや強い風が前髪を捲り上げた。
いつもならそれだけで世界の色は一変する。地上に満ちる生命の全てが死に染まってしまうのを、避けられないと思っていた。
けれどそのとき僕の眼に映っていたのは、雲一つない昼下がりの蒼い空。あまりに純粋なその空に、僕は眼を奪われてしまっていた。
「話してみたら楽になったんじゃない?」
隣で沙智の声がした。
「兄さんの右眼には、この空ってどう見える?」
答えるまでもなかった。きっと僕は、確信できていたのだろう。
眼を背けたままでは知ることのできなかった蒼は、ありふれた普通だった。




