ヒロイン
背後でバスの扉が閉じる音を聞いて、僕は約束事のように白い息を吐いた。
停留所から数えて三番目の辺境にあるバス停。周辺はどこを見渡しても畑が視界に入るような田舎で、ごくわずかの軽トラックを除けばそうそう通行人に出くわすことはない地域。
数分ほど歩くと、山間にひっそりと佇む灰白色の建物が見えてくる。規則的に並んだ窓のうち、個室が集中している階層を見上げた。あの場所にいるであろう彼女の顔を思い浮かべて、自然と足が速まる。
首に巻いたグレーのマフラーが風でなびくのをきらいながら、病院の敷地へと駆け込んだ。建物の中で外気に晒されなくなると途端に暑く感じて、防寒具を脱ぐ。そのまま受付を済ませ、病棟の奥へと向かった。
彼女の入院している病室に最短で辿り着くには、造花庭園と呼ばれる中庭を通り抜ける必要がある。人工的に作られた花々はそうそう枯れることがない。生命と向き合わざるを得ない人が多く集まるこの場所で、それは一種の緩衝剤なのだろうと思った。
僕はこの庭を通り抜けるのを楽しみにしていた。ここには悲しいものがない。いつまでも咲き続けてくれる鮮やかな花は、物言わずとも慰めてくれるようだったから。
そんな造花庭園にたった一つだけある、悩みの種。
「お兄さん」
高くてよく通る声。目を向けると小柄な少女がいた。黒のセーラー服を着ていて、鼻筋の通った非常に恵まれた顔立ちをしている。
ただひとつだけ違和感として挙げられるのは、瞳の色。
少女の右眼の虹彩は、宝石のように透き通った翡翠色をしていた。
「お兄さん」
もう一度、少女は僕に呼びかける。
希うように、恋い焦がれるように。
「今日こそ教えてくれますか。私の、今際の際を」
僕には命の終わりが見える。
少女が失ったのと同じ、右側の瞳で。
◇ ◆ ◇
生物には必ず死が存在する。
僕にはその死にかたが見えた。
厳密には右眼に映る生物の、命を失う瞬間が見えるというものだ。左の眼にはありのままに映るから、ちょうど生と死が重なっているように見える。
それは僕の意志に関わらず見えてしまう映像だった。生きていると認識すれば、たちまちにして一方の眼の視界では死んでしまう。
片側の世界では常々、ありとあらゆる生命が枯れて朽ちて死に続けている。ヒトだって例外じゃない。ほとんどが顔色の最悪な病人で、残りは血塗れの悲惨な姿で映り込む。病死であれ事故死であれ、死因が明確にわかってしまう。
当然周りに伝えることはできず、ごく一部を除いてこの忌むべき力を明かすこともせずに過ごしてきた。そして抱え続けた秘密は僕の人格をより閉鎖的にした。
こんなものが見えなければ、と何度も思った。右眼をくり抜いてしまいたかった。
けれどそんな勇気はどこにもない。だから前髪を伸ばして右眼の視界を覆った。
そうして、死は僕にとっての隣人になった。
薄い壁ひとつを隔てただけの、あまりにも身近な存在。
僕は少しずつわからなくなっていった。
大切な人が死んだとき、果たしてちゃんと悲しむことができるだろうか。
◇ ◆ ◇
清掃の行き届いた個室。千世はその白い手で本のページをめくっている。色素の薄いショートボブの髪が時折垂れ下がる。夢中で読み進める彼女の代わりに僕はそれを耳に掛けた。
「この本、面白いよ。出てくる女の子の髪が飴細工なの」
「夏は溶けちゃうんじゃないですか」
「特別な飴でできているから大丈夫みたい。ご都合主義ね」
意味が少し違うような気がするが、千世が言うなら違わないようにも思えた。
英千世。僕より三つ歳上の幼馴染であり、交際して二年になる恋人だ。今は病に侵されて山間の病院に入院している。
「今日もありがとう」
読んでいた本に押し花の栞を挟んで、傍の棚上に置く。表紙は絵本のようなタッチで描かれた、愛らしい中型犬。なんとなく、彼女に似ている。
「大学の卒業論文は提出できそう?」
「年内には。あとは全体の校正さえ済ませれば終わりそうです」
「ひと安心ね」
千世は微笑んで、それから窓辺に飾られた花瓶を見つめる。
「この前持ってきてくれた花だけど、看護師さんが持って行っちゃった」
確かにあそこには僕の持ってきた紫のパンジーが生けてあったが、なくなっていた。千世が春に咲く花を見たいと言っていたので、春以外でも咲くパンジーを花屋で買ってきたのだった。
「パンジーって縁起が悪いんでしょうか」
「花言葉は、思慮深い、って図鑑には載っていたわ」
得意げに言う千世。
「鉢植えでもなかったし、縁起が悪いということはないと思うのだけれど」
「枯れそうだったのかもしれませんね」
「いいえ、そんなことはないわ。だってわたし、ずっと眺めていたもの」
それだけあの花を気に入っていたのだろう。わざわざ探したかいがあったと思う一方で、花を持ち去ってしまった看護師を問い詰めたくなった。
千世には肉親がいない。二歳の時に孤児院に預けられ、両親の顔や名前を知らないままに育てられてきた。
僕もまたその孤児院で育った。生まれてすぐに孤児になったそうで、千世よりも一年遅れて孤児院に引き取られた。他にも事情は様々だけれど、実の親を知らない子どもたちである僕らは共同生活をしていた。
そんな生い立ちもあって、僕たち『院の子ども』は血が繋がっていなくても家族だった。自立したあとも互いに助け合ってなんとか社会に取り残されないように生きていられる。
裏を返せば、家族以外の他人に対しては冷ややかな態度を取らざるを得なかった。
それが看護師であっても、自分に興味を抱いているらしい少女であっても。
「遥斗?」
千世が僕の名を呼ぶ。僕は軽く頷いた。
「大丈夫です。また買ってきますから」
「ありがとう、でも気持ちだけでいいよ。看護師さんもきっと理由があってそうしたのだろうし、また持って行かれたりしたら寂しいもの」
千世はもう既に寂しそうな顔をして、窓の向こうの山を見つめていた。雪の降らないこの地域の山々は、あまりにも殺風景だった。
「退屈ね」
「きっとすぐに良くなりますよ」
「そうしたら今みたいには遥斗と会えなくなるわ」
「毎日電話しましょう」
「それはちょっと面倒臭いかな。ふふ」
千世の手を握る。温もりは感じられなかった。僕が、彼女に温もりを届けなければいけないと思った。本当の意味で、彼女が退屈してしまわないように。
僕には千世の病状について詳しいことはわからない。ただ、停滞しているのだと医者は言った。悪くはならないが、良くもならない。先の見えないトンネルのようだと。恐ろしい話だ。その中で歩みを止めてしまったらどうなってしまうのだろう。
握っていないもう一方の手で、右眼を覆う髪を除ける。
見えるのは、真っ白な箱のような部屋。周囲と区別のつかない白いベッドの上で、千世は横たわっている。
洗い立てのシーツみたいな世界の中で、唯一黒いものがあった。それは人影だった。絵の具で塗り潰されたような、何もかもが黒くて、ひとのかたちをした美しいもの。
こんな存在に看取られる未来が数年後のことなのか、それとも明日のことなのか。今際の際を覗く僕でさえも知ることはできない。
そっと目を伏せる。僕はまた、何もできないままだ。
◇ ◆ ◇
白野憂月という少女がいた。
世間は彼女を不幸体質と呼んでいる。
僕にとっては不幸なんてのはそこらじゅうにあるもので、それと同じくらい幸いは溢れているものだと思っている。けれど肉親が居なかったり余計なものが見えたりする自分は、幸いかそうでないかの明確な基準を持たなかった。
万人にとって共通の幸いが存在しないであろうというのは、きっと誰でも思い当たることだ。悪意でもって日々の飯にありつける人もいれば、戦争によって幸福になる人もいる。それを非難する行為が誰かを不幸にすることだってある。
何事にも表裏があって、幸いな面と幸いでない面が一体になっている。コイントスをして、たまたま自分のほうを向いた面だけを見て物事を受け取る。それだけのことなのだ。
だから白野憂月が不幸体質と呼ばれるのは、そのあたりが原因なのだろう。
千世のもとを去ったあとは造花庭園を横切る。その気になれば迂回して病棟を出ることも可能なのだけれど、我ながら律儀に帰り道も最短のルートをなぞっている。
例のセーラー服の少女は庭園のベンチに座っていた。まぶたを閉じて微動だにしない様子は、その容貌も相まって人形のようだった。
眠っているのであればこちらから声を掛けるのは躊躇われる。僕としては別段この少女と言葉を交わしたいとは思わなかった。
少女――白野憂月は自分の命が尽きる時を知りたがっていた。ふとした拍子に僕が普段見ている光景のことを話してしまって、それからは週に一度くらいの遭遇の度に「今際の際を教えてほしい」とねだってくるのだ。
でもそんなものの委細を教える義理はないし、伝えたところでその未来が変わった試しもない。
何より断言できるのは、それを知っても憂月は幸福になれないということだ。
「お兄さん?」
憂月が目覚めた。というより起動したという感じで、大きな眼を見開いた。
「お見舞いは済んだのですか?」
「うん」
「ということは、私を迎えに来てくれたんですね」
一気に血が通ったかのように、ぱあっと憂月の顔が明るくなった。
「勘違いはしないでくれ。きみはついでだから」
「それでも嬉しいです。二番目の女って言うんでしょう?」
「誤解を生むような発言も慎んでくれ」
憂月が楽しそうに頬を緩める。けれど僕はそんなに楽しくなかった。
「じゃあ帰るから」
「はーい」
背中にバネでも入っているのか、跳ねるようにベンチから立ち上がる憂月。勢いそのままに僕の右隣へくっついてきた。
面会時間が終わる頃には外は日が落ちて暗闇に満ちている。田舎道で外灯も少ないことから、未成年の少女がひとりで歩くのにはやや危険な道程だ。夏場はともかく冬の時期は憂月を放っておけないので、帰り道だけは付き添ってやるのが定番になっていた。
ちなみにこのことは千世には伝えていない。不貞腐れてしまうのが想定できたからだ。
田舎道を歩く途中、風が吹くたびに身震いした。師走でこれだけの寒さなら、年が明けて雪が降るようになったらとてもじゃないが屋外には長居できそうにない。
セーラー服の上に赤色のパーカーを羽織っている憂月もまた、首を縮めて寒風に耐えていた。
「こんな日は熱い鍋が食べたいです」
「頑丈な歯をしているんだな」
「もー、読解力なさすぎですよー」
何かと話題を探しては絡んでくる憂月と、たいして会話する気のない僕。
一か月ほど前からの習慣になりつつある、限りなく一方通行なやりとりだ。
「お兄さんは一緒に鍋を囲むような友人はいますか?」
「どうだろう。兄弟たちと鍋をすることはしょっちゅうだったけれど」
「この場合は鍋を囲めるほど親しい友達がいるか、という意味なのですが」
「わかってるよ」
小中までは周囲と馴染めないと学校から孤児院に連絡がいってしまうので努めて社交的にしていた。ひとり暮らしを始めて高校に通うようになってからは、友人を敢えて作らずに過ごした。友達付き合いには金がかかるからだ。孤児院からのなけなしの仕送りを無駄にはできなかった。
僕はその時々の生活を維持するために他人との関わりかたを変えている。自立するまでは孤児院での暮らしのために。自立してからは節制のために。そして今は、自分を慰めるために憂月と関わっている。
憂月といると、自分が凡庸な人間であることを自覚できて、安堵する。
「私も友達いないんです。お揃いですね」
「嬉しくないが」
「避けられてしまうんですよね。不幸が服を着て歩いている、とか言って」
とんだ理不尽な言いがかりだ。高校生のわりに幼稚ともとれる。
「まあそれをのたまったテツヤくんには眼球のレプリカをあげて黙らせましたが。不幸除けのお守りだって言って」
「ちょっとクレイジーすぎるかな」
テツヤくんが可哀想だ。
「お兄さんも欲しかったら言ってくださいね」
「フリマアプリで売りに出してもいいのなら」
そのうち臓器売買のアプリも出るかもしれない、なんて暗い妄想が飛び出しそうになったから、僕は口をつぐんだ。
憂月の右眼は作り物だ。特注の虹彩が翡翠色の義眼をはめ込んでいて、ひと目にはカラーコンタクトを着けた本物と見分けがつかない。そんな彼女から貰う眼球のレプリカは洒落にならなかった。
それを平気で実行する人格を鑑みると、憂月が高校で浮いている様子は容易に想像できる。
「ヒトってわからない生き物ですね」
「それは人間をやめた存在が口にする言葉だ」
「半分やめているようなものですよ。定期的にメンテナンスしなくちゃ壊れてしまう身体になってしまうと」
憂月はこんなふうにさらっと笑えない冗談を言う。
表情は見えない。
「幸か不幸かなんて、結局は相対的な価値観でしかない。他人に不幸体質だと言われても、私にはどうもぴんときません」
「だったらきみは自分のことを幸いだと思えるのかい」
「どうでしょうか。今際の際になるまで、わからないままなのかも」
どこか達観した口ぶりで話す憂月。掴みどころのない十七歳の少女は、隣にいるのにとても遠くにいるような気がした。
バス停に着いて一分と待たないうちにバスが来た。乗客は僕たちだけだった。
憂月は最後部の座席奥に腰掛けると、電池が切れたように眠り始めた。比喩が成立していないのではと思うくらい、寝息などはまったく聞こえない眠り。その隣に座る僕は、バスにぶら下がるつり革の揺らめきを目で追っていた。
僕には憂月がとても同じ人間のようには思えない。それどころか生物なのかすら疑わしい。
彼女は、僕が出会ってきたなかで唯一、今際の際が見えない人物だった。