第一の死体
この惨劇の舞台となった花城レンズ工芸株式会社は、町工場と零細企業の社屋が立ち並ぶ工業団地の一角にあった。社屋は先代社長の花城道夫が昭和四十年代に建てた三階建てのビルで、かなり老朽化が進んでいる。
日本では小さな町工場で世界最先端の技術の一角を支えている精密部品が作られていることがよくあるが、この花城レンズ工芸株式会社も二代目社長である花城幸助の持つ高い技術力により、高級カメラや顕微鏡から、世界の天文台で使用されている望遠鏡のレンズ、さらには人工衛星の特殊機器に使用するレンズに至るまで、超高精度なレンズを制作している。通常、高精度なレンズとは誤差0.1マイクロメートル(1万分の1ミリメートル)以下が条件となるが、花城レンズ工芸はなんと誤差0.1ナノメートル(千万分の1ミリメートル)以下を実現したのだ。業界において花城幸助が「レンズの神様」と称えられている所以である。
恐怖の連続殺人事件は2019年6月某日、社長の花城幸助が本社ビルの屋上から転落死したことが発端となった。
花城幸助の娘であり、花城レンズ工芸の専務取締役でもある花城由紀恵の通報により、警察が駆けつけ現場検証に当たった。本社ビル前の路上に倒れていた幸助は全身を強打し、即死だったようだ。
所轄の刑事課の岡田巡査長と谷村巡査が、由紀恵をはじめとする社員への聞き込みを行った。
「屋上に上る階段は、三階にあるこの階段ひとつだけで間違いありませんな」
岡田の質問に由紀恵は涙ながらに答える。
「はい、ここ一か所です」
「社長が屋上に上られたのはひとりであったと」
「はい、ひとりで上られました」
「その時、この三階には誰がおられましたか」
「私と、その常務の井土です」
由紀恵の言葉に補足するように井土弘明が話を続けた。
「この三階は研究開発室になっておりまして、出入りできるのは社長の他には私と専務だけなのです」
「では社長が屋上に上る前、あるいは上った後に他の人間が上ったということは」
「はい、まずあり得ません」
「なるほど。とりあえず屋上の方も見せてもらいましょうか。あ、いや、我々だけで上りますので、あなた方はここに居てください。おい谷村、行くぞ」
岡田刑事と後輩刑事の谷村は、屋上に続く一度にはひとりづつしか通れないほど狭くて急な階段を上った。上り切るとそこはペントハウスというほどではない小さな階段室で、鉄の扉を開けると屋上に出る。
屋上は特に何も無いただ広いスペースで、高さ1mほどの鉄柵で囲まれている。鉄柵の形状については公道の車道と歩道を仕切るのに仕様されている鉄格子状のものによく似ている。ただ格子部分の隙間はせいぜい3cm程度なので、そこに腕を差し込んだりは出来ない。底部の隙間も狭く、せいぜ5mm程度だ。基礎となる鉄柱は120cm間隔で建てられている。柵から切り立った屋上の端までは、30cmもないだろう。
「岡田さん、見てください血痕です」
谷村が興奮気味に声を張り上げた。谷村が指さした鉄柵付近の一か所には、ぽつんと赤いものが滴った跡がある。
「馬鹿、よく見ろ。これは錆び止めの塗料だ。確かにこのあたりはかなり錆びが回っているから危ないな。ああほら、あそこに塗料の缶と刷毛があるぞ。なるほど社長自ら鉄柵に錆止めを塗っていたわけか。しかしまだ約半分ほどしか塗れていない。そこに缶と刷毛を置いて、ここから転落したということは・・・おそらくこの柵にもたれて一休みしていたんだな。しかしこの柵は低いから、長身の社長はバランスを崩して転落してしまった。これは事故だ」
「岡田さん、自殺の線は無いですか」
「お前、本当に馬鹿だな。自殺する奴が屋上の鉄柵に錆止め塗るかよ。それも半分塗ったところで自殺っておかしいだろうが」
「ああ、それは確かに。すみません」
「お前、少しは頭を使う癖をつけろ。しかしまあ事件性は無さそうだから、俺たちは帰るか」
階段室の扉を開けると、目の前1mほど奥はコンクリートの壁だが、階段が急なため下りはかなり怖いのだ。まるで奈落か地獄の入り口である。恐る恐る階下に降りた岡田たち刑事はそのまま現場を立ち去り、ほどなくして他の警察官たちも居なくなった。花城幸助の死は事故として処理されたのだ。
このようにして姿の見えない殺人者による殺人計画が動き始めたのである。