19 追憶の日々
暗い、暗鬱な世界が広がっている。
地面も天井も壁も、何もかもが黒一色に染まった場所。
光など存在するはずもないのに、はっきりと自分の姿だけは知覚できている。
「これは…八方塞と言うべきでしょうか」
このような異常な事態にあっても、ロキロキは平然と事実を受け入れ、対抗策を練ることができる。
先ほどの竜と化す魔導は解除され、仮初とも言えるこの貌の無い姿へと戻されてしまった。転移魔術も試したが効果は無い。この状況と今の手札を照らし合わせ、打開するための手順を思考する。
「転移魔術は使えませんが、術式を妨害された形跡もない。となると、やはり精神魔術でしょうね。私の記憶を読み取り、精神世界に結界を張り閉じ込める。狙いはわかりきった事ですが……なんと、下劣な」
精神魔術。相手の心の弱みに付け込み、楽な方へ誑かす。トラウマの象徴たる過去を延々と追憶させ、精神的な傷を負わせる。このように、外傷を与えることを目的としているのではなく、精神的動揺により戦闘不能、再起不能まで追い込むとされる最低最悪の魔術だ。
虫唾が走る。ロキロキは冷静な理性の殻の外に、煮えたぎる怒りがあった。
生物の悪。あらゆる物事が二面性を孕むように、善と悪も共存関係にある。
如何なる正真正銘の善人であろうが悪人であろうが、そこにどちらか一つがある限り、必ずもう一方は存在するのだ。
聖人は本当に死ぬまで一片の悪行も侵さなかっただろうか。大罪人にただ一粒の慈悲がなかったと、誰がそう言い切れるのであろうか。
そしてロキロキは自分が悪人であることを知っている。しかし、それすらも正しくはない。
世間にとっての正義は時として鍍金の悪に成り下がる。
誰が何をもって正義を決めるのか。
真なる悪とは、自分を見失い大衆の一部になることだ。
故に、ロキロキには悪人としての信念と矜持がある。
それを失えば正義も悪も関係ない。ただ獣へと堕ちるのみだ。
正方形の箱に閉じ込められていた感覚が、移り変わろうとしている。
漆黒だった世界を侵食するように色彩が流れる。地面が穏やかに曲線を描く。壁もどろりと溶ける。優しい風が頬を撫で、暖かい微睡のような匂いが漂う。
瞬く間に風景は変わっていく。
人里離れた草原の上に建つ、古びた洋館。
懐かしい気配がする。
小さな小さな部屋の半分を占める寝台に、ぽつりと一人の少女が横たわっていた。
華奢な体はゆったりとした寝間着に包まれ、頭から爪先まで届くような長髪は生気を失ったように白い。春を待つ淡雪のような少女であった。
カーテンが微風で揺蕩う。四角い窓からは緑の海が展望できる。
遥遠と続く、草原の海。対を成すような、雲一つもない青空。地平線の彼方には群青に霞む山脈が。
ロキロキはちょうど扉の前に直立していた。思考がようやく現実に追いつこうとしている。
喉の奥が震えていることがわかる。口を開いてはいけない。その名前だけは。
「……ユヴィエーレ」
声を出したのはロキロキではない。
キィ、と控え目に扉を開く音がした。
部屋に入ってきたのは年若い少年だ。上等な服に身を包み、しかしその表情はまだ若木のように頼りなさを残している。
「また、外の景色を見てたのか。よく飽きないな」
「…ここには、もうこの風景しかないですもの」
長い睫毛が微かに上下し、その黄金の瞳がロキロキを射抜いた。
違う。その視線は、ロキロキの後ろから入ってきたその少年に注がれている。
少年は勿体ぶるように寝台へと近づき、縁へと腰かけた。その寝台は普通よりも大きく、巨漢が寝ても隙間が余るほどだった。
ここまで来て、やっと気づくことができた。これは精神魔術だ。ロキロキの記憶を読み取り、精神世界に投影する。つまり、これは過去の記憶だ。
なんという再現度だろう。ロキロキのような猛者をもってしてもこの世界に呑まれかけた。
「この前送った本はどうした。王都で有名な芝居を元にしてるやつでな。どこに行っても売り切れで、買い付けるの大変だったんだぞ」
「…別に、そんなの。もう読み終わりましたし、たいして面白くもありませんでしたけど。……多分、あなたといるほうが楽しいです」
そう言ってユヴィエーレという少女は人形のような顔を傾け、ほんの僅かに口角を上げた。それが彼女なりの微笑みだと気づいたのは、もうずっと先のことだったはずだ。
「…手品。手品が見たいです。この前見せてくれると言っていた」
「はいはい、お姫様。こちらにある帽子にご注目を」
にやりと自信満々に笑った少年は、片手で隠していたものを取り出す。
黒い光沢のある、円柱に鍔をつけたような形状。渡りの世界で言う、シルクハット或いはトップハットと呼ばれるものであった。
この世界のものではない品物には高値が付くが、少年は手品の為だけに取り寄せたのだろうか。
そうだ。この頃は彼女の幸せが自分の全てだったと、ロキロキは思い返している。
手中のシルクハットの中をしっかりと彼女に確かめさせると、空中にそれを放り投げる。
くるくると舞う帽子に彼女の視線が釘付けになっているところを目に収め、ばれないように小声で詠唱する。
「【刹那遊戯】」
次の瞬間、黒と白が入り交じり、部屋の中を縦横無尽に乱舞した。
シルクハットから出てきたのは純白の小鳥だ。北方の鳥類でも珍しい、雪に擬態するために進化した体毛。それは見る者を魅了する白無垢の飛翔だった。
いつしか窓から吹き込む風に誘われるように、その鳥は大空へと飛び出していく。陽光を白羽が反射し、眩い残光だけが瞼に焼き付く。
「で、どうだ? これでもかなり値が付いたんだぜ。逃がしちまったのはまあ勿体ないが、見応えあったろ」
少年は自慢げに胸を張り、その目は期待に満ちていた。
しかし、対する少女はふい、とさしたる興味もないかのようにそっぽを向いた。
「……全っ然じゃないですか。種も何にもない魔術に頼り切った手品だし、それなら誰にもできますよ」
「おい、おいおいおいそりゃないだろぉ!? あの小鳥は極北の珍しい色の奴でな、数自体が少ない希少種なんだぜ? それを面白くないったって……。何が悪かったんだよ」
「物の価値はお金じゃありません。私が見たかったのはもっと……」
ユヴィエーレの顔は、人形のように表情の変化に乏しい。搾りたてのミルクのような肌や、琥珀を埋め込んだかのような瞳。故に無機質な冷たい印象が先走りそうだが、実際は違う。
楽しければ口元を綻ばせ、拗ねれば態度は急変する。世間一般の金銭の価値より、感情や時間、言葉を欲しがる彼女は当時のロキロキには見知らぬ異国の種族と言っても過言ではなかった。
そんな彼女だからこそ、ロキロキにとってはかけがえのないものだったのだろう。
「へいへい、お姫様は物好きなこって。何がお気に召さなかったんだか」
「…あの小鳥は、独りぼっちなんです。故郷から連れ去られて、これからもたった一羽で。…孤独な自由と、束縛された安心感、本当につらいのはどっちなんでしょうか」
少年はバツが悪そうに頭をがじがじと掻くと、意気消沈した様子でぽつりと呟く。
「…まあ、なんだ。その……悪かったな。こんなとこに押し込められてるお前でも、珍しいもん見れば少しは元気でるかと思ってよ」
「次は魔術を使わない手品を見せてください。そしたら許してあげます」
おう、と覇気のない返事を返し、少年は黙りこくる。ロキロキはこの静寂が最も嫌いだったが、彼女は違った。少年にとって富と権力こそが存在意義だったように、今にして思えば、何気ないこの時間こそがユヴィエーレにとって幸せだったのかもしれない。
ここで何度の空模様を見てきただろう。晴れの日も雨の日も、ずっと二人は窓の外の世界にあこがれ続けてきた。
ずるり、と景色は剥がれるように移り変わっていく。
荘厳にして広大な石造りの廊下を、コツコツと踵で踏み鳴らしながらも少年は歩む。
権力を象徴する技術の集大成は、今の少年にとってはあまり気に留めなくなっていた。
あの少女と出会い、そのすれ違う価値観を嚙み合わせていくうちに、いつしか自分の主観も変わっていっていたのだと、ロキロキはそう思い出す。
「見ろよ、あのフィリオドル家の出来損ないだぜ」
「フィリオドル家って、あの魔術の名家の? 長男の癖に魔力保有量が平均とかいう、あの無才か」
「あまりの才能の無さに、両親に勘当されかけたって話聞いたことあるわよ」
嘲笑が、耳に木霊する。残響が四方八方から自分を責め立て、お前に居場所など無いと、そう耳元で嘯く。
富、名声、権力、そして才能。一流の貴族とは、それ全てを兼ね備えなければならない。
幼い頃からずっとそう教わってきた。自らの生まれに責任を持ち、人の上に立つ者としての気品と教養。
くだらないと、一笑に付すことできたらどれだけ楽だっただろうか。
だが、全ては後の祭り。この記憶も再現にすぎない。過去を変えるなど、それこそ魔法でなければ不可能だ。
またしても光景は歪み絡んで溶け合い、消える。
燃えていた。
曇天の夜だった。星一つも見えない、悪夢のような空だったと、そう記憶している。忘れないよう努めた、あの記憶。
ああ、いつだって自分は間に合わないと、ロキロキは落胆している。
煤けた黒色の残骸は屋敷の支柱だったものだ。歪んだ窓ガラスが炎を反射し、てらてらと輝く。
煙の臭いが、鼻腔をじくじくと蝕む。深呼吸しようとするほど、息が、できない。
屋敷が。彼女と過ごした日々の全てが。
今、炎によって灰に還ろうとしている。
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