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作者: 糸井槌

喫煙所までのわずかな距離をゆく間に指は煙草を取り出して、引きずるようにして探り当てたライターを近づけている片手にやっと気がついて力を込める。習慣と呼ぶにはあまりにも自然になってしまった一連の悪癖に息をついて、ふと見た影の色味に、秋はいいなとひとり思った。秋はいいものだ。いつからか、季節が一回りするたびにそう思うようになった。

煙を吸って吐いて、その隙間を縫うように音楽を作って、時には惰性に生きてみてもそんなふうに思うのだから、世間一般の人々は、きっと俺なんかよりももっと秋を楽しむ方法を知っていて、それは満たされるためでなく、こうして燻らせている煙と同じく、片手間に戯れるように楽しむようなものなんだろう。空を見ながら歩いてくる人をみとめて、のびた灰を切る。数十メートル先の人を見習って目線を上げてみれば、晴れた青だけれど夏の痛さはそこにない。澄んでいて目に優しく、うっすらした白いばかりの雲が筋のみたいに浮かんでいるこの空に少しの灰色を足して、水でぼかせばそのまま冬が出来上がるのだろうと、そう思っていた昔が文脈を無視した線で結ばれる。


何をしていても結局のところ季節は回ってしまうということを、しみじみと、指の先にいたるまで感じられるようになったのは、たしか不惑まであと二年と差し掛かった時から。若いうちに考えたさまざまな出来事は時の流れに消え去ったものもあれば時々思い起こしたように平然と迫り、首を絞められるような言葉ともいくつかすれ違い、瀕死の喉を灼いたそれらさえ忘れてしまえそうな今に至る。


見慣れたとスニーカーと黒いスキニーの足元は自分のものと比べても相変わらず線が細い。Tシャツにパーカーを羽織って、日中もいい風が吹くようになったこの頃、戸高の身ぐるみは早々と秋へシフトしたようだ。いつも似たような着まわしている自分とはそもそも服にかける情熱が違うだろうし、まずそんな意識であっても季節ごとにはきちんと着分けしているのだから同年代の中におけばまだ俺はマシな部類だ、と考えれば馬鹿らしい自負が風と混ざって後頭部をよぎった。

「はよ」

「ああ、おはよー」

声が聞こえる距離になって、やっと正面を向いた彼にくわえ煙草で崩れた挨拶を投げかけると、いたずらを思いついたような、けれど困ったような笑みを少しみせてからすぐに髪の奥へとしまった。肩に掛けていたギターをよいしょと年寄りじみた掛け声と一緒にスタジオの外壁に立てかけると、そのままベンチの横に腰掛けた。俺はといえば、一番乗りで来たはいいもののなんだか力が抜けてしまって、地下にいるのも首を傾げたくなる天気だったことが妙に頭から離れず、だからこうしているのかもしれないし、今練り上げたすべてがヤニを欲している身体を隠すための言い訳なのかもしれない。地上に上がれば昼もちょうどいい具合で、だから人も少ない裏通りのベンチに腰かけて吸う煙草は格別にうまくて、吸い込む秋のにおいと、まぶたをふせれば不揃いな粒になって踊る橙のひかりを数えるそぶりで、ぼんやりとしていたところだ。

あのさ、と他人行儀な声音に顔を向ければ目線が出しっぱなしの煙草に注がれていた。

「なに、欲しいの?」

正直な人は素直すぎるくらいに頷いてから、買ってくるのも切らしてるのも忘れてた、と戸高は笑った。それはとてもただしい清潔な笑い方で、秋晴れの冷たい風とこんなによく合う奴だったかと突拍子もなく思った。

箱ごと渡せばすぐに枯れた草の燃える音が立ち上がる。

「秋ですねえ、戸高さん」

「そうですね、木下さん」

交わされる会話に意味はない。かすかに微笑んだ横顔のまま、数えれば結構な時間を共に過ごしてたこのギタリストは、そういえば若い頃鳴らしていた音を好きだと言う一人のファンで、そう思えばいやにくすぐったい気持ちになって、ヤニが染みて薄黒くなった指をまた口元に近づけた。

毒は俺たちにまわっているのだろうか。まわっていないはずがない。流転は留まらず、すべては見えないところで変化していって、年月を過ごすにつれてオンとオフの切り替えだけが上手くなった。力を抜くところはしっかり抜く。何もしない。ぼんやりと、明確な意味もなくただ煙をくゆらせている今の俺たちはきっと間抜けなツラをしているだろう。


格好をつけていた昔、自分は年を取らないだなんて幻想がどこかにあった。純粋な目を欲し続け、大人にならず、歌う死は漠然と遠くにあって、揺るがないこととは知っていたけれど、それでも陽炎のように輪郭を溶かして隠れているも同然だった。

穴を塞ぐやり方で傷を埋めて、濁流のような外からの感情を取り入れて、吐き出して、そんなふうに息をして、それでも生き残ってどうにか辿り着いた今、振り返るその跡を僅かでも愛しいと思うのは、世間一般でいうところの馬鹿であって、過ちなのだろう。それでいい。いや、それでもいい、か。

近しいものも遠いものも平等に隣にあって、不意に形をもって隣に座ってきたりするだけのことだ。輪郭を確かめるように指をさまよわせれば、投げ出された箱にぶつかる。それは隅が少し潰れて、さっきよりひやりとしていた。強い感情はもう見当たらず、微熱のような静かな決意だけが、染み付いてとれない煙のようにかすかにずっとある。そこに安堵している自分は、もしかするともうぬけがらなのかもしれない。背もたれに身体をあずけて、フィルターを挟んでいる指先になにか刺さりでもしたのか赤黒く浮かんでいる楕円をあくびのかたわらに見つけた。

「それどしたの」

「それって」

「その、指のとこ」

ゆび、と言い切る前に察したらしく、苦笑いが漏れる。

「頼まれてたエフェクターが結構よくて、数作ってたら……ね。ほんと、頼んでもらえるのは嬉しいけど、もうちょっとどうにか、なあ」

「あー、パーツとか面倒なやつなの?」

「それは企業秘密」

指先を擦るようにして、さみぃなと呟いた彼の髪を陽を透かして映す。涙はもう乾いた。そして抜け出した先の地獄で這いつくばっていた俺をそれでも信じてくれていたのだろうか。この男はファンでいてくれたのだろうか。今となってはもう無意識にわかってしまう。上着の前を寄せようとして何度も引っかかったボロボロの爪に、今更ながら後ろがないことを思い起こさせられる。他者への不信と自己嫌悪を振り子の要領で行き来して傷付けてきた昔を後悔することさえも懐かしい、なんて口にする時、俺は俺に殺されるのかもしれない。もう自分のもののように取り出した煙草に火を点して、あなたって案外こういうひなたとか似合うよね、と軽く笑ってパーカーのジップをいじくる指は知るはずもない。

不惑を得るに相応しいよく澄んだ10月、引換えになにを失うのだろう。ただひとつ、この14年、俺はその無関心に救われていたよ。

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