◎Episode 87: 二つの想いがぶつかり合って
時計の針が十時を指し、朝の眠気もそろそろ覚めてくる頃。外からはにわかに子どもの遊ぶ声が聞こえてくるような、そんな時間帯。そうした街角の喧噪とは無関係に、私は自室にて机に向かっていた。
一言も発さず、部屋はただ静寂のまま。そこにシャーペンのカリカリという音だけが鳴り響く。黒鉛の芯をノートの紙上に走らせて、不意に手を止める。そしてまた、短く言葉を書き記す。今の時間は、私が定期的に続けている自主勉強の時間だった。
「ふう、今日はこれでおしまい……っと」
最後の問題の答えを記すと、私はシャーペンを転がすように置いた。両手を頭上遙かに掲げ、小さくうめきながら肩をほぐす。ポキポキと小気味いい音を立てて身体がほぐれるのを感じる。
一息ついたところで、赤ペンを手に取って答え合わせを行っていく。丸、丸、丸……。休みなく手を動かして、最後の丸でぴたりとペン先を離した。全問正解。自分が成長していることを実感して、安堵の溜め息を漏らした。
勉強のペースは上々と言ったところだろうか。それもそのはず、なぜなら私には夢があるのだから。やりたいことをやりたいようにやるには、どうしたって勉強が必要になる。嫌な話だけど、現実はそうだ。私の憧れる櫻さんはすごく頭がいいって聞くし、私の尊敬する依織さんだって音楽の知識ならはるかぜ荘にも負けないくらい勉強している。だから、私もその背中を追わなければ。
そんなことを思いながらノートを閉じると、扉を叩く音が聞こえてきた。それに返事をして、開かれる扉。そこから心晴さんの姿が現れた。
入ってきた彼女は席に着いている私を見て、不思議そうな目で問いかけた。
「ん……歩夢、何してたの?」
「ちょっと勉強してたんですよ」
ほら、とさっき閉じたばかりのノートを見せる。こうして見ると、今使っているノートもだいぶ汚れてきた。もうすぐ使い終わるから当たり前と言えば当たり前なのだけれど。そんなノートを目にして、溜め息をつく心晴さん。
「ほんと、歩夢って頑張り屋だよね……」
「えへへ……ありがとうございます」
心晴さんに褒められて、少しだけ嬉しくなる。頬が緩むのが自分にもよく分かった。
私が勉強を頑張るのは、単に自分の夢のためだけじゃない。彼女は私の夢――人助けをしたいという夢についてきてくれている。私を信じて、この手を握ってくれている。私の夢は私ひとりのものではないから、彼女を裏切るわけには行かない。それが私を動かすもうひとつの原動力だった。
そんな私の思いとは裏腹に、心晴さんは再び溜め息をつく。今度の溜め息は、先ほどのそれと違って暗い澱みを吐き出すようだ。
「歩夢に比べてわたしってば……はあ、落ち込んじゃうな」
肩をがっくりと落とす心晴さん。その口ぶりが少し意外で、思いがけず面食らった。
「心晴さんだって頑張ってるじゃないですか。ゲームとか、絵とか」
自分で言って落ち込んでしまった彼女を元気づけるべく、フォローに回る。フォローとは言っても、心晴さんが頑張っているのは事実だと思っているのだけれど。
二十四時間三百六十五日……は言い過ぎとしても、私の眼に映る心晴さんの姿の半分くらいは机や画面に向かっている姿だ。そうしてたまに悔しい思いをしたと私にぼやいては、また机に向かってちまちまと何かやっている。心晴さんほど負けず嫌いで努力している人なんてそうそういないと思う。私なんて足下にも及ばない。
「うーん……あれは趣味でやってるだけだからね……。歩夢みたいに、直接将来に繋がるようなことじゃないよ」
私がフォローの声を掛けると、彼女は渋い顔で首を横に振り、謙遜の意を示した。私が何か返事の言葉をこしらえる前に、彼女の言葉が続く。
「あと、ゲームにしても絵にしても、それと料理にしても、まだまだ上に人がいっぱいいるからね。それに、どれもまだ胸を張って他人に見せられる物でもないから……」
それは前に聞いたことがある、と私は頷く。「プロ」になるのはとても険しい道のりなんだって、心晴さんがいつになく真剣な表情でそう言っていたのを思い出す。
けれど、それでも私にはまだ言うべき言葉があった。
「……でも、努力してるのは事実じゃないんですか?」
上に人がたくさんいるだなんて言ったら、私の学力なんて絶対下から数えた方が早いくらいだ。それでも何とか目指すべき方を向いて頑張っている。心晴さんも同じだと信じたかった。肯定してほしかった。
私の言葉を受けて、心晴さんは不意に押し黙る。じっと俯いて何かを考えるような素振りを見せて、そして唇から一言だけを絞り出した。
「……どう、なんだろう……」
その声色はやけに重たく、冷たい何かを帯びていた。殴られたように痛む心臓には気づかないふりをしつつ、彼女の次の言葉を待つ。
「自分がどんな顔して向き合ってるのか、分からない……。少なくとも、歩夢みたいに明るい顔でいるわけじゃない、と思う」
「……………………」
上下の唇が縫い止められたかのように、私はただの一言も発することができなかった。口が動く代わりに心が動いて、私の脳裏を様々な言葉がよぎっていく。努力とか、才能とか、明るい顔とか、暗い顔とか。それをつなぎ合わせて文を作るそのうちに、その一言一句が熱を帯びて私の中心を突き上げるのを感じた。
何だろうか、これ。怒り……ではないと思う、思考はとても明瞭としているから。じゃあ、これは何なのだろう。今までに感じたことのない感情だ。正体は分からないけれど、今はこれを吐き出したくてたまらない、とても。
「……歩夢?」
後ろ手に隠した拳を強く握りしめる。感情の堰はとっくの昔に我慢の限界で、口を開けばすぐにでも言葉が飛び出してきそうなくらいだ。こんなものを心晴さんにぶつけたって、どうしようもない。ただそれだけの理性で、口にすることだけは堪えていた。
そんな私を見てか、心晴さんはばつの悪そうな顔をした。姿勢を変え、少し逃げるようなポーズを取る。
「ごめん歩夢、それより――」
その時、私の中で何かがプツンと切れるような音が聞こえた気がした。感情が溢れていく、それと同時に言葉も溢れてくる。
溜まりに溜まったそれは、ついに私の中で大爆発を起こした。
「すごく頑張ってますよ、心晴さんは! 自分に言い訳せずにずっと努力してるの知ってます! ゲームも絵も、そんなこと言いながらずっと努力してますよね!? ちゃんと努力してるなら、趣味だからとか趣味じゃないからとかそんなの、全然関係ないです!」
ああ、ダメだ。一度吐き出してしまった感情はもう後戻りが利かない。思考が嵐のように荒れ狂う中で言葉がのたうち回る。語尾のひとつも制御が利かないくせに、そんなことは冷静に考えていた。
心晴さんの顔を見ると、彼女はすっかり呆気にとられてしまっていた。それに構うこともなく、次の言葉が私の全身を突き動かした。
「私、心晴さんのそういうところが大好きです! 心晴さんに影響されて、私もいろいろ頑張ってみようって思えたんです。心晴さんのおかげで私は変われたって言ってもいいです!」
彼女の背中を見て、何かに打ち込むことを覚えた。趣味を作ることの楽しさを教わった。そして、同じ形の夢を誓い合った。ここに来て一番影響を与えてくれた人を選べと言われたら、きっと私は心晴さんを選ぶだろう。彼女と出会って、生きていて楽しいと思えるようになったんだ。
だから。
私は最後の言葉を紡ぐ。
「だから……あんまり、下向かないでください……!」
気がつけば、頬を一筋の涙が伝っていた。自分でもどうして涙が流れるのかは分からなかったが、それを拭くことはしなかった。
ぼやけた視界で、彼女をまっすぐ見据える。これが今の私が伝えたい全てだった。
「…………」
言いたかったことをぶちまけて、肩で息をする。相対する心晴さんは俯いたままじっとしていた。ぶちまけてなお収まらぬ感情を下ろした拳で握りしめながら、彼女の返答を待つ。
やがて彼女は、震えながらも顔を上げ、小さく呟いた。
「……ごめん。歩夢がそんなに怒ってくれるなんて思わなかった」
その瞳は少し濡れて、宝石のように輝いていた。そんな瞳を煌めかせながら、彼女は言葉を続けた。
「わたしは……歩夢の、そうやって他人のことを本気で心配してくれるところが大好き」
「…………!」
彼女の言葉に、今度は私が息を呑む。そうしている間にも、彼女は二の句を継ぎ続ける。
「自分のことなんて投げ捨てちゃうくらいにおせっかいで世話焼きで……そんな歩夢を見てたら、わたしも変わってみようって思えた」
ぼろぼろと零れていく言葉から、心晴さんの中にある感情が伝わってくるようだった。私と同じ色の感情だった。こんなに胸の底で熱い気持ちを感じているのは自分だけじゃない、そう思えた。
「夢を追いかけようとする歩夢についていこうって思ったのも、歩夢が心配だったから……昔なら、そんなこと絶対に思わなかったのに。それだけ、歩夢が大切だったから……!」
「心晴さん……!」
熱い気持ちに歯止めが利かず、気がつくと私の身体は心晴さんの体躯を抱きしめていた。温かな胸を抱き寄せれば、呼応して細い腕が背中に回される。
今、私たちはお互いの気持ちを共有し合っていた。
「歩夢のおかげで、わたしも変われた。歩夢のおかげで、毎日がすごく楽しくなった。……お互い影響し合ってたんだね」
「はい。……何だか、とっても嬉しいです」
私が心晴さんを選ぶように、心晴さんも私を選んでくれている。変わったのは私だけじゃなかったんだ。その事実がどうしようもなく嬉しくて、胸が躍るのをはっきりと感じている。
「わたし、もっと前向きに頑張ってみるよ。……そうでなきゃ、歩夢に失礼だから。いつか胸を張って歩夢の隣に並べるように、精一杯頑張る」
背中を抱きしめながら、彼女が小さく誓いを立てる。
「じゃあ私は、心晴さんに追いつかれないようにもっともっと頑張らないとですね。……ふふっ」
「もう、それじゃいつまで経っても並べないじゃん。……えへへ」
未だに零れる涙を我慢しないまま、お互いに笑い合う。
こうしてお互いの気持ちを伝え合って、またひとつ何かが変わったような気がした。心晴さんのくれたものが、私の一部へと変わっていく。そしてそれは、きっと彼女も同じで。二人の心が通じ合っていくのを、確かに感じた。
きっとこの先も、こうしてぶつかり合うことがあるかもしれない。けれど今の私には、それさえも楽しみに思えていた。ぶつかり合う度に、またお互いのことを理解できるから。
そして心を通じ合わせて、いつかはるかぜ荘の外へと旅立つ日が来る。その日がただただ待ち遠しかった。
仲良いのもいいけど時々こうやって口論になったり本音ぶつけたりしてほしい(願望)
さて、長かったはるかぜ荘もついに次週最終回です。次回も歩夢メインのお話です。よろしくお願いします。