□Episode 86: 繰り返す「好き」の言葉
今日もいつも通り仕事を終わらせ、大きく伸びをする昼下がり。例によってあたしは暇になり、何をしようか悩んでいる途中だった。
持ってたゲームはクリアしてしまったし、気まぐれに料理でも……という気分でもない。むしろ逆に、何かすることがあっただろうか。
「やること……やることなぁ」
そんな独り言を呟きながら、部屋の中をぐるりと見渡す。片付けていないままのマグカップ、扉が半開きのクローゼット、それなりに整理された本棚。一通り部屋の中を確認して、あたしは部屋の隅にケースにしまわれたままのギターに目を留めた。
そういえば、最近は全然ギターを弾けてなかったな。デジタルで作業するようになってから使う機会が減ってしまったのだ。昔は暇さえあれば触っていたものだが、今じゃこうして隅に追いやられてしまっている。
「…………」
じっとそのケースを眺め、短い溜め息と共に立ち上がる。今日のやるべきことは決まった。たまには自主練しないとな。
昔のようにギターを肩から提げ、ゆっくりと弦に触れる。弦を揺らす度に音が溢れて、その度に昔の感覚を少しずつ取り戻していく。いい気分だ。ギターに触っていると心が落ち着く。
時間を忘れ、ギターと共に鼻歌を歌っていると、不意に聞こえた扉をノックする音で現実に戻された。
扉を開けて来訪者を迎え入れる。そこに立っていたのはすずだった。
「あ……ごめんね、お仕事中だった?」
あたしが提げていたギターを見てか、申し訳なさそうな目でこちらを見上げるすず。気遣いはありがたいが、今はその必要はない。伸ばした手ですずの頭に手を置くと、柔らかい髪を撫でる。
「いいや、ただの自主練だよ。入っていいぞ」
「えへへ、お邪魔しまーす」
あたしに招き入れられ、彼女はベッドの上に腰を投げ出す。自室のようなくつろぎようだ。
それはともかくとして、ベッドに寝転がるすずに用件を尋ねる。
「んで、何しに来たんだ?」
「何しに?」
あたしがそう尋ねると、彼女はきょとんとした顔で質問を返した。頭上にクエスチョンマークでも浮かんでいそうなノリだ。そんな様子を見せたかと思うと、彼女は特に悪びれることもなくあっけらかんと言葉を放った。
「別に何でもないよ? ちょっとごろごろしようかなって思っただけ」
「はあ……?」
そんなことをあっさりと言われ、思わずあたしは答えに困ってしまった。
すずの考えている事って、いまいちよく分からないんだよな……。何もかもが気まぐれというか、実は何にも考えていないんじゃないか、とさえ思うこともある。もう一緒に過ごして七年になるけれど、未だに分からないことの方が多いと言っていい。もしすずの内面を覗き込んだとしたら、奥が深すぎて落っこちてしまいそうだ。
「んじゃあ、自主練しててもいいんだな?」
「うん。すずはここでのんびりしてるね」
そういうことなら、すずに遠慮する必要もない。先ほどまでの感覚を思い出して、ギターを掻き鳴らす。そうして何曲か弾き終えたところでピックを扱う手を止めた。腕を伸ばし、ゆっくりとストレッチする。
しかし、少し触らないうちにちょっと指が鈍っちまったかな……。前はぶっつけ本番でも弾けていたフレーズをすっかり忘れてしまっていた。ちゃんと練習しておかないとな。いつ何時ギターが必要になるか分からないし。
そんなことを考えながら教本を眺めていると、不意にすずの鼻歌が意識に割り込んできた。そのメロディーに聞き覚えがあり、思わず顔を上げる。
「すず……その歌、まだ覚えてたのか?」
すずの歌っていたその歌は、あたしが五年前くらいに作った歌だった。歌もギターも下手くそで、歌詞もあまり人には聞かせられない頃の歌だ。これを歌っていた時はすずは七歳くらいだったと思うが、よく覚えているものだ。
あたしの声に反応して彼女は視線を上げ、答える。
「うん。だって依織、昔ずーっとこれ歌ってたでしょ?」
「昔……そういえば」
あたしの脳内にまたも昔の記憶が蘇る。
今見返せばひどい出来だったと思うけど、出来た当時は「最高傑作だ」とか何だとか思ってずっと歌っていたっけ。歌詞の意味も分からないようなあの頃のすずと一緒に歌っていたこともあったっけ。その時の歌を、すずが未だに歌っている……何だか不思議な感覚だ。懐かしい感覚になったが、それ以上にすずがそんなことまで覚えていたことに驚きだ。
「すずは本当に記憶力がいいよな」
何の気なしにそう言うと、彼女はつんと口を尖らせる。どうやらお気に召さなかったようだが。
「別に、何でもかんでもそうってわけじゃないよ。時々忘れちゃうこともあるし」
「そうなのか?」
すずはいろいろなことを覚えていて、ことあるごとにその知識が飛び出してくるイメージだったが。あたしが疑問の表情を浮かべると、彼女はいたずらっぽく笑った。
「でもね、依織のことはいっぱい覚えてるよ?」
「……そ、そうか」
先ほどと同じように、とんでもないことをあっさりと言われてしまい、あたしはまた返答に困ってしまった。すずのことはやっぱりよく分からない。
そんなあたしなどお構いなしといった風に、彼女は素早く二の句を継ぐ。
「例えばさ、夜中までずっとギター弾いてて櫻に怒られたこととか、路上ライブのチラシいっぱい持って帰ってきて落ち込んでたりしてたこととか、それと、あと……」
「わーわー、もういいって! 分かったから!」
焦ってすずの勢いを手で制する。このままだと聞きたくないことまで言われそうだ。あたしにだって思い出したくない過去のひとつやふたつくらいある。そんなことを喋られた日には、先一週間くらいは寝込んでしまう自信がある。流石にそれは避けたかった。
「むー、依織の意地悪」
「ったく、もう……」
懲りないすずに、大きく溜め息をついた。悪気があってやっているわけではないのが質が悪い。いつものすずのパターンだ。
「ほんと、すずはいろいろよく見てんだな……」
感心を通り越して呆れが芽生えてくるレベルだが。あたしがぼやくと、彼女はそれに応えてにっこりと笑った。
「うん! だってすず、依織のこと好きだし」
「なっ……」
思いがけないことを思いがけないタイミングで言われて、思わず心臓が跳ね上がるような感覚に襲われる。そんなあたしとは対照的に、すずの方はあっけらかんとした様子だ。満面の笑みなのが余計に緊張してしまう。
「そ、そうか……そりゃ嬉しいな」
とりあえず平静を保とう。こんな年下相手に動揺していたら何も出来なくなってしまう。あたしは何も感じてない、あたしは何も感じてない、あたしは何も感じてない……。
しかしそんな努力など水の泡とでも言わんばかりに、すずはあたしの目をじっと見つめてきた。
「依織は、すずのこと好き?」
「…………」
視線がぶつかり、そこから目をそらせなくなってしまう。真実を映す水晶玉のような瞳に覗かれると、どんな嘘を吐いたってすぐに見破られてしまいそうに思える。すなわち、ここで言えることはひとつだけだった。
「……好きだよ」
あたしが振り絞った声は、自分が思うよりずっと小さかった。蚊の羽音にも満たないような声量で、自分の気持ちを伝える。
「ええー、声小さいなあ」
「しょうがないだろ、いきなりなんだから!」
今度はちゃんと腹から声が出た。からかうすずの髪を乱暴に掻き撫でて、手を止める。ボサボサの髪でこちらを見るすずの表情は、これ以上ないくらいに幸せそうだった。
そうして彼女は歯を見せて笑うと、あたしの膝の上に乗ってきた。こちらを仰け反って見上げるポーズで、甘えるような声を出す。
「ね、好きだってもっかい言って?」
「……好き」
「もっかい!」
「ったく、もういいだろ……」
そんなやりとりを繰り返しながら流れていく時間を過ごす。その間にも、すずはずっと幸せそうなのだった。
それが終わって少し落ち着いた頃、思い出したかのようにすずが口を開く。
「すずね、依織に出会えてほんとによかったって思ってるんだ」
「そ……そうなのか?」
不意に放たれた言葉にまた動揺しそうになるものの、今度は平静を保って答えを返す。
あたしのその返答を聞くと、彼女は振り返って嬉しそうに微笑んだ。
「だってすず、依織にいろんなこと教えてもらったもん。依織が教えてくれたから、今のすずはここにいるんだ」
「…………」
彼女の言葉に、胸を思い切り衝かれたような錯覚に襲われた。
すずのことが分からないなんて思ったけれど、本当は分かろうとしていなかっただけなのかもしれない。こんなにすずはあたしのことを思ってくれているのに。すずがあたしのおかげだって言ってくれているのに。あたしと来たら……少し恥ずかしい。つい一時間前までの自分の考えを深く恥じた。
そうして再び彼女の両眼を見つめると、その身体を優しく抱きしめた。まだ幼い体温が服越しに伝わってきて、あたしを温かな気持ちにしてくれる。
「あたしもすずに出会えてよかったよ。心からそう思う」
あたしの言葉が今のすずを創ったのなら、今のあたしはすずの全てから創られたと言ってもいい。すずの声、すずの笑顔、すずの――。彼女と過ごして出会った全ての出来事が、ギターさえあればいいなんて思っていたあたしの心を変えてくれたんだ。
「えへへ、じゃあ一緒だね」
「ああ……一緒だな」
彼女の髪を梳いてやる。今度は優しく、母親が我が子にするように。そしてまた抱きしめる。今はただ彼女が愛おしかった。
「そうだ、ちょっと歌おうぜ。すずの好きなやつ弾いてやるよ」
「やったー! じゃあね、じゃあね――」
部屋の中に、ギターの音色と二人の歌声が響く。遠いあの日も共に歌った歌。七年分の思い出を乗せて、その歌は響き渡るのだった。
すずと依織で甘々なの書いたことなくね? と思って書きました。結果思った以上に甘くなって自分が悶絶しています