□Episode 83: 櫻と決意と食卓と
不気味なほどの静寂が自室を包み、まるで孤独の中に浮かんでいるような気分にさえなる深夜の時間。作曲の仕事でやり残したことを終わらせるため、あたしは夜遅くまで自室のデスクに向かっていた。
「これでよし……と」
エンターキーを軽く叩いて、軽く溜め息をつく。部屋の中が静かすぎて、それらの音すらも反響しているような気がしてくる。……なんて、あたしらしくもない考えだな。静寂や孤独は人の五感を狂わせるものだ。
側に置いた時計は、既に午前一時半を示している。最近のあたしにしては珍しく仕事をしすぎてしまったみたいだ。完全に狂ってしまう前に、あたしも眠るとしよう。
歯を磨くためにリビングに出たが、ここでも相変わらずの静けさが大気を満たしている。歩夢も心晴もすずもすっかり寝静まって、あるいは自室でひとりの時間を過ごしているのだろう。櫻は……そういえば、櫻はどうしたっけ。たしか「遅くなる」とか言って出て行ったきりだが、まだ帰ってきてないのか。
あたしがそんなことに思いを巡らせていると、不意に玄関の方から物音がするのが聞こえた。がちゃり、と鍵を回す音が聞こえて、それに扉のきしむ音と鈴の音が続く。櫻が帰ってきたのだと思い、そちらへ足を運ぶ。
「おかえり、櫻。遅かったな」
「…………」
果たしてそこに立っていたのは櫻だった。しかし、普段なら明るく笑顔を返してくれるはずの彼女は何も言わない。それどころか、彼女はあたしの目を見るなり玄関に崩れ落ちてしまったのだった。突然のことにうろたえ、とっさに彼女の身体を抱きかかえる。
「おっ、おいおい、どうしたんだよ!?」
「うぅ……依織ちゃん……」
彼女の表情はすっかりしおれてしまっており、いつもの活気に満ちあふれた櫻の姿は見当たらない。息も絶え絶え――という表現が正しいのかは分からないが――とにかく憔悴しきった様子の彼女は、精一杯に声を振り絞って言葉を紡ぐ。
「依織ちゃん……あのね、私……」
「む、無理しなくていいからな!」
こういうとき、あたしはどうしてやればいいのだろうか。脳裏に様々な知識がよぎり、しかしそれらのどれも今すべきことではないと思い、思考回路がぐちゃぐちゃになる。結局今のあたしにできることはと言えば、彼女の言葉を一言一句聞き逃さないよう耳を澄ませることだけだった。
そして、彼女は残った体力で一言だけ呟いた。
「……お腹空いた…………」
* * *
「……ふぅ……ありがと、助かったわ」
「そりゃ良かった。どういたしまして」
それから十数分後。コップ一杯の水と今日の残りのご飯を掻き込んで、櫻は平静を取り戻したのだった。そんな様子を横目に見ながら、あたしはさらなる食事を作るべくキッチンに立っていた。
しかし、あれだけ櫻が倒れてたのがただの空腹だったとは。心配して損した気分だ。そんなぼやきも、目の前でぐつぐつと音を立てる鍋にかき消されて、櫻の耳には届かない。
「ほらよ、お待たせ」
やがて料理が完成し、食器に盛り付けて櫻の前に置く。と言ってもパスタを茹でて、そこにレトルトのソースを掛けただけのものだが。こんな料理でも腹を満たすくらいには十分だろう。
「ありがとう……いただきまーす」
よほど待ちかねていたのか、器が目前に置かれるなり彼女はすぐさまフォークを取ってパスタを口に運び始めた。まるで見境のない子どものようだ。相当腹が減っていたらしい。
そんな調子なので、十五分もしないうちに器は空になってしまったのだった。最後の一口を飲み込んで、櫻はじっと皿の底を見つめる。その表情から、あたしは彼女の物足りなさを感じ取った。
「……その様子だと、もうちょっと食べたいって感じか?」
「うっ、分かっちゃった……? ごめんね、依織ちゃんにばっかり迷惑掛けちゃって……」
櫻は驚きに肩を震わせると、心底申し訳なさそうな様子を見せて苦笑いした。対するあたしはというと、今更そんなことかと呆れにも似た感情を覚えていた。
「そんなの気にしなくていいのに。あたしだって櫻に迷惑掛けてんだから、その分のお返しって事でいいだろ」
「で、でも……」
あたしの説得になお逡巡する櫻。人の優しさに素直じゃないところは歩夢とよく似ている、ような気がする。人は似るものだな。
ばつが悪そうに佇む櫻をたしなめようと、その繊細な髪を撫でる。
「あたしがしたくてやってるんだからさ。人の優しさくらい素直に受け取っとけ」
「…………」
髪を手で梳きながら、彼女の反応を伺う。お互い何も言葉を発さず、妙な静寂の時間が二人を包み込む。
彼女は小さく俯いて何かを考えている様子だったが、やがて顔を上げるとその温和な瞳を細めた。
「……うん。……ありがとう、依織ちゃん」
ぽうっと、櫻の周りだけがやけに明るくなったように感じる。その笑顔は以前にも見た、少女のような純粋無垢な笑みだった。
その笑顔を心に留めつつ、再びキッチンに戻る。まだ残っていたご飯をよそって、冷蔵庫から適当なものを見繕ってお茶漬けを手早く作る。
「はいよ、食べな」
「ありがとう。……えへへ、美味しい」
そのお茶漬けも、先ほどと同じようなペースで口に運ばれていく。口の中火傷したりしないんだろうか。そんな様子を眺めてぼんやりと考えつつ、脳内思考の話題は別のものへと変わっていく。
櫻の奴、帰りが遅くなるとしか言ってなかったけれど、一体何をしていたんだろうか。おまけにこんな腹を空かせて帰ってくるなんて。何か危ないこととかじゃないといいんだが……。
胸の内にふと生まれた懸念は、どんどん思考のスペースを占領していく。膨れ上がって仕方がないので、胸の内を悟られぬようにそれを吐き出した。
「なあ櫻、お前何してたんだ?」
そう問いかけると、椀に食らいついていた櫻の顔が上げられる。その顔は何と答えたらよいものか、とでも言うようなばつの悪そうな表情をしていた。
「いやぁ……ね。帰り道にお腹空いちゃって、でもお金勿体ないからコンビニ寄るのは我慢しようって思って……そしたら我慢できなくなっちゃって」
「いや、そうじゃなくて」
そう言った声が、自分でも驚くほどに真剣なトーンをしていたことに気がついた。しかしそれを修正するつもりはなかった。聞きたいのはそんな言葉じゃなくて。自分の意図が伝わるよう、言葉を変えてもう一度問う。
「こんな夜遅くまで何してたんだよ」
「……依織、ちゃん?」
櫻の表情が、面食らったように固まった。彼女が何かを言い返そうとしたような気がしたが、あたしの声は止まらなかった。
「あたし、心配だったんだぞ。何か危ないことに巻き込まれてたりするんじゃないかって思った」
どこまで行ったって櫻はただの一人の女性にしか過ぎないし、本人は自覚していないだろうが、櫻は……結構美人だし、スタイルも良いし。きっとこんな女性が夜の街を歩いていたら振り向いてしまうだろう。そんな櫻だから、悪い奴に話しかけられないとも限らなくて。ぐちゃぐちゃになった思考回路が焼け付くのを感じる。
「櫻になんかあったら……あたし、耐えられねえんだよ……!」
「…………」
下ろした拳を強く握りしめる。櫻の顔はもう見ていなかった。今はただ、自分の感情を制御することに精一杯で。その拳がズキズキと痛んで、ようやく自分が熱くなりすぎていることを自覚した。
握った指を離す。火照ったような熱が、手の中に残っていた。
「……悪い。熱くなりすぎた」
きっと、今の自分はみっともない表情をしている。そんな顔を見られたくなくて、櫻から顔を逸らすように椅子に座った。
それからしばらく、お互いに沈黙の時間が流れる。あたしにしては珍しく感情をあらわにしてしまい、そこから何を言っていいのか分からなくなってしまった。櫻を怖がらせてしまっただろうか。あるいは怒らせてしまっただろうか。そんな止めどない感情が胸の内に溢れてどうにかなってしまいそうだ。
……だけど、ずっと黙っているわけにも行かない。まずは、この気持ちを落ち着けて櫻と目を合わせられるようにしないと。ゆっくりと深呼吸をする。吸って、吐いて、また吸って。うん、だいぶ頭が冷えてきた。それから意を決して櫻の顔を見ると、彼女は申し訳なさそうな表情をしていた。
「……ごめんね。不必要に依織ちゃんを心配させちゃったね」
「いや……こっちこそ悪かったよ。櫻にも櫻の事情があるもんな」
あたしがそう言うと、彼女は何かを思索するような素振りを見せて黙り込んだ。何も言うべきことがなくなったあたしは、彼女の口から言葉が語られるのを待つ。そして彼女も何か決心したような目をして、その唇を動かした。
「実はね、歩夢ちゃんを迎えてだいぶ余裕もできてきたし、また困ってる子がいないか探そうと思ってて……」
「……それは、あたしにしたみたいに、か?」
彼女が頷く。あたしや心晴、歩夢に手を差し伸べたときと同じように、彼女はまた誰かに手を差し伸べようとしているのか。
「なんだそんなことか」と言おうとした自分の口を封じる。あたしが感情をあらわにするほど心配したのは事実だし、「なんだそんなことか」と思ってしまったのも事実だが、櫻にとってはそうではない。彼女にとっては、この深夜の外出は他に代えがたい大事なものなのだ。……歯がゆいことに、その意図はまだ知ることはできていないのだが。
櫻が黙っている間に、あたしはじっとひとり思索にふける。櫻の意思は尊重したい。けれど、結局心配なのは変わらない。相反するジレンマがあたしを両側から苛むが、あたしの答えは既に決まっていた。
「……じゃあさ、今度から出かけるときはあたしも連れてってくれよ」
「えっ?」
そう言うと、櫻はその答えは想定していなかったと言うように目を丸くした。それには気がつかない振りをして、あたしは言葉を続ける。
「これは櫻だけの問題じゃなくて、はるかぜ荘のみんなに関わる問題だ。そうだろ?」
櫻は小さく頷いた。そうしている間にも、あたしの口は言葉を生み出し続ける。
「それで、そのはるかぜ荘の問題を、あたしにも決めさせてほしいと思ってるんだ。……櫻だけが背負うんじゃなくってさ」
「…………依織ちゃん」
相反するジレンマに対するあたしの答えはそれだった。櫻が抱えるべき問題があるのなら、あたしはその一片でもいいから背負ってやりたい。そうすれば、少しでも櫻は安心できるし、安全だから。
「櫻はあたしのことまだ子どもだと思ってるんだろうけど、あたしだってもう二十五なんだぞ。櫻の役にだって立てる」
無駄にとげとげしくて、無意味に反抗していたあの頃とは違う。ちゃんと自分の足で立って、冷静に判断できる。少なくとも自分の中ではそうだ。ただ守られているだけのあたしではない。
櫻は再び何かを考えていたが、やがてゆっくりと微笑んだ。
「……そうね。私、依織ちゃんのこと誤解してたかもしれない」
その微笑みは優しそうに見えたが、その裏にはどこか悲しさが混ざっているような……いや、あたしが気にしすぎなだけかもしれないが。
そんなことを考えていると、彼女はその微笑みを真剣な表情に変えて二の句を継いだ。
「……でも、私に付き合うって事は、依織ちゃんにもいろいろ背負わせちゃうかもしれないって事。それでもいいの?」
その真剣な表情はが、あたしを拒むために作られたものではないことはすぐ分かった。それなら、答えはもうとっくに決まっている。今度こそ「なんだそんなことか」だ。
「ああ。あたしは櫻についていくって決めたからな」
「……!」
あたしの意思は既に固まっている。櫻に尽くすことができるなら、それ以上に嬉しいことはないから。あとは櫻が受け入れてくれるのを待つだけだ。
「……ありがとう、依織ちゃん」
彼女はわざわざ椅子から立ち上がって、あたしの身体を抱きしめた。その身体は、小さく震えていた。
「どういたしまして。……よろしくな、櫻」
「うん。……ずっと、ね」
震える声に応じて、あたしは彼女の身体を抱き返す。
櫻について、あたしの知らないことはまだたくさんあるだろう。もしかしたら分かった気になっているだけかもしれない。それでも、彼女の側にいてやりたい。櫻のためなら、地獄の底へだってついていってやる。なぜなら、櫻のことが好きだから。
「さ、寝るぞ。明日も早いんだろ?」
「……ふふっ。そうね」
そんな決意を胸に潜めながら、あたしは櫻の髪を撫でたのだった。
依織→櫻の愛は結構重たいと思います。もちろん自分の夢も大事だけれど、それ以上に櫻に幸せでいてほしいというか、何というか。いつか身体壊しそうですね……。