△Episode 82: 朝焼けと寒空の散歩道
カーテン越しに柔らかく差し込む光にまぶたをくすぐられ、今日も穏やかに目を覚ます。ゆっくりと身体を持ち上げ、寝癖で乱れた髪を手で梳く。今日初めての呼吸で肺をいっぱいにすると、わたしは大きな伸びをした。
「んぅ……」
伸びと共に欠伸がひとつ。今日はいつになくすっきりとした目覚めだ。いつもより眠くないし、身体も軽い。こうして思考も明瞭だ。こういう目覚め方をした日は、何となく良いことがありそうな予感がする。
さて、今日はゲームでもしようかな。いつものように左に髪をまとめると、光を取り入れるべくカーテンを開いた。そこで違和感に気がついた。
「……あれ、まだ暗い」
ここから見える空は、いつもならバケツでもぶちまけたかのような澄んだ水色をしているのに、今日はまだ山の向こうが白みきっていない。おかしく思って携帯を確認して、わたしは思わずひっくり返りそうになった。
「ご、五時……っ!?」
残っていた眠気が一気に吹き飛んだ。わたしがこんな時間に目覚めるなんて、地球が滅びてもあり得ない。昨日は特段早く寝たわけでもないし、謎すぎる。仕方ない、もうちょっとくらい眠ったっていいはずだ。良い眠りはコンディションを高めるからね。
そんなことを思いつつもう一度厚手の布団を被ったのだが、わたしに眠りが訪れることは一向になかった。
「全然寝れない……」
寝る気はあるのに、目がすっかり冴えて身体の方は全く寝させようとはしてくれない。というか、そもそもすっきりとした目覚めだったし、それでもう一度眠れと言う方が無理な話だ。どうしたものか。
しばらく悩んで、諦めて身体を起こしたのだった。仕方がない、何か暇つぶしでもするとしよう。とりあえず今は水が飲みたい。
飲み物を求めてリビングへ出ると、そこによく見知った人影があるのに気がついた。それはわたしの立てる物音に気がつくと、こちらを振り返った。
「あれ、すず……? 何してるの?」
「心晴こそ、こんな時間に起きてくるなんてどうしたの? 徹夜したとか?」
人影――すずは、わたしの顔を見るなり怪訝そうな顔をして問いかけた。朝一番で失礼な奴だ。
「うるさいなぁ……ちょっと早起きしすぎただけだよ。寝ようと思ったけど、寝れなくって」
それを聞くと、彼女はいつものいたずらっぽい表情を見せてけらけらと笑った。
「んじゃ、すずと一緒だね。たまーに早起きし過ぎちゃうことってあるよね」
「そうかな……」
遅寝遅起きが基本のわたしにはよく分からない感覚だ。すずとの会話を切り上げると、マグカップに牛乳を注いでそれを飲み干す。寝起きの乾いた身体に冷たさが染み渡っていく。良い目覚めだ。
それから特にやることもなくリビングでぼんやりとしていると、すずが不敵な笑みを浮かべながら隣に座った。彼女がこういう顔をしているときは、大抵ろくでもないことを考えているときだが。
「……どうしたの?」
「やることないならさ、ちょっとお散歩しない? って思ってさ」
「えっ?」
ほら、今度もやっぱりろくなことじゃなかった。突拍子もないその提案に、わたしは思わず呆けた声を出してしまった。
「怒られるんじゃないの、それ」
「大丈夫だよ! みんなが起きてくるまでに帰ってこれれば良いんだから」
本当かなあ。わたしが外に出たくないとかじゃなくて、純粋にこんな時間に外出しても良いのかためらわれる。遠回しにそういうことを伝えるも、彼女はその純粋な目の色を変えようとはしない。何なら、わたしを放っておいてすぐにでも外へ出て行きそうな調子だ。
「ね、いいじゃん?」
「うーん……しょうがないなあ」
仕方ない。勝手に出て行かれて何かあっても困るし、ここは年長者として着いていくべきなのか。
溜め息を吐くと、着替えを探しにいったん自室まで戻るのだった。
そして、はるかぜ荘の玄関前。すっかり準備を整えたわたしたちは、少し明るくなってきた空の下に佇んでいた。当たり前だけれど、まだ冬も明け切っていないので非常に寒い。早朝とあってはことさらに寒さを感じる気がする。
「はあ……寒すぎ」
「これくらい何ともないでしょ?」
何ともないのはすずくらいだよ。そんなことを胸の内でぼやきつつ、散歩を始めるべく重い足を動かし始めたのだった。
歩き始めてまず最初に気がついたのは、人通りがほとんど少ないこと。時々通るこの通りも、昼間なら様々な人が横切って賑わっているのに、今は閑散としている。たまに見る人も犬の散歩とか朝一のジョギングとか、そういう人たちだけだ。
「人、全然いないね」
「朝だからね。朝のこの辺はいつも人通り少ないし」
いつも、という言葉がすずの口から飛び出した。何だかその言葉が意外であるように思えて、思わず質問を返す。
「……いつもこの時間帯に外出てるの?」
「たまにね。早起きしたときはやってるんだ」
それに対する彼女の答えは実にあっけらかんとしたものだった。悪びれることもなく、淡々とその事実だけを語る。何というか、すずは少し不用心すぎるような気がする。それともわたしが不安症なだけなのか。
「女の子がひとりでって……危ないよ、やっぱ」
もやもやとしたものを抱えながらそう応えると、今度は彼女の方がわたしを見て目を丸くした。それこそ意外だと言わんばかりの、驚きと少しの困惑の表情だ。
「心晴がそんなこと言うなんて珍しいね? どういう風の吹き回し?」
「…………」
言われてみれば、確かに。わたしが他人の心配をして世話を焼くなんて、らしくない話だ。そう思うと、急に自分の言ったことが恥ずかしいことのように思えてきて、わたしはぷいっと顔を逸らした。今は少し顔を見られたくない気分だ。
「……別に。一般論だよ」
「何それ。変なの」
すずがおかしそうに声を上げて笑った。それを無視するようにして、すっかり寂しくなった街路樹を眺める。気分転換のために、何か別のことを考えるように心がけるのだった。
そんなわたしを嘲るように、冷たい風が頬をひっかく。冬も、寒いのも、嫌いだ。寒さに当てられていると、どこかもの悲しい気持ちになる。なんでだっけ。思い出せないや。
そんなことを思っていると、そんな集中状態を突き破るように不意に腹の音が鳴った。それは早朝の静寂と相まって、いつもより大きく聞こえたような気がした。
「……お腹空いたな」
「あはは。何も食べてなかったもんね」
そういえば朝から牛乳しか飲んでいなかった。道理でお腹が空くわけだ。何か食べてくればよかったな……。
「ちょうどコンビニあるし、何か買っていこうよ。お金持ってる?」
「ちょっ、わたしにたかる気……?」
でもまあ、ここはわたしがお金を出してやるべきか。年長者として、ね。高い買い物にならなければいいけれど。
結果としては、わたしが豚まんを、すずが肉まんを買うことになったのだった。小計にして二四〇円。思ったよりは安い買い物だった。
中華まんの包みを受け取って、二人揃ってコンビニの前に座り込んでそれを頬張る。寒い冬にちょうど良い塩梅の温かさで、とても癒される。こうして誰かと一緒に並んで食べるというのも、何だか新鮮だ。
「……なんか、落ち着くなあ」
「だね。寒いときにはあったかいものに限るね」
温かくなってリラックスしたわたしの脳裏に、ふと昔の記憶が流れ込んでくる。そういえば、はるかぜ荘にやってきたのもこんな寒い日だっけ。寒空の下、急に左右も分からない街の中へ放り出されて。目の開かない仔猫みたいに震えて、希望なんて見えなくって。そうだ、思い出した。あの頃から寒いのが嫌いなんだった。
……でも今は、こんな寒い日でもみんながいてくれる。こうしてみんなと温かいご飯が食べられるから。今は、寒いのも怖くない。歩夢や、すずや、みんなに感謝しないとな。
「……こうしてると、嫌なことも悩みも、全部どっか行っちゃうね」
「何? 悩んでるの? すずが聞いたげよっか?」
何を思うでもなくそう呟くと、すずが待ってましたとばかりにしたり顔をして答えた。別にすずに向かって言ったわけじゃないんだけどな。それに悩んでるわけじゃないし。あるとすれば、もうとっくの昔に解決した悩みだけだ。
「別に悩んでないし。ただの例えだよ」
「なーんだ。つまんないの」
不満げにすずが口を尖らせた。こっちだって、悩んでたってすずにだけは相談したくない。
そんなくだらない会話を繰り返しているうちに、温かかった肉まんも食べ終わってしまった。そうなってしまえば、もうここに留まっている理由もない。すずが勢いを付けて立ち上がると、こちらを振り向いて手を伸ばす。
「さてと、食べ終わったことだし帰ろっか?」
「うん」
その手を取ることはせず、自分の力で立ち上がって、彼女の隣に並ぶ。そうして、どちらから促すでもなく来た道を帰るのだった。
「人増えてきたね」
「確かに。空もすっかり明るくなってる……」
携帯を確認すると、時刻は六時過ぎ。そろそろ櫻が起きてきそうだから、それまでには帰らないと。
帰路を並んで歩きながら、ぼんやりと考え事にふける。まさかわたしがこんな時間から散歩するなんて、思いもよらなかった。基本的に朝は弱いし、そうでなくても寝ている方が好きなのに。けど、こういうのも何だか悪くないかもしれない。こうして外を歩いているだけで、今日も良い一日になるような気がして。……それこそ、本当に気のせいかもしれないけれど。
知らなかったことをまたひとつ教えてもらった。すずにまた借りができてしまったな。
「ねえ、すず」「ん、どうしたの、心晴?」
ふと彼女の名前を呼んで、振り向いたその瞳をじっと見つめる。それは、闇を払ってしまうほどに純粋な輝きで満ちていた。そんな輝きに応えられるように、わたしも言葉を紡ぐ。
「またさ……こうやって、散歩してもいいよ」
またこうして平和な時間を過ごすことができるのであれば、きっと悪いものにはならないと思った。そんな、わたしのささやかな想い。
その言葉を聞いたすずはというと、いたずらっぽい笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「何それ。ツンデレ?」
「はぁっ!? 違うし!」
なんなんだその言い方は。わたしがせっかく本心を出して言ってあげたのに。
歩夢ならこういうときは「はいっ!」とか言って笑ってくれるのに、すずときたらこの期に及んでまでからかってくるなんて。ああもう、言って損した!
「……もう帰ろう! 櫻に怒られたら嫌だし!」
「もー、心晴ってば、待ってよー!」
むしゃくしゃしたまま、足早に、というかほぼ小走りになって帰路を急ぐ。今後はちょっとの弱音も本心もすずには見せてやるもんか。……でも、散歩するときはちゃんと誘ってやろう。その方が、ちょっとは寂しくないから。
そんな複雑な気持ちを心に抱えたまま、わたしはすずを振り切るようにして歩くのだった。
同じ心晴の妹ポジションでも歩夢とすずではだいぶ違いがあるんですよね。素直で従順な歩夢と、天真爛漫でからかってくるすず……羨ましいぞ心晴!