◎Episode 68: 希望と情熱
とある朝。私ははるかぜ荘の庭に出て、腕まくりをしているところだった。カレンダーも十一月になり、すっかり冷たくなった空気が私の肌を覆うが、そんなことに頓着している場合ではない。花壇のお世話は年中無休なのだ。
「よいしょっと……」
寒くなっても元気な植物は元気だから、ちゃんとお世話をしてあげないと。生命力豊かに生えた雑草を一本ずつ丁寧に抜いていき、それが終わったら今度はジョウロいっぱいに汲んだ水を振りまいていく。花びらから落ちる水滴が輝いていて気持ちよさそうだ。思わずこっちも気分が高まってしまう。
「ふんふふーん……♪」
思わず鼻歌なんて歌ってみたりして。額には汗が浮かび、もうすっかり寒さは忘れてしまったのだった。
そんなことをしているうちに、いつもの作業は終わってしまった。
「……さて、と」
ひとつ息を吐き、気持ちを整える。
いつもならここでおしまいなのだが、今日は違う。今日は新しく買った花を植える日なのだ。どんな花を植えようかいろいろ考えて買った球根たち。綺麗に咲いてくれるといいなあ。
そう思いつつ作業を開始しようとすると、背後から何かの物音が聞こえてきた。反射的に振り返ると、そこには櫻さんとすずちゃんが立っていたのだった。
「歩夢ちゃんってば、今日も忙しそうね」
「櫻さん! すずちゃん!」
二人がやってくるなんて珍しい。何しに来たんだろう?
「窓から歩夢が見えたから様子を見に来たんだけど……散らかってるね」
「あはは、ちょっとね……」
どうせ後で片付けるから、と思ってジョウロから何まで散らかしっぱなしだ。ちゃんと片付けておかないとなあ……。
「今日、新しく花を植えようと思ってて。それでちょっと忙しいんです」
気を取り直して事情を説明すると、櫻さんは小さく頷いた。
「そういうことなら私も手伝うわ。すずちゃんもそれでいいわよね?」
「うん! すずは大丈夫だよ!」
「い、いいんですか……?」
完全にひとりでやるつもりだったから、二人の提案は想定外だった。思わず目を丸くしてうろたえてしまう。
「いいのいいの。こういうときは助け合い、でしょ?」
「櫻さん、すずちゃん……ありがとうございます!」
そうと決まれば早速作業に取りかかろう。軍手、スコップ、あとその他諸々……よし、全部三人分ある。
すずちゃんに必要な物を渡すと、心配そうな顔をして彼女が呟いた。
「やるのはいいけど……すず、花の植え方なんて知らないや」
「ふふっ、大丈夫だよ! 私が教えてあげるから!」
ぽん、と胸を叩く。花壇の手入れなら私の専門だ、胸を張って「任せて」と言える。
「そっか! よろしくお願いします、先生!」
「せっ、先生っ……!?」
そういえば、いつもはすずちゃんに教えられることの方が多かったっけ。それがこうして「先生」なんて言われると、何というか、むず痒い気持ちになる。
「あら、私からもよろしくお願いするわ、先生?」
「櫻さんまで! からかわないでくださいよぉ!」
大丈夫かな、これ……。
よし、再度気を取り直して作業スタートだ。すずちゃんに球根を植えるときのルールを教えて、実際に手本を見せてみる。思った通り、それを一回見ただけですずちゃんは手順を完璧に習得してしまったのだった。
「こんな感じ?」
「そうそう! やっぱりすずちゃんは吸収が早いなぁ」
「えへへ、それほどでも」
すずちゃんは謙遜するが、その手際はまさに目を見張るものがあった。てきぱきと規定の作業をこなし、あっという間に球根や種を植えていく。すずちゃん、やっぱり恐ろしい子……!
そして、大して時間も掛からずに全ての花を植え終えてしまったのだった。
「ふうー、終わったね」
「二人のおかげですぐ終わっちゃいました。ありがとうございますっ」
「どういたしまして。最近運動不足だったからいい運動になったわ」
当初はこれの三倍くらいの時間が掛かることを覚悟していたから、早めに終わってちょっと拍子抜けだ。どれもこれも二人が手伝ってくれたおかげだ。
ふう、と一息吐いて額から零れる汗を拭く。そんなことをしてぼんやりと花壇を眺めていると、すずちゃんが私の隣に座って問いかけた。
「そういえば、これは何を植えてたの?」
「これ?」
彼女は先ほど球根を植えていた辺りを指さして尋ねる。今思い出したけど、何を植えるとか言ってなかったっけ。
「これはね、スノーフレークっていうんだ」
「スノーフレーク?」
首を傾げるすずちゃんに丁寧に教えてあげることに。これは私の本領発揮だな。
「スノーフレークはね、春先に白い花を付けるんだ。ほら、こんな感じで……可愛いでしょ?」
「わあ……ほんとだ、可愛い」
球根が入っていた袋を取り出して、すずちゃんに見せてあげる。すると彼女は興味津々といった風にそれに釘付けになった。あのすずちゃんがこんな風に興味を示してくれるなんて、何だか嬉しくなってしまう。ちょっと調子に乗っていろいろ教えちゃおう。
「花言葉はね、『純粋』とか『皆を引きつける魅力』っていうのがあるんだ。なんかすずちゃんみたいだね」
「そ、そうかなぁ……えへへ」
少し照れたように笑いながら、彼女は愛おしそうにスノーフレークの球根が植えられた所を見つめる。少しでも愛着とか親近感を持ってくれたら嬉しいな。
「盛り上がってるわね。良かったら、私に合う花も教えてもらえるかしら?」
「櫻さん!」
先ほどまで私たちの様子を眺めていた櫻さんが、私たちの隣にしゃがみ込んで問いかけた。
櫻さんに似合う花か。何だろう。花壇を一通り見回して考える。
「うーん……あ」
そこでひとつの花に目が留まった。これなら櫻さんのイメージにちょうど合う。
「そうですね、カランコエなんてどうですか?」
指さしたのはカランコエ、寄り添うように咲く小さな朱色の花々だった。咲き乱れる可憐な花たちが櫻さんにそっくりだ。だけど、それだけじゃない。
「花言葉は『たくさんの小さな思い出』、『おおらかな心』……櫻さんにぴったりだと思うんです」
「確かに! 櫻、いつもにこにこしてるもんね」
それに、カランコエには『あなたを守る』っていう花言葉もある。深い愛情と優しさで寄る辺のない私たちを守ってくれる櫻さんに、本当によく似合っている。
「言われてみれば……そうかもしれないわね」
「櫻ってば、謙遜しちゃって」
「ふふふ、櫻さんは本当に優しいですから!」
しばらくそんなことを言い合って、再び私たちは花壇をぼんやりと見つめる。それぞれ何を考えているのかは分からないけれど、同じ時間を共にしていた。
私は……私は、好きな花の話をいっぱいできて嬉しかった。それに、少しは花に興味を持ってもらえたみたいだし。何だか朝からいい気分だ。
「なんか、自分に似てる花があるって思うと、つい気になっちゃうよね」
「そうね。何だか親近感が湧いてくる感じ」
そんなことを話す横顔を見て、私は少し嬉しくなった。花の魅力が少しでも伝わったみたいで何よりだ。どこか達成感さえ感じる。好きなゲームをおすすめしてるときの心晴さんもこんな感じなのかな。
「すず、花のお世話もしてみようかなぁ……」
「ほっ、ほんと!? ぜひぜひ教えるよっ!」
「わわわ、近いよ……!」
言葉を漏らしたすずちゃんに詰め寄る。思わず興奮してしまった。だけどそれくらい嬉しいのだ、私は。
「ふふっ、教えてもらったらいいんじゃないかしら?」
「私からもお願い!」
「な、なんで歩夢がお願いしてるんだろ……」
そんな他愛もないやりとりを続けながら、はるかぜ荘の庭は朝から賑やかに盛り上がるのだった。
「見てて思ったけど、やっぱり歩夢は花が好きなんだね」
「そうかなあ……そうなのかな」
談笑の中、すずちゃんが切り出す。その言葉に私は首を傾げた。あまり「好き」という言葉にピンときていないのだ。
好きなのは確かにそうだけれど、胸を張って「好きだ!」と言えるかというと。自分の中では何となくで始めたことを惰性で続けているような感覚だから、そういうところがピンとこない理由なのかもしれない。
「でも歩夢ちゃん、時々熱心に花のこと調べたり、ずっと庭に向かってたりしてるわよね」
「へー、歩夢ってばそんなこともしてるんだ」
「ま、まあ、ね……それほどでも」
純粋に目を輝かせるすずちゃんに思わず照れてしまう。やるからには枯らすわけにはいかない、それくらいの気持ちでやっていただけなんだけどなあ。
私の心中など知るよしもなく、彼女は言葉を続ける。
「すずね、そういうのが『好き』ってことなんじゃないかなって思うんだ」
「そうなのかなぁ……」
やはり腑に落ちない私に向けて、今度は櫻さんが口を開く。
「私もそう思うわ。最初は何ともなくたって、続けるうちに好きになることなんていくらでもあるもの。それに――」
「それに……?」
本当の母親のような笑顔を見せて、櫻さんは言葉を続けた。
「お花の話をしてる時の歩夢ちゃん、とっても『好き』って表情してたわ」
「…………!」
私が……そんな表情を……?
自分じゃ考えたことなかった。そっか……そうなんだ。私、そんな風に話してたんだ。今まで気づかなかったなんて、ちょっとバカみたいだ。
「……すずちゃん、私、今どんな顔してるかな」
「すっごく嬉しそう」
……だよね。すごく嬉しくて、飛び上がってしまいそうで。何だか、初めて自分を認められた気がする。今なら胸を張って言えそうだ。私は、花が好きなんだ。
――そんな折、三人の間に絞るような低い音が響いた。
「……」「……」
「えっと……あはは」
音の出所は私。緩みきった表情から一変、私は今までさらしていた顔を遮るように手で覆った。
「よく考えたら朝ご飯がまだだったわね。みんなでご飯にしましょっか」
「やったー!」
そうして私たちは花壇を後にする。今日は花のことを本当の意味で好きになれて、自分のことも好きになれて。最高の一日になりそうな、そんな予感がする。
「そういえば、歩夢は好きな花とかあるの?」
「私? 私はね――」
私たちを見送るように、赤いガーベラの花が静かに揺れていたのだった。
ようやく自分の「好き」に気が付きましたね。歩夢もちょっとは自信が付いた……かもしれません。