◎Episode 62: 努力の天才
今日もはるかぜ荘は呆れかえるほど平和だ。あまりにも平和すぎてやることがなくなってしまうくらいには平和だ。気がつくと五分くらいこうして天井を眺めていることもある。とにもかくにも、私の目下の課題はこの暇な時間をどうするかということだった。
何かをしようにも、すずちゃんは依織さんとお出かけ中だし、櫻さんはいつも通りお仕事だし。おまけに部屋にある本は全部読んでしまったし。あーあ、退屈だなあ……。
はあ、と今日何度目かの溜め息をついたとき、ふと心晴さんの顔が脳裏をよぎった。
「そういえば、心晴さんは……」
今日はまだ一回も顔を見ていないけど、どうしてるのかな。きっとゲームをしてるだろうし、私も混ぜてもらおう。天井を見るのもそこそこに、私は心晴さんの部屋へと向かうのだった。
「心晴さーん……?」
ノックして扉を開けると、いつになく心晴さんの部屋が明るいことに気がついた。いつもならもう少し薄暗くって、こんな部屋でゲームなんかしていたら目が悪くなったりしないかとハラハラしていたんだけど。というか、よく見ると今日の心晴さんはゲームをしている様子でもないらしかった。
「あ、歩夢……どうしたの?」
そんなことを考えていると、心晴さんがこちらに気がついて振り返る。やっぱりゲームをしているわけではないみたいだ。
「心晴さんこそ何してるんですか? てっきりゲームしてるのかと思ったんですけど……」
「今はね、絵を描いてたの……ほら」
そう言って、今まで向かい合っていたであろうスケッチブックを見せてくれた。そこには、心晴さんが好きだといっていたキャラクターが模写されていたのだった。今年の初めくらいに始めた絵の練習も今ではすっかり板についたようで、最初の頃に見た絵とは目に見えてクオリティが違う。
「わあすごい! ちょっと見ないうちにすっごく上手くなってるじゃないですか!」
「そ、それほどでもないよ……」
頭を掻いて照れる心晴さん。すごく上手いのは事実なんだから、もう少し素直に誇ってもいいのに。
「それほどでもありますよ!」
「も、もう知らないっ……! わたし、続き描くからね……!」
そう言って心晴さんはぷいっとそっぽを向き、また机に向かってしまった。カリカリとシャーペンの芯が削れる音だけが部屋に響く。私がその様子をちらりとのぞき込んでも、まるで私の存在を無視するかのように彼女は黙々とペンを動かしている。
「見ててもいいんですか?」
「……べ、別に、いいけど……」
彼女はこちらをちらりとも見ない。照れてるなあ。もうちょっとからかおうと思ったけれど、それは心の内に押しとどめて、心晴さんの作業を眺めているのだった。そうしている間にも心晴さんは黙々と線を引き続けている。一本一本の線が人間を形作り、大まかな完成図が予想できていく。目を離す間もない手早さだ。
すごい手際だなあ。私も練習したら、これくらい手早く描けるようになるのかな……。
そんなことを思いながら眺めていると、心晴さんは唐突に描いていたものを消しゴムで消し始めた。
「うーん、なんか違うな……」
「えっ、消しちゃうんですか?」
せっかくきれいに描けてたのに、消してしまうなんてもったいない。そんな私の態度も彼女は気にしないといった風だ。
「うん、なんかポーズが不自然な気がして……」
あれはどこにあったっけ、と本棚を探す心晴さん。程なくして「イラストポーズ集」と書かれた本を見つけ出してきた。イラストの資料みたいだ。心晴さんが探していた本棚に目をやると、他にもいろいろ資料が入っている。「手足の描き方」とか「顔と表情の描き方」とか。あんなのいつ買ったんだろう?
「……気になる?」
「えっ、あ、えっと……」
気がつくと、心晴さんの目がこちらをじっと見つめていた。ぼんやりしすぎていてすっかり心晴さんの存在を忘れていた。
「……読んでもいいよ?」
「えっと……じゃ、じゃあ……」
彼女のお言葉に甘えて、先ほどの「顔と表情の描き方」を手に取る。すると、特に力を掛けるまでもなくひとつのページが開いた。「表情の描き分け方」と記されたそのページには、机に広げて見ていたのか何度も開いた跡があった。他のページには細かな書き込みもしてあり、心晴さんの本気度が見て取れる。
「へぇ……」
やっぱり心晴さんも努力してるんだなぁ。こうやって資料を集めて、基礎を固めて。だからこそきれいに絵が描けるんだ。そう思うと、心晴さんのことを素直に尊敬したくなった。普段はだらだらしているところが目立つけれど、ゲームでも絵でも、やるときはちゃんと真剣な目をするところが好きだ。
「……な、何さ。ずっとこっちばっかり見つめて……」
「ふふっ、何でもないですよ?」
「その顔は絶対何か良からぬことを考えてる顔だよ……!」
良からぬことだなんて人聞きの悪い。私は心晴さんのことをすごいと思っているだけです。
「心晴さんは偉いですねぇ」
「もうっ、歩夢のバカっ……!」
からかいすぎたか、心晴さんは拗ねてまたぷいっとそっぽを向いてしまった。
そんなこんなをしているうちに、心晴さんの絵は完成ヘと着実に進みつつあった。線を重ねて、伸ばして……。その様子を私は後ろから見守る。
「――よし、終わり……っと」
そして、ついにイラストが完成したのだった。可愛い女の子の絵がスケッチブックに描かれている。そして彼女はそのページを破り取ると、側に置いてあったファイルに差し込んだ。
「ちゃんとしまっておくんですね」
「うん。いつでも最初を思い出せるように……ね」
初心を忘れないことが上達するのに一番大事だから、と彼女は呟く。その表情を見て、私は不意に考え込んだ。
「……どうしたの?」
「いや……何て言うか、心晴さんって努力家だなあ……って思って」
「えっ……?」
予想外の発言だったのか、彼女は気の抜けた声を上げた。目をぐるぐるさせて狼狽えている様子がちょっとかわいらしい。
「ど、どういうこと……?」
「あんなに上手いゲームだって暇があれば練習してますし、絵だって同じようにこうしてちゃんと頑張ってるんだよなあ……って思っただけですよ」
まさに千里の道も一歩からだし、たとえ遠くへ辿り着いたとしてもそのまま研鑽を怠らない。そんな心晴さんの趣味に対する真摯な姿勢が、私の目にはとてもかっこよく映った。
心晴さんを褒める私の態度とは逆に、彼女は顔を赤くして照れている。
「そ、そうかなあ……。わたしはただ、負けず嫌いなだけなんだけど」
「でも、負けず嫌いだからこそ努力できることもあるんだって、私は思いますよ?」
私は生まれてこの方、何かに熱くなるような体験をしたことがないから、心晴さんのことは少し羨ましい。心晴さんくらい負けず嫌いになれれば、もう少し何か変わってくるのかもしれないけど。
「わ、分かったから、あんまり褒めないで……」
そんな私の思いは、多分心晴さんには通じないのだろうけれど。もしかしたら、負けず嫌いなのも一種の才能なのかもしれなくて、心晴さんにはそれがあって、私にはなかったというだけの話なのかもしれない。
「……歩夢?」
顔色を元に戻し、心配そうにこちらを見つめる心晴さんと目が合った。ああもう、何勝手に心配させてるんだろう、私は。
ふう、と小さく溜め息をつき、心晴さんのベッドに腰掛ける。すると、心晴さんも吸い寄せられるように私の隣へと腰掛けた。彼女なりの気遣い……なんだろうか。
そんな心晴さんを横目に見ながら、私はぼんやりと言葉を呟く。
「……何て言うか、からかってるわけじゃなくて、本当に心晴さんのことはすごいって思ってるんですよ」
「…………」
ゲームはもともと上手かったけれど、最近は料理も絵も目を見張るくらいのスピードで上達している。すごいなあ、と純粋に尊敬すると同時に、どこか寂しさを感じるのは気のせいだろうか。
心晴さんと出会って仲良くなって、最初はどこか頼りなくて、私が付いていてあげよう、なんて思っていた。喩えるなら、私が心晴さんの手を握って一緒に歩いて行くような、そんな感じだ。けれど最近は、その手を心晴さんが力強く引っ張って、今にも走り出してしまいそうな勢いなのだ。
「心晴さんみたいな人のことを、努力の天才っていうんですよ、きっと」
「努力の……天才、かぁ」
努力をするのにも上手い人と下手な人がいて、心晴さんは前者なんだろう。努力をするのが上手い人は、私を放ってどんどん先へと進んでいってしまう。その差はどんどん広がるばかりだ。
「心晴さんのこと、すごく遠くに感じるんです。私の手なんか届かないくらい遠くに」
「…………」
ぎゅっと拳を握りしめる。自分でも悔しいのか悲しいのか分からなくなってきた。
するとその時、不意に心晴さんの手が私の手に重なった。握り込んだ拳を包み込むように、温かい両手が優しく置かれる。
「……わたしは、ずっと歩夢の隣にいるよ。歩夢がどんなだって、絶対遠くに行ったりなんかしない。……約束する」
「心晴さん……」
心晴さんと目が合うと、彼女は小さく微笑んだ。その時の笑顔は、いつもの心晴さんからは考えられないくらい優しくて、大人びていて。……時々忘れるけれど、心晴さんは私より三歳も年上なんだ。私の生きていない三年分、きっといろんなことを見て考えてきたんだろう。私なんかより、ずっと大人に違いない。
「……じゃあ」
「?」
……じゃあ、少しだけ甘えていたって、いいよね。
「……今だけ……少しだけ、一緒にいてください」
心晴さんの肩にもたれ掛かる。すると、彼女はその腕を背中に回して、私の身体を抱きしめてくれた。そしてそのままベッドに倒れ込む。見上げると。心晴さんの顔が少し紅潮しているのが分かった。
「……うん。一緒にいよ……歩夢」
心晴さんの小さな身体が私を精一杯包み込んでくれている。それだけで胸の奥がぽうっと温かくなるような、とても嬉しい気持ちになった。
「えへへ……大好きです、心晴さん」
もうずっとこのままでもいいくらいだ。そう思いながら身を委ねていると、心晴さんが不意に呟いた。
「あのね、歩夢……」
「何ですか?」
もう一度心晴さんの顔を見上げると、彼女は再び優しく微笑んでいた。
「……歩夢が本気になれるもの、探そうね。わたしも精一杯、手伝うから……」
「……!」
彼女の口から放たれたその言葉が、もうどうしようもなく嬉しくて。飛び上がって喜びたいくらいの嬉しさに身を湧かせながら、私もまた満面の笑顔で答えるのだった。
「……はいっ!」
はるかぜ荘は今日も平和で幸せだ。そんな幸せを噛みしめながら、私はゆっくりと目を閉じるのだった。
心晴の絵の初出が48話前(9か月前)、最後に絵について触れたのが14話前(4か月前・2回目)らしいですよ奥さん(今見返して気付いた)(今明かされる衝撃の事実)
これからはもうちょっとコンスタントに絵関連でネタ出しします……。
それはともかく心晴お姉ちゃん絡みで2話前にも同じことやっただろって? いいんですよこういう絡みが好きだから(マジレスすると次週にゆるく繋がります、よろしくお願いします)