□Episode 61: 長い長い散歩道
とある休日。自室のモニターを前に、あたしはぐうっと背を伸ばす。
「よし、これで終わりっと……」
今日も今日とて作業だったのだが、今回は珍しいことに早々に終わってしまったのだった。全身から力が抜けるのを感じ、思わず溜め息をつく。部屋の時計を見ると、針はまだ十時ほどを指していた。
「まだこんな時間か……」
窓の外を確認しても、太陽はまだ真上にすら上っていない。仕事が効率的なのは良いことだ。
さて、手持ち無沙汰になってしまった。誰か暇でもしていないかとリビングに出ると、ちょうど櫻に出会ったのだった。
「あら、依織ちゃん。どうしたの?」
「どうしたもこうしたも……ってか、櫻こそどうしたんだよ」
こちらを見た彼女の姿は、普段ならしないような装い……要するによそ行き用の装いだった。気合い入れて化粧もして、いったいどうしたのだろうか。
「普段ならそんな服着ないだろって思ってるでしょ」
「う」
ドンピシャだ。心の内をズバリ言い当てられて硬直した。何も言い返せなくなって目を逸らすと、彼女はおかしそうに吹き出して笑った。
「冗談よ。私だってそう思ってるもの、こんな服着るの久しぶりだわ」
「そうかよ……に、似合ってるぞ」
何を考えているのやら、いまいち掴み所がない。相変わらず櫻には振り回されっぱなしだ。
そんなあたしが苦し紛れに出した褒め言葉は気に留められることもなく、中空に消えていく。そうして、彼女は頃合いを見計らったように口を開いた。
「実はね、今から少しお散歩にでも出かけようと思ってて。よかったら依織ちゃんも一緒にどう?」
「散歩……?」
櫻から散歩なんて言葉が出てくるなんて珍しい。人のことを言えた口ではないが、櫻は仕事にいそしむタイプの人間だし、休日はしっかり身体を休めることに専念する人間だ。そんな彼女がわざわざ散歩とはこれ如何に。
何か思うところがあるのかもしれない。何かあっても嫌だし、放ってはおけないよな……。
「……分かったよ、一緒に行く」
「あら、ありがとう! 依織ちゃんがいれば楽しくなりそうだわ!」
「……」
……少なくとも今のうちは、とてもそんな風には見えないが。本心を隠し通すのが彼女の常だから、きっと今回もそんな感じなのだろうけれど。
暇そうにしていた歩夢に家を空けることを伝えて、あたしたちははるかぜ荘を後にしたのだった。
家を出た櫻は、あたしのことはお構いなしと言わんばかりにずんずんと歩いていく。歩幅がいつもの倍くらいだ。そんな彼女の後を何とか追いながら、あたしたちは会話をする。
「いい天気ねえ。これこそ散歩日和って感じね?」
「それはいいんだが、どっか行く当てがあんのか?」
あたしの質問を受けた櫻は不意に立ち止まる。そしてこちらを振り返ると、あっけらかんと答えてみせた。
「いや、ないわよ」
「ないのかよ!?」
完全ノープランなのにそんながっつりおしゃれまでしてきたっていうのかよ。櫻の感性がよく分からない……。
呆れるあまり硬直するあたしをよそ目に、櫻は楽しそうだ。まあ、櫻がいいならそれでいい……のか?
「風の向くまま、私の思うがまま……ってね?」
「はあ……とりあえずあたしはついてくよ……」
溜め息が出た。相も変わらず先行する櫻の背後で、少し考え事にふける。やっぱり今日の櫻は何かおかしい気がする。雰囲気が違うというか――。
「――あ」
櫻って、何かしらで弱ってるときは子どもっぽくなるんだったっけ。例えば酒に酔ってるときとか。それに、あたしに一度だけ見せてくれた少女のような微笑みも、ちょうど今のような感じだった。
やっぱり何かありそうだ。着いてきて正解だったな。
「あ、依織ちゃん、見て! あっちに――」
「ちょ、おい、待てって!」
……制御不可能なのはいかがなものかと思うが。そんなこんなで、暴走する櫻の後を追いかけて走るのだった。
結局、それからどれくらい歩いたのだろうか。住宅街を抜け、商店街を抜け、すでに一時間以上が経過しようとしていた。
そんな折、誰かの腹の虫が鳴る音が聞こえた。
「…………」
「……櫻」
「だ、だって仕方ないじゃない、歩きっぱなしだったし……」
空を見上げれば頭上で太陽が燦々と輝いている。家を出る前はもうちょっと傾いていた気がするんだが、もうこんな時間か。そりゃあ腹が減るのも無理はない。
「別に責めてねえよ。どっかで昼飯食べようぜ」
少し歩くと、おあつらえ向きに食事処が見つかったのだった。これ幸いと中に入り、注文をする。あたしは天ぷらそば。櫻は月見うどん。ふたつとも程なくして食卓に置かれたのだった。
「このうどん美味しい……! 依織ちゃんもどうぞ!」
「お、おう……ありがとうよ。あたしのも食べるか?」
「うん、いただくわ」
子どものような仕草で喜ぶ櫻。普段の櫻のイメージとはかけ離れているよな、なんて眺めながら思う。こんなおしとやかな女性がこんな表情をするなんて、あたしが少年なら一瞬で惚れてたかもな。
「櫻、口に天かす付いてんぞ」
「あれ? ありがとう……ふふっ」
口元に付いていた天かすを取ってやると、櫻が少しばつが悪そうに微笑んだ。
「……っ」
前言撤回。……櫻は男女問わず魅力的だ。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさま」
そうしているうちにそばを食べ終わり、店を後にする。腹一杯になったということで、心なしか足取りも陽気になる。さて、櫻はこれからどこへ向かうのだろうか。
「あ、依織ちゃん。あそこに公園が見えるし、少し休憩していかない?」
「おう」
と思ったらまずは休むらしかった。まあ、確かに食べた直後に運動したら気持ち悪くなりそうだしな。
中に入り、ベンチに二人並んで腰掛ける。休日の昼下がりということで、子どもたちが遊んでいるのが見える。
「いい天気ねえ」
「ああ」
そんな意味のないような言葉をひとつふたつと交わし、穏やかな時間が流れていく。腹がこなれたらまた出発しようかなどと考えていると、不意に肩に何かが当たる感触を覚えた。
「うん?」
そちらを見ると、櫻がぼんやりした表情でこちらにもたれかかっているのが見えた。さっきまであんなにはつらつとしていたのに、急にしおらしい感じだ。
「どうした、櫻?」
「えっと、ね……」
言葉をゆっくりと紡ぎ出すその様子は、何か言いにくいことでもあるかのようだった。急いてまで言葉を引き出す必要はない。彼女の口から思いが語られるまでしばらく待つ。
「その……私、少しだけ隠し事をしてて」
「……隠し事ね……」
焦らず、彼女が全て語り終えるまであたしは口出しをせずに待つ。
「最近、少し疲れ気味で。ちょっとだけでいいから、何も考えずに遠くまで歩きたいなあって思ってたの。散歩っていうのは嘘じゃないけど……面倒なことに依織ちゃんを巻き込んじゃったよね」
「…………」
なんだ、そんなことか。そんなのあたしの想定範囲内だ。ぷっと吹き出すと、少しだけ声を上げて笑った。
「……依織ちゃん?」
「気にすんなよ、櫻」
彼女を安心させようと、自分ができる一番の笑みを櫻に向けてやる。
「面倒だなんて思ってないし、あたしは櫻と一緒にいられて楽しかったよ。ありがとう」
本心だった。櫻と一緒にいられるだけであたしは楽しい。普段知ることのできない櫻の一面や、普段隠している思いを知ることができるから。それに、今日の態度を見てる限りだと、口ではああは言いつつも本当はあたしに甘えてくれているんだろうな。それがまた嬉しかった。
あたしの言葉を聞くと、彼女は今日一番の嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
「ありがとう、依織ちゃん……。私も、依織ちゃんと一緒にいられて楽しかった」
そう言って、小さくあたしの腕にすがるようにして抱きつく櫻。人目もあるし振りほどこうかと思ったが、彼女の笑顔を見ていると、とてもそんなことはできなくなるのだった。
そうして、二人だけの穏やかな時間が過ぎていく。
「……あのさ、櫻」
「依織ちゃん……?」
櫻と寄り添いながら、あたしはふと呟いた。そういえばまだ言っていないことがあったと体勢を変え、あたしに抱きつく櫻と向かい合わせになる。
「辛いことがあったらあたしに言ってくれよ。あたしにできることなら、何だってしてやるから」
「依織ちゃん……!」
彼女の頭を撫でる前に、今度はあたし目がけて思い切り抱きついてきた。衝撃でひっくり返りそうになるのをこらえ、彼女の身体を抱き返してやる。
「……本当にありがとう。私、依織ちゃんと一緒にいられて良かったと思うわ……」
恍惚とそう呟く彼女の髪を今度こそ撫でてやる。不意に駆け抜けた風が、髪に絡みついて香水の香りを舞い上がらせた。……良い匂いだ。
何だか、帰るのが惜しくなってしまうくらい幸せな時間だ。こんなに楽しい時間がずっと続いていればいいのに、なんて思ってしまう。無理な話だとは分かっていても、つい願ってしまうな。
「……帰りたくないなあ……」
あたしと同じ事を考えているのか、独りごちる櫻。しかし、彼女はその直後にベンチから立ち、こちらをくるりと振り向いた。
「――なんて、言ってる場合じゃないわよね! みんなも待ってることだろうし、そろそろ帰らないと」
「櫻……」
あたしの目には、その様子がどことなく無理をしているように見えて、思わず心配になってしまう。あたしの言葉はちゃんと彼女に通じていただろうかと。しかし、彼女はにっこりと微笑んでみせた。その笑顔の意味が分からず戸惑っていると、彼女は続けて言った。
「晩ご飯作り、私ひとりじゃちょっと辛いから……依織ちゃんも手伝ってくれる?」
「…………!」
……ああ、ああ。なるほどな。ずるい奴だ、櫻は。
あたしの言葉をそんな風に使ってくるなんて、そんな形であたしを頼ってくるなんて、本当にずるい。……けれど、その一言でたまらなく嬉しくなっているあたしが心のどこかにあった。
「もちろん。櫻のためなら、何だって」
伸ばされた手を取る。櫻と手を引きつ引かれつ、また歩いて行く。
櫻ははるかぜ荘の長だが、それ以前にまずひとりの人間だ。腹も減れば喉も渇くし、病気になれば休まねばならない。日々みんなのために頑張る彼女を全力で支えてやりたいと、本心からそう思った。
そんな決意を胸に、あたしは帰路を踏みしめるのだった。
ひっっっっさしぶりに依織と櫻をイチャイチャさせたかったので書きました(白状)