□Episode 58: あたしの宝物
今日も今日とてあたしの作業は深夜の時間へと突入する。早く終わらせてさっさと眠りたいところだが、どうにもこうにも納得がいかない。あたしの中の職人魂が「これではダメだ」と責め立ててくる。
「はあ……なんつーか、最近調子良くないよな……」
人生何度目かのスランプ……とは信じたくない。あたしの実力なんてまだまだひよっこレベルで、プロに及ぶべくもない。そんなあたしでも何とかお金をもらえているわけだし、スランプなんて贅沢なこと言ってられる場合じゃないな。やる気を出せ、あたし。
……とはいえ、だいぶ根を詰めすぎた感じがある。集中しすぎもかえって身体に毒だし、少し休憩しようか……と思ってヘッドホンを外すと、外から聞こえてくる轟音で思わず肩をすくめた。
「そうか、そういや今晩にも上陸つってたっけ……」
カーテンを開けて外を眺める。我が家の窓さえ揺らす暴風に、否が応でも昼間の台風のニュースを思い出す。今回の台風は今年度最大級だとか何とか。歩夢が花壇の心配をしていたっけ。
「こいつはまた大荒れになりそうだな……」
歩夢の花壇、めちゃくちゃになってないといいけど。この家自体は台風くらいで被害を受けるほど柔な作りじゃないから、その点については安心だが。それに、あたしはこういうのは慣れっこだし。
風がごうんごうんと鳴り響くのを無視して作業に戻ると、何者かが部屋の扉をノックする音が聞こえた。こんな夜更けにどうしたのやら。流石にこれは無視するわけにも行かず、音に応えて扉を開ける。
そこに立っていたのは、寝間着を着たすずの姿だった。
「どうしたんだ、すず?」
「えへへ、遊びに来たよ」
ふにゃ、と笑顔を見せるすず。こんな真夜中に遊びに来る奴がいるか。何か裏にあるだろう、と彼女の顔を凝視する。すず自身も笑顔で落とせないことが分かると、ばつが悪そうな顔をした。
両者の間にしばし、何とも言いがたい気まずい空気が流れる。そんなことをしているうちにすずは俯いてしまった。そんな空気に耐えかねて――あと、すずが不憫になってきて、あたしの方から言葉を切り出した。
「……本当は台風、怖いんだろ」
「…………」
こくり、とすずは無言で頷いた。彼女がまだ小さい頃、こういう台風の日はいつも付きっ切りだったからな。最近は一緒にいなくても大丈夫だったのだが、今回ばかりはあまりの轟音にまた怖くなったのだろう。
「まったく、手が掛かる奴だよ」
彼女の頭をわしゃわしゃと掻き撫でると、部屋に招き入れる。すずをベッドに小さく座らせると、あたしは作業に戻るのだった。
椅子に座り込んでヘッドホンを装着すると、すずの存在はすぐに気にならなくなる。あたしがいれば怖がることもないだろうから、そのうちすずは寝るはずだ。その間にあたしは作曲に専念できるってわけだ。
そんな目論見のもと、あたしはPCに向かって集中力を高める。不本意だが、すずと少し話したおかげで脳がすっきりした。今なら何かいいフレーズが思いつくかもしれない。同じようなフレーズでも音がひとつ違うだけでニュアンスはだいぶ変わってくる。そこを妥協せずに詰めていくのがプロへの第一歩……だと思う。
そう思って作業を続けていた……のだが。
「……ダメだ、何も思いつかねえ……」
二十分もしないうちに手が止まってしまった。やはりスランプかもしれない。どうやら完全に煮詰まってしまったらしく、あたしの思考回路はストップしていた。
ぐったりとうなだれて溜め息をついていると、あたしの裾を引っ張る手があった。振り返ってすずの顔を見る。
「何だよ」
「んーん、別に」
「…………?」
何がしたいんだ、こいつは。平時ならともかく、こんな作業が完全に行き詰まっているところにちょっかいを出されたとなれば、あたしもやや穏やかではいられない。少し脅かしてやろうと、眉間にしわを寄せる。
「……何でもないなら、なんでそんなにくっついてくるんだよ」
「えへへ、依織に構ってほしいから」
「申し訳ないけどこっちは今それどころじゃないんだよ。早く寝な」
まったくこいつは、あたしの苦心も知らないで。手で彼女を軽くあしらうと、くるりと椅子を回して再びPCへ向かう。
ただ、そんな風に強がってみたところで何かいいフレーズが降りてくるはずもなく。仕方がないから別の曲を進めるかと思った矢先、今度は膝の上に違和感を感じた。
「……お前なあ」
見ると、懐に潜り込んでこちらを見上げるすずと目が合った。つい先ほどあしらわれたのにも関わらず、無邪気な瞳でこちらを見ている。
「別にこれくらい良いじゃんかー。減るわけじゃないしさ」
「あたしの神経はすり減るけどな」
ったくもう、気が散ってしょうがない。こうなりゃとことん無視だ。邪魔を振り切るようにヘッドホンを付けて曲を流し始めると、すずは裾をぐいぐいと引っ張る暴挙に出た。
「ねーねー依織、依織ってばー」
「あーもう、邪魔すんなよな!」
流石にカチンときた。すずを睨み付けると、その頬を引っ張ってやる。
「いひゃいひゃい、つねらないでぇ」
「お前が作業邪魔すんのが悪いんだよ」
ぐいっと引っ張り続けていると、そのうちすずは涙目になる。少しやり過ぎたかと思い、そこで手を離した。
「うぅ、ひどいよ依織……」
「わ、悪い……」
放っておいたら泣き出してしまいそうで、慌てて話しかける。すずの奴、一度泣き出すと止まらないからな。
「そんなに台風が怖いのか?」
「うん……」
すずは涙目になったまま頷く。その表情は流石に嘘をついているようには見えなかった。これはあたしの完敗だな。本当に手の掛かる奴だ。
「しょうがねえな……ほら、乗りな」
膝の上をポン、と叩き、ここに座るように促す。ここなら作業の邪魔にはならないし、すずも一番安心できるだろうからな。
「えへへ……ありがと、依織」
そう言って笑うと、彼女はあたしと向かい合うように座った。てっきり同じ方向……つまりモニターの方を向いて座るのかと思っただけに、やや困惑してしまう。
「えっ、そっち向きに座るのか」
「うん。だって、こうした方が依織の顔がよく見えるでしょ?」
「は、はあ……そうかよ……」
時々、すずの考えていることがよく分からなくなる。まあいいか。いつものことだし、昔からずっとそうだったもんな。
気を取り直して、すずを膝の上に乗せたまま作業を続行する。いくらスランプだとは言っても、もう少しくらいは頑張らないとな……。
「……よし、っと」
それから数十分後。ようやく進捗と呼べるものを生み出すことができたのだった。あまりにも気を張りすぎていたのか、保存した瞬間に溜め息が漏れ出る。長く苦しい戦いだった。
少しリラックスでもしようかと背もたれに体重を掛けると、今まで黙りっきりだったすずが不意に声を出した。
「終わったの、依織?」
「ああ……何とかな」
調子が良いときのあたしなら、こんなタスクくらい一瞬で片付けられるんだけどな。しょうがない、今のあたしにできることをやっただけだ。
さて、作業も終わったことだし、さっさと寝るとしようか。そんなことを考えていると、すずがじっとこちらを見つめているのに気がついた。
「依織、いつも夜遅くまで頑張ってて偉いね」
「……?」
いきなり何を言い出すのかと思ってすずの方に目を向けると、彼女は優しく微笑んだ。その表情に気を取られているうちに、彼女はまた言葉を続ける。
「……すずね、依織のこと、すっごく尊敬してるんだよ。すっごく頑張り屋なところも、料理が得意なところも、面倒見がいいところも、全部大好きなんだ。……ありがとう、依織」
「…………っ」
……本当に、何を言い出すんだよ。スランプで弱り切った心にその言葉は効くじゃないか。
じわりと溢れ出してきた涙に気づかれたくなくて、すずの身体を強く抱きしめる。
「……こっちこそ、一緒にいてくれてありがとう、すず……」
「えへへ……」
二人の体温が溶け合って、やがてひとつになっていく。温かな感触は、強ばっていたあたしの心を溶かしてくれるようだった。
そして、それからしばらくの時間が経った。飽きることもなく抱き合っていたあたしたちだったが、いつの間にかすずの声が聞こえなくなっていることに気がついた。
「……すず?」
あたしの腕の中を見てみると、すずはすっかり安心した様子で眠ってしまっていた。外ではまだごうごうと風が吹き荒れているというのに、この表情だ。あたしと一緒にいたのがそんなに良かったのだろうか。
「ったく、こういうところはまだまだ子どもだな……」
思わず笑みが零れた。普段は大人ぶって強がるくせに、素はとても甘えん坊で、子どもっぽくて。そんなすずのことを愛おしく思う。すずはあたしの、大切な宝物だ。
すずを抱きかかえると、ベッドに寝かせてやる。抱きかかえられたことなどつゆ知らず、相変わらずすずは呑気な寝顔を見せている。そんな顔を見つつ、水でも飲みに行こうかと部屋を出ようとした瞬間、不意にすずの声が聞こえた。
「……いお、り……」
「……?」
聞き間違いかと思ったが、今のは確かにすずの声だ。寝言であたしの名前を呟いている。すずの奴、夢の中でもあたしにべったりらしい。
「……はは、そんなこと言われたら離れられなくなっちまうな……」
すずの甘えん坊も筋金入りだな、なんて笑ってみる。
部屋を出ていた半身を引っ込め、ドアを閉じ、あたしもすずの隣に寝転がる。穏やかなすずの寝顔が目の前に現れる。それを見ていると、あたしの方まで穏やかな気持ちになるようだった。子を思う親の気持ちが少しだけ分かるような気がするな。
彼女の柔らかく繊細な髪を梳く。不意に、すずが少しだけ笑ったような気がした。
「……おやすみ、すず」
そう言って部屋の照明を切る。彼女の息づかいをすぐそばに感じながら、あたしは眠りにつくのだった。
おねロリ、いいですよね……(書くことがなくなった)