◎Episode 56: もっと知りたくて
とある日の夕方。おつかいを受けた私は、はるかぜ荘の玄関を出てスーパーへと向かっていた。道を歩く足取りは軽く、心もそれに合わせて躍っているかのようだ。なぜなら今日の料理当番は依織さんだから。すずちゃんと櫻さんににずっと振る舞っていたということもあり、依織さんの手料理はプロ顔負けの腕前だ。それが食べられるとなれば、否応なしにテンションも上がるというものだ。
「ふふっ、楽しみだなあ……♪」
さあ、早くおつかいを済ませて帰らなきゃ。さらに歩調を上げて道を急ぐのだった。
目的のスーパーまでやってくると、そこには見知った人の姿があった。櫻さんだ。制服を着た店員さんと親しげに話しているけれど、どうしたんだろう。彼女が話し終わるのを待って、近くまで駆け寄る。
「櫻さん! こんな所で何してるんですか?」
私の呼びかけに応じて振り返った彼女は、長い髪を揺らして私に微笑みかけてくれる。
「あら、歩夢ちゃん。私は今パートの仕事が終わったところよ」
「パート……って、いつもお仕事に出かけてるやつですか?」
「そうそう。大家以外にもきっちり稼がないとね」
櫻さんが大家さん以外のお仕事もしているというのは前から知っていたけど、こんな身近な所で働いていたんだ。ここには何回か来たことがあったけど、気づかなかったなあ。
こうして私たちが美味しいご飯を食べられるのも櫻さんのおかげだ。そんな櫻さんを私は心から尊敬している。やっぱりかっこいいなあ。
「歩夢ちゃんはおつかいかしら? 今日は依織ちゃんが作ってくれるんだっけ」
「そうなんです! 依織さんの料理が楽しみで楽しみで……」
ああ、そんなことを考えていたらお腹が鳴りそうになってしまった。もしそんな音を櫻さんに聞かれてしまったら恥ずかしくて死んでしまう。急いで料理以外のことを考えようとするのだった。
「ふふ、それじゃあ早く買い物を終わらせないとね。私も一緒に行っていいかしら?」
「えっ、いいんですか!? それは、ぜひぜひお願いします!」
櫻さんと二人きりで買い物なんてめったにない機会だ。二つ返事で了承する。
「決まりね。それじゃ、早速出発ね!」
「はいっ!」
これは櫻さんともっと仲良くなるチャンス。何を話そうかな。心晴さんのこととか、すずちゃんのこととか……。話したいことが多すぎて決められない。沸き立つ心を抑えきれないまま、カートを押して売り場の奥へと向かうのだった。
さて、頼まれていたものは何だったっけ。家を出る前にあらかじめ取っておいたメモを開く。
「えーっと、納豆、卵、お麩、オイスターソース……オイスターソース……?」
結構あるなあ。というかオイスターソースって何なんだろう。まあいいや、とりあえず一番上から順々にこなしていこう。
そんなことを考えていると、私の独り言を聞いていたのか、櫻さんが不意に横槍を入れた。
「今日の献立は納豆オムレツに味噌汁、あと野菜炒めって感じかしら?」
「えっ、分かるんですか?」
すらすらと今日の夕食を予測する櫻さんに、驚いて目を見開く。材料を聞いただけで何を作るつもりなのか分かるみたいだ。対する櫻さんは少し自慢げに鼻を鳴らす。
「ふふっ、まあね。伊達に依織ちゃんと六年付き合ってないもの、これくらい当然よ?」
「か、かっこいい……!」
ちゃんとみんなのことを見ていて、それでいてしっかり理解しているんだ。櫻さんのことは知れば知るほどすごいと思えるようになる。美人で優しくてしっかり者で、その上でかっこよく家事も仕事もこなす人のことを、すごくないと思うはずがない。
「もう、お世辞はよしてよ。褒めたって何も出ないわよ?」
「お世辞なんかじゃないです!」
そしてその気立ての良さを鼻に掛けない謙虚さ。これが大人の女性の魅力なんだろうなぁ……。いくら謙遜されたって、ここを褒めるのだけは絶対に退かないつもりだ。
幾ばくかの押し問答の後、櫻さんは観念したように溜め息をついた。
「はあ……歩夢ちゃんってば、本当に調子良いわね」
「私は事実を述べたまでですから」
「そういうところよ……」
そんな他愛もない会話を交わしながら、順調に買い物リストを埋めていく。私だけでも買い物はできるけれど、櫻さんがいるとより捗る。
そして折り返し地点を過ぎようかという頃、ふと何かを思いついた風に櫻さんが提案した。
「そうだ歩夢ちゃん、少し買い物増やしてもいいかしら? すずちゃんがスイカ食べたいって言ってたから、買って帰ってあげたくて」
「了解です!」
流石櫻さん、細かいところまでよく覚えている。私は結構忘れっぽい方だから、こういうのは覚えていられないなあ。せめて心晴さんの言うことくらいはちゃんと覚えていたいんだけれど。
さて、さっきの言葉も忘れる前にカートの進路を青果売り場へと変更しておこう。会話に花を咲かせながらまだまだ買い物は続くのだった。
「そういえば、心晴ちゃんのお菓子、また買いだめしておかなきゃなのよね。そっちも寄っていいかしら?」
「はいっ! お安い御用ですよ!」
カットスイカを手に取ると、次はお菓子売り場へと向かう。所狭しと並んだお菓子の中から、櫻さんは迷いのない手つきで必要なものを選び取っていく。
「心晴ちゃんってば、お菓子のブランドにもうるさいのよ。やんなっちゃうわね、ほんと」
「あはは……心晴さんって、そういうところ細かいですからね」
櫻さんはおどけたように愚痴を漏らす。しかしその表情はむしろ楽しそうなのだった。
というか、心晴さんがいつも食べてるお菓子まで暗記してるんだなあ。私なんかより、櫻さんの方がずっと心晴さんのことを理解してるんだ。そう思うと、少しだけ複雑な気分になった。
「はあ……」
うっかり口から溜め息が漏れる。櫻さんに気づかれやしないかとびくびくしていたが、案の定彼女はこちらを向いて怪訝そうな顔をした。こういうのを地獄耳って言うんだろうか。
「どうしたの?」
「あ、いえ、別に……」
思わず挙動不審になってしまう。そんな素振りでは隠し通せるわけもなく、櫻さんの疑念の目はさらに強まるばかりだ。こういうときだけ察しが良くなるんだから……。
「何かあるならきちんと話してほしいわ」
私の心の内まで見通すかのような瞳に貫かれ、とうとう観念する。
「……はあ、やっぱり櫻さんには隠し事できませんよね……」
こうなってしまっては私の降参だ。櫻さんに心理戦で勝とうだなんて百年早いのかもしれない。彼女に促されるようにして、私はぽつぽつと呟く。
「櫻さんのこと見てて、何か改めてすごいなって思って……。どうしたら櫻さんみたいになれるんだろうって考えると、なんか溜め息出ちゃって」
櫻さんがとてもすごい人で、雲の上の存在なのはもちろん分かっている。私なんかじゃ及ぶべくもない存在だ。けれど、どうしても近づきたいと思ってしまう。それ故に悩んでいるのだ。
「この前も心晴さんとけんかしちゃって、心晴さんのこと何にも分かってないんだって思って……。私なんかより、櫻さんの方がずっとずっと心晴さんのこと理解してるんですよね」
心晴さんからはあんなに信頼されているのに、私からは何にも返せていないし、何も理解してあげられていない。一番大切な心晴さんのことでさえ、櫻さんが私の前を行く。私は……嫉妬してるんだろうか。
短い言葉で語り終えると、それを聞いていた櫻さんはおかしそうに笑った。
「ふふっ、歩夢ちゃんは優しいのね」
「わっ、笑わないでくださいよ!」
こっちは真剣に話をしてるのに、櫻さんはそうやっていつも笑って受け流す。もっとちゃんと話を聞いてください、と抗議しようとした私の髪を、櫻さんは掻き上げてすくった。
「私はね、そういう歩夢ちゃんの優しいところが大好きよ。みんなのこと、ちゃんと理解してあげたいって思ってるのよね」
彼女は私の方を向いてしっかり視線を合わせ、優しく微笑みかける。そんな表情をされたら、またドキドキして何も言えなくなってしまう。櫻さんはずるい人だ。
返すべき言葉をなくしてしまい、呆然と彼女の顔を見つめ返していると、櫻さんは「でも」と続けた。
「でも、他人を理解するっていうのは難しい話だわ。私だってまだまだ知らないことだらけだもの」
「そ、そんな……」
彼女から弱気な言葉が飛び出して、思わず否定の言葉を口に出してしまう。櫻さんに限ってそんなことは言わないと思っていたのに。櫻さんならきっと、何かおすすめの方法を教えてくれると思ったのに。
突き放されたような感覚になり落ち込んでいると、彼女はまた私の髪を掻き撫でてくれた。
「だからね、時間を掛けて付き合っていくの。この人はこんなことをされると嬉しいんだとか、この人はこんなことが嫌いなんだとかね。時間を掛けないと見えてこないものもあるわ。歩夢ちゃんとも出会ってまだ一年だし、分からないこともいっぱいあるけど、これから分かっていくつもりよ」
櫻さんはまた微笑みかけてくれた。真っ暗闇の心の中に、ひとつの火が灯ったような気がした。
「だから焦らないで。きっと時間が解決してくれるわ」
「櫻さん……っ!」
私は思わず、櫻さんの胸めがけて飛び込んでいた。私が間違っていた。やっぱり櫻さんはすごい人だ。彼女は私の背中に手を回すと、優しく撫でて宥めてくれた。
「ごめんなさい……私、櫻さんのこと誤解してました」
「いいのよ。これでまたひとつ私のことを理解できたってことで。私も歩夢ちゃんのことを理解できたわ」
「はいっ……!」
しばらく抱き合って、私は一歩後ろに下がる。あまり甘えっぱなしじゃいけない。櫻さんのアドバイスを生かして、私もみんなを……心晴さんのことを理解できるようにならないと。まずは……一緒にいることからかな。何だか私にもできそうな気がしてきたぞ。
買い物はまだまだ続く。前を行く櫻さんの背中は大きくて遠くて、雲の上の存在のように思えていた。けれど今は、何だかその背中に追いつけるような気がしていて。だから私は、勇気を出して声を掛ける。
「あの、櫻さん……ちょっといいですか?」
「なあに? どうしたの?」
「私に……櫻さんのこと、もっと教えてください!」
櫻さんのことを知れば、私も櫻さんに近づけるような、そんな気がした。
振り返った彼女はきょとんとしていたが、すぐにまたいつもの微笑みを返してくれる。
「――分かったわ。話せるところから、ね?」
「はいっ!」
櫻さんに認めてもらった以上、もっともっと頑張らないと。いつか櫻さんのような立派な大人になれることを夢見て。静かな誓いを胸の内に立てて、私はまた歩き出すのだった。
良い話っぽいですけど歩夢は櫻に依存してるんですよね。大丈夫かなぁ……(他人事)