□Episode 55: シーサイドバケーション!(3)
櫻の突然の提案で海へやってきたあたしたち。時刻は昼過ぎ。楽しいバーベキューも終わり、今はすずに引きずられるようにして波打ち際へとやってきていたのだった。
「依織、行くよーっ!」
「おーし、かかってこい!」
夏の強い日差し、そして煌めく水の粒……。まさに夏って雰囲気だ。夏特有の雰囲気というか、空気感に乗せられて、否応なしにテンションが上がってしまう。いろいろなアーティストが夏をテーマに曲を書きたがるのも分かるというものだ。
「えーいっ!」
「っと、やったな! おらっ!」
ぴしゃぴしゃと水を掛け合い、つかの間の楽しい時間を過ごす。最近は忙しくてまた遊ぶ時間がとれていなかったから、こうやって遊べるのは嬉しいことだ。今日は存分に楽しむとしよう。
「えへへ、楽しいね!」
「ああ、あたしも楽しいよ……おらっ!」
「ひゃあっ! あはは、こっちも行くよ!」
心ゆくまではしゃぎまわった後、すずは不意に水を撥ねる手を止めた。その感情の落差のほどにあたしは否応なしに察知する。これは、すずが何かを考えているときの表情だ。そのまま彼女を観察していると、彼女は遠くを見つめながら小さく呟いた。
「あーあ、すずも泳げたらなあ……」
その視線の先では、女子高生ほどの年頃のグループが水に潜るなどして遊んでいる光景があった。なるほど、そういうことだったか。そういえば、すずは泳げないのか。何でもできる奴という印象があったが、流石にやったことがないものはできないか。
そこであたしはひとつの案を思いついた。
「なら、あたしと泳ぎの特訓でもするか?」
「依織……いいの?」
「ああ。椿山依織に二言はないぜ」
あたしがそう告げると、すずは子犬のように一気に目を輝かせて喜ぶ。
「やったーっ! ありがと、依織!」
「よし、それじゃあ浮き輪とか借りに行くか」
意見が揃ったところで、財布を取りにテントへ戻る。ぐっすりと眠る歩夢と心晴を邪魔しないよう、静かに財布を取ると、そのまま海の家へ直行するのだった。
「わあ、これ可愛い……!」
「すずは何でも似合うからな。好きに選べよ」
あたしの言葉に反して、すずは浮き輪だのゴーグルだのを並べてうんうん唸っている。そして最終的に決めあぐねたのか、彼女はあたしの前にずいと出てきて尋ねた。
「ねえ、依織は何が良いと思う?」
「何が良い……ってなぁ……」
そんなのあたしが決めることじゃない、とあしらおうとしたが、こちらを見上げる彼女の目は信頼百パーセントの色をしていた。そんな目をされては上手くあしらえない。
「じゃあ……これとこれ」
「分かった! すいませーん、これ借ります!」
あたしに決めてもらおうとするなんて、少し甘く育てすぎただろうか……いや、信頼されているということにしておこう。うん。
無事に浮き輪とゴーグルが借りれたところで、海に戻って早速泳ぎの練習だ。
「ゴーグルよし、浮き輪よし、準備体操よし!」
「すっかり準備万端って感じだな」
「うんっ!」
すずはというと、もうすでにテンションが高めだ。海に来て泳ぐとなればテンションが上がらないわけがないもんな。今日は良い一日になりそうだ、などと考えつつ、ざぶざぶと海の中へ分け入っていく。
「よーし、行くぞ」
すずの浮き輪を押して、どんどん沖の方へと歩いて行く。水面の高さがあたしの胸辺りになったところで、すずはやや不安そうな表情を見せた。
「わわ、依織、足着かないよ……」
「浮き輪してんだから大丈夫だって」
「で、でもっ……」
すずが自信なさげな顔をするなんて珍しい話だ。水が怖いんだろうか。昔のあたしにべったりだった頃のすずを思い出してちょっと微笑ましく感じるな。
さて、目的地まで辿り着いたところでそろそろ始めるとしよう。
「んじゃ、まずは水に顔を浸けるところからだな。大丈夫か、すず?」
「うんっ……やってみるね」
そう言って、おそるおそる水面に顔を浸けるすず。さっきまでびくびくしていたのに、こういうところだけ妙に潔いのはいつものすずっぽいな。
それからしばらくした後、息の限界を迎えたすずが顔を上げる。ゴーグルを外した彼女の目は、驚くほど興奮でキラキラと輝いていた。
「どうだ?」
「海の中、初めて見たかも……!」
鼻息荒く海の中の情景を伝えてくれる。こりゃ大丈夫そうだな。水を克服するのも時間の問題というやつだ。
「ねえねえ、もう一回見ていい?」
「ああ、いいぞ。いくらでも」
「わーいっ!」
興奮冷めやらぬまま、彼女はもう一度顔を潜らせる。だがしかし、あまりにも前のめりになりすぎたのか、すずはバランスを崩して頭から浮き輪ごとひっくり返ってしまった。
「すずっ!?」
慌てふためき、とりあえずすずの身体を抱き上げる。突然起こった出来事に、当のすずも呆然とした表情をしている。
「大丈夫か、すず?」
「う、うん……びっくりした……」
特に何ともないようでよかった。それより、今のですずが水が嫌いにならなけりゃいいんだけど……。心配になって、思わず彼女の顔を見つめる。
しかし彼女は、そんなあたしの心配など知らずに吹き出した。
「……ぷっ、あははっ!」
「……すず?」
急に笑い出したすずに、今度はあたしが呆気にとられる。どうしよう、何か変なところに水が入ったか……?
「いやー、すずとしたことがミスっちゃったよ、あはは」
「ふっ……はは、そうだな。次からは気をつけろよ?」
どうやらあたしの杞憂だったみたいだ。よく考えてみればそうだ。すずはこんなことくらいでめげる奴じゃないからな。
その後もスイミングスクールの教師よろしく立ち浮きやら伏し浮きやらを教える。すずはすずで持ち前の吸収力を生かして、あっという間に水と友達になってしまった。相変わらず底の知れない奴だ。
「もう足が着かないのも怖くなさそうだな」
「うん! へっちゃらへっちゃら」
さてさて、存分に水と戯れてもらったところでようやく本題へと突入だ。
「じゃ、次はバタ足だな」
「バタ足?」
とは何ぞや、という顔をするすずの前で浮き輪に捕まって実践してみせる。
「こういう感じでバタバタって足を動かすんだよ」
「ああー!」
今度はなるほど、とでも言いたげな顔で手を叩いた。ピコーン、って上に豆電球が出てきそうだな。
「んじゃ今度はすずの番だ。やってみ」
「分かった! こんな感じ?」
「そうそう、大体そんな感じだ。もっと足伸ばしてな」
例によって覚えるのが早いな。これで万が一浮き輪が流されてもバタ足で帰ってこれるな。そんな状況あるかは知らないが。
「よし、じゃあ今度は浮き輪なしだ!」
「ん、頑張る!」
すずから距離を取り、ゴール地点代わりの浮き輪を手に持つ。そこめがけてすずがバタ足で泳いでくるという寸法だ。
「よーし、来いっ!」
勢いよく水面下に潜ったすずは、ぎこちないながらも足をばたつかせて前進する。傍から見たら溺れているようにしか見えないが……まあ、ちゃんと前進できているなら良いだろう。
「ぷはぁっ、ねえ見てた、依織!?」
何とか浮き輪を掴むことができ、満面の笑みでこちらを見つめるすず。
「見てたよ。やるじゃんか」
「えへへ、やったー、褒められちゃった!」
その頭をわしゃわしゃと撫でてやると、すずは嬉しさのあまりかこちらに飛びついてきた。ああもう、こういうところが可愛いんだよな。こういうのが父性って言うんだろうか。いや、あたしは女だから母性なのか?
「ねえねえ依織、もっといろんな泳ぎ方教えて!」
「いいぞ、任せときな!」
……まあ、そんなことはどうでもいいか。今目の前にすずがいて、あたしは嬉しい。ただそれだけの話だ。
「よーし、まずはクロールだな!」
「頑張るぞー!」
それからまたしばらく泳ぎ続けて、もうどれくらい経っただろうか。日はだいぶ傾いて、海水浴場にいる人々も少しまばらになってきた。
「んー、泳いだなあ」
泳ぎ疲れたのか、すずが砂浜に座り込む。まあ、流石にあれだけ泳いでいたら疲れもするだろうよ。あたしもかなり疲労感が溜まってきた。
「ねえねえ依織ー、おんぶして?」
「ったく、しょうがねえな……ほらよ」
「えへへ、やったあ」
すずを背中におぶってやると、彼女は満足げに寄りかかってきた。そのままリラックスがてら波打ち際を歩く。人気が少なくなったことで喧噪もだいぶ収まり、二人だけの時間に浸れる。
そんなことを思っていると、不意にすずが語り出した。
「なんかさ、すずって幸せ者だね」
「ん?」
唐突に何を言い出すんだと思ったが、あたしが返答する前に彼女は言葉を続けた。
「こうやってみんなで海に来られて、大好きな依織に泳ぎまで教えてもらって……こんなに幸せな事ってないよ」
そう言った彼女は、本当に心から嬉しい、幸せだと言うような声色で呟く。それを聞いていたら、何だかあたしも幸せな気持ちになってきた。
「それじゃ、あたしも幸せ者だな、こんなに可愛いすずと、みんなと、海を楽しめるんだからさ」
「えへへへ……すずたち、みんな幸せだね」
背中から降りると、すずはあたしの胸の中に飛び込んでくる。それを抱き留めてやると、彼女は笑顔でこちらを見上げた。
「依織、大好きだよ!」
「何だよそれ。さっきも言ったじゃんか」
「くふふっ、何回でも言うもんねーだ!」
優しく彼女の髪を撫でてやる。すずほど真っ直ぐには伝えられないけど、ちゃんと自分の思いは伝えておいた方がいいかな。
「……海、また来たいな。大好きなすずと一緒にさ」
「……!」
あたしがそう言うのを聞いて、すずが驚いたような顔でこちらを見る。それに対して微笑みを返すと、彼女もまた満面の笑みで返してくれた。
「うんっ! 絶対約束だよ!」
小指と小指を絡めて、約束の歌を唱える。きっと約束は果たされるだろう。そしてまた来年も、そのまた来年も、また甘く幸せな約束を交わすのだろう。寄せては返す波のように、何度も。
「……それじゃ、そろそろ帰ろっか」
「ああ」
手を繋いで、テントの方へ駆けていく。その背中を見送るように、真っ赤な太陽が輝いていたのだった。
依織は結構すずに対する保護者意識が強いと思います。そのせいでいろいろと思い悩むこともあるんですけどね。かわいいですね。