□Episode 52: 変わっていくもの
今日も今日とて平和なはるかぜ荘。暑さに耐えかねて開け放った窓から、涼やかな風が流れ込んでくる。そんな風とともに、聞こえてくる声がひとつあった。
「――ちゃん、依織ちゃん」
「…………」
「起きて、依織ちゃん!」
「ん……何だよ、櫻……」
まくしたてるような櫻の声で、あたしは寝床から無理矢理サルベージされる。寝ぼけ眼を擦って彼女に相対すると、櫻は呆れたような目をしてこちらを見ていた。
「何だよ、じゃないのよ。もう十時過ぎちゃってるわよ?」
「あ、ほんとだ」
言われて時計を見ると、短針はすでに十の刻を指し示していた。あたしの起床時刻が大体七時半ぐらいだから、確かに寝坊していると言える。
しかし、なんで寝坊したんだったか……。
「珍しいわね、依織ちゃんが寝坊なんて」
「――ああ、思い出したぞ。この前心晴にゲームを選んでもらったんだけど、やり始めたらやめ時が見つからなくってさ……」
「依織ちゃん、そういうところあるわよね……」
ギターを触り始めて夕食に呼ぶ櫻の声が聞こえなくなったり、教本とにらめっこしてたら背後の気配に気づかなかったり……。思い返せばそんな出来事は山のように出てくる。あたしは割と根を詰めやすいタイプなのかもしれないな。
さて、寝間着を着替えてリビングに出る。今は歩夢も心晴もすずも部屋に引っ込んでいるらしく、リビングにはあたしと櫻の二人きりだ。
「……腹減ったな」
「じゃあ朝ご飯にしましょっか。ちょうど私も作ろうと思ってたところだし」
「んじゃ、いただこうかな。っても、今からじゃブランチになっちまいそうだけどな」
そんなことを言い合いながら、二人でキッチンに立つ。そういえばこの二人で料理するのは久しぶりだな。別に一緒にしたいわけじゃないとかそういうことではないが、あたしが作曲してたり、向こうがパートでいなかったりとかで時間が合わなかったのだ。
そしていざこうして並んでいると、少し新鮮な気持ちを覚える。なぜだろうか。
ぼんやりと考え事にふけっていると、いつの間にか櫻の視線がこちらへ向いていることに気がついた。
「ん……なに、櫻?」
「いや、それ……」
その目線はあたしの目ではなく、あたしの首元に行っているようだった。
「依織ちゃん、そんなペンダント付けてたっけ?」
「ああ、これか」
首元で光を受ける宝石を手に取る。そういえばまだ櫻には見せてなかったんだっけ。
「なくしたと思ってたのを最近すずが見つけてくれたんだよ。一応思い出の品だからさ、こうして身につけてるんだ」
「へえ……依織ちゃんがそういうの付けてるの、なんか意外かも」
「すずにもおんなじ事言われたよ」
他愛もないことを話しつつも、料理を作る手は止めない。櫻の焼いたベーコンの香りが食欲をそそるのを堪えつつ、あたしはスクランブルエッグ用に卵を溶く。
料理というのは精密作業にも似たもので、作っている間は自然と無言になってしまう。とはいえこんな家庭の料理で緻密さを求めたってしょうがない。何か話題を見つけて場を繋ぐことにしよう。
「そういえばさ、この前歩夢があたしの曲が好きだって言ってくれてさ。なんかすぐ近くにファンがいるって思うと、俄然やる気も湧いてくるよな」
「アーティスト冥利に尽きる、ってやつね。ちなみに、私も依織ちゃんの曲が好きよ?」
「ふふっ、ありがとうな」
また会話がなくなってしまった。無論あたしだってぼんやりしているわけではない。何か話の種を考えようとしているのだが、こういう時に限ってネタ切れを起こしてしまうのが辛いところだ。
考えろ、あたし――と思ったが、無理な気がしてきた。ここはちゃっちゃと諦めて、目の前の料理に専念するとしよう。そう心に決めた矢先に、今度は櫻の方が口を開いた。助かった。
「何だかこうしてると、昔のことを思い出すわね」
「昔? 何のことだ?」
櫻は何でもかんでもひとまとめにして「昔」って言うからな。すずを拾ったときのことも、あたしと出会った日のことも、一週間前にアイスを落として半泣きになっていたのも全部「昔」なんだよな……。
「もう、忘れちゃったの? 昔もこうして、二人並んでキッチンに立ってたじゃない」
「ああ……あれか」
今回の「昔」は比較的「昔」らしかった。六年前、何があってもいいように櫻から徹底的に料理を教え込まれた時の話だ。
「あの頃は嫌々付き合わされてただけだったけどな……」
「あら失礼ね。私は依織ちゃんのことを思って――」
「分かってるっての」
櫻の言葉に合わせて、あたしも昔のことを思い出し始めてきた。あの頃から櫻は強引で、嫌がるあたしを無理矢理キッチンに引きずり込んでいたっけ。今となっては良い思い出だが。
「最初はあんなにぶーぶー言ってたのに、今じゃこうしてすっかり料理が得意になっちゃって。私、嬉しいわ」
「あんだけ教えられりゃ嫌でも上手くなるっつーの……」
呆れて溜め息が出た。やっぱり櫻のノリには微妙について行けないな……。
そうこうしている間に作業は終了し、皿の上には立派なベーコンエッグが並んだ。少し遅めの朝食の始まりだ。
「いただきまーす」
食卓にいつものような喧噪はなく、二人が物を頬張る音だけが聞こえる、そういえば、櫻と二人きりで食事をするのも久しぶりだな。すずが規則正しく生活できるようになってからは毎日が賑やかだったものな。
「うーん、依織ちゃんの手料理はやっぱり世界一ね」
「適当なこと言うなよ」
喜んでもらえるに越したことはないが。それを言うなら櫻の手料理だって絶品だ。ベーコンの焼き加減もばっちりだし、何より櫻の料理には思いやりが詰まっているし。
ぼんやりと話し込んでいると、不意に櫻が口を開いた。
「今思ったけど、依織ちゃんもずいぶんと丸くなったわね」
「何? 体型の話?」
たしかにちょっと丸くなった気もするけど。ちゃんと解消のために運動もしてるし、大丈夫なはずだけど……。
「もう、違うわよ。性格の話よ、性格」
「性格ねえ……」
そう呟いて黙ると、彼女は次の言葉を述べる。
「あれだけツンツンしてた依織ちゃんが、今じゃこんなに表情豊かで優しい子になって……。もう六年経つもんね」
「親みたいなこと言いやがって……でもまあ、そうだな」
ここに来てからあたしは、すずや心晴、それに歩夢――ともに過ごす家族と出会って、大きく人生を変えられた。もう誰にも頼らない、あたしは自分の力だけで生きていくんだって、家を飛び出したあの頃はそう思っていたのに。
「やっぱり人って変わるものね」
「……だな」
人は、影響されずには生きてはいけない生き物なのかもしれない。
その上で、櫻にはひとつ言いたいことがあった。恥ずかしくて今まで言えていなかったけれど、今この時、この勢いでなら言えそうなこと。
「あたしは変わったけど……変えてくれたのは、他でもない櫻なんだよ」
「…………!」
あたしの二十六年間を振り返って、あたしに一番多くの影響を残した人は、多分櫻以外にあり得ない。路頭に迷っていたあたしの手を引いて、ここに連れてきてくれたあの日から、きっとあたしは変わり始めていたんだ。
「櫻と出会ってなかったら、きっと今のあたしはなかったと思う」
胸の高鳴りが自分でも分かる。ずっと言えなかった感謝の言葉、今なら言えそうな気がする。
「……ありがとう、櫻。あたしと出会ってくれて、本当に嬉しいよ」
「依織ちゃん……!」
ようやく言えた。安堵の気持ちと解けた緊張が重なって、全身から力が抜けていくような気がする。
「依織ちゃんがそんなこと言ってくれるなんて、私……!」
「こ、こういう時くらいちゃんと言っとかないとって思ってさ……」
今になってようやく羞恥心が顔を出し、自分の頬が真っ赤になるのがよく分かった。つい勢いで言ってしまったことに対する恥ずかしさはあったが、どうしてあんなことを言ってしまったんだろう、という後悔は一切なかった。目の前の櫻の表情を見たら、そんなことは思えなくなった。
「こちらこそ、今のはるかぜ荘があるのは依織ちゃんがいてくれるからなんだよ。ありがとう」
「ど、どういたしまして……」
少女のように無邪気に笑う櫻を見て、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。その笑顔が、その姿が、その立ち居振る舞いが、全て愛おしい、独り占めしたいと思えた。そして気がついたときには、ひとりでに身体と口が動き始めていた。
「……なあ、櫻。これからちょっと出かけないか?」
「えっ、今から? 作曲のお仕事は?」
「休みにするよ。今日は櫻と一緒にいたいんだ」
もしかすると――少なくとも今のあたしにとっては、仕事なんかよりも櫻とともに過ごすことの方が大切なのかもしれない。……本当に変わったな、あたしも。
櫻はしばらく不思議そうな顔をしていたが、何かに納得すると再び笑顔を見せたのだった。
「うん。依織ちゃんが連れて行ってくれるなら、私はどこでも着いていくわ!」
「よし、食べ終わったら早速準備だな!」
そういえば、まだどこへ行くか決めてなかったな。でもまあいいか。行くあてもなく、遠くまでぶらぶらと歩くのもいいだろう。櫻となら、きっとどこだって思い出の場所になるだろうしな。
これから辿り着く場所、起こる出来事に淡い期待を寄せつつ、あたしたちの幸せな時間は流れていくのだった。
ここ最近のまとめみたいなつもりで書いたお話でした。度合いはそれぞれですが、みんな確実に変わっていってると思います。
さて、次回ではるかぜ荘は1周年を迎えます。もう少しだけ続くので、これからもよろしくお願いします。