△Episode 39: 風に吹かれて
春らしい暖かな気候と、時折吹いてくる穏やかな風が気持ちのいい朝。わたしは、自分にしては珍しくテラスのベンチでのんびりとしていた。
「ふわぁ……」
大きな欠伸をするとともに、シャワーで火照った身体を冷ます。
冬のバカみたいに寒い時期から歩夢と依織に連れ出されて始めたランニングも、二人につられるうちに結構続いた。最近は少しずつ暖かくなってきたし、今こそ運動するには最高の時期だと思う。それに何より、走った後のシャワーが凄く気持ちがいい。外に出るのは嫌いだと思い込んでいたけど、まだわたしにもこんな感性が残ってたんだな。
まったく依織の奴、運動するなら今ぐらいの時期から誘ってくれれば良かったのに。
そんなことをぼんやりと考えたりしていると、背後でテラスの入り口が開く音がした。それに反応して振り返ると、タオルを首に掛けた歩夢の姿があった。
「あ、歩夢。シャワー、浴びたの?」
「はいっ。さっぱりしました!」
歩夢もわたしと同じ、テラスでのんびりしようという魂胆らしい。皆考えることは同じだな。
「隣、いいですか?」
「ん。いいよ、座って」
わたしが答えると、歩夢は笑って隣に腰を下ろす。その瞬間、ふわっと石鹸の香りが舞い上がって、わたしの鼻腔をくすぐった。良い匂い……だけど、ちょっとドキドキして落ち着かないかも。
「風が気持ちいいですねえ」「ん……」
吹いてくる春風は、火照った身体には十分すぎるくらい涼しげで、心地よくて。思わずもう一回欠伸が出る。それにつられるようにして、歩夢もふわぁ、と大きな大きな欠伸をした。
「えへへ……ちょっと恥ずかしいですね」
歩夢は取り繕うように照れ笑いする。ああもう、可愛いなあ。歩夢は何をしても様になるからずるいんだ。
そんなわたしの嫉妬などつゆ知らず、歩夢は誤魔化したように空を見て呟く。
「それにしてもいい天気ですね、心晴さん?」
「ん……うん、そうだね。すごくいい天気……」
それは明らかに今考えたであろう話題だったが、まあ歩夢の言うとおりだ。空を見上げれば、そこに広がるのは雲ひとつない、青い青い天蓋。そんな質でないのは自分でも分かってはいるが、心なしか気分が高揚する。
……高揚するのはいいのだが、会話が終わってしまった。どうしよう、何の話をしよう。今のこの状況にもっともふさわしい話題は何だろう。表情には出さないが、脳内はぐるぐると思考を回す。
結局、何もいい話題は思いつかなかった。
「はあ……」
わたしのバカ。もっと何かあったはずだろうに。思わず溜め息を吐いた。陰キャには荷が重かったみたいだ。
すると、そんなわたしの気持ちを感じ取ってくれたのか、歩夢が口を開いた。
「そういえば、ランニングの調子の方はどうなんですか?」
「ランニング?」
ああそうだ、そういうことを話せば良かったんだ。なんで気が付かなかったんだろう、わたしは……。
「まあ……ぼちぼちだよ。みんなのおかげでね」
「良いことですねっ」
やっぱり運動するのは嫌いだけど、歩夢や依織がいてくれるから楽しめているところもある。そういう意味で、わたしの言葉に偽りはなかった。
「私も、心晴さんと一緒に走れるのが一番楽しいですよ!」
「そ、そっか……うん、ありがと……」
満面の笑みでそう返してきた歩夢。その表情を直視するにはあまりにも眩しすぎて、思わず目を逸らしてしまった。嬉しいんだけど、面と向かってそんなことを言われるとすごく恥ずかしい。
照れる私など気にもせず、歩夢はマイペースに話す。
「最近は、ランニングがちょっと趣味になってきたところもあるんですよ。身体を動かすと、やっぱり気持ちが良いですから」
「へえ……お花の世話以外にも、趣味が増えたんだ」
歩夢のやっていることといえば、花壇の世話か、読書か、わたしの部屋に押しかけてくることくらい。わたしが言えた口じゃないけれど、歩夢も結構趣味が偏ってるから、そのレパートリーが増えるのは良いことだと思う。
そんな感じのことを伝えると、歩夢はばつが悪そうに笑った。
「えへへ……私も結構インドア派ですから、ちょっとでもアクティブな趣味を見つけなくちゃなって思ってて。依織さんに誘ってもらえて、ちょうど良かったです」
渡りに船、ってところかな。
まあ、元々歩夢は身体を動かすのは苦にならないタイプだったはずだし、ランニングが好きになるのは至極まっとうな話だ。
「趣味と言えば、心晴さんは今日ゲームはしないんですか?」
「少なくとも今はそんな気分じゃないんだ。……ちょっとテラスでのんびりしたい気分」
ダメだ、気を抜いたらここで寝れてしまう。寝ちゃったら流石に風邪引きそうだな……。
「それじゃ、ここでちょっとだけ話しましょうか!」
「いいけど、わたしは何も話せないよ」
「ふふっ、大丈夫ですよー。心晴さんの分まで、私が話しますからっ!」
それ、会話になってるんだろうか。会話はキャッチボールと言うが、この場合はピッチングマシーンでは……?
まあ、いいか。歩夢が楽しそうならそれでいいや。三度出た欠伸を噛み殺しつつ、歩夢の話に付き合うのだった。
「――それで心晴さん、最近花壇見てます?」
「花壇かぁ……うーん、見てないなぁ」
投げかけられた歩夢の話題に、わたしは小さく唸る。
綺麗な花が咲いてるなぁ、くらいの感覚で眺めることはよくあるけど、それについて何か具体的なことを思ったことはなかった。そもそも、花壇なんてそんなじっくり見つめるものでもない気がする。歩夢みたいに花に詳しい人にはまた別なんだろうか。
「せっかく咲いてるのに見ないなんて、勿体ないですよー。私が何か話しましょうか?」
「うーん……」
眠気覚ましに思考回路を動かす。とりあえず、適当に何か手頃なことでも訊いておこうかな。
「じゃあ、今はどんな花が咲いてるの?」
わたしが話題を提供すると、歩夢は待ってましたとばかりに目を輝かせた。これは何かスイッチを押してしまった感じかな。
「最近はツツジが咲いてますよ! 赤とか白とかピンクとか、色々咲いてて可愛らしいですよ」
「へえ……ツツジかぁ」
ツツジなら、流石にわたしでも名前を聞いたことぐらいはある。大半の小学生が帰り道で蜜を吸ってたってやつだよね。
「ツツジの蜜って、やっぱり甘いの? わたしは吸ったことないけど……」
「私も吸ったことないですけど、毒のある品種もあるんですよ。うちにあるのは違いますから、今度吸います?」
「まあ、気が向いたらで……」
うーん、自分でも分かるけれど、多分これは一生気が向かない奴だな……。
自分自身に呆れる間にも、歩夢は次の話題を繰り出してくる。花ひとつでどこまで喋れるんだ……。
「心晴さんはツツジの花言葉、知ってますか?」
「ん……知らない」
歩夢はこれまたお誂え向きとでも言いたげに鼻を鳴らす。予習でもしてきてるんだろうか?
「ツツジの花言葉は『節度』とか『慎み』です。色によっての花言葉もあって、白いのは『初恋』赤いのは『恋の喜び』っていうのもあるんですよ! ロマンチックですよね」
「恋の喜び……かぁ」
わたしの隣で歩夢はうっとりとしている。たしかに歩夢、愛とか恋とか、そういうの好きそうだもんなぁ。わたしはそうでもないけど。
さて、わたし相手に色々話せると知って気をよくしたのか、歩夢の話すペースが若干上がってきた。
「ツツジって結構たくましいんですよ。寒さにも暑さにも強いし、初心者が育てるにはうってつけみたいです。それと、あと――」
「…………」
正直なところ、彼女の話すことには若干興味が薄れつつあった。
というより、話に対する興味関心よりも大きなものが、わたしの精神を覆っていた。それはじわりじわりと、土に染みこむ水のごとくわたしを包んでいく。
それが眠気であることに気が付いた時には、もう手遅れに近かった。
ダメだダメだ、動かないと。歩夢の話をすっぽかして寝るなんて、そんな。……いや、全然動けない。
シャワーと日向ぼっこでリラックスしきった身体には、眠気に抗う手段など失われていたのだった。
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。奥深く沈んだ意識が身体の主導権を取り戻し、今自分が置かれている状況を理解する。
そうだ、わたし、いつの間にか眠ってて……って、たしか歩夢の話を聞いてたはずじゃ!? 歩夢は!?
「歩夢……!」
「ひゃっ、心晴さん!?」
慌てて頭を上げると、ちょうど歩夢がわたしを覗き込んでいるところだった。すんでのところで歩夢がかわし、正面衝突は免れる。
「はぇっ、あ、歩夢……」
「ようやく目が覚めましたね。おはようございます、心晴さん」
その語調がやや冷ややかなように聞こえて、思わず身を竦める。私が話しているのを余所目に居眠りするとは何事か。そう言いたいのかと思った。
「ごっ、ごめん、せっかく歩夢が話してくれてたのに、わたしうっかり……!」
人が話してる間に寝ることが良くないことだなんて、いくらわたしだって知っている。よりにもよってわたしは、その禁忌を犯してしまったのだ。
幻滅されても仕方がないと震えていると、彼女はこちらへの距離を詰めた。
「……いいんですよ、私も話しすぎちゃいましたから」
「……へっ?」
あっけらかんとした答えに、素っ頓狂な声が出る。彼女は笑っていた。
「え……あ、歩夢、怒ってないの……?」
「怒ってる? 何がですか?」
どうやら歩夢は、自分がされたことがどういうことかなのかさえ分かっていないようだった。
「その……せっかく歩夢が楽しそうに話してたのに、わたしは、それを無視して、寝ちゃってて……」
「ああ、そういうことですね」
わたしの言い分を聞き届けた上で、歩夢はなおもわたしに笑い返した。
「全然気にしてませんよ。誰にだってあることじゃないですか」
やっぱり優しいな、歩夢は。彼女を一瞬でも疑ってしまった自分が嫌になるくらいだ。
少しだけ後悔していると、彼女が不意に距離を詰めてきた。
「心晴さん、ランニングの後で疲れてたんですよね。良い子、良い子」
「っ……!?」
歩夢の小さな手がわたしの背中と、髪を撫でる感覚が確かに伝わってきた。彼女の胸の中が暖かくて、まるで全身を溶かされた気分になる。
「もう一眠りします?」
こくりと頷き、彼女のもっと深いところに沈んでいく。今の顔、恥ずかしすぎて、ちょっと歩夢には見せられないな。
……そういえばひとつ、歩夢の話で覚えていることがある。赤いツツジの花言葉は、『恋の喜び』。
……花壇、また後で見に行ってみようかな。
ちょっとお久しぶりの歩夢と心晴のいちゃいちゃ回。定期的に書きたくなります。