□Episode 37: こんな雨の日には
いつも通り、今日もモニターに向かって仕事をする。納期的な意味での休みはあっても、本質的にはクリエイターに休みはない。今日も今日とて、ひたすら棒の羅列とにらめっこだ。
「んん、疲れたな……」
んーっと大きく伸びをして、ヘッドホンをデスクの上に置く。ふと、どこかからしとしとと言う音が聞こえてくるのに気が付いた。それに応じて窓の外を見る。
「はあ……」
あたしの自室からは、立ち並ぶ木々に春の雨が静かに降り注ぐのが見えた。
今日は朝から生憎の雨だ。あたしは、雨は好きじゃない。洗濯物のこととかを考えないといけないし、気分転換に外へ出かけることもままならなくなるのが腹が立つ。かと言って家にいても、低気圧で頭が痛くなるのがオチだ。
雨なんて、少しも良いことないよなぁ。憂鬱な気分にさせられるばかりで、やらなくちゃいけないはずの仕事さえまともに捗らない。どうしたものか……。
「休憩すっかな……」
ダメだ、このままモニターに向かっていても、何かが思いつくビジョンがさっぱり見えない。モチベーションも一欠片さえ残っちゃいない。こんなときは、少し休憩するのが一番の解決策だな。
一眠りでもすれば体調も戻るかな。あとはホットアイマスクが引き出しにあったはずだが……。
わたわたと部屋を漁っていると、ノックの後に何者かが扉を開けた。
「お、すずか」
入ってきたのはすずだった。振り返ったあたしの顔に、ばつが悪そうな表情をする。
「あ……ごめん、お仕事中だった?」
「いいや、今ちょうど休もうと思ってたとこだよ。入りな」
すずがやってくるなら、眠るのは少しお預けかな。少し名残惜しいが、見つけ出したホットアイマスクは引き出しに戻しておく。
安心したように笑うすずをベッドに座らせ、あたしもその隣に着座する。そうして二人で、窓の外をぼんやりと眺めていた。
「雨だねえ……」
「まったくだよ。誰がこんなに降らせてくれって頼んだんだか……」
他愛のない会話をしている間にも、外では雨が降り続いている。あたしの気持ちなどつゆ知らずというわけか。憎たらしい野郎だ。
「洗濯物は干した?」
「ああ、干したよ」
「そっか。じゃあもう雨対策はばっちりだね」
せっかくすずが会話をしてくれているのに、それに対するあたしの返答はどんどんぶっきらぼうになっていってしまう。これも全部雨のせいだ。やっぱり、少し眠った方がいいだろうか……。
色々考え詰めて、また溜め息が出る。気が滅入るな。
「依織、しんどいの? 大丈夫?」
あまりに生気のない溜め息を心配してか、すずが心配そうにこちらを見上げている。心配掛けてばかりで、情けないな。
「別にそういうわけじゃないんだけどさ……雨って、憂鬱なんだよな……」
こめかみが痛くなり、思わず押さえる。湿度に合わせて気分まで湿っぽくなってしまいそうだ。
そんなあたしに対して、すずはそうかなぁ、とあっけらかんと漏らした。
「すずは雨の日、嫌いじゃないよ?」
「そうなのか。すずは凄いな」
あたしなんて気圧が下がって湿度が上がるだけで体調を崩しそうになるのに、羨ましい限りだ。子どもは風の子、とはよく言ったものだ。
「凄くないよ、要は考え方の問題なんだよ。発想の転換ってやつ」
「急に難しい言葉使うな……」
一瞬ろくろを回す仕草のすずが見えたような気がする。実際やりそうな気がするけれど。
「雨の日はね、雨露が葉っぱに付いて綺麗なんだよ。歩夢が言ってたの」
「へー……」
それも雨の日の見方のひとつ……か。わざわざ雨の日に外へ出て観察しようなんて思いもしないから、そういう視点はちょっと新鮮だ。
というか、逆に歩夢はそれをやったんだな……。
「他にもね、窓の近くで雨の音を聞いてるとね、すっごく落ち着くんだ。そのまま寝ちゃえるくらいね」
「あ……何となくそれは分かる気がする」
すずの会話に同調し、頷く。
動画サイトを見れば、ASMRなんていうジャンルで雨の音や焚き火の音が上がっているよな。生憎あたしは聴く機会はないが、やっぱり効果はあるんだろうな。
「えへへ、依織も雨の良さ、分かってくれる?」
「んー……ノーコメント」
あたしが適当にあしらうと、ぷう、とすずは頬を膨らませる。こういうところはまだまだ子どもだな。
「むー……雨の日はね、全っ然世界が違って見えるんだよ! ほんとだよ!」
「って言われてもさ、よく分かんねーんだよな」
雨の日は外には出ない。そして頭痛薬を飲んで安静に。これがあたしの基本ルールだ。だから、外のことなどあたしには知りようがないのだ。
あたしがあの手この手ですずの誘惑をかわし続けていると、ついに我慢の限界に達したすずが声を荒げた。
「もーっ、それなら今から外に出るよっ! ほら、着いてきてっ!」
「えっ、あっ、おい……!?」
すくりと立ち上がり、すずはあたしの腕をむんずと掴み上げる。反射でその手を振り解こうとしたが、噛み付いた指は一向に離れようとしない。子どもとは思えない力だ。
「絶対依織に雨の良さを分からせてあげるんだから! ほらっ、行くよっ!」
「わ、分かった、分かったよ……」
怒り心頭のすずに引きずられるようにして、そのまま外へと連れ出されたのだった。
傘を差して、雨の降る町へと繰り出す。玄関の扉を開けるやいなや、あたしたちの周りを雨の音が包む。アスファルトを叩く音、木々の葉を叩く音、屋根を叩く音。それぞれが渾然一体となって、不思議なハーモニーを奏でる。
「……なんか、こうして雨を見ることってなかったな……」
「でしょでしょ? ほらっ、行くよっ」
よそ見したあたしを、すずの手が力強く引っ張る。こいつ、いつの間にこんな力が強くなったんだ……?
連れられるままに、普段通りの道を歩く。こうして見ると、いつもの情景も雨が降っているというだけで少し違って見える。いつもより色が淡く見えるというか、何というか……。あたしは文筆家ではないから、上手く言語化できないのが悔しいな。
ひとりでぼんやりと思いを巡らせていると、突然すずがあたしの手を離して走り出した。
「ちょ、おい、すず!?」
「依織っ、これ見て!」
急に走り出されるとびっくりする。勘弁してくれ……。
そんなすずの言うとおり、彼女が指差したところを見ると、植え込みの土の上をアマガエルが這っているのが見えた。
「へえ、カエルか。もう見られるんだな」
「三月くらいから出てくるんだって。もう暖かいから起きちゃったんだね」
おいでおいで、とすずが指を近づける。そんな彼女の思いも虚しく、カエルは飛び跳ねて植え込みの陰へと去ってしまったのだった。
「あーあ、逃げちゃった」
「ま、そんな簡単に捕まえさせてはくれないな」
気を取り直してまた歩き出す。その道中にも、いろいろと発見があった。普段意識していないだけで、なかなかに面白いな。
他愛もない会話を交わしつつ、いつも遊んでいる公園まで辿り着いた。ベンチは使えないから、代わりに東屋で休憩だ。
すずはというと、傘を差したまま外で何やら楽しそうにしている。本当に雨が好きなんだな……。
「ま、こういうのもたまには悪くないか……」
正直なところ、最初は乗り気じゃなかった。仕方なく、すずのご機嫌取りの為に外に出たはずだった。けれど、いつの間にかそれを楽しんでしまっているあたしがいた。人って案外、単純なものなのかもしれない。
「ふふっ、人のこと言えねーな……」
雨の日に出かけて、ひとつ分かったことがある。
晴れと雨。両者の違いは、単純に見方の違いというだけだ。見る角度が違えば形が変わって見えるように、同じ町でも晴れと雨で景色が違う。それを知れただけでも、すずに着いてきた意味はあった。
今度、雨が題材の曲でも作ってみるか。
……その前に、まずははしゃいでいるあいつを呼び戻さないとな。
「おーい、すず、そろそろ帰るぞ!」
帰り道。すずと手を繋いで、はるかぜ荘までの帰路を行く。
「ねえねえ依織、雨の日どうだった?」
「なんか……いろいろ発見があったよ。ありがとな」
あたしがそう答えると、すずはどこか照れたように笑った。
「そう言ってもらえると、なんか嬉しいな、えへへ」
そんな彼女を横目で眺めながら、ふと考えごとに耽る。
雨の散歩に出かけたのは他でもないすずの提案だし、カエルを真っ先に見つけたのもすずだ。まだまだ子どもっぽいと思っていたんだが、もうすっかり一丁前に自分なりの感性を身につけているみたいだ。これは、なかなかバカにできないな。
「どうしたの、依織?」
「何でもないよ。……今日は本当に楽しかったよ、ありがとな」
すずがあたしの顔を見上げてくるので、その髪を優しく撫でてやる。その動作に彼女は少し戸惑いつつ、それでも嬉しそうにはにかんだ。
その時、ふと傘に当たる雨粒がなくなっていることに気が付いた。傘から手を出すと、綺麗さっぱり雨は上がっている。
「雨、上がっちまったな」
せっかく雨を楽しみに来たというのに、その雨が上がってしまっては意味がない。傘を閉じるあたしの隣で、すずは何やら一点をボーッと見つめていた。
「……依織、あれ見て」
「え? 何だよすず――」
すずが指を差した方角には、大きな虹が視界の端から端まで架かっていた。
「……綺麗だな」「うん……」
やっぱり、雨の日に出かけてよかった。散歩の締めくくりにそんなことを思える、大きな大きな虹だった。
「ただいま」「ただいまー!」
はるかぜ荘に帰ってくると、珍しく心晴が出迎えてくれた。
「おかえり……何してたの……?」
「散歩してたんだよ」
「さっきまで雨が降ってたのに……? 物好きだね、二人とも……」
あたしもそう思う。けど、思ってるより雨の日の散歩は楽しいんだぜ、心晴。今度心晴も連れて行ってみようかな。嫌がるかな、やっぱり。
「ねね、心晴、何してたの?」
「甘いもの、作ろうと思って。依織も手伝ってよ」
時刻を見ればすでに午後三時。ちょうどおやつ時だな。
「ああ、いいぜ。任せな」
「すずも手伝うよっ!」
雨のこと、外であった出来事、虹のこと……。そんな他愛もないようなことで笑いながら、キッチンへと移動する。雨上がりの日、窓の外から見えた景色は、心なしかいつもより輝いているように見えた。
コロナで大変ですが気張っていきましょう……僕も頑張ります。
さて、今回は雨の日の話。ちなみに僕は雨がそんなに好きじゃないです。