□Episode 34: 風と歌えば
ある晴れた日のこと。あたしはギターを持って、はるかぜ荘のテラスに上がっていた。
ギターと言っても、近所に配慮したサイレントギターだが。こいつならギターの音を撒き散らさずとも済むからな。木製の椅子に座り込むと、電源を入れてイヤホンを装着する。これで準備万端だ。ギターの弦を掻き鳴らしながら、のんびりと好きな歌を歌うのだった。
三月も下旬、寒さもだいぶ和らいで、ぽかぽかとした陽気が街を包むようになる。絶好の日向ぼっこ日和というやつだ。否応なしに少しテンションが上がってしまう。思わず歌にも力がこもる。
「……♪」
一曲歌い終わり、小さく息を吐く。ふと空を見上げると、青空に線を描く飛行機雲が見えた。
こうして歌っていると、何だか昔を思い出してしまうな。あの頃は暇さえあれば歌っていた。狭い自分の部屋で、人気の無い河川敷で、学校の屋上で。
別に誰かに聴かせたかったわけじゃない。聴かせる気もなかったし、聴かせるほど上手くもなかった。だからわざわざ人目に付かないところで歌っていた。ただ歌うことが楽しかったんだ。
「純粋だったんだな、あの頃は……」
今でもそりゃあ音楽そのものは楽しいし、あたしにとって音楽とは人生の一部でもある。だけど今は、これでお金を稼がなくちゃならない。そういう意味では、昔の方が「音楽」というものを楽しんでいたのかもしれないな。
今日だけでもそんな気分に浸ってみるか。人生、たまには息抜きも必要ってな。
再びギターに触れると、弦を掻き鳴らし始める。と、その時、背後に何かの気配を感じて振り返った。
「依織さん、こんな所にいたんですね!」
見ると、いつの間にか歩夢が大窓を開けてテラスに上がってきていた。イヤホンを付けていたせいで気が付かなかった。
「おう、歩夢。何か用か?」
あたしがそう尋ねると、彼女は少しばつが悪そうにもじもじとし始める。
「いやあ、別に用事ってほどじゃないんですけど……ダメ、ですかね?」
「……別に、ダメではないけどさ……」
歩夢の奴、時々自分の魅力を分かった上で振る舞っているような気がする。そんな風に上目遣いで可愛くお願いされたら、断れるものだって断れなくなるだろう。
もうひとつ椅子を引き寄せて歩夢の席を作ってやると、彼女は嬉しそうにしてそこに収まった。
「それで、何してたんですか?」
「見ての通りだよ。暇なんで歌ってたんだ」
先ほどまで演奏していたサイレントギターを見せる。すると、彼女はそれに興味津々といった様子で食いついた。
「それ、何ですか? ギターにしては変な形ですけど……」
「お、これか? これはサイレントギターって言ってな――」
サイレントギターは電気を利用するゆえに、通常のギターのように空洞を設ける必要が無い。だから、これはギターの形をしたフレームだけの姿になっているのだ。分解すればコンパクトに収納もできる、なかなか憎い奴だ。
「へえ……! すごいですね!」
そんなことを教えてやると、歩夢はすっかり感心してしまったようだ。あたしの持つギターをまじまじと見つめている。
こう素直な反応を見せられると、こちらも少し気をよくしてしまうな。歩夢にイヤホンの片割れを渡すと、ギターを構え直す。
「こうやって弦を鳴らすと……ほらな」
「わあっ……!」
ギターの幽霊みたいな楽器から我々のよく知るギターの音色が聞こえてきたことに、歩夢は表情を明るくする。
分かるなあ、その表情。あたしも最初は「ちゃんとギターの音が鳴るんだ」って驚いていたっけ。また昔を思い出して、少し笑顔になる。
「私も触ってみていいですかっ?」
「おう、いいぞ」
音が出る度に、歩夢は嬉しそうな顔をする。こうして見ると、何だか小さい妹がひとり増えたみたいだ。普段の歩夢は大人びて見えるけれど、こういうところはやっぱり年相応なんだな。微笑ましい。
「えへへ、一曲歌ってくれませんか?」
「ほい来た。歩夢のためなら何だって歌ってやるよ」
歩夢のおねだりを受け、ギターの弦に手を添える。誰に聴かせるわけでない歌も楽しいが、やっぱり誰かのために歌えると気分が盛り上がるな。
心を落ち着けて、息を吸う。そして、歩夢のためにあたしの歌を届けるのだった。
「……♪」
一曲歌い終わった後、歩夢は小さく拍手してくれた。こうして素直に喜んでくれると、歌った甲斐があるというものだ。歩夢は観客としては百点満点の人間だな。
「前から思ってたんですけど、私、やっぱり依織さんの声が好きです」
「そ、そうか……? 面と向かって言われるとちょっと照れるな」
自分の声に自信があるかといえば……まあ、ノーと言えば嘘になるが、少し背中がむず痒くなるな。とはいえせっかく歩夢が褒めてくれたんだ、ここは素直に喜んでおくとするか。
「……ありがとな。歩夢にそう言ってもらえると、あたしも励みになるよ」
「えへへ、依織さんの歌は世界一ですから」
「そこまで褒めると逆に嘘くさくなるっつーの」
そんなどうでもいいような話を繰り返す。涼しげな風が、二人の間を通り抜けていく。しばしそんな空気を満喫していると、不意に歩夢が肩にもたれかかってきた。
「っ……ど、どうした、歩夢?」
驚いて彼女の方を振り向くと、彼女は顔を赤らめてにこりと笑う。普段は見せない甘えた表情に、思わず胸の奥がどくんと跳ねるのがよく分かった。
「……少しだけ、いいですか?」
「あ、ああ……」
ダメ、なんて言えるわけがないだろう。やっぱり分かってやってるな、こいつ。それでも可愛らしく思えてしまうのがずるいところだ。
肩に触れた身体から、歩夢の重さ、そして体温を感じる。胸の高鳴りを何とかして止めようとしていると、歩夢はうわごとを呟くかのように口を開いた。
「依織さんの声を聴いてると、すごく落ち着いた気持ちになるんです」
「あたしの声が……?」
何を言っているのか信じられなくて、思わず問い返す。それでも彼女は、笑って頷き返した。
「格好いいのに優しくて、包み込まれるみたいな声……何だか、すごく懐かしくなるんです」
歩夢が、降ろしたあたしの手をぎゅっと握りしめる。「行かないで」とせがむ子どものようだ。
そんな歩夢の手を握りしめながら、少し考える。そういえば、前にも歩夢が似たような表情をしたことがあった。眠れない夜、縋るようにあたしを頼ってきたんだっけ。
心晴やすずの前では気丈に振る舞っているようだけど、なぜかあたしの前だけでは、こうして捨てられた子犬のように弱々しい顔を見せる。
「……依織さん」
どうしてだろう。単純にあたしのことを信頼してくれているのか。あるいは、誰か彼女にとって大切な人を重ねているだけなのか。歩夢にとって、あたし――椿山依織とは、いったい何なのか。
分からない。そんなことは、彼女のみが知ることだ。そしてそれをあたしが知る必要はないだろう。
あたしのやるべきことは、ただひとつだけ。これから先も、彼女を守ってやること。それだけだ。
「えへへ……」
歩夢の髪を優しく梳いてやると、ふにゃっ、と柔らかい笑みを見せる。その笑みが愛おしくて、また髪を撫でた。
「――なあ、歩夢」
「……はい? 何ですか……?」
今度は逆に、あたしが歩夢の手を握りしめてやる。二人の熱が溶け合って、その時だけはひとつになっているような気がした。
「……もっと甘えていいからな」
そう言うと、歩夢は嬉しそうに微笑んで、目を閉じた。
「……ありがとうございます、依織さん」
二人の間を、また風が通り抜けていく。火照った身体を鎮めるような、心地の良い、優しい風だった。
どれだけの間そうしていただろうか。もたれかかっていた歩夢の熱や体温が当然のように思えた頃、急に歩夢が飛び起きた。
「……はっ! いつまでもこうしてちゃダメですよね……!」
慌てふためいた顔でぱたぱたと身なりを直す歩夢。そんな様子がまるで子犬のようで、少し面白い。ちょっとだけからかってやるか。
「そうだな。ちょうど暑いと思ってたしな」
「うぅ……、ご、ごめんなさい……」
しおれた菜っ葉のように、ぐんにゃりと彼女は落ち込んだ。こちらとしてはちょっと小突いたくらいのつもりだったのだが、思った以上の反応を返されて少し戸惑う。そんな表情されたら、罪悪感が芽生えてくるだろ。
……しょうがないな。落とした肩に手を回し、ぐいっと抱き寄せる。先ほどと同じ体勢になるように、頭も優しく肩に添わせる。
「冗談だよ。……嫌なわけないだろ」
「えっ、あ……」
突然のことで驚いているのだろうか、歩夢の言葉が途切れ途切れになる。ふと目を向けると、耳たぶまで真っ赤に染まっているのが見えた。
「……いいん、ですか?」
おずおずと尋ねる歩夢に、笑って返してやる。
「ああ。歩夢が、これでちょっとでも安心できるならな」
「…………」
握り拳がぎゅっ、と膝の上で握られる。彼女の胸の高鳴りが、あたしにまで伝わってくるようだ。
「……ありがとうございます……えへへ」
そう言って優しく笑うと、歩夢はあたしの肩に全体重を託した。
「依織さんの肩、あったかくて、安心する……」
「しばらくこうしてていいからな。遠慮なんかするんじゃねえよ」
たとえ誰かを重ねていただけだとしても、歩夢にとってあたしが、安心できる居場所であれたらいいな。強がりを言うこともない、自然体で甘えられる居場所であれたら。そんなことを思った。
再びひとつの想いが胸の内に浮き上がる。歩夢を守ってやらないと。気丈に振る舞うには、きっとまだ彼女は脆すぎるから。
「……何か一緒に歌おうぜ。歩夢の好きな歌をさ」
今はただ寄り添ってあげよう。歩夢が笑っていられるために。
「――はいっ! じゃあ――」
春風吹き抜けるはるかぜ荘のテラス。あたしたちを包み込むような青空に、二人分の歌声が響き渡るのだった。
クソ女たらしすぎでは依織?(素朴な疑問)
アレなんですよ、はるかぜ荘内で唯一男勝りなキャラですし家事も得意となると軽率にスパダリ化せざるを得ない。これが二次創作なら全員とっくに抱いてる。