△Episode 33: ホワイトデー・サプライズ
とある日の昼。わたしは誰にも気付かれないように、歩夢の部屋を訪れていた。
ノックをする。反応がない。オーケー、まずは第一段階クリア。そうしてゆっくり扉を開けると、素早く辺りを確認する。不審な人影なし、クリアリングもオーケーだ。
……予定通り、歩夢はすずと出掛けているようだ。部屋を出ると、下で待ち構える依織にハンドサインで異常なしの合図を送る。
「……ここまでやる必要あるかよ」
「なんの。気付かれたらそこで作戦失敗だから」
……事は遡ること三十分前。
わたしは話があると依織をリビングに呼び出して、とある提案を持ちかけていた。
「……ねえ、依織。今週末が何の日か……分かる?」
「えっ……今週末? 何の日だっけ?」
依織は困惑した表情で首を捻る。とぼけないでよ、このにぶちん。まったく、肝心なときに限って役立たずだな、依織は……。
やや呆れてしまったが、ここは気を取り直さねばならない。コホン、と咳払いをひとつすると、早速本題へ切り込んでいく。
「ホワイトデーだよ、ホワイトデー」
「あぁ、たしかにそうだな……」
そうだな……じゃないよ。これは完全に忘れていたとみて間違いなさそうだ。すずが泣くぞ。
「歩夢から、心のこもったプレゼント、されたんだから……絶対に、お返ししたいの」
「なるほどな、それでそんな人生終わりの日みたいな深刻な顔してるわけだ」
どんな顔なんだろう。それはともかく、わたしは本気だ。歩夢が全力をぶつけてくれたチョコレート。ならば、わたしもそれに応えて全力を尽くすべきだ。今日のわたしは、本気だ。
「何となく話が見えてきたぞ。それで、あたしに手伝えってわけか」
「うん。依織だけが頼りなんだよ」
わたしひとりで作るのは流石にハードルが高いから、依織の手を借りればあるいは……といったところだ。
依織の目をじっと見つめる。頼む、イエスと言ってくれ……!
「…………ふふっ」
そんなわたしの思いが通じたのか、依織はやや噴き出したように笑った。
「……分かったよ。しょうがねえな、手伝ってやるよ」
「ほ、ほんと……!?」
これは大きい。依織の助力が得られれば、チョコ作りに失敗はないと言っても過言ではない。まさに百人力、千人力だ。
「ま、あたしもすずにお返ししとくべきだろうしな」
なんて口先では言っているが、その表情は満更でもなさそうなのだった。
――そして歩夢の不在を確認し、今に至るのだった。
「……そういえばさ、思ったんだけど」
「ん? どうした?」
調理器具を用意しながら、ふと思ったことを口に出す。
「……わたし、去年もすずが依織にチョコあげてるの見たけど、依織はちゃんと……返してるの?」
「あー……」
わたしが問いかけると、依織はばつが悪そうに視線を泳がせた。何か嫌な予感がするな。
「忙しいっつって、ちゃんと返してねえな……」
「……時々わたし、本気で依織のこと、軽蔑する……」
「なんでだよっ!? 申し訳ないとは思ってんだろ!?」
依織がそんな朴念仁だったとはがっかりだ。弁明する依織の声は耳に入れず、淡々と準備を進めるのだった。
そんな人の心がない依織も、料理の腕に関しては目を見張るものがあった。チョコ作りに手間取っている傍らで、彼女は手際よく作業を進めていく。
「すごい……ぐぬぬ、なんか悔しいな……」
「それほどでもねーよ。……ってか、悔しいなんて言うのはもっと上手くなってからにしろ」
「うぐぐぐ……!」
そういうところだよ、人の心がないなんて言われるのは……!
すこぶる腹が立つけれど、依織に比べたらわたしなんて蚊ほどの実力もないなんてことは、火を見るより明らかだ。厳しい言葉も甘んじて受け入れるしかない。……それでも腹は立つけれど。
「上手くなったら、絶対に見返してやるから……!」
「はいはい、期待してるぞー」
おちょくりやがって、このぉ……っ!
……怒ってばかりじゃダメだな。気を取り直して、わたしも作業に戻る。チョコ作りは繊細さが求められる作業だ。集中していこう。目の前の光景に全神経を集める。
「…………」
集中、集中……。気を逸らすなんてしちゃダメだ。一挙手一投足に至るまで、息を殺して緻密な作業へ。
「……………………」
もっと集中……温度管理もしっかりと……。頑張って、歩夢に最高のチョコを届けるんだ。
集中しなきゃ……集中……!
「……ぷはぁっ……つ、疲れた……!」
「気負いすぎだっての。もっと肩の力抜きな」
そうは言われても、どうしても気持ちが先走ってしまう。そんなわたしを見かねたのか、依織はわたしに話題を持ちかけた。
「そういや、心晴はどんなチョコを作りたいんだ?」
「どんなチョコ……って」
急に振られた話題に、やや当惑する。
「料理を作るときは、完成図を想像しながら作るといいんだ」
「そっか……」
そう言われて、どんなチョコを作ろうか想像力を働かせる。作るとしたら、歩夢がくれたようなハート型のチョコレート。いろいろデコレーションして、華やかに……うん、だいぶイメージが固まってきたぞ。
「ん……決まった、と思う」
「そりゃあいいこった。その調子で続けていくぞ」
そんな調子で、またお互いに黙々と作業を続けていく。さっきほどではないけれど、再び集中力を高める。調温作業は精密作業なのだ。
我ながら真剣な面持ちで作業に臨んでいると、ふと脳裏に歩夢の顔が浮かびあがってきた。
……いかんいかん、何考えてるんだわたしは。雑念まみれだ。
振り払おうとするわたしに構わず、脳内の歩夢はこちらに向けて笑いかけてくる。チョコを受け取ってすごく嬉しそうだ。いつもの子犬のような笑顔でこちらを見つめてくる。
「……どうした、心晴? 顔がにやけてるぞ」
「へっ!?」
依織に肩を小突かれて我に返る。どうやらわたしは、想像の世界に旅立ってしまっていたらしい。しかも歩夢の姿を想像しながら思いきりにやけていたなんて……。恥ずかしさで顔から火が出るとはまさにこのことだ。
「は、恥ずかしすぎるよ……!」
「どうせ歩夢のことでも考えてたんだろ。気が早いぞ」
おまけに図星を突かれて、さらに恥ずかしさが加速する。いっそ殺してくれ……!
そんな会話を繰り返しながら、ようやくチョコが完成した。理想にはやや及ばないが、とにかく今できることを全て詰め込んだチョコだ。悔いはない。
そのチョコを後ろ手に、わたしは歩夢の部屋の前へやってきていた。今日はホワイトデー当日。想いの詰まったチョコを絶対渡すんだ。
「……って……。なんで依織が着いてくるのさ……」
「何だよ、あたしが心配して来てやってんのに」
わたしの背後には、なぜか尊大な態度の依織が立っていたのだった。
正直邪魔なんだけれど。わたしと歩夢の大切な時間に立ち入らないでほしい。
わたしが頬を膨らませると、彼女はにやりと笑って言い放った。
「それとも、あたし抜きで歩夢にちゃんとチョコが渡せんのか?」
「うっ……」
それは……ちょっと、自信がないかもしれない……。歩夢に相対して、冷静でいられるかどうかもわからないし、そもそもいつものコミュ障が発揮されて全く喋れないかもしれない。
「……わかったよ」
「素直でよろしいこった。んじゃ、本番と行くか」
ゆっくりと頷くと、歩夢の部屋の扉を軽く三回ノックする。すると、五秒としないうちに扉が開いて歩夢が姿を現した。
「はい、はいっ! 何ですか?」
その勢いの良さに、わたしは軽く怯んでしまう。流石歩夢、どんな時だって全力だ……。
「心晴さんに依織さん。どうかしたんですか?」
「いやな、心晴の奴がお前に渡したいもんがあるんだと」
ナ、ナイスアシスト……! 普段はうざったいだけだけど、こういうときは役に立ってくれるかも。
仕切り直しだ。不思議そうにわたしを見つめる歩夢に対して、握っていたチョコを差し出す。
「こ、これっ、ホワイトデー、お返し……したくて」
言えた! 緊張で心臓がバクバクだったけれど、何とか言うことができた。
半ばつっけんどんに突き出されたチョコを受け取ると、歩夢は目をきらきらと輝かせた。
「そっか、今日はホワイトデーですもんね……! ありがとうございます! 嬉しいです!」
その笑顔は、いつもより眩しく輝いていて。ありがとう、というたったひとつの単語が、わたしの五臓六腑に余すところなく染み渡っていく。
さっきからずっと胸はドキドキしっぱなしだ。全く落ち着く気配がないし、もはや心臓が破れてしまうんじゃないかと思うくらいだ。
「……よ、喜んでもらえて、わたしも、嬉しい……」
それなのに、わたしは、この感情を不快に感じていない。それどころか、この状況が楽しいとさえ感じ始めている。快に満ちた、喜びのドキドキ。嬉しいような、怖いような、不安定な感情。
それを通じて、わたしはひとつの答えに辿り着く。
そうか、誰かに喜んでもらえるって、こんなに嬉しいことなんだ……!
「あのっ、私のお部屋で少しお話ししませんか? この前は心晴さんのお部屋にお邪魔しましたし……」
「……、えっ……?」
恍惚としていると、歩夢の唐突な提案によって不意を突かれてしまった。
ど、どうしよう。今はちょっと恥ずかしくて無理かもしれない。そう思って依織の方を振り返り、助けてくれと目で伝える。
「…………」
低めに拳を上げて、親指を立ててみせる。グッドラック、とでも言いたいのだろうか。全然準備できてないんですけど……。
そうこうしている間にも、歩夢の純粋な瞳はこちらを捉えて逃さない。とりあえず答えを出さないと。
「……わ、分かった。……行く」
「ほんとですか!?」
嬉しそうな歩夢に連れられて、彼女の部屋へと一歩足を踏み入れる。その最中に後ろを振り向くと、からかうような笑みで依織が手を振っていたのだった。気に食わないなあ。
床に座り込むと、歩夢がその隣にくっつくようにして腰を下ろした。そういえば、歩夢の部屋なんて滅多に入ることがなかった気がする。緊張してきた。
「これ、食べちゃってもいいですか?」
「え? あ、う、うん、もちろん……」
緊張のあまり上手く声が出せなかった。そんなことじゃいけない。落ち着け心晴。吸って、吐いて……。
そんなわたしの様子などどこ吹く風といった様子で、歩夢はチョコの包みを開けていく。紙が擦れる音の後に、飾り付けされたハート型が露わになる。全ての形が現れて、歩夢はそれを微笑みながら眺めていた。
どんなことを考えているんだろう。わたしには知る由もない。
「……それじゃ、いただきます」
「う、うん」
歩夢の白い歯がチョコを一欠片かじり取り、それを口に含む。それを舌で弄んだり、時に熱で溶かしたりしながら、喉の奥へと飲み込んだ。
「……うん、やっぱり美味しいです!」
「よ、よかった……!」
何とか喜んでもらえたみたいでホッとした。肩の荷が下りる、とはまさにこのことか。
「心晴さんの愛情がたっぷり伝わってきましたよ」
「愛情……なんて、そんな……」
不意に投げかけられる歩夢の言葉で、またわたしは赤面する。
放っておくと歩夢はすぐそういうことを言う。まあ、たしかに、愛情を込めて作ったとは思うけれど。
「私が心晴さんを喜ばせて、今度は心晴さんが私を喜ばせてくれて……バレンタインって、すっごく嬉しいですね!」
「…………うん……!」
あの時、チョコを受け取った歩夢の表情を見て、またあの笑顔が見たい、と思ってしまった。誰かに喜んでもらえることがこんなにも嬉しいことを、わたしは知ってしまったんだ。
全部、バレンタインのおかげかな。こんなに満たされているのも、こんなに幸せなのも。
「えへへ……大好きですよ、心晴さん」
「ん……わたしも、だよ」
歩夢がゆっくり肩を寄せてくるので、わたしも合わせて体重を掛ける。
最初に歩夢からチョコを渡されたときは少しびっくりしたけど、案外悪くないじゃないか、バレンタインもホワイトデーも。幸せすぎて死んでしまいそうだ。
ほんのりと香る歩夢の匂いと、柔らかな肌から伝わる熱を感じながら、わたしはゆっくり目を閉じるのだった。
歩夢が心晴に向ける愛情は全力投球なので、心晴も返そうとはするんですが、なかなか上手く行かないみたいです。不器用なので。