◎Episode 26: 依織の唄、櫻の笑顔
ふと目が覚めた。
真っ暗な部屋、もうろうとした意識の中で、記憶を頼りに携帯を探す。午前二時。全然寝れてないみたいだ。今からならもうちょっと寝られるかな。
「ふわぁ……っ」
大きな欠伸をひとつして、布団を被る。するとその時、暗闇に一筋明かりが差し込んでいるのが見えた。起き上がって、その光の出所を見る。部屋の外――リビングの方みたいだ。
どうしたんだろう。誰かが起きてるのかな。それとも単に電気の付け忘れだろうか。後者だったら電気の無駄遣いになるから、ちょっと見てみよう。
ゆっくり扉を開けると、すぐに誰かが話しているのが聞こえた。怪しい人かと一瞬警戒したけれど、すぐにそれが聞き覚えのある声だと気付く。声の主は誰だろう。二人……依織さんと、櫻さんだ。気付かれないよう、こっそり階上の廊下から覗く。
そこでは、依織さんと櫻さんがソファーに座ってゆっくりと話していた。流石にここからじゃ全部は聞き取れないけれど、何やら楽しげな話題を語らっているみたいだ。会話の片手にお酒を味わって……何だか、すごく絵になる。あれが大人の雰囲気ってやつなんだろうなあ。
しばらく二人の様子を眺めていると、不意に櫻さんが口を開いた。
「ねえ、あなたも見てないでこっち来たらどうかしら?」
「えっ!?」
こちらにも聞こえるように、さっきまでとは違うはきはきとした声で。視線は逸らさずこっちを捉えていて。
完全に気付かれてる――!
「お、歩夢。なんだ、見てたのか」
櫻さんの言葉に呼応して、依織さんまでもがこちらを振り返る。二人の視線に捕まって、もはや私に逃げ場なんてないも同然だった。
どうしよう。気持ちとしてはもう今すぐ部屋に戻って布団に隠れたい気分だけど、この状況ではそうするわけにもいかない。逡巡した結果、階下に降りて二人の前にやってきたのだった。
「ご、ごめんなさい! 盗み聞きするつもりはなかったんです……」
うう、言い逃れできない。どんなことを言われたって、甘んじて受け入れる以外の選択肢が見つからない。
きついお言葉を覚悟していたけれど、それとは裏腹に、櫻さんはいつもと変わらない微笑みを浮かべていた。
「いいのよ別に。話してたのは私たちの方だしね」
「ま、聞かれて困るような話でもないしな」
「あ、ありがとうございます……!」
よかった、二人ともいい人で。用も済んだところで自室へ引き返そうとすると、櫻さんが思いがけないことを口にした。
「そうだ、歩夢ちゃんもこっちに来て話しましょうよ」
「……え?」
振り返って二人の方をまじまじと見つめる。
「い、いいんですか?」
櫻さんはこくりと頷く。依織さんは……特に何も言わないけれど、目を見れば分かる。
「ありがとうございます……!」
二人の間にスペースを作ってもらい、そこに小さく収まる。冬の長い夜に、談笑の花が咲こうとしていた。
「二人は、何を話してたんですか?」
「いろいろよ。積もる話を少し、ね」
「なんか語弊があるな、その言い方……」
にっこりと笑う櫻さん。どんな話なんだろう。気になるな……。
そんなことを考えていると、依織さんが口を開く。
「せっかく来たんだし、何か聞きたいことでも聞かせてやるよ」
「聞きたいこと……ですか」
そう言って、何かないかと考え込む。どんなことを聞こうかな。正直言って、聞きたいことは山ほどあるんだけれど……。ぼんやり櫻さんと依織さんの顔を見る。
……あ。閃いた。
「私、お二人が出会った時の話を聞いてみたいです」
いつも仲が良くて息ぴったりの櫻さんと依織さん。まるで夫婦みたいに通じ合っている二人が、どうやって出会ったのかはすごく気になる。
「出会ったときの話ね……。それなら櫻の方が話しやすいか?」
「まあね。それじゃ、話させてもらうとするわ」
咳払いをひとつすると、櫻さんはゆっくりと語り始めるのだった。
「あれはもう五年前――いや、年が変わったから六年前の話なのね。あの日もこんな静かな夜だったわ」
櫻さんが語るのに合わせて、私もその情景を頭に思い浮かべる。動物たちも寒さに息を潜める、そんな夜を。
「仕事から帰る時にね、ちょうど路上で演奏してる依織ちゃんを見つけたのよ。何歌ってたんだっけ、たしか今も歌ってる――」
「も、もういいだろ。次行こうぜ、次」
あ、ごまかした。何か恥ずかしいことでもあるんだろうなあ。ちょっと知りたい気持ちはあったけれど、話の再開に合わせてまた想像力を働かせる。
――寒空の下、ギターを鳴らして歌う依織さん。それを見るのは、仕事帰りの櫻さん。それが二人の出会い。
「終わるまで見てたんだけど、それから依織ちゃんは動こうとしなくて。もらった投げ銭を見て溜め息を吐くばかり。それで思ったの、帰る場所がないのか……って」
背景をよく知らない私のために、依織さんが補足説明してくれる。
「あの時のあたしはさ、音楽やるためだけに田舎の実家を飛び出してきたんだ。住む所なんてなかったよ」
「そっか……。そんなことがあったんですね」
「ああ。だから、あの時櫻が話しかけてくれて……本当に良かった」
見かねた櫻さんが依織さんに手を差し伸べて。その時の依織さんの気持ちは、もしかしたら私にも分かるかもしれない。
誰も頼るものがない孤独な世界で、先の見えない未来に怯えていたあの日。その壁を、櫻さんは壊してくれた。あの時私が見た笑顔を、依織さんも見ていたんだ。
「その後、たしかファミレスに移動したんだっけ?」
「そうそう。あそこで食わせてくれたピラフがめちゃくちゃ美味く感じたのをよく覚えてるよ」
深夜のファミレスで、ピラフをかき込む依織さん……。何だか、今の落ち着いた依織さんからは想像できないな。
「その時に依織ちゃんの話も聞いたのよね」
「散々愚痴聞いてもらってたな」
「依織さんにもそんな時期があったんですね……」
今の依織さんは何というか、頼れる大人、って風でどっしり構えてるイメージなんだけれど。いつもすごく近くにいるのに、なぜだか遠い存在に思えていた。
「おいおい、あたしにだって若い頃はあったんだぞ? ま、今も若いけどな」
「依織ちゃん……自分で言っちゃうかそれ……」
きっと依織さんにも挫けたり悩んだりした時期があったんだろうなあ。いつか、その話も聞いてみたいな。
「その時にはるかぜ荘に来るって話もしたんですか?」
「ああ。最初はびっくりしたけどな」
あの日私に手を差し伸べてくれたように、櫻さんは依織さんを見捨てることもなかったんだ。櫻さんの笑顔は、光も闇も全部受け入れてしまうから。
「でも……櫻の顔を見てると、不思議と着いていってもいいかなって思えてさ。心配されて嬉しかったんだな、あたしは」
「依織ちゃん……」
そして、そんな笑顔に魅せられて、私たちは今ここにいるんだ。
「感謝してるよ。今までも、これからも……ずっと」
「……っ!」
櫻さんを見ると、今にも泣きそうな顔でふるふると震えている。ものすごく感極まっているのが傍目から見てもよく分かる。
「ありがとうっ、依織ちゃんっ!」
「おわぁっ!?」「ひゃっ、櫻さんっ……!」
次の瞬間、櫻さんは私の存在など意にも介さない勢いで依織さんの身体を抱擁した。
「くっ、苦しいです……」
もちろん、間に挟まった私は両隣の圧に押されてぎゅうぎゅう詰めだ。大人の女性二人にサンドイッチにされて、嬉しいような、苦しいような。
「おっ、お酒臭い……!」
「酔いが回ってんだな……ったく」
はあ、と溜め息を吐きながら、櫻さんをガムテープのごとく引きはがす依織さん。分離したかと思うと、櫻さんの身体はそのまま反対方向、ソファーの肘掛けにもたれてしまった。
「依織ちゃん……ずっと一緒……」
「はいはい……」
うわごとのように呟く櫻さんに、私たちはただ苦笑いを浮かべることしかできないのだった。
櫻さんがすやすやと寝息を立て、依織さんは穏やかな目でそれを見つめながら呟く。
「まあ、感謝してるのは本当だよ。櫻がいなきゃ、今のあたしはいないから」
「…………」
その横顔は、櫻さんへの確固たる信頼をありありと示していて。私が背伸びしたって埋められないような時間を、共に過ごしていて。
「……櫻さんのこと、大切に思ってるんですね」
あまりにも仲が良すぎて、ちょっと嫉妬してしまうくらいだ。
「そりゃ、もう五年の付き合いだからな。こうなったら、一生一緒だろうな」
そう言うと、依織さんは不意に遠い所を見つめて、何かを考えているような素振りを見せた。
「……ほんと、長く留まりすぎたな」
「依織さん……?」
彼女が口にした言葉に、一抹の不安感のようなものを感じる。それはさっきまでの優しい口調ではなく、どこか憂いを孕んだような、自嘲するような口調だったから。
「実はさ、ここに来て最初のうちは櫻とはあんまり仲が良くなかったんだよ。いつも喧嘩ばっかりだった」
「なんか意外ですね」
二人が喧嘩してるところなんて、あんまり想像が付かないな。
「櫻はルールを大事にするけど、あたしは何より自由が大切だったから。……それはあたしの本質だし、今でも変わってはいない」
彼女は一瞬表情を曇らせた。何かを感じたのかと思う間もなく、次の言葉が中空に放たれる。
「昔は毎日が退屈だったし、本気で櫻が嫌いだったときもあった」
「……」
その言葉に対して私は何も言わない。口を挟まずに、彼女の次の言葉を待つ。
「それなのに、ずいぶんと長い間、櫻の言うこと聞いてここにいてさ……。ほだされちまったな、あたしも」
また遠くを見て、考えるように溜め息を吐いた。その表情が何を意味しているかは、依織さん自身にしか分からない。
「……どこか遠くに行きたいって思ったことはないんですか?」
「遠くへ行きたい……か」
うーん、と小さく唸ると、彼女は深く考え込んだ。
「……思ったことがないと言えば、嘘になるかな」
やっぱり、そうなんだ。そりゃまあ、依織さんだってはるかぜ荘が一番じゃないかもしれないのは分かってるけど。それでも、急に不安になってきてしまう。
何かの拍子に、依織さんが離れていってしまうのかもしれない。そんな根拠も確証もない、もやもやとした感情だけが胸に残る。
「……歩夢?」「はっ、はい……!」
そんな気持ちが表情に出ていたのか、依織さんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「今何か不穏なこと考えてただろ。隠したって無駄だぞ」
「うっ……ごめんなさい」
そうだよね、そんなこと考えるなんて失礼だ。
小さく頭を下げると、彼女はふふっ、と面白そうに噴き出した。その仕草の意味が分からず、思わずきょとんとしてしまう。
「安心しろって、あたしはどこにも行ったりしないよ」
「ほ、ほんとですか……!?」
私の問いに答える代わりに、彼女は私の頭を撫でた。弦や鍵盤に触れて硬くなった指先が、髪を梳く。
「歩夢やすずがひとりで生きられるようになるまで、あたしはここにいるよ」
笑って小指を突き出す依織さん。それに応じて、私も小指を重ね合わせた。
「……約束、な」「はい……!」
依織さん、ずっとここにいてくれるんだ。そう思うだけで、心が融かされるように温かくなるのだった。
「さ、そろそろ寝ようぜ。明日も頑張らないとな」
「はいっ。……あ」
「どうした?」
ソファから立ち上がって、ふと気付く。
「櫻さん、どうしましょう……」
「……あー……」
「……まあ、放っておこうぜ。そのうち起きるだろうし」
「ええー……」
一抹の納得の行かなさを残したまま、長い夜は更けていくのだった。
捻りのないタイトルですが……依織と櫻の馴れ初めの簡単なお話です。
櫻は忙しいので(あとサブキャラなので)あんまり登場しませんが、こうしてスポットを当てたお話も書いていきたいですね。馴れ初めの話についても、もっと詳しい話を書いてみたいです。あわよくば本も出したい。