△Episode 24: 一年の計は春にあり(上)
冬真っ盛りのはるかぜ荘に、今日も朝がやってくる。窓の外からは、人の話す声や鳥の声が聞こえてくる。寒いというのにみんな元気だなぁ。一方のわたしはといえば、ベッドから動けないままだ。
冬は布団が暖かくてとても良い。快適、快適。気持ちよさすぎて欠伸が漏れてしまう。
よし、二度寝しよう。今はそれが一番だ。布団を被り直して、ゆっくりと目を閉じる。
「――心晴さんっ! 朝ご飯できましたよ!」
――その瞬間、目覚まし時計のごとく歩夢が部屋に飛び込んできた。
「うぅ……歩夢……」
「おはようございます、心晴さん。さ、行きますよ!」
私が何かを答える暇もなく、彼女は否応なしに布団を引きはがして引きずり出そうとしてきた。あまりに一瞬の出来事に、あれよあれよと布団から引っ張り出されてしまった。
「さ、寒い……!」
「ご飯食べたらあったかくなります!」
そしてそのまま、背中を押される形でずりずりとリビングまで連れてこられてしまったのだった。何というか、強引だなあ。
「お、来たか。ご飯できてるぞ」
既に食卓に着いていた依織も交えて、三人の朝食が始まる。櫻とすずはもう食べてしまった後らしい。
まだ寝起きでしょぼしょぼする目を擦りながら、箸で卵焼きを口に運ぶ。相変わらず依織の料理は美味しいな。最近は教えてもらっているが、なかなかこの味に近づけない。ちょっと腹が立つ。
そんなことを考えていると、その依織が不意に口を開いた。
「そうだ、これからランニングに行こうかと思ってるんだけど、二人ともどうだ?」
「……は?」
思わず呆れた声が出てしまった。その隣で、歩夢は目を輝かせている。
「いいですね! やりましょう!」
「えぇ……」
こんな寒い中、外に出るなんて自殺行為もいいところだ。正気の沙汰じゃない。
「わたしはやだ。絶対やりたくない」
そもそも、もっと温かくなってからでも遅くないと思うんだけど。そんな旨のことを声色を低くして答えると、依織は眉ひとつ動かさずにカウンターパンチを返してきた。
「でも、一年の計は元旦にあり、って言うだろ。運動を始めるのにこれほど良いチャンスもないってわけだ」
「えぇー……」
そうですか……。
ともかく、いくら説得されたって姿勢を変えるつもりはさらさらない。運動するにしたって、家で腹筋でもしてる方が五百倍マシだ。
それでもなお説得を試みる依織に抵抗していると、歩夢が急に頬を膨らませた。
「むう……私は、心晴さんと一緒にやりたいです!」
「うっ……」
参ったな、歩夢の言うことには逆らえない。でもここで断ったら、歩夢がさらにつむじを曲げるのは火を見るより明らかだ。
どうする、梅宮心晴。ここが正念場だ……!
「……分かったよ……一緒にやるよ」
「ほんとですか!? やったー!」
結局、素直に言うことを聞くしか選択肢はないのだった。我ながら結構情けない。
手持ちの適当な服に着替えて、寒さ極まる外へと出る。その瞬間、はるかぜ荘の前を強い風が薙いでいった。
「うわっ寒っ!? 寒いっ……!」
冬の風ともなると、寒いなんて生半可な言葉じゃ言い表せないくらいの低温だ。一瞬にして全身に鳥肌が広がるのが自分でもよく分かった。
これはまずい。絶対外に出るべきではない。このまま活動していたら凍死も免れない。歩夢に向けて必死に視線で訴えかけるものの、彼女は全く意に介することなく準備運動にいそしんでいる。非情だ……。
「よーし、身体は温まったか?」
「はいっ!」
依織の呼びかけに対して、歩夢は元気よく答える。それ自体はとてもいいことだけど……本当にこの状況下で始めるつもりなのだろうか。
狼狽えている間にも二人の準備は着々と進んでいく。
「行くぞ、二人とも!」
「レッツゴー!」
「えっ、ちょっ、待って……!」
そして、ついに地獄の行軍が始まったのだった。
依織を先頭にして、わたしと歩夢が並んでその後を追いかける。初めてだからか速度は気持ち抑えめだが、わたしにとってはハードなことに変わりない。
「身体温まってきましたね、心晴さん!」
「ま……まあ、そうだけど……」
無邪気な笑顔の彼女に応えかねて言葉を濁す。たしかに寒さを感じなくなってきたのは認めるが、今度は早々にバテ始めて別の地獄を味わっている。
うぅ、歩夢に頼まれたからってうかつに引き受けるんじゃなかった。これは命の危機だ。
「ぜぇ……ぜぇ……しんどい……」
「走りながら喋ると余計に疲れるぞ。黙って前を向くのが一番だ」
そうは言われても、しんどいことに変わりはない。今はまだまっすぐ走れているけど、いつ倒れるか分からない。
そんな私のことなどどこ吹く風とでも言うように、二人はすいすいと足取り軽く走っている。うぅ、腹が立つ。なんでそんなに楽そうに走れるんだ。わたしが引きこもりなのがダメなのか。
「ペース落ちてますよ? 大丈夫ですか?」
「大丈夫ではないかな……」
むしろ今のわたしを見て大丈夫だと思う人間がどこにいるのだろうか。卑屈になりすぎて、一周回って皮肉にも思えてきた。被害妄想甚だしい。
そんな風にして考えごとをしながら走っていたのが仇となったか、ふとした拍子に足がもつれてしまった。
「わっ……!?」
「心晴さんっ!?」
まずい。思考がごちゃごちゃになっていて、反応がワンテンポ遅れた。このままだと手を着けられない――!
と、その瞬間。併走していた歩夢の手がわたしの腕を掴んで引き上げた。
「よ、よかった……間に合ったぁ……」
彼女のおかげで、何とか地面との正面衝突は免れた。びっくりした……。
背後で起こった騒ぎを察知して、依織もすぐさまこちらへと駆けつけてくる。
「大丈夫か、心晴? 怪我とかしてないか?」
「うん……。とりあえずは、何ともない」
歩夢が助けてくれなかったらボロボロになっていたところだった。感謝してもしきれないというのは、こういうことを言うのか。
「ごめん、歩夢……」
「いいんですよ。無事でよかったです!」
迷惑を被ったのにもかかわらず、彼女はにっこりと笑ってみせる。それを見るだけで、わたしの罪悪感も解けていくようだった。
「よしっ、準備できたら再開です! 行きますよ、心晴さん!」
「う、うんっ……!」
目的地まであともう少し。ちょっとだけ気合いを入れて、もう一度足を動かすのだった。
そして、十数分後。
「着いたーっ!」「いやー、よく走ったな」
わたしたちは、目的地である噴水広場まで何とか辿り着くことができたのだった。歩夢と依織は気持ちよさそうに伸びなんかして休憩している。わたしはといえば、もう精も根も尽き果ててベンチに寝転がっていた。
「うぅ……つらい……もう身体動かない……」
こんなに運動したのは何年ぶりだろうか。思い出すのも億劫になるくらいの活動量だ。危うく死にかけるところだった。
「はい、お茶どうぞ」
「あ、歩夢……ありがと」
自販機で買ってきたのか、差し出されたペットボトルを開けてあおる。……ふう、少し気分がよくなったかもしれない。よいしょ、と身を起こす。
続いてやってきた依織も交えて、三人並んでベンチで休憩することにした。万物を凍えさせるような冬の風も、火照った身体にはちょうど良い空調の風だ。
「にしてもさ……なんで、急に運動なんてしようと思ったの……?」
落ち着いた頃に、依織に質問をぶつけてみる。彼女はうーん、としばし考える素振りを見せた。
「あたしたちってさ、はるかぜ荘にいると、あんまり運動してないなって思ってさ」
「たしかに……。身体動かすことって、そんなにないですからね」
そりゃあまあ、そうだ。そもそも身体を動かす必要がないし、したいとも思わなかったし。
「前から運動はしなきゃと思ってたんだけどさ、ひとりじゃやっぱ始められなくってさ」
はは、と自虐気味に笑った後、依織はわたしたち二人の顔を順に見る。
「……でも、みんなならできた。みんなでやれば、きっと続けられるって思うんだよ」
そう言って見せた表情は、歩夢のように全部照らしてしまうような笑みではなく、心の奥にすっと染み入ってくるような穏やかな笑みだった。
「私もそう思いますっ! 何事も助け合いって言いますしね!」
助け合い……。助け合い、か。
その言葉が脳裏に張り付いて、つい先ほどの出来事を想起させる。
足がもつれて、転びそうになって。それをすんでのところで歩夢が助けてくれた。あの時歩夢が手を伸ばしてくれなかったら、わたしは地面に突っ伏していたはずだ。そうしたら、ランニングなんて嫌になっていたかもしれない。
でも現実は違っていて、こうしてちゃんと最後まで走り終えることができて。
歩夢がいたから、歩夢が助けてくれたから……。
「――はる、心晴」
「ひゃっ……!? な、何……?」
依織の声で、想像の世界から現実へと引き上げられる。いつの間にか考えごとで我を失っていたみたいだ。
「どうしたんだよ、心晴?」
声のする方へ顔を向けると、そこにはいつになく心配そうな依織の顔があった。
「やっぱり、運動するの嫌だったか? 無理矢理連れてきちまったし……あたし、いつもそうだからさ」
これまた依織らしからぬ声色で、自分の気持ちを述べる彼女。それを聞いて、わたしは言葉を失った。そして同時に、心のどこかでストンと腑に落ちるような感覚がした。さっきからずっと、胸の奥でくすぶっていた気持ち。その正体が、ようやく掴めた気がする。
わたし、二人に嫉妬してたんだ。歩夢も依織も、何やらせても上手くこなせてしまうけど、それに比べてわたしは……。それが、ずっと悔しかったんだ。
それに気付いた時、強張っていた身体が緩んでいくような気がした。
「……ううん、気にしてないよ」
依織はわたしのことをちゃんとまっすぐ見てくれて、ちゃんと心配してくれてるんだ。そう思うとすごく嬉しくて、だから――。
「――ありがとう、依織」
「えっ……?」
今までで、一番素直で清々しい声が出たように思えた。
「わたしのこと、誘ってくれて……わたしのこと、見てくれて。……本当に、ありがとう」
今度は依織が言葉を失う。一瞬照れたような表情を見せたが、すぐに平静を取り戻す。
「よ、よせよ。今更そんなこと言われたら、こっぱずかしいだろ」
「ふふ、依織さんってば照れてますね」
「照れてねえよっ!?」
歩夢に突っつかれて、依織が焦った声を出す。こういう光景はちょっと珍しいかもしれない。
そんな様子を眺めながら、わたしはぼんやりと考えごとをしていた。
助け合い。さっきの言葉が、もう一度わたしの思考に現れる。助け合えば、わたしだって何かできるようになるのかな。ひとりじゃできないことも、みんなとなら――。
「――さ、そろそろ帰りましょう!」
「うん……っ」
言い争いが終わったのか、歩夢がわたしに向けて手を差し伸べる。その手を取って、わたしも立ち上がって一歩踏み出す。
「とりあえず、また来週も頑張るぞ!」
おーっ、なんて柄にもない掛け声をあげて、はるかぜ荘への道を行く。足取りは軽く、高らかに。
わたしも、何かやりたいこと、見つけてみようかな。
タイトルには(上)と付いていたりしますが、実際続き物とかいうわけではなく、いつも通りのはるかぜ荘です。
流されがちな心晴ですが、この体験を経て変化が……?