◎Episode 22: 鐘の鳴る夜に
すいません、例によって更新できてませんでした!
本当にすみません……
夜。はるかぜ荘のテラスから見えるのは、慎ましげに並ぶ家の灯りたち。それを眺めて、私は小さく溜め息をついた。今日は十二月三十一日。大晦日、と呼ばれる日だ。眼下にはあまり人は見受けられない。みんな自分の家で、各々の時間を過ごしているのかな。
去年までの私なら、こんな大事な日にだって何かを考えることもなかったかもしれない。そう言えるくらい、今年はいろいろなことがあった。
生まれて初めて家出というものを経験した。暗く冷たい水底から、暴力が支配する恐怖政治の世界から逃げ出したくて、必死に逃げ出した。
櫻さんと出会ったのはそんなときだったな。櫻さんは、親よりも、学校の先生よりも、今まで出会ってきたどんな大人よりも優しくて、明るくて、まるで太陽のような人だった。
彼女に手を引かれてはるかぜ荘にやってきて、この世界には優しい人がたくさんいることを知った。
どうやら世界は、私の思うよりずっと優しくて、温かいみたいだ。誰かを思いやる優しい心は、慈善団体とかそんな人たちだけが持っているものなんじゃなくて、どこにでもいるような普通の人だって持っているものなんだ。そんな簡単なことさえ、あの頃の私には分からなかった。
今までモノクロに見えてきた世界が、この数ヶ月で急速に色づいて――十四年間ずっと見えなかった世界が、ようやく見えるようになった気がする。
櫻さんは、はるかぜ荘の皆は、私に本当の世界の見方を教えてくれたんだ。
「神様みたい……なんてね」
そんなことを考えていると、何者かが背後の窓を開けて入ってきた。
「ほら、やっぱりここにいたでしょ」
「あ、ほんとだ……」
「櫻さん! 心晴さん!」
もう声だけで誰が入ってきたか分かる。振り向いて櫻さんと心晴さんの姿を認めると、彼女らに笑顔を見せる。
「心晴ちゃんが、歩夢ちゃんを探してたみたいなんだけど……何してたの?」
「いや、少し考えごとをしてて……いろいろあったなあ、って」
それを伝えると、櫻さんは少し表情を固めた。何か考えている様子だったけれど、それはすぐにいつもの表情へと戻された。何だったんだろう?
「……そうね。年末は少しセンチメンタルになっちゃうものね。二人が嫌じゃなければ、少し話さない?」
「は、はい。私はいいですけど……」
「ん。わたしも、いいよ」
決まりね、と言うと、櫻さんはテラスの手すりに寄りかかって立つ。それを真似するようにして、私たちも手すり際に立つのだった。涼しげな夜風が、三人の髪をさらっていく。
「――歩夢ちゃんはさ、ここに来てから何かいいことあったかしら?」
「いいこと……ですか?」
彼女の質問を受け、思わずそのまま言葉を返す。いいこと……か。そんなの、言うことはひとつしかない。
「私は、ここに来られたことが一番いいことですよ!」
今までも、そしてこれからも。多分きっと、はるかぜ荘にやってきたことは、私の中で一番の出来事になるはずだ。みんなに出会えていなかったら、今の私に笑顔はなかったから。
「ふふっ……そう言ってもらえるとありがたいわね」
櫻さんは優しい笑みを見せた。あの日見たのと同じ、凍った心さえ融かしてしまうような温かい笑顔だ。
「……『ここに来てから』って言ってるんだけど……それは無粋、かな……」
「あっ……」
嬉しそうな櫻さんの背後で心晴さんがぽつりと呟くのが聞こえた。確かにそれはそうだ。
「ほんとだ、私、何やってるんだろ……」
私としたことが、会話のキャッチボールが上手く成立していなかった。何か急いで返す言葉を考えなきゃ……!
「もう、無粋だと思うなら口に出しちゃダメよ」
そんなことをしていると、櫻さんが心晴さんの頭に軽くチョップを入れた。あう、とうめき声を出すと、心晴さんは非難するような目で彼女を見つめている。
「うぅ……何も叩かなくっても……」
「何も、じゃないわよ。せっかくのいいムードが台無しじゃない」
「だってぇ……」
だってじゃない、ともう一度チョップが心晴さんに炸裂した。心なしか、今のはちょっと痛そうだ。
「櫻の意地悪……っ!」
そんな二人のやり取りを見て、思わず噴き出してしまった。
「……ふっ、ふふっ……!」
「歩夢ちゃん?」
これがはるかぜ荘のあるべき姿なんだ。私は、この穏やかな空気が好きだ。悪意なんて存在しない、幸せなこの時間が好きだ。
「ど、どうしたの、歩夢……?」
「だ、だって、二人が言い合ってるのが面白くって……ふふっ、あはは……!」
「うぅ、なんか馬鹿にされてる気がする……」
ひとしきり笑った後、心晴さんにも質問をしてみる。
「……そういえば、心晴さんは何かいいことありましたか?」
「え、わたし……?」
私の問いかけに、心晴さんは少し戸惑ったような表情を見せたけれど、すぐに何かを考える素振りを見せた。そして、もじもじとしながら口を開いた。
「わ、わたしは……歩夢と出会えたこと、かな……」
「えっ」
思わぬ答えが返ってきて、言葉に詰まってしまう。ええと、「いいこと」が、私と出会えたことって、それって……。
壊れたヨーヨーみたいに思考回路がこんがらがって、何も考えられなくなってしまった。
「心晴ちゃん、いつも歩夢ちゃんにべったりだものね。そんなに気に入ったんだ」
返答できない私の代わりに櫻さんが心晴さんをからかう。くすくすと笑って楽しそうだ。
「うっ、うるさいなぁ! 言って損したよ……」
ぷう、と心晴さんは頬を膨らませて文句を言う。その光景は、やっぱりいつものはるかぜ荘そのものなのだった。
和気藹々とした空気も収まり、再びテラスに夜風が吹き抜ける。三人とも黙ってしまうと、寂しささえ覚えるような静けさだ。
そういえば、さっきの話……「いいこと」の話、ちゃんとした答えを返せていなかったな。心晴さんに指摘されて初めて気付いたけど、私がここに来てからよかったことって、何だろうか……。
「…………」
少し考えて、ゆっくりと思考をまとめる。上手く言葉にできるかは分からないけれど、言うのと言わないのとでは大きな違いだ。ちゃんと言葉にしなきゃ、伝わらない。
「……あ、あのっ」
「うん? どうしたの?」
意を決して声を出すと、櫻さんも心晴さんも優しい目をこちらに向けてくれた。
「……さっきの、『いいこと』の話、ずっと考えてて」
「いいことって……ああ」
心晴さんの顔が少し険しくなる。さっきの発言を気にしてるって思われたかな。
それも気になるけれど、今はちゃんと思っていることを言わないと。
「私、ここに来てから初めてのことをいっぱい経験しました。楽しいゲームも、サンタさんの来るクリスマスも……。こんなに楽しい大晦日だって初めてです」
お花の水やりもここに来てから覚えたし、はるかぜ荘ではどんなことだってできそうだ。
そして、何より――。
「何より、こんなに心穏やかに毎日を過ごせることが初めてで、よかったことなんて決められないんです……!」
恐怖に怯えていただけの日々はここにはない。今私がこんなに幸せな気持ちなのは、みんなのおかげだ。
それを改めて思ったその時、私のまぶたからは涙が零れ落ちていた。
「……あれ、私、なんで泣いてるんでしょうか……」
なんでだろう、おかしいな、ちっとも悲しくなんてないのに。涙はぼろぼろと流れるだけで、止まってくれる気配はない。
想定外の涙に戸惑っていると、櫻さんが私の身体を抱きしめてくれた。温かさが全身中に広がって、心の震えが止まるような気がした。
「泣かなくてもいいのよ。だって、これからはそれがあなたの『当たり前』だから」
「当たり前……」
そんなこと、一度も考えたことがなかった。私の当たり前って……なんだっけ。そんなもの、あの家を出た時に置いてきてしまったから。
「誰にも脅かされることなく、平穏に日々を過ごすこと。幸せでいられること。それが歩夢ちゃんの……はるかぜ荘の当たり前。ね、そうでしょ、心晴ちゃん」
「うんっ」
心晴さんの声が聞こえたかと思うと、私の背中に温かい感触がひとつ増えた。
「歩夢が辛くなったら、みんな、助けるから。いつでも言って……!」
……そっか。それが、私の当たり前なんだ。もうあの時のことを考えて、怯えなくてもいいんだ。もう、私は孤独じゃないんだ。
そう思うと、今まで私の背中に乗っていた荷物が降りたような気がした。
「……ありがとうございますっ、二人とも……!」
特大の涙が零れ落ちる。けれど、今度はそれを止める必要なんてなかった。嬉しい時にも涙は出るものだって、分かったから。
ぼろぼろと流れる涙が止まる頃、私たちは遠くに除夜の鐘の音を聞いた。腹の底を揺らすような重低音が、間隔を開けて聞こえてくる。ひとつ、ふたつ。
「あ……」
小さな声が漏れた他には、誰も何も言わず、ただ鐘の音を聞いていた。衝いた数が増える度に、今年が残り短くなっていくのを感じる。
「……今年も、もう終わりね」
「ですね……」
しばらくして、含むように櫻さんが呟いた。その横顔は、過ぎていく今を憂いているようにも、やってくる明日に期待しているようにも取れて。
「……でも、私は来年がちょっと楽しみですよ」
「そうなの?」
彼女は「同じだ」とも「違う」とも言わずに、ただ私の言うことを聞いてくれた。願うなら、私と同じだといいな。だって――。
「だって、まだ見たことのない『初めて』を、まだまだいっぱい楽しめるんですから――みんなと一緒、五人全員で!」
そうだ。どんなに「初めて」で楽しいことだとしても、五人のうちひとりでも欠けたら、きっとそれは楽しくない。だから、櫻さんにも同じ思いでいてほしかった。
私が自分のセリフを言い切ると、彼女はしばらく押し黙ったまま何かを考え始めた。それからにこりと笑うと、私の頭に手を置いた。
「……私も同じよ。来年が楽しみ」
「わ、わたしもっ……!」
櫻さんの言葉に追従するように、心晴さんも自分の気持ちを述べてくれた。想いはひとつ。今の私にとって、これ以上嬉しいことなどなかった。
「えへへ、みんながいてくれたら怖いものなしですね」
嬉しさに胸を躍らせていると、依織さんが一階から上がってくるのが見えた。
「おーい、年越しそばできたぞ」
「早くしないと冷めちゃうよっ!」
続けてその後ろからすずちゃんも顔を出す。いつの間にか二階には五人全員が揃っていた。
「行きましょうか」
「はいっ!」
全員揃って階段を降りる。その足取りは、明日を待ち侘びる喜びで跳ねているのだった。
今回は大晦日回、兼今までの振り返りです。
突発で始めた作品でしたが、とりあえずここまで続けられてとても嬉しいです。
これからももうちょっとだけ続いていくので、なにとぞはるかぜ荘のみんなをよろしくお願いします。