◎Episode 19: 二人分のノート、二人分の夢
とある朝。日課の水やりを済ませ、朝食もほどほどに食べ終えると、私は急いで自分の部屋へと駆け戻った。
「ふふん、ふん……♪」
そして、鼻歌を歌いながらうきうきとした気分である準備を進めていた。引き出しから必要なものを取り上げると、机の上にどんどん並べていく。
「鉛筆、消しゴム、問題集……よし、全部ある!」
特に何も欠けているものはない。うん、準備万端だ。
今日が何の日かというと、すずちゃんと一緒に勉強する日だ。以前本屋で「一緒に勉強しよう」と約束して以来、たびたび二人で勉強している。
すずちゃんは純粋に未来のことを考えていて、そのために勉強は何でも真剣にやっていて、それがすごくかっこいい。そういえば、本屋に行った時も「いろんな事を知りたい」って言っていたっけ。あの時の真剣な眼差しが今でも思い出せる。
私も自分について思うことはいろいろとあるから、しっかり勉強は頑張らないとね。
準備を終わらせて、すずちゃんの部屋へと向かう。扉の前に立ち、三回軽くノックをすると、すぐに元気な顔が飛び出してきた。
「はーい!」
「すずちゃんっ、準備できたよ!」
「あ、すずはまだ準備できてないや。ちょっと待ってて!」
そう言って一度部屋に戻るすずちゃん。時々かっこいいことを言うけれど、普段は小型犬みたいで可愛らしい。大人っぽさの中に無邪気さを隠している、というか。そのギャップが、すずちゃんの一番の魅力だと思う。
ほどなくして、また扉からすずちゃんが現れた。
「おまたせ、準備オッケーだよ!」
「よし! それじゃ、行こっか!」
二人並んでリビングに出て、向かい合う形で席に座る。その瞬間から勉強は始まっているのだと言わんばかりに、さっきまでの朗らかな顔から一変して、すずちゃんの表情が真剣なものになった。
「よーしっ、やるぞ……」
すずちゃん、集中するときはこんな表情をするんだ。「真剣」を通り越して、ちょっと怖いくらいだ。いつもの雰囲気からはかけ離れているから、意外だなぁ。
さて、私もしっかり頑張らないと。心の中でよし、と意気込むと、中学二年生用の問題集を開いた。
正面に座るすずちゃんは、高校一年生用の問題集を解き始めていた。彼女はまだ幼いけれど、特段頭が良いから何個も上の学年の問題も解けてしまう。
「ええと……これがこうなって……こうだから……」
ぶつぶつと何かを呟きながら、彼女は数学の問題をものすごいスピードで解いている。あまりにもスラスラと解くので簡単なのかと錯覚してしまうけれど、私には微塵も分からない問題ばかりだった。
もしすずちゃんと言い合いになったら、きっと私なんかすぐに負けちゃうんだろうなぁ。あんまり対立しないようにしないと。
そんなことを考えながら私も英語の問題を解いていると、分からない問題に出くわしてしまった。
「あれ、これどうやって訳せばいいんだろう……」
文章を和訳する問題でつまづいてしまった。何となくは分かるけれど、ちゃんと文章にしようとするとできなくなってしまう。困ったな。
参考書を見てもよく分からないし、誰かに教えてもらうこともできないし……。どうしようかな。
うんうんと頭を捻っていると、いつの間にかすずちゃんが私のノートを覗き込んでいた。
「どしたの、歩夢?」
「わわっ!? あ、えっと、今不定詞の和訳をしてるんだけど、分からなくって……」
「どれどれ……?」
彼女は問題集を取り上げると、さっきみたいな真剣な眼差しで問題文を黙読する。しばらくして、理解したのかそれを置くと、私に解説してくれた。
「不定詞には三つの用法があるわけだけど、そのパターンをやんわりとでもいいから覚えて、あとは周りの単語から類推するだけでもいいと思うな」
「ほえぇ、なるほど……」
その後、実際に問題を解きながらすずちゃんは解き方を指南してくれた。
「この文だとここに不定詞があるから、こう訳せて――こっちはここだから訳が違う――大丈夫? 分かる?」
「今のところは大丈夫……多分」
彼女の教え方はとても親切丁寧で分かりやすく、私でも理解できるような内容だった。しっかり勉強してるから、こんな上手い教え方ができるんだろうなあ。尊敬してしまう。
「――うん、こんな感じ。まあ、あんまり難しく考えなくてもいいんじゃないかな」
「す、すごい……!」
その辺の家庭教師だって敵わないくらい、本当に完璧な教え方だった。もはやどっちが年上なのか分からないレベルだ。勉強できるって、やっぱりかっこいいなあ。
「……でも、年下の子に教えられるのはちょっと複雑だなあ……」
屈辱と言うべきか、何と言うべきか。もちろんすずちゃんがすごいのはよく分かっているけれど、それでも年上としてのプライドが許さないというか何というか……うぅ、頭がもやもやしてきた。
「そ、そんなに落ち込まないでよぉ……」
ぐったりする私を見て、すずちゃんが慌ててフォローに入った。情けないな、私。
それからしばらく問題を解き続けて、およそ一時間ぐらいが経っただろうか。ページ数もかなり進んだところで、ひとまず休憩を挟むことにした。
「ふう、だいぶ進んだねぇ。疲れちゃったな」
二人分のマグカップに牛乳を注いで、ぐーんと足を伸ばしてくつろぐすずちゃんの前に置く。
「ありがと。えへへ、歩夢は勉強頑張ってるよね」
「当然だよ。もっと頑張らないとね」
私にはやりたいことがあるから。その為に、できることなら何でもやりたい。勉強だって全力を尽くしたいのだ。
……そういえば、すずちゃんは何をするために勉強をしてるんだろう?
「ねえ、すずちゃん?」
「何? どうしたの?」
何の気なしに声を掛けて、たった今思いついた事を問いかけてみる。
「すずちゃんってさ、勉強して将来何をするの?」
私の質問を聞くやいなや、彼女はえっ、とだけ声を上げて、それっきり黙り込んでしまった。まずい、何かすずちゃんの地雷に触れるような質問をしてしまったみたいだ。
私が見つめる中、彼女は俯いたまま難しい顔をして唸っている。そして顔を上げたかと思うと、ぽつりとひとつだけ呟いた。
「……分かんない」
「『分からない』?」
『決まっていない』ではなく?
彼女の言葉があまりにもピンと来ないものだったので、思わずそのままオウム返ししてしまった。
「依織は、『自分の決める道だ』って言ってたけど……ほんとは、よく分かってないんだ」
独り言のようにそう呟くと、彼女は何かを頼み込むような目でこちらを見上げてきた。
「……歩夢は……歩夢は、すずがどんなことをしたらいいと思う?」
「えっ……わ、私……っ?」
急に話題を振られて狼狽えてしまう。自分自身の話ならともかく、すずちゃんが何をしたらいいかなんて、きっと私が決められるわけがない。それこそ依織さんが言うように、「自分の決める道」だ。
何か気の利いた返し方でもできればいいんだけど。こういうとき、櫻さんならなんて言うだろうか。脳みそをフル回転させて、言葉を組み立てる。
「……私はね、ガーデニングのこと、いろいろやってみたいって思うんだ。だって、私はそれが好きだから」
好きだから。それが私が勉強をする原動力だ。できることをもっと増やしたいという一心で、ずっと頑張っているんだ。
「だから……すずちゃんも、自分の好きなことをやってみたらいいんじゃないかな」
「好きなこと、かぁ」
そっか、と小さく口にすると、彼女はにこりと笑った。いつも通り、無邪気なままの笑顔だった。
思っていたことを上手くは言葉にできなかったけれど、ちゃんと私の気持ちは伝わったみたいで一安心だ。
そのままゆったりとくつろいでいると、すずちゃんが私の方に倒れ込み、身体を預けてきた。
「どうしたの?」
「ん……えへへ、ちょっとだけ甘えたくなって」
彼女が照れたように笑う。不意に出てくる子どもっぽい笑みに、思わずきゅんとしてしまう。分かっててやってるのかな、すずちゃんは。
しかし、そんな風に見せた笑みも、急に現れた憂鬱そうな表情で塗りつぶされてしまった。
「……すごいなぁ、みんなは」
「えっ?」
すずちゃんがぽつりと呟いたが、私はその意味を掴むことができずに困惑する。
「……どういうこと?」
「だって、みんな好きなものがあって、それに向かってみんな一生懸命になってるじゃん」
たしかに、言われてみればそうだ。心晴さんはゲーム、依織さんは音楽、そして私はガーデニング。みんなそれが好きだから、頑張ってるんだ。
「それに比べて、すずは……あんまりそういうの、考えたことなかったかも」
はあ、と溜め息が中空に漏れる。そういえば、すずちゃんが何かを頑張っているのを見た記憶がないな。悪い意味ではなく、持ち前の才能で何でもできてしまうから、頑張る必要がないんだ。
「すずは……何が好きなんだろう……」
ぼんやり天井を見つめながら呟いた言葉に、思わず笑みが零れた。
たしかにすずちゃんは、賢くて、才能があって、とにかくすごい子だけれど、やっぱり中身はまだ子どもなのかもしれない。思い悩み、これから成長していく、私と変わらない存在だ。そう思うと、ちょっとだけ安心した。それと同時に、そんな彼女が急に愛らしく思えてきた。
気が付くと、私の手はすずちゃんの髪を優しく撫でていた。
「ふぇ……歩夢……?」
驚いてこちらを見つめる彼女の身体をぐいっと引き寄せ、また髪を撫でる。
「そういうのは、ゆっくり見つけていくといいんじゃないかな」
「ゆっくり……?」
すずちゃんはきょとんとした様子で私を見つめている。
「いろんなことを経験していったら、そのうち好きなことが見つかるかもって、思うんだ」
私がお花を好きになったのも、ひとりぼっちだったときに偶然見つけたお花が綺麗だったからって、それだけのことだから。
きっとすずちゃんにとってもそれは一緒だ。何かの巡り合わせで、好きなことが見つかるかもしれない。
「……そう、なのかな」
彼女は何かを考えるように呟くと、また懇願するような目で私の方を見上げてきた。
「じゃあ、一緒にやろ? すず、歩夢と一緒がいい」
彼女の仕草に思わずまたきゅんとして、間髪入れずに頷いた。
「うん、一緒にやろう!」
「ほんと……? えへへ、約束だよ」
差し出された小指同士を絡め合い、指切りをする。その時の彼女の表情は、もう思い悩んでなどいなかった。
「ありがとね、歩夢。ちょっとすっきりした」
「ううん。すずちゃんの力になれたなら嬉しいよ」
いつか、すずちゃんにも好きなことが見つかりますように。胸の内に願いを秘めて、また二人で勉強を再開するのだった。
歩夢とすず。犬キャラ同士の絡みですね。
心晴や依織には妹っぽく振る舞う歩夢ですが、すずに対してはお姉ちゃん面しちゃうみたいです。