□Episode 12: 静かな決意
ゆっくりと吹く風が気持ちいい、ある夜のこと。はるかぜ荘のウッドデッキへやってきたあたしは、ひとりでギターを鳴らしながら歌っていた。
はるかぜ荘の二階――今は物置にしかなっていないが――そこの窓を出ると、木製の小さなスペースがある。ここはあたしのお気に入りの場所だった。何か作業が煮詰まったりすると、ここに来てよく歌っていたっけ。
「……♪」
今日も今日とて、お気に入りの歌を弾きながら、ぼんやりと夜空に目を向ける。こうして空を見上げていると、何だか心が洗われるような気がする。
そんな調子で詞を口ずさんでいたが、背後の窓が開く音で弦に触れる手を止めた。
「やっぱりここにいた」
「あ、櫻。なんだ、探してたのか?」
振り向くと、部屋着姿の櫻がいつものように微笑んで立っていた。何やらあたしを探していたような口ぶりだったが、彼女はばつが悪そうに首を横に振った。
「別に特段探してるってわけじゃなかったんだけど……」
「……けど?」
話す口が止まり、急に言葉を濁す。何というか、いまいち要領が掴めないな。
疑惑の目を向けていると、彼女のばつの悪そうな顔はよりいっそう深まった。
「……なんか急に、依織ちゃんとお話ししたくって。ダメかな?」
えへへ、と柄にもないような声で笑う櫻。その姿は、いつものしっかりとした彼女の姿より幼く見えて。一瞬だけ、胸が高鳴る思いだった。
「ダメじゃないって。ほら、こっち座りなよ」
「ふふ、ありがとう。失礼するわね」
備え付けの椅子をひとつ引いてやり、あたしの隣に座れるように並べる。彼女はそこに腰を下ろすのだった。
櫻の目を気にすることなく、またあたしはギターを鳴らし始める。今度は櫻もよく知ってる、二人の好きな歌。たしか歌詞がすごく心に響くって、櫻は言ってたっけ。
ゆっくり歌っていると、櫻が不意にその旋律に乗ってくる。それに合わせるようにあたしがハモると、綺麗な和声が誕生する。
元のアーティストが、元々歌っていたように。ソロの部分は歌うのを止め、ハモりの部分でまた歌い出す。二人の声が、ギターのメロディを彩ってゆく。まるでそこだけ明るくなったかのように気分が高揚していた。
「……ふふっ、あはは」
「はははっ……なんか面白いな」
フルコーラスを歌い終わり、二人で目を見合わせて笑う。年甲斐もなくお茶目だな、櫻も。
ひとしきり笑うと、ふう、と息を吐いた。
「こうやって過ごしてると、なんか昔のことを思い出すな」
「昔って……まだ五年前のことでしょ」
昔――あたしが初めて櫻に出会い、共に生活し始めた頃の話。そういえば、あの頃からすずは一緒だったっけ。血も繋がってない、縁もゆかりもないような三人がひとつ屋根の下で暮らすなんて、今考えたら意味不明すぎて笑える話だ。
「でも、確かに懐かしいわね……。いろいろあったわね」
「ああ……ほんと、いろいろな」
櫻とすずに関してはともかく、あの頃のあたしは共同生活をするにはあまりにも若すぎた。十八で家を出て、音楽をやるんだとただひたすらに尖っていて。月並みな言葉だが、よく切れるナイフみたいな奴だった。
そんな人間が共同生活なんてできっこない。当然いろんな衝突があった。
「そういえば、一度だけものすごい口論になったことがあったっけ」
「あたしも同じ事考えてたよ。あれはひどかったな……」
たしか事の発端は、すずと出かけるときの話だったか。あたしが見栄を張って「ひとりでも面倒を見れる」って言うのを櫻が止めて、それで口論になった。あの時は日頃溜めてた鬱憤を全部ぶちまけて、聞くに堪えない言葉を連発してたな。
「……今更ながら、子どもだったな、あの頃は……」
「そうねえ……、私も素直に依織ちゃんを信じれば良かったんだけどね。私も若かった、ということかしら」
櫻はふふっ、と笑うと、星がまばらに浮かぶ夜空を眺める。
「今はもう若くない、みたいな言い草だな」
皮肉交じりのつぶやきに、彼女は振り返ってまた笑った。今度はさっきと違う、自虐気味の笑みだ。
「それはそうよ。もうアラサーだし、子どもみたいな存在が今は三人もいるしね。すっかりおばさんになっちゃったわ」
誰に向けるでもないように放った彼女の言葉が、少しだけ喉の奥に引っかかった。それにむせるかのように、衝動的に言葉が飛び出した。
「まだ二十九だろ。おばさんなんて言う歳でもないっての」
「依織ちゃん……?」
肩に掛けていたギターをテーブルの上に置き、デッキの手すりに手を掛ける。表情を見られたくなくて、町明かりを見下ろした。
「……それに、櫻は今でも綺麗だから」
「…………」
沈黙がしばし流れる。柄でもないことを言ったせいで、かなり気まずい。
でも、櫻が美人だと思っているのは本当だ。ぱっちりとした目に鼻筋が整っていて、今年で二十九と言われても信じられないくらいだ。
「……ふふふっ、ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
「お、お世辞じゃないって!」
冗談めかして笑う櫻に思わず振り返る。せっかく勇気を振り絞って口に出したのに、ただのお世辞で済まされては意味がない。
必死に反論していると、櫻は柔らかい笑みを浮かべて照れくさそうに頬を染めた。
「……分かってるわ。だって、依織ちゃんは嘘をつかないもの」
いつもの大人っぽさと洗練された雰囲気の中で、わずかに残る幼さが、あたしの心を捉えて放さない。やっぱり、櫻は綺麗だ。
「最初から本当の気持ちだって知ってるけど……認めたら、恥ずかしいじゃない」
「櫻……」
そんなことを言われると、あたしの方まで顔が赤くなってしまいそうだ。いったい、恥ずかしいのはどっちなのやら。
「へ、変なこと言って悪かったよ。とりあえず座れって……」
このまま目を合わせていたら、顔中の血管が破裂してしまいそうだ。思わず話題を切り上げ、自分もそそくさと椅子に座る。
「…………」
「…………」
何だか変な空気だ。お互い何を言うでもなく、ギターを弾くわけでもなく、ただぼんやりと空を眺めて。そんな状態の中、あたしはあんなこと言わなければ良かったと密かに後悔していた。
ふう、と溜め息をひとつする。すると、それに合わせるかのように、今度は櫻がおもむろに口を開いた。
「……ねえ、依織ちゃん?」
「うん? 何?」
名前を呼ばれて横を見ると、少し曇った様子の櫻の横顔があった。彼女はこちらを見ることなく、ぽつりと言葉を漏らす。
「依織ちゃんはさ、ここ……はるかぜ荘に来て、良かったって思ってるかな?」
「は……?」
どういう意味だろうか、それは。質問の真意を掴みかねて、気の抜けた生返事を返してしまう。
「ここだと、依織ちゃんの思い通りにならないこともいっぱいあったと思うし。何より、今でもここで依織ちゃんを縛ってしまってる」
俯いた彼女の表情がさらに陰る。この目は、本気で何かを思い悩んでいるときの顔だ。
「……時々考えては、取り返しの付かないことをしたのかなって、思ってるの。依織ちゃんだけじゃなくて、他のみんなにも……」
そういうことか。確かに昔のあたしは、何よりも自由を大切にする人間だった。だから最初は櫻とも上手く行かなかった。
けれど、仮にあの時彼女の手を拒んでいたとして、今よりも良い人生になったとは思えない。だからどれだけ櫻とそりが合わないと思っても、本気で家出を考えたことは一度もなかった。幼心に、きっとそれは理解していたんだろう。
だから、あたしはこう言う。
「……思ってるよ。ここに来て良かったって」
「…………っ」
立ち上がって櫻の前に立ち、潤んだ瞳を見下ろす。そして前屈みになると、その背中に優しく両手を回し、抱き寄せる。
「あ……っ」
立ち上がった勢いで、椅子が背もたれから倒れた。
そんなことを気にしている間もなく、あたしは一回り小さな櫻の身体を抱きしめる。
「だからさ、そんなこと言うな。あたしは縛られてるなんて思っちゃいない。自分の意思でここにいるんだ」
それに、今はすずや歩夢、心晴がいる。
「あたしには、守らなきゃいけない人がいるからな。はるかぜ荘のみんな……もちろん、櫻もだ」
「……依織ちゃん」
みんな大切な、あたしの家族だ。みんながいる限り、あたしはこの家に戻ってくる。みんなが受け入れてくれる限り、ここがあたしの帰る場所だ。
「ありがとね、櫻。……あたしを拾ってくれて」
「……私こそ、一緒にいてくれてありがとう……!」
櫻が肩に顔をうずめる。その髪を優しくほぐすように撫でた。身体の温かさが直に伝わって、額に汗が浮かぶ。それを拭き取ることもせず、ただ彼女の背中を抱きしめていたのだった。
気が済むまで抱擁を続けた後、櫻は腕をほどく。
「私、嬉しいわ。依織ちゃんがそんな風に思ってくれてて」
「大したことないさ。櫻があたしにくれたたくさんの恩に比べたら、こんなの豆粒ほどでもないよ」
櫻とはるかぜ荘は、あたしの人生を文字通り「変えて」くれた。この恩はきっとすぐには返しきれないだろう。だから、一生を使って返していくつもりだ。歳を重ね、朽ちていくその日まで。
「だから……まだまだ世話になるよ。よろしくな、櫻」
「……うん。よろしくね、依織ちゃん……!」
彼女が見せた幼げな笑みは、夜空の星よりも、町明かりよりも、他の何よりも輝いて見えたのだった。
椅子に座りながら、火照った身体を夜風に当てて冷ます。あたしはまたギターをかき鳴らし、お気に入りの歌を口ずさむ。
リズムに乗りながらそれを聴いていた櫻だったが、さびに入るとまた合わせて歌い出した。
「櫻もこの曲知ってるのか?」
「ううん。でも、依織ちゃんがずっと歌ってるから覚えちゃった」
「はは、なるほど」
そうして再び歌い出す。夜の空に、二人のユニゾンが響く。
歌い終わると、また顔を見合わせて笑ったのだった。
「依織ちゃんは、夢に向かって頑張ってて偉いわね」
「まあな。櫻のためにも、ちゃんと頑張らないといけないからな」
櫻のためだと思えば、どんなことだって成し遂げられるような気がしてくる。それほどまでに、あたしと櫻の絆は深く繋がっていた。
「櫻こそ、あたしたちのためにいつも働いてて偉いよ。ほんと、尊敬するよ」
「そ、そんなことないわよ……」
謙遜する彼女の髪を掬う。肩ほどに伸びた毛先がふわりと流れ、元の場所へと戻る。
「いや、偉いよ。……だから、あんまり無理すんなよ。困ったときはあたしを頼ってくれ」
「……」
あたしももう大人だし、はるかぜ荘を支えられるようになりたい。これも恩返しのひとつだな。
「……ふふ。じゃあ、頼らせてもらおうかしら」
そう言ってまた笑った。本当にいい笑顔だ。
「それにしても、ちょっと冷えて……くしゅんっ」
何かを言いかけて、櫻はそのままくしゃみをする。次いであたしの顔をまじまじと見ると、恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。
「冷えてきた、な。そろそろ戻るか」
「……うん」
窓を開け、屋内へと戻る。いつもの共用スペースまで戻ってくれば、先ほどまでの時間は消え、いつもの日常風景に引き戻される。
そして目の前には、いつも通りの、しっかり者の春見櫻が立っていた。
「それじゃ、おやすみ。早く寝るのよ」
「ああ、おやすみ」
挨拶を交わすと、お互いがお互いの部屋へ向かって踵を返す。扉を開けようとするあたしの背中に、再び櫻の声が掛けられる。
「依織ちゃん」「どうした?」
振り返ったかと思うと、彼女は目を細め、優しい微笑みを見せた。
「今日はありがとう。……おやすみなさい」
その笑みに心打たれ、同じように笑い返してみせた。
「どういたしまして。おやすみ、櫻」
別れを告げ、扉を閉じた。
ベッドに寝転び、これからのことを考える。もっと頑張らなきゃな。いつか彼女と肩を並べ、その手を引いていけるように。今はまだできなくても、いつかきっと。
「さ、早く寝るか……」
胸に静かな決意を抱いて、消灯のスイッチを押すのだった。
書いてるうちに思うんですが、櫻がお母さん役で依織がお父さん役みたいです。10代トリオは三姉妹ですね。かわいい。