猫(スフィンクス)
小児喘息で子供のころから、体育の授業はいつも見学。はあはあ言うほど動くと、発作の引き金になるから。でも小学三年生のときに、熱血教師が無理にサッカーをさせて、発作を起こして、大問題になったらしい。ぼくは吸入器を使って保健室で寝てたから知らないけど、連絡を受けて駆けつけた母親が激怒し、校長は平謝りで、熱血教師はその後研修に行かされて、しばらく違う先生が授業をしていた。戻ってきた熱血教師は腫れ物に触わるようにぼくに対応した。体育は絶対見学になった。毎年申し送りで、絶対体育をさせないように、と先生たちに徹底されたそうだ。
でもそういう特別扱いを受けている子供って、仲間外れになる。誰もぼくに話しかけなくなった。
あいつ、体育さぼってる。ズルい。
クラスのリーダー格の子が言い出したらもうアウトだ。ぼくに話しかけたやつは、次はそいつが無視されるんだから。
小学校も中学校も友達は一人もいなかった。勉強はそれなりにできたけど、高校はほとんど通わないまま退学した。フリースクールにしばらく通ってもうまくいかなくて、結局大検を取ることにした。同い年から一年遅れて大学に進み、なんとか卒業できた。大学生にもなるとクラスのつき合いはほとんどなかったし、黙って勉強してればよかったから。さすがにもう、体育をさぼってズルいなんてことを言うような人はいなかったし。研究室では人づきあいが必要だったけど、少人数だったので、単位を取るには誰かを無視してる場合じゃなかった。
でも就職活動ではまたつまづいた。
どうして高校中退したの、と面接で訊かれて。事情を話したら、落ちた。もう子供のころほど発作は起こさなくなっていたし、吸入器は持っていても、体は丈夫になったのだと言ったけれど。
結局のところ、健康で人づきあいが上手な人間を、会社は欲しいんだ。じゃあ、ぼくはいらない。
ぼくは不要の人間だ。
大学卒業時に就職できなくて、単発のアルバイトをする以外、引きこもりに近い生活になった。
「えり好みしなければ、就職できるはずだ」と、父は顔をしかめていたが、無理に働いて発作を起こしたらいけないと母が心配したため、引きこもりが許されていた。実際、仕事はえり好みするしかないんだ。埃っぽい場所や、喫煙者がいる場所では発作を起こしてしまう。人手不足の職場は多かれ少なかれ、発作の原因になるものや、作業がある。子供の時みたいに頻繁に発作を起こすことはなくなったけど、一度発作を起こしてしまうと、吸入器は無理矢理気管支を拡げるから心臓が爆発しそうなくらいの副作用があるし、体がダメージを受けて、二週間は薬のパッチを貼り、体力が回復するのに一か月くらいかかる。発作を起こしたあとはやせる。元々運動ができないから、体はひょろひょろだ。ぼくが人事担当者だって、そんな体の人間を雇うのは躊躇する。雇われるのが無理だからと言って、自分で起業できる才能もない。
飛行機の距離の父方の法事で、ぼくは行きたくなくて断った。子供のころに行ったら、虚弱児、虚弱児とさんざん言われたから。母はぼくを置いて出かけるのに難色を示したが、最近は発作を起こすことが少なくなって、一晩くらいどうということはないと説得した。
それで、両親が出かけたあと、一人きりで過ごしていた。部屋に一人でこもっているのと、家に誰もいないとは意外と違う。
母が用意していった、体にいい食事は食べる気がしなくて、コンビニに行くことにした。大学生のときに運転免許を取ったので、父の車で出た。せっかく外に出たのだから、ちょっと遠くまで走ってみよう。
そして、おかしな自販機を見つけた。
レンタルペットのラインナップが、「猫」「ケヅメリクガメ」「フトアゴヒゲトカゲ」って、どういうセレクションなんだろう…。
スフィンクスって、毛がない猫だ。毛がないから、抜け毛がない、つまり、喘息を起こさずに済む。だったら、大丈夫。
カメとトカゲも毛がないから発作を起こさずに済むけど、温かい柔らかい感触がよかった。
でも、実際に自販機の下のプラスチックのドアから出てきたスフィンクスは、無毛じゃなくて、ごく短い毛が生えていた。
この子といて、大丈夫かな。この毛で発作を起こしてしまうかな。
心配になったけど、猫は構わず僕の足に体を擦りつけてきた。すごく人懐っこい。柔らかくて、チノパン越しにもかすかに温かい。
体に巻きつけられたリードに、餌やトイレシートが入ったビニール袋を引きずっていて、そのままじゃかわいそうで、外して、車の中に猫を運んだ。しばらく車で一緒に過ごして、それでも発作を起こさなかったら家に連れ帰ろう。もし、息苦しくなったら、残念だけど、この場で返そう。
小学生のころ、母が親戚に渡すものがあってぼくも挨拶に連れていかれたことがある。猫を飼っている家で、玄関で失礼したのだが、母と親戚が話しているほんの数分で息が苦しくなった。板間のすみに猫の毛がふわふわしていたのと、玄関マットに毛がついていたのがいけなかったんだと思う。時間がないとか理由をつけて、早々においとましたが、ぼくはその家には二度と行かなかった。猫を飼っている家には二度と行かなかった。
でも、猫は好きだ。画面越しなら。屋外で遠くから見るくらいなら。猫が嫌いなんじゃない、猫の毛で息苦しくなるのが嫌いなんだ。
だから、スフィンクスに短いながらも毛があったのは期待を裏切られた気がしたが、手触りはすごくよかった。ビロードみたい。滑らかで、指に吸いつくようだ。
ぼくの膝に落ち着いた猫は、目をつむってゴロゴロ言っている。猫のゴロゴロって、こっちにも振動が伝わるんだ。ネット動画ではこんな体験はできない。
三十分車の中で抱いていたけど、幸い息苦しくならなかった。よかった、大丈夫みたいだ。もう子供のときほど発作を起こさなくなってるし、体が強くなったんだ。この子なら大丈夫。
うちに連れて帰ることにした。
ふわふわの毛布の繊維で発作を起こすので、毛布は繊維が外に出ないカバーを掛けてる。敷布団も同じ素材のカバーをかけて、ぼくが着る服も繊維が出にくい素材ばかりで、柔らかさとは縁がない。
四つ上の姉の部屋にはふわふわのものがたくさんあった。ぼくは姉の部屋には入らないけど、扉が開いてると中が見えて、柔らかいものに囲まれている姉が羨ましかった。
ぼくが小児喘息で手がかかって、姉はいつも親から後回しにされがちだった。今は申し訳なかったと思うけど、当時は幼くて、息苦しくて、姉のことは、健康なのが羨ましいだけだった。明け方発作を起こしたぼくの背中をさすっていた母は、寝不足で、くたくたで、朝食を準備できなくて、父と姉は自分たちで用意していた。小学生の姉がショートカットだったのは、母が髪を結んであげる時間がなかったからだ。中学に入ると姉は髪を伸ばし、自分で、結んだり編んだり、いろんな髪形にするようになった。今も、長くきれいな髪だ。
姉は遠くの大学に進学して、ふわふわしたものを全部持っていって、滅多に帰省しなかった。元々の姉の部屋に残っているのは、布団のないベッドや机みたいな硬いものばかり。そして姉は大学のある場所で就職して以来、二度しか帰省していない。正月やお盆というのではなく、中学と高校の同級生が結婚したときだ。
「親はいなかったと思えばあきらめがつくのよ」
と、姉が言ったことがある。友達の結婚式のあとだった。確かジューンブライドだった。その日のうちに自分のアパートに戻るけど、パーティードレスから着替えて、シャワーを浴びて、整髪剤を洗い落とした髪を乾かしていた。
「結婚式で新婦の子供時代のスライドショーを見てたら、動物園に行ったとか、拾った猫を飼ったとか、そういうエピソードは自分には全然ないなあって」
ぼくが喘息なので、毛のある動物を飼うのは無理、どちらにしろペットの世話をする時間的余裕は親にはなかった。
「家庭科の課題を母親に縫ってもらったとか。わたしは全部自分でやるしかなかったから、手際よすぎて、家庭科の教師にびっくりされたけど」
ドライヤーで乾かしたあとの髪を、扇風機で冷やし始めた。
「わたしは子供時代がなかったんだなあって。小さな大人であることを求められたから」
長い髪がからまないよう、指ですく。
「親がいなかったからだ。そう思えばあきらめがつくの」
ぼくに手がかかったせいだ。
謝ったら、姉は肩をすくめた。
「別にあんたのせいじゃないわよ。喘息でいつもぜいぜい言ってて、息苦しそうで、可哀想だったもの。好きで小児喘息になったわけじゃないし」
ぱちん、と音がして、姉が扇風機を止めた。
「ただ、わたしも子供の時間が欲しかったなあって。それだけ」
長い髪を、ふわふわしたリボンのついたバレッタで留めた。
「久しぶりに聞くと、うるさいわね、これ」
部屋の隅で稼働している空気清浄機を指さした。機能重視で選んだから、動作音が結構大きい。ぼくはすっかり慣れて、音がしていることも忘れるくらいだけど。そうか、姉の暮す部屋には空気清浄機はいらないんだ。
「あんた、子供の時間はたっぷりあったんだから、そろそろ大人になりな」
そう言って姉は帰っていった。
スフィンクスは毛がないから、宇宙人みたいな顔をしている。一般的には、ブサイク、かも。でも、温かい、柔らかい。抱きしめて頬をくっつけたら、同じように頬をくっつけてきて、すごく可愛いと思った。普通の猫みたいな普通の可愛さはないけど、ぼくにはすごく可愛い。小さな存在だけど、ぼくの中にある空っぽな部分を満たしてくれるみたいな気がした。ペットを飼うってこんななんだ。小児喘息で色々損をしたと感じたことはあったけど、ペットを飼えなかったことが一番損をしてた、と思った。
飼いたい。
翌日猫を返したあと、コンビニで無料の求人誌をもらって帰った。
ぱらぱらめくっていたら、サンドイッチの製造工場のアルバイトが目に入った。食品を扱うところなら、埃も煙草の煙りもない。マスクをしていていい、作業だけを黙々とやっていていい。
前にコンビニ弁当の求人を見たとき、そう言っていたら、父が「せっかく大学を出たのに、弁当を作るバイトか」と吐き捨てるように言ったので、それきりになっていた。
結局、職をえり好みしてるのは、ぼくより父だ。
いつまでも半分引きこもりみたいな生活をしてるより、父が文句を言うバイトでも、働いて少しでもお金を稼ぎたい。
求人誌にあった番号に電話したら、すぐに面接の日時が決まった。
雇ってもらえるといいな。
お金がたまったら、スフィンクスを飼いたい。もし、父に反対されたら、もっとお金をためて、家を出てからになるけど。
スフィンクスなら一緒に住んでも大丈夫だ。将来、飼えたら、姉にも見せたい。