猫(ミックス キジ白 八キロ)
虚しい…。
半年ぶりにお客さんに再会したのが。
さんざん、めちゃくちゃ、ものすごーく! 頑張って、痩せさせたのに、なんで半年でリバウンドしてるの。ねえ! ねえ! 結構なお金をもらったのに、なぜ半年でこんなことになってるの。あの日々は、料金はなんだったの。そりゃこっちは仕事。店長はウマウマの客の再来訪に揉み手で対応してたけど、手を尽くして脂肪を揉んだエステティシャンとしては、せっかく細くした体が、またしても増量してることに、がっかりだよ!
先輩はその点達観してる。
「寝転がって、人の手で痩せさせてもらったら、楽して痩せたら、たとえ何十万と払っても、また金を払えばいいと思っちゃうのよ」
だってだって、お金を稼ぐのは大変ですよ! わたしたちだって毎日毎日人の脂肪を揉んで、腕痛いとか腰痛いとか、ほんとに大変なのに。なんでこんな大変な思いをして稼いだお金を、無駄にするようなことになっちゃうの。
「お金を稼ぐほうが、食べるのを我慢するより、毎日運動するより、いいと思っちゃうのよ。仕事はルーティンだけど、食事を減らすのや運動をルーティンにするのはきついんでしょ」
そうなんですか。
あああ、また、また、脂肪を揉むのか。減らして、半年後には戻ってくるだろう、脂肪を。
仕事だから、揉んだよ。揉んだけどさ。
なんて、虚しいの。あれよ、あれ、なんだっけ、地獄で石を積むとかいうやつ。積んでも積んでも崩されるとかいうやつよ。なんなの、わたしの仕事。無意味? 拷問? 頑張っても、「痩せた!」というお客さんの笑顔が見られても、半年で元通りになっちゃうって。いや、元より増加してるって。
仕事だと割り切らなきゃ。
先輩を見習わなくちゃ。
「レストランの料理人なんか、お客さんの満腹の顔を見られるけど、翌日はまた空腹でやってくるわけでしょ。いちいち虚しくなってらんないでしょ」
とか、先輩は言うけど、食事は毎日三回するけど、痩身エステは毎日するもんじゃないです。
「若いねえ」
と、先輩は笑うけど、店長みたいに、お客さんをリピーターの金づると思えるようになったら、自分が嫌だ。
いつもより疲れて家路についた。疲れてたから、気がついたら、家よりはるか先まで車を走らせていた。帰宅が遅くて、道に車が少ない時間だから、ついついアクセルを踏んでしまって行き過ぎていた。
ため息ついてUターンし、路肩に停めてちょっと休むことにした。田んぼの中に自販機の灯りを見つけて何か飲めば落ち着くと思った。
無糖のお茶。もちろん。飲み物でカロリーを摂ってはいけない。ごくごく飲んで、びっくりするほどカロリーを摂ってしまうのがジュースとか炭酸なのだ。五百ミリリットルのペットボトル一本を飲むと、一時間速足ウォーキングで消費しなきゃならないくらいカロリーを摂ってしまう。
でも、予想したような飲み物の自販機ではなくて、食堂の食券用みたいな自販機だった。田んぼばかりの中に、閉店した小さな商店の入り口をふさぐように置かれた自販機。
レンタルペット自販機と書かれた機械に呆然とする。
うーん、疲れてるな。こんなものを見るなんて。自分では起きているつもりでも、実は寝ていて、今は夢の中なのかも。だってありえないし、自販機でレンタルペットなんて。
夢だしいいかーっと買ってみた、「猫(ミックス キジ白 八キロ) 半日レンタル」っていうのが、妙にほんとっぽくて。他のは「カイマン(十五センチ)」とか「タイハクオウム」とか、馴染みも現実味もないんだもの。五千円っていうのは、夢にしては高いなーと思ったけど。夢ならキラキラ光るコインとかで支払うんじゃないの?
食券みたいのが出てきたあと、自販機の下の大きな半透明のドアから、鈴の音と共に猫が顔を出した。
マジだ! 猫が出てきた! すごいな、夢。
鈴つきのリードが胴についているんだが、そのリードがついている部分が…。なんというか、リードが食い込んでる、埋まってる、毛に埋まってるんじゃないよね、これ。
猫が八キロって、こんななんだ。でっぷり、という擬音が聞こえそうな体だった。
なんなのよ、ふくよかな体を相手に仕事して、夢の中でもでっぷり猫って。
猫は途中で止まっていたので、体についているリードを引っ張ったら、猫トイレとビニール袋が先についていた。ビニール袋にカリカリした餌とプラスチックの容器が二つ入っている。あ、餌用と水用ね。はいはい。
…ってマジ? なんだか、すっごく現実っぽくない、この夢? 夢ってトイレとか、そういうのは無縁なものじゃない? 餌の容器とか、必要な時に空中から湧いて出るものじゃない?
…………これ、現実なの? わたし、猫をレンタルしちゃった。
「わたくしたちは、美の伝道師なのです!」とかいう店長の戯言は話半分に聞いているけど、実際問題として、痩身エステの従業員が太っていては仕事に差し支える。だから先輩たちは綺麗な人が多い。わたしは……、まあ、化粧をして、それなりに見れる程度ではあるが、とにかく、体重には気をつけている。ぽっちゃりになって、退職を勧告された人もいたらしい。普通の会社なら問題になるだろうが、痩身エステを営む以上、太った従業員はふさわしくないと言われるのもしょうがない。そして美しい先輩方に囲まれていると、緊張感があって、とてもとても太れない。
だから遅い時間に帰っても、シャワーではなく湯船につかる。一人暮らしで毎日湯船にお湯を張るのは結構光熱費がかかるのだが、必要経費だと思ってる。お湯につかって血行を良くするのは、ダイエットの鉄則。新陳代謝をよくして、老廃物を体にためないために、お風呂は重要なのだ。
猫を放っておいて大丈夫かなと思ったけど、湯船につからないわけにはいかない。その代わりいつもより短めに切り上げた。幸い猫はクッションの上で寝転んでいた。っていうか、クッションと同化してるのかってくらい、だらっとしてた。体がたるん、って。つきたてのお餅みたい。この子、本当に動かない。尻尾がぱたんぱたんしてなかったら、ぬいぐるみかと思っちゃう。
風呂上がりにタンクトップと短パン姿で、ヨガマットを床に敷き、習慣のストレッチとマッサージをした。血行がよくなっているところで、リンパの流れをよくして、むくみを解消する。
お風呂もストレッチも、溜めないため。肥満って結局は溜めることなんだ、脂肪や老廃物や水分を。
お客さんを痩せさせるために手を尽くすが、従業員は新人研修の練習台になるときを除けば、店の器具を使うことはない。だから、痩身エステに勤めているといっても、体重管理は自分の努力頼みだ。日常生活でできる努力はしている。
ストレッチのあと、お気に入りのバスローブを着た。風呂上がり直後じゃなくて、今頃着てるのはバスローブとして正しくないのかもしれないが、とにかくこの生地の感触が好きなのだ。厚手でふっかふか。洗濯後の渇きが悪い上、風合いが劣化するのを防ぐために乾燥機に入れちゃダメだろうが、この感触のためなら構わない。とにかくこの感触に癒されるのだ。ああ、至福。たまたま入った店で、触って虜になって、一人暮らしにバスローブなんていらないのに、自分の稼ぎではありえない値段なのに、買ってしまった。でも全然後悔してないし、むしろ心から満足してる。この感触に包まれてからが、わたしのリラックスタイムだ。
夕飯はサラダチキンとレンチンの冷凍ブロッコリーに、ノンオイルドレッシングかポン酢をかける。食べる時間が遅いので、大体いつもこんなの。夜は糖質は摂らずにタンパク質と野菜だけにしてる。疲れて料理をする気がしないというのもあるし、買い置きができるのも助かる。職業柄、太れないから、普段の夕飯に楽しみを求めるのはあきらめてる。休みは友達とでかけて、そのときは美味しいものを食べる。
猫には二つの容器に水と、カリカリしたキャットフードを出した。量はよくわからないから、袋に入ってたうちの四分の一くらい入れてみた。
が! なんと、あっという間に平らげた。ガッツガッツって感じで。さすがデブ猫。ダメよ、早食いはデブ習慣なのよ!
しかも、まだ欲しそうにわたしを見上げた。
ダメ! ダメよ! 夜なのよ。あ、猫って夜行性? いや、でもわたしが寝たら、電気が消えて、猫も寝るしかない。やっぱり、夜に食べ過ぎちゃダメ! これ以上はあげられないわ!
わたしを見上げて、容器を前足で叩く。なんだ、このアピールの強さ。
「ダメ」
にゃあ~ん。
うっ。可愛い声。
でもダメ。ダメなものはダメ。あなたはすでに太ってる。週一回のプチ絶食をしなくちゃいけないくらい。二十分耐えなさい。そうすれば満腹信号が出るから。早食いの恐ろしさは、満腹信号が出る前に食べ過ぎてしまうことなんだから。
にゃあ~ん。
ダメです。
にゃあ~ん。にゃあ~ん。
……ブロッコリーならあげてもいいか。自分の皿から、ドレッシングがかかってないのを選んで一つだけあげた。
にゃ。
…って、匂いを嗅いだだけで、前脚で転がして、おもちゃにし始めた。ええ、だったら二十分そうやって、満腹信号が出るまで待ちなさい。
それにしても、わたしの夕飯は猫さえ見向きもしないものだというの。猫って野菜を食べたよね。猫草って聞いたことがあるし。
そのうち、ブロッコリーに飽きたのか、座ってるわたしの膝にのって、バスローブを前足でこね始めた。
うむ。猫さえ魅了するバスローブの感触。さすが、わたしが一目ぼれして買ってしまっただけのことがある。気持ちいいよね、この生地。
バスローブ越し、猫のもみもみが膝に伝わってちょっとくすぐったい。
昼はお客さんの脂肪を揉んで、夜は猫に揉まれるとは。意外といいな、これ。
猫をいったん床におろして、ベッドにうつぶせになったらどうなるか、猫を見ていた。
ぽっちゃり猫は不満そうに鳴いたが、ベッドに上がってきて、わたしの背中にもみもみし始めた。
「あ、もーちょい下をお願いします」
言ったところで猫が揉む場所を変更してくれるわけじゃないけど、普段お客さんにやるばかりなので、やってもらうのが楽しかった。
もみもみもみ…。
猫の前足だし、厚手のバスローブ越しだし、実際にマッサージ効果があるわけじゃないけど、気持ちいいわ、これ。なんというか、自分以外の存在に大事にされてる感じ。うん、エステに通う人の気持ちがわかった。
やせるためじゃなく、人に手をかけてもらうために、エステにくるのかも。大事にされたくて。さすがに何十万も使っちゃうのは、わたしには理解できないけど、稼ぎの違いとか価値観の違いとかなんだろうな。わたしの癒しは高級バスローブでいっぱいいっぱいで、もしもっと高給をもらってたら、人の手で癒してもらうことを選べるだろうけど。
しばらくしたら、猫はもみもみをやめて、わたしの上でくつろぎだした。
…重いよ。
横におろして、バスローブにくっつけるようにして撫でた。さっきもみもみしてもらったお礼。
そうしてるうちに寝入ってしまった。
朝はカリカリの餌を少しずつあげた。やっぱりガッツガッツ食べるのね…。そしてあげたらあげただけ食べた。ねえ、あなたの満腹信号は壊れてない? まあ、朝食なら大丈夫よ、これからカロリー消費するんだから。
そして、車で自販機のところまで猫の返却に行った。猫は自分から自販機下のペットドアに入っていき、ちょっと振り返って、小さく鳴いた。
「一晩ありがと」
癒されたよ。
そして仕事場に向かうために、運転し始めて気づいたけど、朝食後、カロリー消費するのはわたし! 猫は、これから寝るんだ! だめじゃん!