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トイプードル(黒)

 疲れた。

 精神的に。

 いや、体だって疲れているけど、心のほうがもっと疲れてる。

 あいつのせいだよ、あいつ。

 上司をあいつとか言ってはいけない、なんていう礼儀なんて持てないような人間なんだよ。礼儀というのはお互いが持ってこそ成り立つものなの。

 いい上司と働いているラッキーな人はごくごく少数というのが現実なんだ。そんな話リアルで聞いたことないし。

 業務上のことを言われるのは構わないけど、いろんな女性(芸能人、社内の人、上司の家族)の、顔がどうとか、胸がどうとか、足がどうとか。わたしは、上司の髪の量とか、腹の出具合とか、口臭の程度とか、いちいち指摘しないんだから、上司も仕事以外のことは口にしないでほしい。前に上司の上に訴えたら、「仲良くしたいだけなんだよ」とかアホなことを言われた。そんなことを話して仲良くなれるわけないでしょうが、とオブラートに包んで言うと、「男同士ならそれで仲良くなれるんだけどねえ。女の子相手だと、彼は不器用なんだ」とさらに庇われた。アラサーを女の子呼ばわりする上司の上司に訴えても無駄らしい。でも一応、他にも困っている点を挙げた。人の机の引き出しを勝手に開けて、なんでも物を持ち出すのをやめて# 早々に引き出しには私物は一切置かないようにしたが、あるはずの文具が、書類がしょっちゅう行方不明で、仕事に差し支える。毎朝、上司の机の引き出しという引き出しを開け、文具や書類を取り返すことから一日が始まる仕事ってどうなのよ? もちろん自分のもの以外は一切触らない。備品管理が厳しいので、ボールペン一本にも自分のハンコを押した紙を貼りつけてある。「君はしっかりしてるから、フォローしてあげてくれ」って、引き出しの整理整頓なんて小学生だってできるようなこと、いいおじさんが、フォローされなきゃいけないってどういうことよ? そんなのわたしの業務じゃない。


 こんな気持ちを部屋に持ち込みたくない。シャワーを浴びても洗い流せない汚れみたいだから。仕事帰りに意味なく軽四を走らせて、音楽をかけて、大声で歌って、気持ちを切り替える時間を作った。通勤のための車だけど、気分転換の手段になってくれるのが助かる。これが電車やバス通勤だったら、同じように疲れた他人に囲まれて帰らなきゃならないから。みんなも頑張ってるから、わたしも頑張ろうという気持ちになれることもあるけど、今日みたいな日は無理だ。

 幹線道路を走って三十分、普段の生活圏から出て、Uターンしたら、田んぼだらけの道に自販機の灯りが見えた。

 あー、喉乾いたな。甘いの飲みたい。体重に響くからいつもは甘いものは飲まないようにしてるけど、今日はいいことにする。甘いの、甘いの…。

 車を停めると、元は小さな商店だったのが、閉店したけど自販機だけ残したような感じだった。店の出入り口をふさぐように大きな自販機が置かれている。

 で、気づいたんだけど。

 これ、ドリンクの自販機じゃない。

 食券制の食堂にあるみたいな、商品名が書かれたボタンが並んでいるタイプのもので、明らかにドリンクはない。

 そして、商品名としてあったのは…。

『ケツメリクガメ(二十センチ)』

『アミメニシキヘビ(五十センチ)』

『トイプードル(黒)』

 なんだ、これ…。

 自販機の一番上に、『レンタルペット』と書かれていた。

 ……レンタルペット? しかも自販機?

 ええと、ペットレンタルがあるのはまだしも、自販機っていうのは、動物虐待? いいの? 借りるんなら返さなきゃいけないんだけど、どうやって?

 いろんなことが頭に浮かんで、自販機にぶら下がっていたラミネート加工の説明書を見てみた。

『あなたの癒しに レンタルペット

 半日レンタル 五千円

 一日レンタル 一万円

 ペットシートと餌つき

 返却は下部のペットドアへ』

 料金が五千円と一万円だけなのが、妙にリアル。これ、自販機のおつりに五千円札しか入ってないってやつだ。田舎のさびれた自販機だと、値段が単純で、おつりも単純になってるって聞いたことがある。

 いやいや、でもまさかペットレンタルってそんな。お金を入れたけど、何も出てこなくて、だまされたーってなるやつじゃないの? だって周りは田んぼばっかりで、他に建物なんてなくて、誰に訊くことも訴えることもできない状況だもの。ドリンクの自販機ならトラブルのときの連絡先として電話番号が書いてあるけど、ここにはそんなのもない。

 でも、疲れてた。すごく。

 だから変なテンションのまま、五千円、だまされたーっで自分を笑うってのもありかなあ、ってお財布を出した。このラインナップだと、トイプードル(黒)一択でしょ。選択権があるようでない。どーすんのよ、カメやヘビ。どーしたらいいのかわかんないもん。トイプードルはまだいい、昔実家の隣りの犬を撫でたことがあるし。あの子、可愛かったし。

『トイプードル(黒) 半日レンタル』ボタンを押したピッて音のあと、どうせ何も出てこないでしょ、と思ったら、食券みたいの出てきた。見ると、『トイプードル(黒)半日(十二時間)』の文字のほか、今日の日付けと時間が印字されてる。そして、自販機の下についてるドアから、鈴の音がした。半透明のプラスチックのドアがぽこっと上がって、小さな黒い頭が出てきた。

 トイプードル(黒)だ。…ほんとに出てきた。えええ? レンタルペットってまじなの?

 見下ろしたら目が合った。

 か、可愛い…。どうしよう、可愛い。ちょっと待って、心の準備が。だって本当に出てくるなんて思わなかった。

 思わずしゃがむと、トイプードル(黒)がドアから完全に出てきて、寄ってきた。鈴は首輪についていた。リードを引っ張ってきてたけど、途中で引っかかってるらしく、止まった。なんでだろうと思って、リードを引いてみると、膨らんだビニール袋がついてきた。あ、ペットシートと餌だ、プラスチックの皿が二枚、餌と水用。なるほど。

 って、なるほどじゃないよ。まじだよ。ほんとにほんとにレンタルペットだよ。

 ペットシートと餌を見て、やっと生身の犬をレンタルした実感がわいてきた。

 うわあ、どうしよう。

 怪しい自販機にだまされちゃって、わたしって馬鹿ー、あはは、と笑う予定が。

 借りるって、悪い人が返しにこないことだってあるでしょう。いや、わたしはちゃんと返すけど。だって身分証明も何もしてない、ただ自販機にお金を入れてボタンを押しただけの人に、こんな可愛い犬を貸しちゃっていいものなの? 大丈夫なの、このシステム? オーナーさんは何を考えているの? 五千円で借りパクされたらどうするの?


 スマホで犬の飼い方を検索してみた。必要なもの、リード、餌、ペットシート、餌入れ、水入れ。ある。ベッドはバスタオルか毛布で代用できそう。ケージ、はさすがにないけど。

 ……うん、一晩だけならなんとかなりそうだ。

 それで、トイプードル(黒)に向き直った。

「一晩、うちに泊まる?」

 わん、と返事はしなかったが、口を開けて、はっはっと言ったから、多分、OKってことだよね。


 犬を乗せて運転したことはないけれど、急に飛びつかれたら困るから、多分、リードを短めにしてつないだほうがいいんだろうと思って、シートベルトの金具に縛った。幸い、トイプードル(黒)は助手席に伏せて、大人しくしててくれた。

 殺伐とした気分で走った道を、ふわふわした連れと戻る。

 一晩大丈夫かなあ、という不安はあるけれど、やっぱり、可愛いの。可愛いのよ、この子。可愛いだけで、もういいや、って気になってしまう。大丈夫とか大丈夫じゃないとか、どうでもいい。この子が可愛いから大丈夫ってことにする。なんとかする。この可愛さのために頑張れる。できそう。だって可愛いから。根拠なく思っちゃう、可愛いは無敵。

 信号待ちのたびに見下ろして、ふわふわの生き物にふにゃ~~~っと顔が緩む。トイプードル(黒)と目が合ったりすると、顔面崩壊が進んでヤバイ。

 小さなクマみたいな、ええと、テディベアカットっていうんだっけ。小さな犬というだけでも可愛いのに、毛が可愛くカットされてて、さらに可愛い。ああ、可愛い。

 それにしても、本当にこのレンタルペットはどういうシステムなんだろう。トイプードル(黒)も、カメもヘビもペットショップでは高い値段で売られているのだから、客の身元を確かめずにレンタルするなんてリスクありありじゃないのかな。

 …まさかとは思うけど。某回ってる寿司店の地下でUMAが低賃金きゅうりで寿司を握らされてるみたいなー、あんな感じで、あの小さな店の地下に巨大空間が広がってて、そこが子犬工場パピーミルとかカメ繁殖場の砂場になっている、なんてことは……。

 ないよね、ない、うんうん、ない。

 あー、でもこんなバカなことを考えられるくらい、気持ちが切り替わってる。

 ありがたいな、レンタルペット。トイプードル(黒)


 二十代後半になると、学生時代の友人たちも道がすっかり分かれて疎遠になる。働いていると責任ある立場になりつつあるし、結婚して子供を産んだらあまりに忙しくなってしまう。結局職場か家庭か、つきあいのある人間関係が固まってしまう。実家に帰省するときはついでに中学高校の友達に連絡を取ることもあったけれど、ここ数年実家に帰る精神的余裕がない。結婚はどうなんだ、孫を見せてくれないのか、面と向かって言われて嫌な顔をしてしまったら、その後は、近所の誰々ちゃんが結婚したとか、二人目ができたとか、遠回しにほのめかされるのがきつくて。電話なら三回に一回取って、適当に返事して早々に切ってしまえばいいけど。

 実家から離れて進学した大学のあいだに、中学の同級生で結婚した子が二人いた。早いなーと思った。

 大学でつきあっていた彼とは、社会人になって徐々にすれ違って別れた。今から考えると、彼が一番あってたかなあ。でも仕事が忙しくて結局それきりになってしまった。大学のある場所で就職してから仕事を覚えるのに必死だった時期は、彼氏を作る余裕がなかった。そのうち、大学の同級生で結婚する人が出始めて、あー、そんな歳になったんだなあと思ったけど、初めての後輩指導とかしてたらやっぱり忙しかった。大学のときの彼が結婚したと聞いたのと、周囲にアラサーって言われるようになって、彼氏なしなことに危機感を持ったから、そこからは時間を作って、出会って、つきあった。でもどの人ともうまくいかなかった。仕事が忙しい人とは予定が会わなくて、そのまま自然消滅。時間に余裕がある人は、わたしのほうが重く感じられて、ごめんなさい。唯一半年もった人は、のほほんとして、ラクだったけど、他にも女がいるようだと気づいて別れた。それで、結局一人。

 だって、朝起きて、朝食を作って食べて、お弁当を作って、洗濯物を干して、出勤して、定時に帰れたら超ラッキー、大抵は二、三時間の残業、帰宅してシャワーを浴びて、適当に食べて、可愛い動物の動画を見てるうちに寝るってウィークディで、週末は掃除と買い物と料理の作り置き、寝だめ、たまにゆっくりお風呂、それなりの外見を保つスキンケア、終わり、って、この生活のどこに彼氏とのんびりデートの時間を作れるの。寝だめをやめて、外に出ればいいのかもしれないけど、だらだら寝る気持ちよさは手放しがたい。

 結婚や子供を持つことの前に、彼氏とちゃんとつきあっていくことができない時点で、まずい。みんなどうやってこれをクリアしてるの。実家住まいで家事負担がないとか? 仕事だけで、料理も掃除も洗濯もしないなら確かにもう少し時間に余裕がある。

 働いて稼がないと生きていけない。だからあの上司もなんとか我慢する。でも仕事だけして生きていくのはあまりに味気ない。

 結婚や出産はしたいけど、今の生活でどうやってそういうものを実現したらいいのか。

 じゃあ、一生独身?

 でもこのまま死ぬまで一人という覚悟もない。


 部屋にあげたら、トイプードルはあちこちの匂いを嗅いでたので、その間に、ペットシートを広げ、プラスチックの容器に水と餌を入れた。初めての場所に来て、落ち着かないだろうから、そのうち食べたくなったら食べるだろうし、飲みたくなったら飲むだろうし。

 好きなだけ部屋を嗅ぎまわって、部屋の隅に置いてあった小さなクマのぬいぐるみをくわえて持ってきた。

「あ、それはさわらないで」

 慌てて取り上げて、犬には届かない高さに置く。トイプードルがくわえて遊ぶにはちょうどいい大きさだから、遊びたかったのかな。噛んだり、取ってこいしたりするようなおもちゃなんて、何も用意してなかった。タオルを丸めたものでもいいかなあ。

トイプードルは首を傾けていたが、わたしに寄ってきて鼻先をくっつけた。うーん、人懐っこい。可愛い。撫でると、ふわふわで、すっごく癒される。だまされたつもりで借りたけど、よかったな。

 それにしても、あんなぬいぐるみなんて忘れてた。クローゼットに放り込んでおいた気がするけど、いつ出したんだろう。

 昔元彼がゲーセンで取ってくれたやつ。なんかよくわからないクマのぬいぐるみ。なぜか水色。クマがどうして水色なんだろう。クマって茶色とか、白とかなのに。多分、UFOキャッチャーの一番取りやすいところにあったのが水色で、最初に入れたコインで取れたんだと思う。なんとなく残してあった。捨てられなくて。食事も水族館もなんでも割り勘だったし、他にプレゼントをもらったことはなくて、これだけ。もらったときの戸惑いや嬉しさが残ってて。

 元彼と言っても半年しかつきあってなかった。同僚の彼氏の友達で、今フリーなんだって、言われて連絡先を交換したけど、お互い仕事が忙しかったし、しょっちゅう会えるわけでもなくて、LINEにいつまでも既読がつかないことがお互いあった。お互い様だから不満にも思わなかった。本当につきあってるのかな、と思うことはあった。でも、他に女の人がいるようだと気づいたときには、もう連絡を取るのはやめようと言った。

 あーあ。あんな男のことなんて思い出してしまった。

 せっかく可愛い犬といるんだから、ふわふわの手触りを楽しまなくちゃ。


 早起きして近くの公園まで散歩した。トイプードル(黒)と一緒だと超楽しい! そして、こんな早朝に他にもたくさんの人が犬の散歩をしているとは思わなかった。

「おはようございます」と初対面の人に声をかけられてびっくりした。ただのあいさつで、こちらがもごもごと返事してそのまま別れる。でも、知らない人とあいさつを交わすなんていつ以来だろう。小学校のとき、横断歩道で旗を持っている当番の父兄とか? いや、いつの間にか顔なじみになるから、知らない人ではなかったか。じゃあ、初めて? かも?

 なんか不思議な感じだった。知らない人同士、早朝に犬を散歩させているだけなのに、あいさつを交わすなんて。でもそれが公園の習慣みたいで、会う人会う人、挨拶されたから、こっちもだんだん大きな声であいさつを返した。うん、意外といいな、これ。

 わたしの気分が伝わってるのか、トイプードルもスキップみたいな軽やかな足取りで、時々わたしを見上げて笑ってるような顔をする。犬ってちゃんと笑うんだ。

「楽しいね」

 トイプードルが、えへー、って顔をした。語尾に星がついてる感じで。

 三十分ほど歩いて帰ってきた。楽しかったけど、これが毎朝だと大変だなあ。犬を飼うって覚悟がいる。

 出勤の前に犬を返してこなきゃならないから、急いで支度して、今日はお弁当を作るのはなし、ビニ弁で手抜きするのでいいや。生き物がいると、何もかもきちんとするのは無理だ。

 そっか。たまに肩の力を抜かなきゃ。ウィークディに頑張りすぎて、土曜日を寝倒すより、普段からちょっとずつ力を抜いておけばいいのかも。

 名残惜しいけど、可愛い犬ともお別れだ。身支度を整え、振り返ると、トイプードルがあの、クマのぬいぐるみをくわえていた。届かないところに上げたはずなのに。

「うん。あげる。持っていって、それ」


 気がついたらそう言っていた。言ってから、本心だと思った。

 いつまでも取っておいても仕方ないもの。

 わたしはもういらない。好きなだけ噛んでいいよ。



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