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レベル7

『どうしたの、ナイ。おなか痛いの?』

「いや。いや」

 わたしはクインの胸に頭をうずめて、イヤイヤする。

 おそらく、心配してくれているのだろうが、そんな彼女の好意がいまは怖い。

 裏切ったと思われたくない。

 これ以上なく裏切っているのに。

 これ以上なく醜悪なのに。

 そんな汚い自分を知られたくないって思ってる。

 人間関係から逃げ続けて、本当の気持ちから逃げ続けて、だから彼女のひとりもできなかったのに。

 まだ、そんな状態を続けようとしている。

 クインにしがみついている。

 この手を離してしまえばいいのに。

「世界が滅びてしまえばいいのに……」

『え、何か言った?』

「こんなわたしなんか」

『ナイ。寂しかったの?』

 少しだけ腕を伸ばして、わたしの顔を見つめて、クインが問いかけている。

 その意味はわからない。

 わからないんだ。

 だけど、それが救いでもあった。

 こんなにも、言葉が伝わらないという事実に。

 わたしはとても安心したんだ。

 だから――。

 そんなフィルターのかかった世界だから。

 わたしは自分の心にバリアを張れる。

 わたしは……、またクインの優しさを利用しようとしている。

 言葉にして、伝わらなくても、それは言葉が通じなかったせいで、そういう受け取り方をした人のせいで、実際には本気で伝えようとも思っていないから、伝わるはずもない。

 いまだってそうだ。

 あきれるくらいのずるがしこさが、帳尻をあわせようともがいている。

 相手に言葉を暴投しておいて、それをアリバイ作りに利用しようとしてる。

 わたしはそんなダメな人間なんです。

 そのダメってことすら……、自分が異常だと思う心理すら、自分が特別でありたいという心の裏返しで、中学二年生のチートハーレム妄想と何も変わらない。

 でも、わたしはそういう人間なんだ。

 弱いわたしは、そんなことくらいしかできないから。

 ナイフで突き刺しあうような口げんかはできない。

 誰かと本気で語り合って否定されるのが怖くて、

 絶対に安全な領域からでしか、誰かとつながることはできないから。

 わかってほしいと思ってるくせに、

 人はわかりあえないなんて高尚ぶって、

 そのくせ、実際にわかりあえなかったら傷ついて、

 そんなちっぽけな自分を癒すために、

『ほら、やっぱりわかりあえなかった』って。

 そんな言い訳をして。

 こんな自分が本当に嫌いで。

 気持ちが、言葉に、なっていく。棘だらけの言葉に。

「ナイ……おいしいイヤ」

『ナイはおいしいのがイヤなの?』

「ナイ……おいしく、いや」

『わからないの。教えて、ナイが何を考えているのか』

「ナイ、おいしく……ない」

『ナイがおいしくない? 食べようなんて誰もしていないけれど……』

 クインは眉をひそめている。

 伝わらなかったかな。

 いいんだ。

 それでも。

 いままでだってそうだったじゃないか。

 いままでだって、どんなに自分が気持ちを伝えたって、誰にも本質的には伝わらなかった。

 みんなどうやって、気持ちを伝えたり、恋愛したり、結婚しているのかなんて、さっぱりわからなかった。いつのまにか、事務の子が寿退社したりしたときなんか、同期の同僚と恋愛してたなんて聞かされて、そんなことはまったくそいつからも聞いたことすらなくて、なにも知らないまま、世界の時間は流れていく。

 世界から取り残されていく。

 それはまぎれもなく、世間の優しい無関心というやつで、わたしはそのことに凍えるような寂しさを感じるとともに、やりきれないほどの温もりを感じたりもするんだ。

『もしかしてナイは自分のことが嫌いなの?』

「ナイ……イヤ。ナイ。イヤ」

『わたしはあなたのことが好きよ』

 静かな声だった。

 白くて透明な声が響いたような気がした。

 わたしは顔を上げる。

 クインはすっと自分の胸に人差し指を当てて、その指先を今度はわたしの胸に押し当てた。

 指先から、ふわっと暖かくなる。

 そして繰り返されるひとつのフレーズ。

 それは形や色合いを微妙に変えながら、わたしの中に染みこんでいく。

「ううううああああああっ」

 この世界の『言葉』が、もしも魔法だったとしたら。

 わたしは今まさに最強の魔法を教えられていた。


『好き』


 ずっと、誰かから言われたかった。

 誰かから言ってほしかった言葉。

 わたしが存在してもいいという証明。


『好きよナイ。あなたがここにいてくれて、私は嬉しい』

 わたしも好きです!

 幾千もの言葉より、幾万の言葉より、強烈なフレーズ。

 無双する言葉。

 わたしのネガティブな言葉が駆逐されていく。

 こんなにも嬉しいことはない。

「好き! クイン好き!」

『わたしもよ。ナイ』

 こうして世界は救われました。



 ところで、まあ当然のことながら、クインにはどうしてわたしが絶望していたかなんてことまでは伝わるはずもなく、いきなり泣き出したのも、なぜなのかわかるはずもないだろう。

 けれど、そういった不条理さも受け入れるだけの愛があって、それを感じるがゆえに、わたしは猛烈に気恥ずかしかった。

 わたし餓鬼ですやん。

 たぶん、前世のわたしより年下のはずなのに、精神年齢が違いすぎる。

 菩薩様ですかといいたい。

 女神様ですかといいたい。

 ありがたや。ありがたや。

 クインはわたしを抱っこしたまま立ち上がった。

 もはや、子ども扱いだが、今のわたしは拒絶なんてできるはずもない。

 恥ずかしがるのさえ、おこがましい。

 だからいいんだ。

 クインは少しだけ視線を上に向ける。

 そこには、わたしが直接的にここに『誰か』がいたことを悟った要因になった、小さなオブジェが吊り下げられていた。

 ガラスで作られた薄いお魚のオブジェ。

 天井から吊り下げられて、ゆらゆらと空中を泳いでいる。

『もしかすると、”あの子”がいたことを感じ取ったのかしら?』

「ん?」

『本当に……優しい子』

 もう何度めかもわからないけれど撫でられた。

 いまのわたしは癇癪を起こした子どもと変わらないだろうから、そんなわたしを刺激しないようにしてくれているのだろう。

 わたしもいつまでも駄々っ子ではいられない。

 クインのために、もっとがんばるんだ。

『ここをあなたの部屋にしましょうか』

「くぉくぉ?」

『そう。ここ』

 指差されたのは地面。

 あ、土下座ですか?

 自分、土下座なれてますんで、いつでもできますよ。

 なんて……、そんなわけはない。

 ここをわたしの部屋にするかと聞いているのだろう。

 つまり、わたしはたぶんここにいることを本当の意味で許されたのだろう。

 でも、それでいいのだろうか。

 クインの、たぶん子どもの部屋だったのだろうと思うし。

 いきなり見ず知らずのわたしが使い始めるのって、墓荒らしをしているようで、罪悪感が半端ない。

 おなかが痛い。持病のストレス性過敏性腸炎が再発しそう。

 そうだ。

 聞いておこう。

 せめてもの恩返しに。

 その子の――

「名前」

『え?』

「名前!」

 伝わらないかな。

 大丈夫。たぶん伝わる。

 わたしはクインの袖を引っ張って、外に出るよう促す。

 クインは、よくわかっていなかったようだが、わたしの指示に従ってくれた。

 指差したのはドアのところにかかっているプレートだ。

「名前……」

 きっと、まちがいなく、このプレートに刻まれているのは名前。

 今はもういない『誰か』の名前だ。

 わたしはその子の名前を知ってもいいのでしょうか。

 クインは、三秒間だけ目を瞑った。

 わたしのしていることは、心を踏み荒らすひどい行為なのかもしれない。

 だけど、それでも。

 踏みこみたいって思ったんだ。

 だって、彼女は打算でも利害でもなく、わたしのことを『好き』だって言ってくれたから。

『タルサ』

「名前。タルサ?」

『そう。タルサ。わたしの子。五歳のときに風邪をひいて、死んじゃったの。まだあんなに小さかったのに』

 クインは静かに泣いていた。

 わたしは小さくて頼りない自分の腕に、それでも精一杯の力をこめるしかなかった。



 それから後、クインはしばらく暇になったのか、ソファのところで本を読んでくれた。

 わたし、いまクインの膝におさまっています!

 これなら安心ですね!

 いや、ちょっとだけ恥ずかしいけど、しょうがないのだ。

 クインはたぶん傷ついているのかもしれない。

 いまのわたしが少しでも癒しになればと思うと無碍にもできなかった。

 膝に収まるだけで、癒し効果があるかは謎だけど、クインがそうしたいっていうならそうすればいいんじゃないかなって感じ。

 いくらでも、膝裏貸しますよ。

 膝裏貸すってなんだか謎ワードだけど。

 それはともかく絵本だが、まあ幼い子のための教材だろう。

 たぶん、タルサのための絵本だ。

 色がカラフルで、驚くべきことに絵の具を使って一枚一枚が描かれている。

 文明力の程度にもよるが、これは相当なお金がかかっているんじゃないかな。

 内容は、あおむしの主人公がいろいろなものを食べながら、最後はちょうちょになって羽ばたいていくというような話だった。

 絵だけでも、なんとなく内容は理解できる。

 ただ、絵に照応する単語を手っ取りばやく知りたいのなら、絵本は適切な教材だ。

 いまだけで『葉っぱ』『空』『お月様』『卵』『お日様』『あおむし』『おなか』『ぺこぺこ』『りんご』『梨』『すもも』『いちご』『さなぎ』『ちょうちょ』といった単語を覚えました!

 うっ。頭が溢れちゃいそう。

 受験戦争だってこんなに頭を使ってはいない。

 普段なにげなくおこなっている言葉を扱うという技術は、実はとてつもない高度なことなのかもしれない。英語やドイツ語みたいな外来の言語を最初から教えられるのとは訳が異なる。

 生まれたての赤ん坊が、最初に言葉を獲得していくような、そんなダイナミックさ。

 わたしの中に広がっていく、この異世界のイメージ。

 いまなら、わかる気がする。

 子どもはいつだって、初めて知った言葉に感動しているに違いない。

 大人だって、なにか感銘深いフレーズに出会うことはあるかもしれないが、子どもの、この初めての言葉を知るという経験は、何事にも変えがたいものがある。

 この頼りなく曖昧で不明確な世界に、爆発的に言葉が広がっていく。

 無窮の宇宙に光明が差し込み、ありとあらゆる意味が定義されていく。

 ビッグバンのようなものだろう。

 子どもは言葉を獲得することで、初めて『人』になれる。

 初めて、自分がひとりでいることを知り、自分がひとりではないことを知る。

 交信しようと試みる。

 ずっと、わたしは交信したかった。

 それが本当の願いだったんだ。

『さあ、そろそろお昼の時間ね。アニーたちが来るから、そろそろお昼ご飯の用意しなくちゃ』

「ん? 料理?」

『そうよ。料理。手伝ってくれる?』

「はい! はい!」

『いい子ね。じゃあ一緒につくりましょう』

「はい!」


 わたしにもわかる。わたしにもわかるぞ。意味が。



 覚えた言葉

『ナイ』『クイン』『名前』『はい』『いや』『倒れる』『アニー』『どうしたの』『料理』『着火』『消火』『水』『おいしい』


『『『『『『『好き』』』』』』』』


『ここ』『葉っぱ』『空』『お月様』『卵』『お日様』『あおむし』『おなか』『ぺこぺこ』『りんご』『梨』『すもも』『いちご』『さなぎ』『ちょうちょ』『タルサ』

好きって言って

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