レベル23
わたしは帰宅しようとしている。
朝のような溌剌とした気分ではなく、死刑囚がその執行のために自ら階段を一歩一歩のぼっているような、そんな感覚だ。
メリーランドはわたしに先行させ、後ろ約十メートルの位置につけている。
いつでも、拘束魔法を唱えることができる程度の位置なのだろう。
わたしの神言は、正直なところ対象をターゲッティングできる用語を知らないから、ふりむいて視認しなければならない。そのことをあいつらもなんとなく認識していて、だから振り向かせなければ大丈夫だと考えているんだろう。
視線を感じる。
チリチリと焼けつくような感情が乗った視線だ。
まるで、キアに睨まれたときのように、圧縮された想いがのっていた。
『マイプリンセスがなぜあの子に執着するのかわかった気がしますネ』
『あいつが言葉を本格的に覚え始めたらマズイっすね。誰も太刀打ちできなくなりそうっす』
『クソ……。マイプリンセスに想われるのはメリーさんだけでいいはずなのネ』
『うげげ。手足がもげる。もげるっす』
『しかし、どうしますかネ……』
『そうっすよね。なぜなら――』
『なぜなら、メリーさんたち、本当に殺してしまっているんですからネ』
わたしは、目を見開いた。
なぜなら――、
クインたちが住んでいた家は、台風が猛威をふるったかのようにめちゃくちゃに破壊されていたからだ。
当然、犯人はわたしの背後にいるメリーランドたちだろう。
家の外からじゃ、何もわからない。
窓やら壁に傷はついているが、家の骨格までは崩れているわけではない。
倒壊の危険もなさそうだ。
わたしは慎重に中へと歩みを進める。
中は昼間だというのに、薄暗かった。
なんの明かりもついておらず、機能していない。
人知れず汗がにじんでいた。
こんな緊張感。人生で味わったこと、ほとんどないよ。
あるとすれば――、そう、あの"事故"のとき。
両親が死んだことを聞かされたときぐらいだ。
這いずるようなスピードで、木の板の壁に手をこすりながら、身体を前に進める。
こんなにも自分の身体を重く感じたことはなかった。
居間には人の気配がない。
「着火」
ここで一息、大きな呼吸をし、わたしはあたりを照らす神言を唱える。
どこにいるんだ。
もしかしたら、病院みたいなところに自力でいったのかな。
それとも、メリーランドは本当に嘘をついておらず、クインたちは避難しているとか。
希望と絶望が交互に顔を出し、わたしの心は風に舞う木の葉のように定まらない。
ここにもいないし、台所のほうにも気配がない。
だとすれば、どこかの部屋か?
ふと、地面を見ると、大量の血痕が見つかった。
わたしは小さな声にならない呻き声のようなものをあげていた。
無意識に、心臓がわしづかみにされたみたいに呼吸が浅くなった。
膝の震えがとまらない。
小さな点のような紅い染みがひとつの部屋へと続いている。
足が固まったかのように動かない。
けれど行かなきゃ。
ドアは何かの衝撃を受けたのか、蝶番の部分がゆがんでいた。
押せども引けども開かない。
クソ。なんで開かないんだよ!
最後にはタックルの要領で、体当たりをかましたが、背中が痛いだけで終わってしまった。
『あの子。なにやってるんですかネ』
『アホなんでしょうね。それか、自分の力をいまだ使いこなせていないとか』
そうだ。
べつに、肉体言語にこだわる必要なんてないんだった。
なにを焦ってるんだ。
違う。
焦らなきゃダメなんだ。
もう、ぐちゃぐちゃでよくわからないよ。
「斬る!」
ドアはあっけなく真っ二つに割れ、わたしはすべりこむように部屋の中に入る。
そこには――。
☆
最初、わたしにはそれがマネキンか何かのように見えた。
力なくダラリとした手足が、無造作すぎるほどに放り出されていて。
人形のように、手が、足が不自然に折れ曲がっていて。
執拗に、目を
引いた。
ふたりの身体は折り重なるようにして、まるで力なく、生気の感じられない姿だった。
部屋の中に命の気配がない。
暖かな声も。
わたしに朝見せてくれた笑顔も。
呼吸も。
なにもなかった。
あたりには、焼け焦げたにおいが充満していて、彼女たちが着ている服はところどころ裂けたようになっている。
「く、クイン……」
無意識になにかしゃべった気がした。
わからない。
自分が何を考えているのか、ぜんぜん見えない。
冷静を通り越して、意識が機械のようになっていくのを感じる。
それじゃダメなんだ。
わたしは治す機械なんだから。
治すためにきたんだから。
もはや義務感ともいってもいい自動的な行動のみがわたしの口を開かせる。
「治れ! 治れ! 治れ! 治れ! 治れ!」
わたしは声が枯れるまで、治癒の神言を唱え続ける。
服の穴から、覗いていた見るもおぞましい傷は、わたしの言葉とともに修復した。
時間が巻き戻るのを見ているかのようだった。
『う……う』
「え? アニー!?」
アニーはごろりと横向けになると、まるで大きな何かのカタマリを口から出すかのように、大きく呼吸を開始した。死んでなかった!
うれしさがこみあげる。
でも、それも一瞬。
じゃあ、なんでクインは息をしていないんだ。
わたしの神言によって、クインの身体は元通り、けむくじゃらで、でも愛らしくて、わたしをよくなでてくれる手も、すっかり元に戻った。
でも、息をしていなかった。
まるで時間を巻き戻すかのように、傷を治すわたしの言葉も、本当の意味で時間を巻き戻しているわけではない。
時間は戻らない。因果は逆流しない。
女神様は言っていた。
――死んだ人間を生き返らせることはできない。
じゃあ、いま、わたしが傷を治したはずなのに、クインが動かないのはなぜだ。
決まってるじゃないか。
そんなこと。
心がどこまでも抽象化していくのを感じる。
やっぱり、こんな世界はまちがってる。
だってそうだろう。
クインとはもう言葉を交わせないんだから。
誰かと永久に話せなくなることを、"死んだ"と表現するんだから。
『あー、やっぱり死んじゃってましたネ。そこの猫耳はなんとか生きてたみたいですけど』
『どうやら戦士っぽかったっすからね。体力あったんでしょう。ただ、この場合――本命は死んだほうだったみたいですぜ』
『これから、こいつどうやって連れていきますかネ。こっちを怨んで攻撃してくるかと思ったらそうでもないですしネ』
『あー、しかたないっすね。ちょっと釘をさしときますか。姐さんいいっすか』
『ま、しかたないですネ。コロちゃんにお任せしますネ』
叫びたい気分だった。
いや、なにか猛烈な、マグマのような、ドロドロとした気持ちがあふれて、口から吐き出しそうな感覚。
この世界を滅ぼしてしまいたいような衝動を抑えるのに必死で、わたしは声がでない。
世界がきしんだような気がした。
滅べ――。
「なあ、おまえよ」人形が口を開く。「そいつが死んだのは、まあ残念だったな』
「……」
「人間というのはさぁ。二つのタイプがいる。絶望を目の前にして闘争心をむき出しにするタイプ。そして、逃げ出すタイプだ。おれっちの見立ててでは、おまえは後者だよ。抜け殻になっちまって、何もする気がない。そうだろう。だって、考えるのは疲れる。絶望を直視するのは疲れる。だったら、何も考えないほうがいい。そうじゃないか?」
「おまえたちが殺した」
「確かにそうかもしれない。ただ、おれっち達だって、好きで殺したわけじゃない。上からの命令ってやつだ。戦争なんだからな」
「そんなの関係ない」
「だったらどうする? その猫耳はまだ死んでないが、瀕死の状態だ。狭い室内でおまえが抵抗すれば、今度こそ生きているそいつも死ぬしかなくなるぞ」
昏い炎が胸のうちに去来する。
憎しみとも怒りともつかない。ただの否定の火。
わたしは振り返る。
こいつらを……。わたしは……。
殺したい。
『その世の中のすべてを否定するような瞳。マイプリンセスそっくりですネ。ひっひっひ。ああ、美しい。もっとよく見せてくださいネ』
『ちょ、ちょっと待ってくれ。姐さん。あまり刺激しないほうがいい』
『こんなにも狂った芸術品を目にして、メリーさんは高鳴る気持ちを抑えきれませんネ』
「だまれよ」
と、わたしは言う。
神言ではない言葉は、しかし誰も止めることはできない。
誰も――。
世界を滅ぼしたくても、誰かを傷つけたくても。
なにも変わらない。
変えることはできない。
だったら、わたしは自分が持ってる力を振るうだけだ。
「ま、待て。自棄になるなよ」
「もう、うんざりなんだ。おまえとは口を利きたくない」
『ひっひっひ。否定する。否定する。否定する。その言葉。マイプリンセスも、きっとお前のそういうところが気になっているに違いないネ』
メリーランドが何か言っていた。
『メリーさんは思うのですよ。この世界に神様なんていないってネ。だから、この世界は不完全なのです。さあコロちゃん、メリーさんの言葉を訳してください』
『あんまり、そういうふうに刺激しないほうがいいと思いますぜ。言葉の臨界点だ。グツグツと煮えたぎるマグマのようにおれっちには見えるっす。これだけの現実侵食能力があれば、言葉の前駆状態から、神言に成り上がるのはまさに一息といっていいっすよ。こいつには、それができる」
『いいからっ!』
『わかったっすよ……なにが起こっても知らないっすよ』
それから聞きなれた日本語が再び耳に届いた。
けれど、それはどこか異界の言葉めいていて、誰か知らないおぞましい何かが直接わたしに向かって言葉を投げかけているような感じがした。
『「世界を滅ぼしたいほどに打ちひしがれた人間は三つの経過を辿るのですネ」』
――ひとつは神を願い。
――ひとつは神を怨み。
――ひとつは神に至る。
『「残念ながら、メリーさんはせいぜい神様を怨むことぐらいしかできなかったネ。マイプリンセスのように、神になりかわることは不可能だったんですネ。おまえはどうですかネ? 神になりたいですか?」』
知ったことか。
すべてがわずらわしかった。
こいつらといっしょの空間にいたくない。
ブラウザをそっと閉じるように、目をふさいでいたかった。
世界を滅ぼすには足りないけれど、こいつらをどことも知れない場所に飛ばすことぐらいならできる。
それぐらいなら、カンタンだ。
「外に行け!」
『ちょ、メリーさんと会話しろよ。ぴ、ぴぎゃあああああああああああ』
『げ、シールドが壊れ……コワレ……』
世界を改変した感覚。
わたしの言葉が確実にメリーランドの何かを貫いた気がした。
現実を侵食するときに感じるわずかな抵抗感。
想像したのは、この国の外。
ワープしたのか、本当に物理的に吹っ飛ばされたのかは知らない。
そこまで指定はしていないし、そんなことはどうでもよかった。
漫画的な表現をすれば、メリーランドをふっとばした。
ただそれだけだ。
心の中には、むなしさしかない。
戦争だから死ぬしかないなんてまちがってる。
いや、因果なんてどうでもいいんだ。
原因なんてどうでもいい。
ただ、この現実をどうにかしてくれるなら、誰かが救ってくれるなら、わたしは悪魔にだってすがっただろう。
「神様……女神様……お願いしますよ。べつに、ご都合主義の神様でもいいじゃないですか」
「ああ、そう……、あんたはあたしをそういうふうに定義したいわけね」
光の粒子が集まって、そこには蒼い女神様が不機嫌そうに立っていた。
☆
「それで?」
「そ、それでとは……?」
「あたしにどうにかしてほしいとか、そういう都合のいいこと考えてるわけ?」
「神様なら、なんとかしてくれるかなと思ってるんですけど……」
「言ったでしょ。わたしの権限は言葉。死とは言葉を交わせなくなること。つまり、あたしの権限範囲外なの」
「お願いします。なんでもします。もし信徒になれっていうのならなりますから。毎日お供え物しますから」
「そんなものいらないわよ」
「だったら、なにか方法ないんですか。教えてくださいよ!」
「何度でも言う。死んだヒトを生き返らせることはできない。たとえ、あたしでも」
「だったら、ほら……冥府の神様とかお知り合いじゃないんですか」
「冥府の神はいる。ただ、個人の都合で誰かを生き返らせたりは絶対にしない」
わたしは焦ったように言葉をつむいでいた。
なにかを探してもがくように。
言葉をつむぐしか、わたしにはなかったからだ。
「イヤなんです。こんな結末、おかしいじゃないですか。わたしはただ単にちょっと言葉を覚えて、みんなに好かれるように努力したかっただけなのに」
「誰かに好かれたいという想いは、誰かに好かれなかった結果、世界を怨む要因になりうる」
「そうかもしれませんが」
「あんた、誰かを殺したかったでしょ」
「そうかもしれません……」
――、『死ね』と思ったでしょ。
「なんですか?『死ね』って」
「あんたが知りたがってた言葉。誰かと永久に言葉を交わさなくて済むようにする言葉」
「つまり、死ねっていう言葉ですか」
「そう。あんたは誰かを殺したがっていた。世界を滅ぼしたいと思っていた。だから、こういう結果になって満足なんじゃない?」
「違う!」
「違わない。いいのよ。あたしとしては、あなたがこれから人間の国まで、えっちらおっちらでかけていって、魔王をぶっころしてくるなら、それでもぜんぜんかまわない」
「そんなので……、なんにもならないじゃないですか。わたしが魔王を倒したらクインを生き返らせてくれるんですか」
「それは無理ね。それほどヒトの生き死には重いということなのよ。ただ、あんたが復讐鬼になって、人間の国に出て行ったら、復讐を完遂する可能性はそれなりに高いんじゃない? そのための言葉は授けたんだし、あとはあんた次第よ」
ついに、わたしは最終兵器とも呼べる『死ね』という言葉を女神様から授かってしまった。
でも、そんなのになんの意味があるんだろう。
クインの顔を見る。
物言わぬ顔を見ても、もう二度とあの優しかった声は聞けない。
もう二度と撫でてもらえない。
じわりと涙が視界をふさぐ。
誰かに復讐しても、そんなの意味がない。
もしかしたら、人によっては、復讐することでなにかしらの満足感が得られたり、前に進んだりできるのかもしれないけれど、わたしはただクインに生き返ってほしいだけなんだ。
誰かを傷つけるなんて、意味がない。
そうでしょう神様。
わたしが抗議めいた視線を向けると。
女神様は軽く微笑んだ気がした。
その、微笑が違和感だった。
そうだよ。
女神様は最初から言ってたじゃないか。
――世界を滅ぼすな
って。
そんな女神様が、わたしに誰かを殺すための言葉を授けるはずもない。
そんなことは望んでいるはずもないんだ。
わたしは信じるよ。
女神様。
そういうことでしょう。
『シニフィアンが現実界を侵食する。その力が最高に極まったとき、それをすなわち神喰と呼ぶ』
「神様……いまなんて」
「いいから、さっさと唱えなさい」
「はい!」
わたしはその言葉を唱える。
生き返れなんて言葉じゃない。
時よ戻れなんて言葉じゃない。
わたしは否定する。
そのほうが、なんだかわたしの存在にぴったりとはまる気がした。
――「クインは死んでない!」
世界がきしむ音がする。
矛盾を許容できるほどの力がはたして世界にはあるのだろうか。
それでも、この言葉の連結した宇宙を、わたしは変えたかった。
『冥府の神様怒るかしらねー。この世界自体のゲドシールドを神喰している。因果律の改変。運命の上書き。ああ、若干、権限踰越ぎみかしら』
光が世界にあふれていく。
わたしの言葉なんて、本当に小さな星の光のようなものだけれども、それでもこの言葉は何事もない世界を照らす光なんだ。
わたしはクインの手を握った。
その手が握り返されたとき、この世界がどこかまた変わった気がしたんだ。
覚えた言葉
『ナイ』『クイン』『名前』『はい』『いや』『倒れる』『アニー』『どうしたの』『料理』『着火』『消火』『水』『おいしい』『好き』『ここ』『葉っぱ』『空』『お月様』『卵』『お日様』『あおむし』『おなか』『ぺこぺこ』『りんご』『梨』『すもも』『いちご』『さなぎ』『ちょうちょ』『タルサ』『ミニー』『ごめんなさい』『友達』『ありがとう』『わかる』『いっしょ』『オベロン』『またね』『おかえりなさい』『ただいま』『外』『眠たい』『ダメ』『教える』『ランドルフ』『お風呂』『海』『おはよう』『いってらっしゃい』『いってきます』『キア』『行く』『斬る』『治す』『メリーランド』『大丈夫』『死ぬ』




