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レベル1

 それにしてもここはどこだろう。

 四角い格子状の窓が壁際に二つあって、そこから陽だまりがさしこんでいる。

 部屋は茶色い木製の壁で四方を囲まれていて、落ち着いた感じ。

 ベッドは、わりと巨大だ。

 わたしが小さくなったというのもあるかもしれないが、それでも現代社会のビジネスホテルにあるようなベッドよりもひとまわりほど大きいように感じる。

 そのわりには、スプリングとかきいてなかったな。

 技術的なことはよくわからないが、ベッドや枕って現代社会でもかなり科学をつかっているときくし、弾まないベッドなんてただの四角いなにかだ。

 とはいえ、毛布はふわわって感じ。

 やっぱり、異世界転生といえば、ファンタジィな世界なんだろうか。

 わたしは窓際に近づく。

 大きめの窓からは大きく切り取られた景色が見える。

 視線のずっと先には暗い森があって、ログハウスのような木製の家がまばらに立っていた。

 まだ朝方の早い時間なのか、人の気配はない。

 ちょうど雀がちゅんちゅんと鳴きだすような、そんな時間帯だ。

 雰囲気的には、中世っぽい感じもするけど、単に田舎なのかもしれないな。

 森の中の国というか、どこかの自然公園みたいだ。


――と、次の瞬間。


 わたしは背後にぞわりとした感覚を覚えた。

 そう、前世で何度も経験した誰かに見られているという感覚。

 そんな、もはや護身レベルにまで発達したコミュ障の反射動作である。

 見ないのも怖いので、恐る恐る振り返ると――、

 そこには、コボルトがいた。

「え?」

 その姿を認識した刹那、心臓がドクっと鳴る音が聞こえた気がした。

 振り向いた先、ドアのところには、そいつが立っていて、ニタリと笑っている。

 コボルトっていろいろなイメージがあると思うんだけど、わたしの中のイメージは犬だ。

 犬みたいなやつが二足歩行して、棍棒ふりまわしてるイメージ。

 目の前に立っているやつも、イメージそのままに、全身がけむくじゃらで、ただ少し異なるのは、ふわりとしたローブのようなものをまとっていて、胸の部分がわりと膨らんでいる。

 どうやらメスらしい。

 と、とりあえず、メスならエロ漫画みたいな展開にはならないとは思うけど、一ミリだって安心できない。

 も、もしかしてわたし食べられちゃったりするんでしょうか。

 そいつはじっと観察するようにこちらを見ている。

 わたしは壁際をまるでなめくじみたいに体をこすりつけながら、少しでも距離をとろうと動いている。

 さっきから体中が震えていて、うまく動けない。

 す……、っと、音のない動きでそいつが一歩足を進めた。

「ちょ、ちょっと待って。待って」

 転生して村から一歩もでないのに、いきなり殺されるなんて嫌だ。

 死にたくない。

 もっと生きていたい。

 まだ何も始まってないのに。

 やだ。やだよぉ。おなか痛い。おなかが猛烈に痛い。

「食べないでくださいいいい!」

 食べないよという幻聴が聞こえた気がしたが、当然そんなことはなく、コボルトは遠慮のないスピードでつかつかとわたしの方に歩みよってきている。

 わたしはもう完全に腰が抜けてしまって、よちよち歩きの赤ちゃんのように床をはいずることしかできない。

 あ、死んだなと、ゲーム脳的に思った。

 そいつはわたしの一歩前で立ち止まる。

 そして、口を開く。

 白い歯が覗く。

 場違いなことに、わりと磨かれていてお綺麗なんですね、などという意味不明な感想を抱く。

 コボルトは呪文のような何かを喋っている。

 たぶん、邪神かなにかの生贄にささげようとしているのだろう。

 さっきから、わたしの歯は壊れたシンバルを叩く玩具のように、カチカチ鳴りっぱなしである。

 ついでにといってはなんですが、この際だから告白させてもらえば、今しがた女の子としての初めてのアレもすませてしまった。

 わたし、とっても失禁ガール。

 失禁だけにショッキング。失禁だけに。

「ヒュフフ……」

 次の瞬間、わたしはそいつに組みつかれた。



 僕は死にましぇ―ん。

 いや……。

 よくわからないんだけど、さっきからコボルトにぎゅってされている。

 ただそれはどこまでもソフトなタッチで、息苦しさを感じない。

 そして、嫌な臭いもしなかった。

 獣の臭いでもするのかと思っていたら、なんと、お日様の匂いのする毛布のような感覚だったのだ!

 なんだかぽかぽかして安心する。

 さっきの緊張感がうそのように薄れていく。

 人のことが本質的には苦手なわたしでも、さすがに人っぽくないそいつだと大丈夫みたいだ。

 なにせ、犬っぽい。

 そういや、小学生の頃、近所の酒屋で飼ってた犬に、なんだかよくわからないけど懐かれたことがあったっけ。

 懐かしさも手伝ってか、わたしに抱きついているこいつは、コボルトというよりは、もはや酒屋のシロだ。

 なんとなくというほかないけれど。

 感覚的にわかってしまった。

 このコボルトっぽい存在は、たぶんこの世界での「人」なんだろうって。

 そしてさっきから落ち着いたトーンでささやかれている声は、きっとこの世界の「言葉」なんだろうって。

 やべ、異世界言語チートなかったわ。

 どうしよう。

 なに言ってるかぜんぜんこれっぽっちもわからん。

 理解するとか理解しあうとかそんなレベルじゃないよ。

 どこか知らない国の言葉を聴いてる気分だよ。

 ドイツ語でダンケダンケ言ってるほうがまだ理解できるよ!

 うう。おなかが痛くなってきた。

 わたしはその人と目をあわせる。

『よかった。さっきからずっと怖がっていたけど。今は少し大丈夫になったみたいね』

 おなか痛くなってきました。

 さすがに、失禁以上はご勘弁願いたいんですが。

 わたしは気持ちをこめて、その人に訴えてみる。

 ぽんぽん痛いの。

 おなかを押さえて、涙目なわたし。

 このジェスチャーなら。

 大丈夫だ。

 気持ちは伝わるはずだ。

 ラブ&ピース! 世界は美しい。

『ん? どうしたの。もしかしておなかすいたの?』

 彼女の口にしている言葉がわたしの望んでいることなのか、わからない。

 しかし、これだけはいえる。

 ト イ レ い か せ て !



 またひとつ生還してしまったか。

 死線をくぐりぬけるたびに、わたしは歴戦の勇者のように、小さなため息をついてしまう。

 戦いは、いつも終わったあとにはむなしくなるものだ。

 あんなにも痛かったおなかは、いまはもう落ち着いている。

 まるで、嵐が過ぎ去ったあとの渚のように。

 綺麗なもんだよ。

 ……トイレが異世界仕様じゃなくてよかった。

 ついでに言えば、ノーパンです。

 ふっ。人もパンツも冷たいままではいられないのさ。

 ともあれ、人心地ついたわたしは、あらためて、コボルトさんの前に立っていた。

 この人はいったい誰なんだろう。

 こちらと目線があうと、彼女はニコリと微笑をかえしてきた。

 落ち着いてみると、愛くるしい感じ。

 背丈は間違いなく、今のわたしより高く、下手するとわたしは彼女の腰まわり程度しかないんじゃなかろうか。

 だいぶん犬っぽい顔つきの人なので、年の頃はわからない。

 けれど、態度と声色からすれば、たぶん大人なのかなぁという感じがする。

『んん。今度こそおなかすいたのかしら?』

 彼女がおなかをさするような動作をするので、わたしは首を横に振る。

 もう痛くないかという意味だろう。

 そういえばジェスチャーってどうなんだろう。

 いま、首を横に振って、『いいえ』という意思表示をしたわけだけど、果たしてこの世界においても、『いいえ』という意味なのだろうか。

 まあ、人体の構造上、首は縦か横にしか振りにくいというのもあるから、きっと、二分の一の確率であってる。斜め四十五度に首を振るのが『いいえ』の意味とか、わかりにくいことことの上ないからだ。

 それに彼女の反応から、なんとなく正解っぽかった。

『そう、おなかはすいてないのね?』

 今度は首を縦に振ると、頭をなでてもらった。

 あってるのかな?

『じゃあ。そうね。あなたの名前はなんていうのかしら?』

「ン?」

『名前。な・ま・え・よ』

 彼女はわたしを指差しながら、何度も同じ単語を繰り返している。

 あっ、察し。

 さすがにわたしでもわかってしまった。

 名前を聞いているんですね。

 しかし、困ったな。

 もちろん、わたしもいい年したおっさんとしての名前を持っているのだが、生まれ変わった今のわたしだと、違和感あることこのうえない。たとえ、この世界の人たちがその違和感を認識することができないとしても、なんだか嫌だった。

 せっかく生まれ変わったのだし。

 心機一転したいというか。

 そんな気持ちだったのだ。

 だから、わたしは彼女の瞳をしっかり見据えて言った。

「ないです!」

『ん。えっと』

「だから、ないんですって。ない。ないってなもんでして」

『わかったわ!』

 おお、わかってくださいましたか。

 なんか言葉の調子から、わかったといわれた気がするぞ。

『あなたの名前はナイっていうのね』


 あ、これあかんやつだ。

 さっきから、この人、わたしのことを指差しながら『ナイ』、『ナイ』って繰り返している。

 繰り返して、わたしの反応を確認している。

 でも、それを否定したところで、うまく伝わるとも思えない。

 もう、いいか。

 それで。

 どうせ、わたしの名前なんて、誰も知らないのだし、吹けば飛ぶような存在だ。

 会社のみんなが飲み会に行く際に、たまたま視界に入ったわたしを見て、「あ……」とちょっとの罪悪感をにじませながら、けれど誘われることもなく「お疲れ様です」と言われて、そのまま捨て置かれるようなそんな存在にすぎないんだ。

 だから、「ナイ」なんて名前……、

 わたしには、おあつらえ向きなんて思ってしまった。

 わたしは今日からナイになる。

 な、泣いてなんかいないんだからね!



 それからはお決まりの儀式ってやつだ。

 こちらが名乗れば、あちらが名乗る。

『クイン』

「くいん? くいん?」

『よくできました!』

 正解だったのか。

 またもやわたしは抱きしめられる。こんなに抱きしめられた経験なんてないぞ。

 ましてや、もふもふしているとはいえ、女性だ。

 わたしは女性に抱きしめられている。

 人生初体験。

 なにごとも初体験。

 もふもふの中で溶けてしまいそうだ。

 幼い頃に失った、なんというか親子の情のようなものかもしれないが、それでもわたしにとっては、初めてのれっきとした女性からの愛情には違いなかった。

 ようやく、この世界で、わたしはひとつレベルアップを果たしたのだと確信する。


 覚えた言葉

 『ナイ』『クイン』『名前』

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