プロローグⅠ
フリージア・シャトリアは勇者に憧れていた。
大陸に伝わる勇者の伝説。邪悪な魔王によって世界が滅びを迎えようとするとき、神の導きによって異界より勇者は召喚される。その聖なる力はすべての悪を砕き、魔王すら一撃のもとに討ち払うであろう。
幼い頃に誰もが一度はその伝説に憧れ、女の子なら勇者に恋をするというが、大人になるにつれてそのときの憧憬を忘れてしまう。
夢と現実を弁えたというのもあるだろうが、そもそも勇者は魔王が現れなければ存在し得ない救世主だ。勇者を願うというのは世の破滅と隣り合わせの願望であり、それなら近くの誰かに恋をした方が建設的というものだろう。いつまでも白馬の王子様に憧れてはいられない。そうでなければ世は回らない。
それでもフリージアは勇者に憧れるのをやめなかった。
たしかに平穏な時代に勇者を願うのは禁忌だが、それが戦乱の時代なら話は別だ。すでに大陸の国々がよみがえった魔王によって滅ぼされた現状、世の誰もが勇者の到来を願っている。正確には、勇者召喚の秘儀を受け継いだシャトリア王家の姫に、勇者を召喚することを願っていた。
そう、フリージア・シャトリアこそは勇者を招くことができる祝福の姫。しかるのちには勇者の伴侶となることが定められた乙女なのである。
そして、今――フリージアは勇者との運命の邂逅を果たしていた。
ステンドグラスを透かして陽光が差し込む礼拝堂。祭壇に刻まれた魔法陣の上。
そこに夜空を思わせる黒髪に黒い瞳の、フリージアとそう年齢の変わらない少年が堂々と腕を組んで立っていた。
恋し焦がれた相手をついに目の当たりにして、フリージアは興奮のあまり叫びだしたい衝動に駆られる。
我慢。ここは我慢です、私。第一印象で失敗なんて目も当てられない――心の中でそう自分に言い聞かせながら、フリージアはその場に膝をつき、恭しく頭を下げた。
「お初にお目にかかります、勇者様。私はシャトリア王国第一王女、フリージア・シャトリアと申します。若輩の身ながら、勇者様の召喚という大儀を果たさせていただきました。このたびは私の声に応えてくださり、感謝の言葉もございません」
「うむ」
勇者は大仰に頷くと、祭壇の上からフリージアのいる場所まで降りてきた。
「我が名はショウマ。勇者ショウマである。フリージア・シャトリア。汝の願いを聞き届け降臨した。面を上げるといい」
「はっ」
頭を上げたフリージアは、間近に迫った勇者の姿に赤面する。
先程は顔に注目していたのと魔法陣の放つ光によって気付けなかったが、勇者の格好は直視するのが恥ずかしいものだった。
反射的に視線を逸らしそうになるが、勇者の言葉の手前、意志の力でねじ伏せる。が、どうしても気になってしょうがない。
「この世界の実情は把握している。魔王が再び世に現れ、暴虐のかぎりを尽くしているそうだな。断じて許してはおけないことだ」
勇者が義憤に駆られた顔でなにか言っていたが、フリージアの耳には入ってこなかった。むしろ彼が熱弁を振るえば振るうほど、目の前のソレがぶらぶら揺れて集中できない。
「しかし安心するといい。この俺――いや私? ううむ、あえて余とでも言うべきか……余が来たからには安心するといい。もはや世界の救済は約束されたものも同然だ!」
「は、はい! そうですね! そうですとも!」
肩に手を置かれたことで我に返り、フリージアはやや裏返った声で答えた。
勇者はフリージアがどうしてそんなに慌てているのか不思議に思っているようだったが、気にしないことにしたらしく、ぐいっと顔を近づけた。ついでにフリージアが気になってしょうがないソレも接近してくる。
ここに至って、元々そう我慢強い方ではないフリージアの忍耐が限界を迎えた。
勇者に憧れているからこそ、ここではっきりさせておかないといけない。あるいはそういう文化なのかもしれないし。
「あの、勇者様。ひとつだけお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「まいったな。俺に恋人がいるかどうかがやっぱり気になっちゃう?」
「それも気になるといえば気になるのですが」
それよりも今は――
「どうして、その、裸なのでしょうか?」
「…………」
全裸の勇者様は長い沈黙のあと、おそるおそる自分の身体を見下ろした。
これまで凛々しかった勇者の顔が、その瞬間、見る影もなく崩れ去る。
それも無理からぬ話だろう。召喚されてからこれまでずっと全裸だったのだ。そんな姿でどれだけ格好いいことを言おうと台無しである。むしろ格好つければつけるほど、なにコイツ全裸で熱く語ってるの? と、冷たい目で見られること間違いなしだ。少なくとも儀式に同席していたフリージアの従者はそうだった。
だがフリージア本人はそうは思わなかった。
勇者の反応を見て、その格好が召喚の際に起きた仕方のない事故だったのだと察し、再び頭を下げてフォローの言葉を投げかける。
「ご安心ください。勇者様のそれはとてもかわいらしいと思いますよ」
「いやぁああああああああああああああああああああああああ――――ッ!!」
なにがダメだったのかフリージアにはまったくわからなかったが、勇者はまるでうら若き乙女のような悲鳴をあげた。その姿は伝説にあるような雄々しい勇者とはかけ離れていたが、白馬の王子様に憧れる姫は、かわいらしいお方なのだな、と口元をほころばせるのだった。
「ないわー」
一人冷静なフリージアの従者だけが、そんな二人を醒めた目つきで眺めていた。