第十二話 黒騎士襲来③
「グローリエ、援護を頼む!」
「かしこまりましたわ!」
グローリエの炎弾が黒騎士めがけて放たれる。
黒騎士は炎を素早い身のこなしで避けるが、その先にショウマが腕を振りかぶって待ちかまえていた。
「くらいやがれ!」
渾身の右ストレート。だが案の定、フェイントもなにもない一撃は黒騎士には届かない。
「やっぱりダメか。なら」
「あっ」
「借りるぞ!」
ショウマは近くにいた兵士から剣を奪い取ると、それを使って戦いを始めた。
無論、剣術などショウマは知らない。学校での選択科目も、剣道ではなく柔道を取っていた。だが型などなくとも、ショウマの腕力で振り回せば、それはとてつもない脅威となる。加えて、素手に比べて間合いも広い。
それでも相手は黒騎士。魔王軍最強の剣士だ。剣と剣の戦いなどは、あるいは素手との戦いよりもよく知っている。ショウマの剣筋を完全に見切るのに二合も必要なかった。これまでどおり最低限の動きで避け、反撃に移る。
一閃。
斬撃は深々とショウマの身体を切り裂いた。
「おいおいおい!? 剣の威力上がってないか!?」
「黒騎士の魔剣は、相手の血を吸えば吸うほど切れ味が増すと聞いています! その所為では!」
「マジかよ。チートにチート武器を与えるなよ」
黒騎士は威力の増した魔剣をもってショウマを果敢に攻め立てる。
ショウマもなんとか剣で捌いていくが、ときおり肌をかすめては肉をそぎ落とされていく。
痛い。痛い。泣きそうだ。
けれど、もう逃げないと決めた以上、今は敵を倒すことだけを考えろ。
(とにかく、どこでもいい。こいつの鎧を剥がさないと)
その上でイケメンクラッシャーを叩き込む。勝ち筋はこれしかない。
だがその一歩目が難しい。ドワーフ謹製の黒甲冑は、傷ひとつなく鈍い輝きを放っている。
「ええい、とにかくやるしかない! グローリエ!」
「なんなりと!」
ショウマと黒騎士が密着しすぎているため、援護攻撃を放てないでいたグローリエに、ショウマは指示を出した。
「気にするな! 俺ごとやれ!」
「はい!」
ショウマの指示に従い、グローリエは強烈な火炎を二人めがけて解き放った。
これにはたまらず黒騎士も距離を取る。炎はショウマだけを飲み込んだ。
その炎の中から、無傷でショウマが飛び出してくるのを見て、初めて黒騎士の瞳に感情めいたものが浮かんだ。
「オラッ!」
小さな疑問が一瞬の隙を作る。ショウマの刃が、攻撃が、初めて黒騎士を捉えた。
「ちっ! 浅すぎるか」
といっても、届いたのはほんの切っ先だけ。避けようとした黒騎士の甲冑の肩のあたりをかすめただけだった。
それでも傷ひとつなかった黒い甲冑には、今、わずかなりとも傷が刻まれていた。やはりショウマの力なら、あの黒甲冑の守りを突破できるのだ。
「グローリエ! もう一回だ!」
「お任せを!」
ショウマが斬りかかっていく。そして黒騎士と密着したところで、グローリエがもろとも火炎で焼却せんとする。
なにを思ったか、黒騎士は今度は炎を完全には避けなかった。少し距離を取ったところで、ショウマに対して身構える。
そうと分かっていて、無闇に飛び込むほどショウマも馬鹿ではない。
黒騎士とは反対側に出ると、周囲に転がっていた瓦礫をつかみ、それを次々に投げつけた。前にラゴウがやっていた攻撃の見よう見まねである。
巨大な弾丸となって飛んでくる瓦礫を、黒騎士は切り裂き、両断して受け流す。
そのあと、自分の右のガントレットを――先ほど、あえて火炎を受けた箇所を見た。
黒騎士のガントレットは表面が軽く溶けかけていた。グローリエ・シャトリエ。紅蓮の姫騎士たる彼女の魔法は、たとえ名工による一品であろうと完全には耐えきれるものではない。
だが――それを勇者は耐えた。その肉体に火傷ひとつない。全身をくまなく確認できるからそれは間違いない。
魔法に対する抵抗力がずば抜けて高いのだろう。勇者の肉体は一定の魔法攻撃を無効化している。
「行けるな」
黒騎士と同様のことを、ショウマも実感していた。
土下座神が示したステータス。その魔法への抵抗値。それはグローリエの魔法を受けても大丈夫なほど高いものだったらしい。
「グローリエ! 何度でもだ! 一緒に黒騎士を倒すぞ!」
「はい! 今度こそはすべて焼き払ってみせますわ! ええ、すべてを! わたくしにも魔法への誇りというものがありましてよ!」
「ごめんね! まったく効いてなくて!」
「冗談です、わ!」
目に見えて威力を上げて、グローリエは魔法を連射する。城壁と城壁の合間は、さながら灼熱地獄に叩き落とされたかのように茹で上がっていく。
黒騎士は炎を避けながら、ショウマに対し攻撃を仕掛ける。
ショウマは炎を避けることなく、まっすぐに黒騎士に攻撃を仕掛ける。
炎を避ける必要があるかないか。その差が黒騎士に圧倒的に傾いていた天秤を、少しだけショウマの側に戻していた。加えて、いくら威力が上がったといっても、黒騎士の攻撃は一撃ではショウマにとって致命傷にはならない。逆に一撃さえ与えればショウマはいい。
決して、この戦いは黒騎士が断然有利というわけではないのだ。
(なんでもいい! 使えるもんはなんでも使って、一撃を与える!)
ショウマは次に兵士たちに指示を出した。
「黒騎士の足下だけを狙って矢を放てるものは狙ってくれ! 少しでもいい、足を止めさせろ!」
ショウマの指示に、数名の達人が狙い澄ました一射を放つ。
そのほとんどを黒騎士は変態じみた足運びだけで避けてしまうが、一部、極一部だけが甲冑をかすめた。それは黒騎士からすれば真後ろから放たれた一射だった。
「そうだ。当然だ。あんな兜をつけてて、視界がいいわけがない」
死角はある。それを狙わせないために、黒騎士も足を止めることなく動き続けていただけだ。
「投げ槍で背中を狙え!」
「うぉおおおお!」
怪力自慢の屈強な兵士が、真後ろから渾身の力で槍を投擲する。同時に再び弓兵が黒騎士の足下へと矢を放つ。
だが黒騎士もさるもの。矢を避け、振り向きざまに槍を切断する。
「この野郎!」
そのタイミングを狙って、ショウマは剣を手に躍りかかる。攻撃は避けられ、逆に傷を刻み込まれる。
それを都合三度繰り返し、黒騎士の意識を足下へと向けさせたところで、
「天蓋よ。燃え尽きろ」
グローリエの大魔法が空より落ちてきた。
近くの城壁もろとも焼き飛ばす極大の炎の柱に、ショウマと黒騎士の姿が消える。
(やべぇ。くそ熱い)
ショウマの皮膚が赤く腫れ上がっていく。さすがにこのレベルの魔法ともなると、勇者の魔法抵抗値でも突破してダメージは入ってしまうらしい。
「く、っ……」
だがそれは黒騎士も同じこと。ここで初めて、甲冑越しではあるためくぐもってはいたが、たしかな悲鳴を黒騎士はもらした。
「今、だ!」
炎の中で動きを止めている黒騎士に、ショウマは火傷を負いながらも斬りかかる。
まさかこの炎の中で攻めてくるとは思わなかったのか、黒騎士は咄嗟に反応できない。ショウマの刃は今度こそ黒騎士に直撃――しなかった。
「刃が溶けてるし!?」
黒騎士の魔剣とは違い、ショウマの剣は普通の兵士が使っていた剣だ。グローリエの魔法に耐えきれなかったらしい。
千載一遇のチャンスを逃したショウマに、黒騎士が刃を叩きつける。
「ごふっ!」
これをなんとか残った柄で受け流すことにショウマは成功するが、続く蹴りを腹にもらい、大きく蹴り飛ばされてしまった。
「勇者様!」
炎の中から飛び出し、地面に叩きつけられたショウマを見て、何人かの兵士が悲鳴をあげる。
ショウマとは反対側から黒騎士が炎より逃れ出る。その足取りはたしかで、ダメージを負っている様子は見受けられない。
「ぺっ! けど自慢の鎧はぼろぼろになってきたじゃないか」
ショウマはつばを吐き出してすぐに立ち上がると、近くの兵士から新しい剣を借り受ける。
黒騎士の甲冑は、魔法によって元の金属としての光沢のある黒ではなく、炭が塗りたくられたような煤けた黒色に変色していた。見た目にこそ動揺は見受けられないが、それでも着実にダメージは与えられている。
「いけるぞ」
ショウマは再び不格好に剣を構えた。
フリージアが戦場を見渡せる塔の窓から顔を出したとき、ショウマと黒騎士の戦いは白熱の一途をたどっていた。
「みんな」
いや、ショウマだけではない。
グローリエが、兵士たちが、全員が必死になって戦っている。持てるすべての力を振り絞って、強大な敵を討ち倒さんとあがいている。
「ショウマ様」
ショウマはその先頭になって戦っていた。さっきまであれだけ恐怖に怯えていたのに、今も全身傷だらけなのに、それでも挫けることなく雄々しく戦っている。彼は自分は立派な勇者ではないと言っていたけれど、皆を率いて戦うその姿は、まさに伝説に描かれる勇者そのものだった。
「フリージア様。わたしも戦場に行って参ります」
隣にいたカナリアが恥じ入るようにそう言った。
「情けないのはわたしの方でした。今度は、わたしが助けに行かないといけないときだったのに」
頭を下げて、カナリアは戦場に向かって走り出した。
叶うなら、フリージアもそれに続きたい。
けれど、治癒魔法はもちろん、あらゆるサポート魔法のエキスパートであるカナリアとは違って、フリージアには戦場で役に立てる力などない。魔法も護身術に毛が生えた程度、野生動物を追い払う程度の威力しかない。むしろ魔法を使おうものならその場で倒れ、皆の足を引っ張るに決まっている。みんな優しいから、きっとこんな自分でも助けようとして危険な目に遭わせてしまう。
だから戦場には行けない。行ってはいけない。
実際に戦場を目の当たりにして、フリージアはそう理解した。
「がんばって」
だから、フリージアにできることはそれだけだった。
大きな声で、恥ずかしいほどに弱い身体で声を振り絞った。
「がんばって! 負けないで、ショウマ様!」
「大丈夫だ。聞こえてるよ、フリージア」
かわいいお姫様からのエールを受けて、ショウマの戦意はよりいっそう高まっていた。
今なら魔王でも倒せそうだと、そう思う。
それは他の兵士たちも同様のようだった。
震えて動けなかった新兵らしき少年が、身体を思うように動かせなくなっていた老兵が、戦士の面構えになって立ち上がる。
「僕はフリージア様のためにマルフ砦にまで来たんです」
新兵の少年は、照れくさそうに告白した。
「よくフリージア様は城下町に遊びに来てくれたんです。あの方はいつだって明るくて、優しくて、僕らに勇気をくれました。大丈夫。魔王に世界は滅ぼされない。勇者様が助けてくれるから、って。……そうです。僕らはあの方が勇者様を信じていたから、勇者様が来るまでは自分たちががんばろうって、そう思って志願したんです」
「ワシもなぁ。あんなか弱いお嬢ちゃんが、辛いこの世の中で、それでも希望を信じて戦ってるのを見て、それでワシも信じたいと思ったんじゃよ」
老兵も年甲斐もなくはしゃいだ様子で。
「太陽のような方じゃ。ほんに、フリージア様は、このシャトリア王国を照らす太陽のような方じゃ。そんな方にがんばれと言われてしまえば、ほほっ、この老骨ももう一頑張りせんといかんのぅ」
「ああ、行こうぜ。お前ら、フリージアに格好いいところを見せるチャンスだぞ!」
『『おおぉおおおッ!!』』
ショウマの言葉に、多くの野太い返事が寄越された。それはマルフ砦を地面から揺すり上げるほどだった。
「……なんだか、先ほどのわたくしのときより士気が上がってるような」
グローリエが少しだけなにか言いたそうな顔をしていたが、彼女もまた、敬愛する姉からの応援を受けて、全身に魔力をみなぎらせていた。
「よし、行くぞォ!!」
疾風のようなスピードでショウマが斬りかかるのを皮切りに、兵士たちがそれぞれの役割をもって黒騎士を攻めたてる。
矢が、槍が、剣が魔法が黒騎士めがけて放たれる。
そのひとつひとつは黒騎士にとっては取るに足らないもの。魔王より賜った甲冑は、矢も槍も剣も魔法をはじき返す。
けれど、それが積み重なれば話は別だ。無数の小さな障害物が行く手を阻み、そしてその壁の向こうから――
「くたばれ!」
ただの一撃ですべてを粉砕する、破壊の一撃がやってくる。
「炎よ!」
さらに勇者ほどではないが、着実にダメージを積み上げていく紅蓮の姫騎士。炎はより熱く、滾り、甲冑を少しずつ溶かしていく。
「……くっ!」
少しずつ、黒騎士は追い詰められていく。
黒騎士が突然、脱兎のごとく逃げ始めたのは、戦いを始めて二十分以上が経過した頃のことだった。
「……逃げ出した?」
「勝ったのか?}
兵士たちもこれには動揺を隠せないでいたが、もしや自分たちは黒騎士をついに追い払ったのでは、とその顔に笑みが浮かんでいく。
「まだだ!」
それをショウマは否定した。
「あいつは俺を今日ここで殺すために来た。殺さないかぎり退くはずがない」
つまりこれは離脱ではなく次なる奇襲への伏線であり、
「しまった!」
黒騎士が最優先目標である勇者を無視してまで本気で狙うとするなら、それは一人しかいない。
彼女がいなければ、全身を魔法から守る必要はなく、黒騎士はその視界を制限される兜を外すことができる。土下座神の語った兜を外した黒騎士の脅威がそういう意味なのかはわからないが、この状況下で彼女を失うことはショウマたちには致命傷だ。
「グローリエ!」
ショウマが名前を叫ぶのと同時に、グローリエの近くの城壁を斬り崩し、黒騎士が奇襲を仕掛けてくる。
「このっ!」
「グローリエ様を守れ!」
グローリエが炎弾を放ちながら後ろに下がる。兵士たちが盾を構えて黒騎士に突貫する。
だが黒騎士は他の兵士は見向きもせず、その合間をすり抜けるように潜り抜けてグローリエに追いすがる。
「させるか!」
ショウマもまたグローリエを助けるべく、剣を手に黒騎士を追った。
だが間に合わない。共に世界最速であれば、たとえ黒騎士が妨害を受けていようとも、そう易々と追いつくことはできない。ショウマが追いつくより先に、黒騎士が剣の間合いにグローリエを捉える。
「グローリエ!」
覚悟を決めたように立ち止まったグローリエは、ショウマへと顔を向け、声には出さずに口を動かした。
――任せた、と。
その決意の眼差しに、ショウマは考えるより先に強く頷いていた。
一閃。黒騎士の刃がグローリエの肩口から入り込み、その胸元にかけてを切り裂き――心臓を抉るその直前で止められていた。
「っ!?」
黒騎士が今日初めて、明確な驚愕に大きく目を見開く。
グローリエは左手を目一杯強化して、黒騎士の剣をつかみ取っていた。
「この程度で、あれば」
刃を握りしめた手から血が流れ、切り裂かれた胸元から鮮血が飛び散っている。それでも彼女は目に爛々と光を浮かべ、血に濡れた口元に壮絶な笑みを浮かべていた。
「この程度であれば、あとで親友が治してくれます。ならば、このわたくしが恐れるはずがないでしょう?」
グローリエの左手は魔剣を止めるべく盾とし。
その右手は敵を打ち砕くべく、黒騎士の甲冑の胸元へと添えられていた。
「グローリエ・シャトリアを、あまり舐めるものではなくてよ!」
ゼロ距離で放たれた灼熱の爆撃に、黒騎士の身体はきりもみしながら宙を舞う。
そしてついに、魔法の直撃を受けた黒い甲冑の胸元部分が、泡がはじけるように溶け崩れた。
「見ましたかっ! これが紅蓮の姫騎士の魔法の威力なのですわ!」
グローリエはガッツポーズを決めたあと、糸が切れたようにばたりと後ろに倒れ込んだ。
そう、彼女の役目は甲冑をはぎ取るところまで。
その先は、すでに任せてある。
「――ああ。ちゃんと見ていた。あとは任せろ」
黒騎士が二度目の驚愕に目を見開くのは、自分が吹き飛ばされていく位置に、すでに勇者が待ちかまえているのと見たとき。
その手に剣はすでになく、拳が固く、固く握りしめられている。
そうだ。ショウマはグローリエを信じていた。
彼女ならばきっと、この危機をチャンスに変え、そして黒騎士の守りを奪い取ってくれるものと。だからショウマは剣を捨てて拳を握りしめられた。
「魔剣よ。我が血を啜れ」
黒騎士は空中で無理矢理態勢を整えると、剣を振りかぶった。
もはや回避は不可能。甲冑の防御も突破された。
ならばあとはこの一振りにすべてを託すのみ。倒される前に倒すしかない。全身の血を絞り上げ、魔剣に注いで威力を極限にまで高める。
そして二人は最後の激突を果たす。
その直前に、勝利の女神は小さなメイドの姿となって戦場に駆けつけた。
「身体強化! 速度強化!」
二人がぶつかり合う刹那、ショウマの速度だけが加速する。
「終わりだ、黒騎士」
そう、魔王より命じられた目標である勇者以外の雑兵ならば簡単に倒せるものと、無視してもいいものとおごったとき、四天王最強の騎士の敗北は決まっていたのだ。
「お前は人間を舐めすぎた」
ショウマは魔剣の一撃を避け、黒騎士の胸元にあいた穴めがけてその右手を振り抜いた。
此処に勇者の殺意をもって発動するイケメンクラッシャー。一撃にして敵を絶命させる死神の一撃。
ショウマに殴り飛ばされた黒騎士は、地面の上を何度かバウンドしたあと、遠くの城壁にあたってとまる。
その命の鼓動と共に。
「俺たちの、勝利だ」
高らかに拳を突き上げるショウマ。
再び、マルフ砦を勝利の雄叫びが包み込んだ。
◇◆◇
「ショウマ様!」
戦いが終わったあと、一人、瓦礫の上に腰掛けて自分の右手を見つめていると、フリージアは息を弾ませた様子で駆け寄ってきた。
「ショウマ様……ご勝利……おめでとう……ございます!」
「ありがとう。でも息を整えてからでいいからね?」
「は、はい」
すーはーすーはーと何度か深呼吸をして、フリージアは息を整える。
「あの、グローリエは?」
「グローリエは……」
フリージアからの当然の問いかけに、ショウマは口元を押さえ、顔を背けた。
「俺が見たときは、それはもう酷い有様だった。剣をつかんだ指は半分以上千切れかけてたし、内臓もいくつかやられてて……」
「そ、そんな……」
「そう、明らかに致命傷だったのに、それをあっという間に治してしまうカナちゃんの治癒魔法マジどうなってるの? いや、助かったけど。カナリアが近くにいてくれなきゃグローリエ死んでたかも知れないけど。ていうか、俺の怪我、結構酷いと思ったけど片手間で治されたし。……あの治癒魔法があるなら、それ頼みで何度か俺が特攻すれば、もしかして黒騎士にもっと簡単に勝ててたんじゃね?」
かつてない苦労を強いられただけに、カナリアがグローリエをあっという間に完治させる光景には、ショウマも頭を抱えたものだった。
グローリエも大概桁違いの魔法使いだが、カナリアもカナリアで違うベクトルで桁が違う魔法使いである。
「やべぇな。この世界の王族やべぇな」
「あ、あの、つまりグローリエは大丈夫なんですか?」
「え? ああ、うん。血が足りないからしばらく安静する必要はあるらしいけど、傷跡すら残ってないぞ」
「そうですか。よかったぁ」
ほっと胸をなで下ろすフリージア。
「ですが、それならショウマ様はなぜこんな場所にお一人で? なにやら思い詰めていらっしゃったようですが」
「いや、さ」
ショウマはもう一度自分の右手を、チートを宿す右手を見つめた。
「今更だけど、俺ってこの手で誰かを殺したんだよなぁ、って」
「それは……」
「ああ。みんなを守るためだった。そうしないと殺されてた。でも……今も黒騎士にとどめを刺したときの感触が忘れられないんだ」
「ショウマ様」
ショウマの右手を、フリージアが両手で上から包み込んだ。
「私はこの手が好きです。みんなを守ってくれたこの手が。だからどうか、お一人で背負わないでください。忘れてしまいましたか? 私はあなたのものだって」
「フリージア……」
「戦いのお役に立てない私ですが、いつだってあなたのおそばにおります。同じ罪を背負う覚悟はできております。だからどうか、一人きりにはならないでください」
「……ありがとう。心強いよ」
ショウマもフリージアの手を握りかえした。
「そうだな。フリージアがいてくれれば、黒騎士の最後の感触もきっと忘れられる。そう思うよ」
「ありがとうございます、ショウマ様」
「お礼はこっちの言葉だって。それにフリージアは自分は戦いの役に立たないって言ったけど、それは違うぞ」
「え? ですが私はなにも。今回の戦いだって、安全な場所で見ていただけで」
ショウマは首を横に振った。
「兵士たちが言ってた。自分たちが今こうして戦っているのは、フリージアがいるからだって。フリージアのあの応援の声が、俺たちにどれだけ力をくれたか」
「本当に? 私、本当にみんなの力になれたのでしょうか?」
「ああ。俺が保証する。たしかに今回はみんなががんばった。黒騎士の甲冑をはぎ取って見せたグローリエも、最後の最後で駆けつけて強化魔法をかけてくれたカナリアは讃えられるべきだと思う。けど、二人と同じくらいフリージアも讃えられるべきだ。フリージアがいなかったら今回の勝利はなかった。フリージアがいなければ、最後の最後で俺は黒騎士を倒せなかったんだよ」
「それは……」
フリージアは頬を赤く染める。瞳を潤ませ、熱い吐息を零した。
「それはもしかして愛の――」
「おっぱいだったんだ」
「――ちか、ら……?」
真顔で宣った勇者の言葉の意味を、最初フリージアは理解できなかった。
そして時間が経っても理解できなかった。
というより、したくなかった。
「……私の聞き間違えでしょうか? 今、その、おぱなんとかって聞こえたような?」
「そうだよ。おっぱいだ」
「あ、はい」
しょぼーんとした顔になったフリージアは、熱く語るショウマの言葉にやけくそ気味に相づちを打った。
「黒騎士への最後の攻撃。そのとき俺の拳を優しく包み込むように迎え入れたのは、大きなふたつの山の谷間だったんだ」
「なるほど。それは実におっぱいですね」
「そうだ。驚愕の事実だが、黒騎士は女だったんだ」
「つまりその手に残る忘れられない感触って、おっぱいの感触だったんですね」
「ああ、ピンチだったよ。ついこの間までの俺なら、あの極上の柔らかさが伝わってきた瞬間、殺意を忘れてイケメンクラッシャーを発動できなかっただろう。そう、あれがもしも俺が初めて触る生のおっぱいだったらね!」
「もしかしなくても、私が役に立ったっていうのは、前に胸を触らせたことですかね?」
「そのとおり。あのときの経験があったから、俺は最後まで殺意を忘れることなく黒騎士を討てたんだ」
ショウマは切なそうな顔をしているお姫様の両肩に手を置いて、安心させるように、褒め称えるように、かつてない優しい笑顔を向けた。
「誇ってくれ。フリージアのおっぱいが、俺たちを勝利に導いたんだよ」
「あ、もうなんでもいいです」
フリージアはすべてを受け入れたような、諦めたような儚い笑みを返した。
「よし。フリージアのいうとおり、こんなところで一人ぼうっとしている場合じゃないな!」
ショウマはその場にいた兵士たちに向かって声を張り上げる。
「おい、みんな! ここにいる今回の勝利の立役者を、フリージアのおっぱいをみんなで讃えようぜ!」
兵士たちは顔を見合わせる。
「……フリージア様のおっぱい?」
「フリージア様のおっぱい……」
「おっぱい?」
「おっぱい!」
「おぱーい」
頷きあった兵士たちは肩を組み、フリージアを中心に円陣を組むと、心からの感謝をもって祝った。
即ち――おっぱいを。
『『おっぱい! おっぱい! おっぱい! おっぱい!』』
その声は広まっていき、やがてマルフ砦全体を包み込んだ。それは先の勝利の雄叫びにも負けない祝福の声。どれだけフリージア・シャトリアが愛されているかがわかる、実に感動的な光景だった。
勇者もまた彼女に感謝する一人として円陣に加わると、他の兵士たちと一緒に声を揃って祝った。
『『おっぱい! おっぱい! おっぱい! おっぱい!』』
「……ぐすん」
「おい、それ以上はやめて差し上げろ。泣きそうになっているではないか」
祝福の宴は、しかし無粋極まる闖入者の所為でとぎれてしまった。
「誰だゴラァ!? 俺たちのフリージア様を讃える儀式を邪魔する奴は!?」
「いえ、むしろ私としては最大の感謝、を……」
ショウマが怒りに目を光らせて、顔どころか全身を真っ赤に染めたフリージアが感謝をこめて、それぞれ闖入者を見て――視線を奪われた。
それはあまりにも美しい青年だった。輝く銀の髪。左右で色の異なるオッドアイ。男女問わず艶めかしく映る肢体を包み込むのは、裾や襟元に金糸で細やかな刺繍の施された漆黒のローブ。誰が見ても美しいと思い、そして誰が見ても決して見惚れることのないだろう美しい人の姿をしたナニか。
その青年は、傍らに一人の少女だけを連れて、忽然と、誰もいなかったはずの城壁の上に立っていた。
「ごきげんよう、勇者。よくぞ我が黒騎士を打ち破った。どうか拍手を贈らせてくれ」
にこやかに笑いながら拍手する青年。
彼は心底嬉しそうに、勇者であるショウマを見下ろして名乗りをあげる。
「自己紹介が遅れたな。我は魔王。我こそが魔王である」
宣戦布告をする。
「君風に言うのであれば、世界を滅ぼす男だよ。覚えておきたまえ」